本編
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父(三)
菊乃は、外に出ると深く息を吸い込んだ。夜気が肌を撫で、まるで心の澱を少しずつ洗い流していくようだった。ここ数日起こったことが頭の中をぐるぐると巡り、まるで一気に駆け抜けた走馬灯のように感じられる。
チセ の前に置かれている丸太に腰掛けた。ふと見上げると、光り輝く星屑が夜空いっぱいに散っている。手を伸ばせば届きそうなほどの澄み渡った星々は、静謐の中で美しく瞬く。
魁燿亭での暮らしの中で、こんな風に空を見上げることなど滅多になかった。振り返ってみれば、心の余裕さえどこかに置き忘れていたのかもしれないと、菊乃は思った。
「……星が、近い気がする」
思わず漏れた声は、夜の空気に吸い込まれるように小さく響いた。
その時、そっと土を踏む柔らかな足音が近づいてきた。振り返ると、アシㇼパが一枚羽織を肩に掛け向かってきていた。
「ここは街より高いからな。星も月もよく見える」
風に髪を揺らしながら、彼女は菊乃の隣にすとんと腰を下ろした。夜の静けさを裂かぬよう、控えめな声が耳に届く。
「アイヌは、星にも名前をつけるんだ。あれはウㇷ゚シノカ・ノチウ。寝た姿のカムイの星だ」
「寝た姿、かぁ……」
アシリパが夜空に指を伸ばす。瞳に映ったその星は、まるで命を宿したように微かに揺れ、瞬いている。何がどう寝た姿なのか、いまいち分からなかったが。
「ホロケウ・ノチウも見えるぞ。狼のカムイだ。菊乃の憑き神と一緒だな」
アシㇼパの声は、不思議と安心感を与えてくれた。語られる言葉が、胸の奥へと優しく落ちていくように。
「星は、神様たちの住むところ。だから旅の途中で道に迷っても、星を見れば帰れるんだって父 が言ってた」
「確かに、船乗りは星を見て航海をしますしね」
胸の奥に、ふっと懐かしさのような感情が広がった。遠い昔、夢の中で何度も見たような、そんな仄かな錯覚。そうして星を見上げるうちに、ふと、あの旋律が菊乃の頭の中に浮かんだ。
「……Звезда одна,
слеза в ночи……♪」
小さく口ずさんだ異国の歌声。
それを聞いてアシㇼパが、
「……それ、ロシア語か?」
「あ、ごめんなさい。……きっと誰かに教えてもらったんだと思うんですけど、何も覚えていなくて……」
「きれいな歌だな」
その時、入り口のほうから「おーい」と軽やかな声がした。そこから杉元がひょこっと顔を出している。
「二人とも、今夜は冷えるから風邪ひかないようにな」
「あ、はい」
菊乃が返事をしたところで、アシㇼパがふと思いついたように、
「杉元はロシア語分かるか?」
「分かるわけないじゃーん。月島軍曹なら流暢に話せるけど」
そこで菊乃ははっとして、
「そうだ。この歌以前、月島さんに訳していただいたんです」
「歌?」
杉元も外へ出てきたので、菊乃は改めて歌と共に和訳を暗唱した──。
「んー……なんか不思議な?というか、さっぱり意味が分かんないなぁ」
「私も、やはり聞いた憶えのない歌だ」
アシㇼパも首を傾げる。言葉ひとつひとつの向いている方向はてんでんバラバラ。それが何を示すのか、まるで分からない。
「月島さんが調べてくれたんですけど、小樽に住んでいるロシア人の方たちにも、聞き覚えがないって言われたそうで……」
「星、か……星、ほし……」
ぽつぽつと呟きながら、アシㇼパは空を見て、それから杉元を見た。
じ、と見つめるのは、杉元の頭に乗せられている、星。
「ん?あぁ、これ?確か五芒星っていうんだったかな。魔除けの意味があるらしいよ」
「へー」と二人が感嘆の声を上げる。
杉元は帽子を軽く持ち上げながら、肩のあたりを指差した。
「ちなみに、鯉登少尉みたいに肩章にも付いてたりするよ」
その言葉に、菊乃の脳裏にあの軍服姿が浮かぶ。──両肩に札のようなものが付いていた。
「確かに、肩に一つずつ星が付いてい、ます、よ、ね……」
──星ひとつ──
菊乃は思わず、杉元を見つめた。声にならない問いが、瞳の奥で揺れる。
「そうそう。人によって装飾の星の数が変わることもある」
「どういう意味があるんだ?」
「階級で違う。例えば尉官の場合、少尉は一つ、中尉が二つ、大尉が三つ、て感じでね」
「四つは?」
「四つは無いかな。それ以上の階級は線の本数とかで表すから」
“みっつ”までなら、歌が示している星の数と──。
二人の会話をぼんやりと聞きながら何かを掴みかけて、菊乃は肌寒さに震えた。少し風が強くなってきたようだ。
「中に入ろうか。続きはまた明日ね」
杉元が、肩に軽く触れて促した。それに菊乃は小さく頷く。
ざわめく胸の鼓動を宥めながら、家の中へと歩を進める。皆が就寝の支度を始める中、菊乃もそっと布団を広げた。
──やがて、室内には静かな寝息が満ちた。暗がりの下、皆の肩がゆっくりと上下し、夜がようやく深まっていく。
その中でただ一人、菊乃の目だけが冴えていた。瞼を閉じても眠りが訪れる気配はない。
菊乃はそっと手を伸ばし、枕元に置かれていた銀の懐中時計を手に取った。冷たい金属の感触が、指先にひやりと伝わる。
キリ、キリ──竜頭を巻く小さな音が、夜の静寂にそっと溶けてゆく。その中で、あの旋律が胸の奥をどうしようもなく揺らした。
森岡の顔が、ふっと脳裏に浮かんだ。彼も軍人だった。もし仮に、あの記憶の中で森岡が口ずさんでいた歌が、あの歌だったとしたら──だから、杉元が語った五芒星に、思わず繋がりを探してしまった。
──「……暗号……とか」
歌の訳文を書いた月島が、そう呟いた声をはっきりと思い出す。ただの歌ではなく、誰かに何かを伝えるために作られた“言葉の鍵”。そんな想像が、より一層深まる。
懐中時計の硝子越しに、うっすらと秒針が見える。その細い針が、コチ、コチ、と小さく、そして確かに時を刻む。
「……会いたい」
そっと切なくささめく声が、どこに届くこともなく夜の闇に吸い込まれた。森岡のこと、歌のこと、心に渦巻く思いを全部受け止めて、大丈夫だと言ってほしい──。
菊乃は、銀の時計をそっと両手で包みこみ胸にあてる。微かに響く秒針と自分の鼓動が重なり合い、ひとつの楽のように胸の中で混ざっていく。それがどこか心地よくて、ようやくほんの少しだけ、瞼が重たくなった。
🎏side story🎏
あと数分で旭川駅に到着するという頃だった。
ごとん、ごとんと続く規則正しい揺れに身を委ねているうち、うたた寝していた鯉登は、静かに肩を揺すられ目を覚ました。目の前には月島の顔。大きく欠伸をひとつこぼし、まどろみの残る頭をゆっくり起こすと、
「……少尉殿は、意外と独占意識がお強いのですね」
寝起きの頭に降ってきた唐突すぎる言葉に、鯉登は半眼で月島を見やった。
「……何の話だ?」
「銀時計ですよ」
その一言で、父の形見がふと浮かぶ。今朝、出立の際に菊乃へと手渡したものだ。
「あれじゃあ、“毎日、自分のことを想って過ごせ”と言っているようなものでしょう」
月島の淡々とした言葉に、鯉登は一瞬きょとんとし、それから「あぁ」と静かに一言吐いた。
窓の外に目をやると、夏草の匂いを孕んだ風が、開け放たれた窓から流れ込んできた。青々とした山並みが、視界の向こうで緩やかに遠ざかっていく。
「……菊乃は、大澤のことを憎からず想っていたのでは、と思ったから」
そう言った瞬間、空気が静まり返る。隣に座る月島がわずかに目を見開いたのを、視線を向けずとも気配で感じ取れた。
「そうでなければ、自分を裏切った男の酌量なんぞ望まんだろう」
吐き出すように言い放たれたその言葉は、どこか自嘲的に聞こえる。胸の奥で形を成さぬままに渦巻く、不安と焦燥。どんなに想いを重ねたとしても、ふとした影に心が揺らぐ。情けないほどに心が狭い──それを自覚してなお、抗えなかった。
「……はぁ~~~」
目の前から長いため息が返ってくる。鯉登が思わず睨み返すと、月島は肩を竦めた。
「あれだけ見せつけておいて、それ言います?」
「うっ……」
何も言えなかった。それが情けなくて、鯉登は唇を力いっぱい引き結ぶ。
「菊乃さんがどれほどの決意をもって打ち明けられたか、あなたが一番分かっておられるはずでしょう」
「……分かっちょっ」
その返答は、呟きにもならないほど小さかった。
「それと……差し出がましいようですが、今後のことも早いうちにしっかりお話しされるべきかと」
「……今後のこと?」
月島の視線が、じっと鯉登の顔を射る。
「お二人の意志がどうあれ、今後共にあるには障害が多いでしょうから……」
その言葉に、鯉登はぐっと拳を握る。
士官である鯉登が婚姻を届け出るには、陸軍大臣の許可が必要になる。条例による制約がある以上、出自が不明で戸籍のない芸者──たとえ軍が贔屓にしている店の関係者だとしても、それだけでは何の保証にもならない。
「……あぁ、分かっている」
汽車の車輪がゆるやかに減速し、停車の合図を告げる鈍い音が響く。低く翳りある色をしたその返答は、列車の音にかき消された。
──旭川に着いた鯉登と月島を待っていたのは、只事ではない騒然たる様子だった。
二人が顔を見合わせたその刹那、廊下の奥から血相を変えた兵卒が駆けてくる。
「ごっ、ご報告します!」
「どうした?」
月島が即座に促す。息を荒げた兵卒が、
「大澤が、──自死しました!!」
それは鋭く鼓膜を震わせた。二人して息を呑む──最も恐れていた、最悪の結末に。
じわじわと追い込んでくる首謀者の、不気味に嘲笑う声が聞こえた気がした。
菊乃は、外に出ると深く息を吸い込んだ。夜気が肌を撫で、まるで心の澱を少しずつ洗い流していくようだった。ここ数日起こったことが頭の中をぐるぐると巡り、まるで一気に駆け抜けた走馬灯のように感じられる。
魁燿亭での暮らしの中で、こんな風に空を見上げることなど滅多になかった。振り返ってみれば、心の余裕さえどこかに置き忘れていたのかもしれないと、菊乃は思った。
「……星が、近い気がする」
思わず漏れた声は、夜の空気に吸い込まれるように小さく響いた。
その時、そっと土を踏む柔らかな足音が近づいてきた。振り返ると、アシㇼパが一枚羽織を肩に掛け向かってきていた。
「ここは街より高いからな。星も月もよく見える」
風に髪を揺らしながら、彼女は菊乃の隣にすとんと腰を下ろした。夜の静けさを裂かぬよう、控えめな声が耳に届く。
「アイヌは、星にも名前をつけるんだ。あれはウㇷ゚シノカ・ノチウ。寝た姿のカムイの星だ」
「寝た姿、かぁ……」
アシリパが夜空に指を伸ばす。瞳に映ったその星は、まるで命を宿したように微かに揺れ、瞬いている。何がどう寝た姿なのか、いまいち分からなかったが。
「ホロケウ・ノチウも見えるぞ。狼のカムイだ。菊乃の憑き神と一緒だな」
アシㇼパの声は、不思議と安心感を与えてくれた。語られる言葉が、胸の奥へと優しく落ちていくように。
「星は、神様たちの住むところ。だから旅の途中で道に迷っても、星を見れば帰れるんだって
「確かに、船乗りは星を見て航海をしますしね」
胸の奥に、ふっと懐かしさのような感情が広がった。遠い昔、夢の中で何度も見たような、そんな仄かな錯覚。そうして星を見上げるうちに、ふと、あの旋律が菊乃の頭の中に浮かんだ。
「……Звезда одна,
слеза в ночи……♪」
小さく口ずさんだ異国の歌声。
それを聞いてアシㇼパが、
「……それ、ロシア語か?」
「あ、ごめんなさい。……きっと誰かに教えてもらったんだと思うんですけど、何も覚えていなくて……」
「きれいな歌だな」
その時、入り口のほうから「おーい」と軽やかな声がした。そこから杉元がひょこっと顔を出している。
「二人とも、今夜は冷えるから風邪ひかないようにな」
「あ、はい」
菊乃が返事をしたところで、アシㇼパがふと思いついたように、
「杉元はロシア語分かるか?」
「分かるわけないじゃーん。月島軍曹なら流暢に話せるけど」
そこで菊乃ははっとして、
「そうだ。この歌以前、月島さんに訳していただいたんです」
「歌?」
杉元も外へ出てきたので、菊乃は改めて歌と共に和訳を暗唱した──。
「んー……なんか不思議な?というか、さっぱり意味が分かんないなぁ」
「私も、やはり聞いた憶えのない歌だ」
アシㇼパも首を傾げる。言葉ひとつひとつの向いている方向はてんでんバラバラ。それが何を示すのか、まるで分からない。
「月島さんが調べてくれたんですけど、小樽に住んでいるロシア人の方たちにも、聞き覚えがないって言われたそうで……」
「星、か……星、ほし……」
ぽつぽつと呟きながら、アシㇼパは空を見て、それから杉元を見た。
じ、と見つめるのは、杉元の頭に乗せられている、星。
「ん?あぁ、これ?確か五芒星っていうんだったかな。魔除けの意味があるらしいよ」
「へー」と二人が感嘆の声を上げる。
杉元は帽子を軽く持ち上げながら、肩のあたりを指差した。
「ちなみに、鯉登少尉みたいに肩章にも付いてたりするよ」
その言葉に、菊乃の脳裏にあの軍服姿が浮かぶ。──両肩に札のようなものが付いていた。
「確かに、肩に一つずつ星が付いてい、ます、よ、ね……」
──星ひとつ──
菊乃は思わず、杉元を見つめた。声にならない問いが、瞳の奥で揺れる。
「そうそう。人によって装飾の星の数が変わることもある」
「どういう意味があるんだ?」
「階級で違う。例えば尉官の場合、少尉は一つ、中尉が二つ、大尉が三つ、て感じでね」
「四つは?」
「四つは無いかな。それ以上の階級は線の本数とかで表すから」
“みっつ”までなら、歌が示している星の数と──。
二人の会話をぼんやりと聞きながら何かを掴みかけて、菊乃は肌寒さに震えた。少し風が強くなってきたようだ。
「中に入ろうか。続きはまた明日ね」
杉元が、肩に軽く触れて促した。それに菊乃は小さく頷く。
ざわめく胸の鼓動を宥めながら、家の中へと歩を進める。皆が就寝の支度を始める中、菊乃もそっと布団を広げた。
──やがて、室内には静かな寝息が満ちた。暗がりの下、皆の肩がゆっくりと上下し、夜がようやく深まっていく。
その中でただ一人、菊乃の目だけが冴えていた。瞼を閉じても眠りが訪れる気配はない。
菊乃はそっと手を伸ばし、枕元に置かれていた銀の懐中時計を手に取った。冷たい金属の感触が、指先にひやりと伝わる。
キリ、キリ──竜頭を巻く小さな音が、夜の静寂にそっと溶けてゆく。その中で、あの旋律が胸の奥をどうしようもなく揺らした。
森岡の顔が、ふっと脳裏に浮かんだ。彼も軍人だった。もし仮に、あの記憶の中で森岡が口ずさんでいた歌が、あの歌だったとしたら──だから、杉元が語った五芒星に、思わず繋がりを探してしまった。
──「……暗号……とか」
歌の訳文を書いた月島が、そう呟いた声をはっきりと思い出す。ただの歌ではなく、誰かに何かを伝えるために作られた“言葉の鍵”。そんな想像が、より一層深まる。
懐中時計の硝子越しに、うっすらと秒針が見える。その細い針が、コチ、コチ、と小さく、そして確かに時を刻む。
「……会いたい」
そっと切なくささめく声が、どこに届くこともなく夜の闇に吸い込まれた。森岡のこと、歌のこと、心に渦巻く思いを全部受け止めて、大丈夫だと言ってほしい──。
菊乃は、銀の時計をそっと両手で包みこみ胸にあてる。微かに響く秒針と自分の鼓動が重なり合い、ひとつの楽のように胸の中で混ざっていく。それがどこか心地よくて、ようやくほんの少しだけ、瞼が重たくなった。
🎏side story🎏
あと数分で旭川駅に到着するという頃だった。
ごとん、ごとんと続く規則正しい揺れに身を委ねているうち、うたた寝していた鯉登は、静かに肩を揺すられ目を覚ました。目の前には月島の顔。大きく欠伸をひとつこぼし、まどろみの残る頭をゆっくり起こすと、
「……少尉殿は、意外と独占意識がお強いのですね」
寝起きの頭に降ってきた唐突すぎる言葉に、鯉登は半眼で月島を見やった。
「……何の話だ?」
「銀時計ですよ」
その一言で、父の形見がふと浮かぶ。今朝、出立の際に菊乃へと手渡したものだ。
「あれじゃあ、“毎日、自分のことを想って過ごせ”と言っているようなものでしょう」
月島の淡々とした言葉に、鯉登は一瞬きょとんとし、それから「あぁ」と静かに一言吐いた。
窓の外に目をやると、夏草の匂いを孕んだ風が、開け放たれた窓から流れ込んできた。青々とした山並みが、視界の向こうで緩やかに遠ざかっていく。
「……菊乃は、大澤のことを憎からず想っていたのでは、と思ったから」
そう言った瞬間、空気が静まり返る。隣に座る月島がわずかに目を見開いたのを、視線を向けずとも気配で感じ取れた。
「そうでなければ、自分を裏切った男の酌量なんぞ望まんだろう」
吐き出すように言い放たれたその言葉は、どこか自嘲的に聞こえる。胸の奥で形を成さぬままに渦巻く、不安と焦燥。どんなに想いを重ねたとしても、ふとした影に心が揺らぐ。情けないほどに心が狭い──それを自覚してなお、抗えなかった。
「……はぁ~~~」
目の前から長いため息が返ってくる。鯉登が思わず睨み返すと、月島は肩を竦めた。
「あれだけ見せつけておいて、それ言います?」
「うっ……」
何も言えなかった。それが情けなくて、鯉登は唇を力いっぱい引き結ぶ。
「菊乃さんがどれほどの決意をもって打ち明けられたか、あなたが一番分かっておられるはずでしょう」
「……分かっちょっ」
その返答は、呟きにもならないほど小さかった。
「それと……差し出がましいようですが、今後のことも早いうちにしっかりお話しされるべきかと」
「……今後のこと?」
月島の視線が、じっと鯉登の顔を射る。
「お二人の意志がどうあれ、今後共にあるには障害が多いでしょうから……」
その言葉に、鯉登はぐっと拳を握る。
士官である鯉登が婚姻を届け出るには、陸軍大臣の許可が必要になる。条例による制約がある以上、出自が不明で戸籍のない芸者──たとえ軍が贔屓にしている店の関係者だとしても、それだけでは何の保証にもならない。
「……あぁ、分かっている」
汽車の車輪がゆるやかに減速し、停車の合図を告げる鈍い音が響く。低く翳りある色をしたその返答は、列車の音にかき消された。
──旭川に着いた鯉登と月島を待っていたのは、只事ではない騒然たる様子だった。
二人が顔を見合わせたその刹那、廊下の奥から血相を変えた兵卒が駆けてくる。
「ごっ、ご報告します!」
「どうした?」
月島が即座に促す。息を荒げた兵卒が、
「大澤が、──自死しました!!」
それは鋭く鼓膜を震わせた。二人して息を呑む──最も恐れていた、最悪の結末に。
じわじわと追い込んでくる首謀者の、不気味に嘲笑う声が聞こえた気がした。
