本編
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父(二)
取り出した曲げわっぱの蓋を杉元がぱかりと開けると、中から香ばしくてまろやかな香りがふわりと立ちのぼった。
「これは、絶対美味しいやつですね!」
菊乃が目を輝かせて声を上げると、アシㇼパと杉元が満足そうに顔を見合わせた。
菊乃は、彼女らの指導のもと鹿肉を細かく刻んで作るチタタㇷ゚に挑戦した。刻む手つきにはまだ拙さが残るが、三人で交代しながら仕上げたそれは、正しく一体感が宿っている。
味噌を溶いたつみれ汁──ユク・チタタㇷ゚・オハウの完成も目前だ。
「菊乃も上手にチタタㇷ゚言えたから、いつもよりもっと美味しいぞ!」
「よーし。入れちゃうよー」
アシㇼパが嬉しそうに笑う横で、杉元が笑みを浮かべながら杓子で味噌をすくった。鍋にゆっくりと溶かし入れると、立ち上る湯気に味噌の芳ばしさと鹿の旨みが混ざり合って漂い、あたりにじんわりと満ちていく。火加減を見ながら杉元が鍋をかき回し、アシㇼパが真剣な顔で味見をする。
「うん、ヒンナだ!」
彼女の一言に、杉元がほっとしたように笑い、椀にたっぷりとよそって菊乃に手渡した。それを、向かいに座る“フチ”のもとへと持っていく。
「ヒンナ、ヒンナ」
食事はいつも、同居するアシㇼパの祖母 と一緒にいただく。彼女はアイヌの言葉しか分からないから、アシㇼパを通してじゃないと意思疎通が難しい。それでも、戸惑う菊乃の手を優しくとって生活の知恵をたくさん教えてくれる。それだけで、菊乃の心を穏やかにした。
「ヒンナか?菊乃」
「はい、ヒンナです」
感謝と共に、滋味深い汁を口に運ぶ。味噌と鹿の旨みが、体の芯まで沁み渡った。
「もうそろそろ買い足さなきゃなー。魁燿亭だと味噌はどの店で調達するの?」
ふと杉元に尋ねられ、菊乃は思い出すような仕草で、
「やっぱり、丸サ大阪屋さんでしょうか。花園公園でお団子も売ってらっしゃるんですよ。鶴見さんがとても好きでよく食べて──」
そう口にした瞬間、杉元が肩がぴくりと揺らし、口元を強張らせていた。
「あー……確かにうまかった。団子は」
唸るように低く漏らすその声に、菊乃は思わず口を押さえて眉尻を下げた。
「ご、ごめんなさい……。あまり口にするべきではなかったですね……」
菊乃が俯き静かに言った。一応許されたとはいえ、二人にとっては積極的に聞きたい名ではないのも当然だった。
「……いや、寧ろ教えてほしい」
静かに告げられた一言に、菊乃は驚いて顔を上げた。
「俺自身、もうあいつのこと別にどうとも思ってないけど、菊乃さんの中で信用たる理由が何なのかは、ちょっと気になる」
「……私たちは、鶴見中尉のことを争いの中でしか見ることがなかったからな」
アシㇼパも静かに言葉を重ねた。
二人の真っ直ぐな視線に押されるように、菊乃は暫し口を閉ざしたあと少しずつ語りはじめた。
「私……本音を言うと、皆さんが言う話、信じられなかったんです。本当に、鶴見さんがそんな、戦争をけしかけるようなことをしたなんて……」
菊乃の声は小さく、震えた。言葉にすればするほど、自分の中に巣食っていた棘が皮膚の下から浮き上がってくる──そんな拷問のような感覚に襲われる。
「でも……ロシアで家族を失って、戦場で仲間を失って……失望の淵に突き落とされて、理不尽な運命を呪ったかもしれない、って。そんなこと何も知らずに、私はあの人の優しさに縋るだけで、何も……」
「それは菊乃さんが気に病むことじゃないよ」
ぎゅっと膝の上で拳を握りしめる菊乃に、杉元が言った。
菊乃は首を横に振って、
「鶴見さんは、本当の苦しみを知っているから……他人に優しくなれる人だったんだって、今は思います」
「……それは、どうすれば他人に苦しみを与えられるかも知っている、ってことでもあるけどね」
杉元の言葉は鋭く、冷たいようでどこか諭す声色だった。その指摘に、菊乃は何も言い返せなかった。
「菊乃と鶴見中尉が仲良くなったきっかけって、なんだったんだ?」
小さな沈黙が落ちる中、ふとアシㇼパが沈んだ空気を裂いた。
「私が魁燿亭に拾われたときから持っていた絵本に、写真が挟まっていたんです」
「写真?」
「はい。そこに鶴見さんが写っていて……」
「え。待ってくれ。菊乃さんが魁燿亭に来たのっていつのこと?」
「女将さんが言うには、六つほどだったと……明治二十三年の冬の頃です」
「ほぼ二十年前、か……」
杉元が低く呟いた。
「菊乃。その写真今も持っているか?」
「あ、それが……訳あって写真を二つに切り取って、半分は女将さんに預けてるんですけど、もう半分は絵本と一緒に旭川に置いてきてしまって」
菊乃が気を落とすようにそう言うと、杉元が眉を顰めた。
「え、何で切り取ったの?」
「実は……写真には鶴見さんともう一人、殉職された森岡さんという方が写っていたんです。鶴見さんの上司だった方で……。師団本部では鶴見さんと私の関係を知られるとまずいって言われたから、鶴見さんが写った部分だけ女将さんに預けることにして」
「え。でもわざわざ切らなくても、一枚丸ごと預けたらよかったんじゃない?」
「それが、魁燿亭がロシア人に襲撃されたことと、その森岡さんが関係してて。それから、森岡さんと私、幼い頃に一緒にいたことがあったのを最近思い出して……えっと……」
話すうちに、自分でも整理しきれない記憶や感情が渦を巻き、思わず菊乃は目を伏せた。表情に戸惑いの色が浮かぶ二人の視線を受け、懸命に言葉を探す。
「襲撃した目的は、森岡さんが持っていたらしい何かの“文書”を手に入れる為で、彼の“娘”も同時に探していたのかもって話になって、私がその……娘じゃないかと」
「つまりぃ……?その森岡が、菊乃さんの本当の父親、ってこと?」
困惑した色を漂わせ、杉元が問いかけた。
「いえ、まだ確証は……私の記憶も曖昧なままだし。ただ、鯉登さんたちが上げた報告がまだ可能性の段階だったにも関わらず、中央の誰かが私を旭川で保護するようにと言ってきた……」
「……その森岡ってヤツと中央の黒幕、無関係って訳じゃなさそうだな」
静かに、杉元の声がその場に落ちた。
「もしそのことで聴取されたら提示できるように、森岡さんが写った方は持ち込んだんです……ここへは急いで向かわなきゃいけなかったから、部屋まで取りに行く時間がなくて」
慌ただしさのあまり、すっかりその存在を忘れていた。きっと鯉登が絵本と共に預かってくれているだろう。
「イサンケ アン ロ 」
不意に、フチの柔らかな声が囲炉裏の火を挟んでそっと響いた。
「えっ……?」
「カムイ ル アエ アラム アン 」
「菊乃は、憑き神に守られているって言ってる」
驚く菊乃に、アシㇼパが微笑んで通訳した。
「みんな、首の後ろに神様が憑いているらしいよ」
と杉元が説明する。
「菊乃の憑き神は変わってるんだって」
フチがゆっくり頷く。
菊乃は、アシㇼパの言葉の先を促すように視線を向けた。
「小さな子どもの狼が、たくさん憑いてるって」
「狼の……子ども?」
「複数の神様が憑くこともあるんだ?」
「うん。でも、こんなにたくさん見えるのはフチも初めてらしい」
小さな狼たちが、肩や背にくっついている光景を想像して、菊乃は思わず目を瞬かせた。
「でも、きっと悪いことじゃない。ホロケウカムイは人間を助けてくれるカムイだから、菊乃のことをきっと良い方向に導いてくれる」
助ける──その言葉に、菊乃は微笑んだ。
「はい」
先が見えない状況に不安は尽きない。けれど、コタンで与えられる言葉ひとつひとつが、菊乃を強く勇気づけた。
取り出した曲げわっぱの蓋を杉元がぱかりと開けると、中から香ばしくてまろやかな香りがふわりと立ちのぼった。
「これは、絶対美味しいやつですね!」
菊乃が目を輝かせて声を上げると、アシㇼパと杉元が満足そうに顔を見合わせた。
菊乃は、彼女らの指導のもと鹿肉を細かく刻んで作るチタタㇷ゚に挑戦した。刻む手つきにはまだ拙さが残るが、三人で交代しながら仕上げたそれは、正しく一体感が宿っている。
味噌を溶いたつみれ汁──ユク・チタタㇷ゚・オハウの完成も目前だ。
「菊乃も上手にチタタㇷ゚言えたから、いつもよりもっと美味しいぞ!」
「よーし。入れちゃうよー」
アシㇼパが嬉しそうに笑う横で、杉元が笑みを浮かべながら杓子で味噌をすくった。鍋にゆっくりと溶かし入れると、立ち上る湯気に味噌の芳ばしさと鹿の旨みが混ざり合って漂い、あたりにじんわりと満ちていく。火加減を見ながら杉元が鍋をかき回し、アシㇼパが真剣な顔で味見をする。
「うん、ヒンナだ!」
彼女の一言に、杉元がほっとしたように笑い、椀にたっぷりとよそって菊乃に手渡した。それを、向かいに座る“フチ”のもとへと持っていく。
「ヒンナ、ヒンナ」
食事はいつも、同居するアシㇼパの
「ヒンナか?菊乃」
「はい、ヒンナです」
感謝と共に、滋味深い汁を口に運ぶ。味噌と鹿の旨みが、体の芯まで沁み渡った。
「もうそろそろ買い足さなきゃなー。魁燿亭だと味噌はどの店で調達するの?」
ふと杉元に尋ねられ、菊乃は思い出すような仕草で、
「やっぱり、丸サ大阪屋さんでしょうか。花園公園でお団子も売ってらっしゃるんですよ。鶴見さんがとても好きでよく食べて──」
そう口にした瞬間、杉元が肩がぴくりと揺らし、口元を強張らせていた。
「あー……確かにうまかった。団子は」
唸るように低く漏らすその声に、菊乃は思わず口を押さえて眉尻を下げた。
「ご、ごめんなさい……。あまり口にするべきではなかったですね……」
菊乃が俯き静かに言った。一応許されたとはいえ、二人にとっては積極的に聞きたい名ではないのも当然だった。
「……いや、寧ろ教えてほしい」
静かに告げられた一言に、菊乃は驚いて顔を上げた。
「俺自身、もうあいつのこと別にどうとも思ってないけど、菊乃さんの中で信用たる理由が何なのかは、ちょっと気になる」
「……私たちは、鶴見中尉のことを争いの中でしか見ることがなかったからな」
アシㇼパも静かに言葉を重ねた。
二人の真っ直ぐな視線に押されるように、菊乃は暫し口を閉ざしたあと少しずつ語りはじめた。
「私……本音を言うと、皆さんが言う話、信じられなかったんです。本当に、鶴見さんがそんな、戦争をけしかけるようなことをしたなんて……」
菊乃の声は小さく、震えた。言葉にすればするほど、自分の中に巣食っていた棘が皮膚の下から浮き上がってくる──そんな拷問のような感覚に襲われる。
「でも……ロシアで家族を失って、戦場で仲間を失って……失望の淵に突き落とされて、理不尽な運命を呪ったかもしれない、って。そんなこと何も知らずに、私はあの人の優しさに縋るだけで、何も……」
「それは菊乃さんが気に病むことじゃないよ」
ぎゅっと膝の上で拳を握りしめる菊乃に、杉元が言った。
菊乃は首を横に振って、
「鶴見さんは、本当の苦しみを知っているから……他人に優しくなれる人だったんだって、今は思います」
「……それは、どうすれば他人に苦しみを与えられるかも知っている、ってことでもあるけどね」
杉元の言葉は鋭く、冷たいようでどこか諭す声色だった。その指摘に、菊乃は何も言い返せなかった。
「菊乃と鶴見中尉が仲良くなったきっかけって、なんだったんだ?」
小さな沈黙が落ちる中、ふとアシㇼパが沈んだ空気を裂いた。
「私が魁燿亭に拾われたときから持っていた絵本に、写真が挟まっていたんです」
「写真?」
「はい。そこに鶴見さんが写っていて……」
「え。待ってくれ。菊乃さんが魁燿亭に来たのっていつのこと?」
「女将さんが言うには、六つほどだったと……明治二十三年の冬の頃です」
「ほぼ二十年前、か……」
杉元が低く呟いた。
「菊乃。その写真今も持っているか?」
「あ、それが……訳あって写真を二つに切り取って、半分は女将さんに預けてるんですけど、もう半分は絵本と一緒に旭川に置いてきてしまって」
菊乃が気を落とすようにそう言うと、杉元が眉を顰めた。
「え、何で切り取ったの?」
「実は……写真には鶴見さんともう一人、殉職された森岡さんという方が写っていたんです。鶴見さんの上司だった方で……。師団本部では鶴見さんと私の関係を知られるとまずいって言われたから、鶴見さんが写った部分だけ女将さんに預けることにして」
「え。でもわざわざ切らなくても、一枚丸ごと預けたらよかったんじゃない?」
「それが、魁燿亭がロシア人に襲撃されたことと、その森岡さんが関係してて。それから、森岡さんと私、幼い頃に一緒にいたことがあったのを最近思い出して……えっと……」
話すうちに、自分でも整理しきれない記憶や感情が渦を巻き、思わず菊乃は目を伏せた。表情に戸惑いの色が浮かぶ二人の視線を受け、懸命に言葉を探す。
「襲撃した目的は、森岡さんが持っていたらしい何かの“文書”を手に入れる為で、彼の“娘”も同時に探していたのかもって話になって、私がその……娘じゃないかと」
「つまりぃ……?その森岡が、菊乃さんの本当の父親、ってこと?」
困惑した色を漂わせ、杉元が問いかけた。
「いえ、まだ確証は……私の記憶も曖昧なままだし。ただ、鯉登さんたちが上げた報告がまだ可能性の段階だったにも関わらず、中央の誰かが私を旭川で保護するようにと言ってきた……」
「……その森岡ってヤツと中央の黒幕、無関係って訳じゃなさそうだな」
静かに、杉元の声がその場に落ちた。
「もしそのことで聴取されたら提示できるように、森岡さんが写った方は持ち込んだんです……ここへは急いで向かわなきゃいけなかったから、部屋まで取りに行く時間がなくて」
慌ただしさのあまり、すっかりその存在を忘れていた。きっと鯉登が絵本と共に預かってくれているだろう。
「
不意に、フチの柔らかな声が囲炉裏の火を挟んでそっと響いた。
「えっ……?」
「
「菊乃は、憑き神に守られているって言ってる」
驚く菊乃に、アシㇼパが微笑んで通訳した。
「みんな、首の後ろに神様が憑いているらしいよ」
と杉元が説明する。
「菊乃の憑き神は変わってるんだって」
フチがゆっくり頷く。
菊乃は、アシㇼパの言葉の先を促すように視線を向けた。
「小さな子どもの狼が、たくさん憑いてるって」
「狼の……子ども?」
「複数の神様が憑くこともあるんだ?」
「うん。でも、こんなにたくさん見えるのはフチも初めてらしい」
小さな狼たちが、肩や背にくっついている光景を想像して、菊乃は思わず目を瞬かせた。
「でも、きっと悪いことじゃない。ホロケウカムイは人間を助けてくれるカムイだから、菊乃のことをきっと良い方向に導いてくれる」
助ける──その言葉に、菊乃は微笑んだ。
「はい」
先が見えない状況に不安は尽きない。けれど、コタンで与えられる言葉ひとつひとつが、菊乃を強く勇気づけた。
