本編
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父(一)
新しい生活には、不思議なほどすんなりと慣れた。アシㇼパたちが暮らすコタンは、初めて訪れる場所なのにどこか懐かしさを感じさせた。言うなれば、朧げに覚えている夢の中の風景が、現実となって目の前に現れたような感覚──。
「……来たことが、あったのかな」
小さく呟きながら、菊乃は縫い物に指先を走らせた。森岡のように、いつかその情景が浮かんできたりするのだろうか──。
思い出すことが正しいのかさえ分からないまま、菊乃は目の前の作業に気を戻す。
その時、小走りに足音を立てながら駆け寄ってくる気配がして、
「菊乃!」
呼ばれて振り向けば、アシㇼパが立っていた。濃い藍地に独特の文様が施された衣姿の彼女は、手に弓を抱えている。
「魚を獲りに行く。一緒に来るか?」
まっすぐと澄んだ瞳が菊乃を見つめていた。
食料調達は、主にアシㇼパと杉元が担っており、これまで菊乃が同行することはなかった。今日は、比較的足場の良い場所での漁だからと誘ってくれたようだ。
ここでは、どうしても出来ることが限られる。だから少しずつでも、彼等の暮らしに触れて力になれたらと菊乃は思う。
「はい、行きます!」
笑みを浮かべて返すと、アシㇼパは小さく頷いた。
「準備できたよー」
外から杉元の声も聞こえてきた。菊乃は、急いで女将が馬と一緒に持たせてくれた荷物の中から、着古した作業用の着物を取り出した。
着替えて外へ出れば、初夏の陽が優しく山肌を照らしている。空気は澄んでいて、鼻先を擽るのは青々とした葉と土の匂い。まるで自然そのものに包まれている感覚が面白い。集落の外れを流れる川は、さらさらと穏やかな音を立てていた。アシㇼパと杉元の後について歩きながら、菊乃は小樽の知らなかった自然の豊かさに深く感嘆した。
「あれは……罠ですか?」
川辺に着くと、杉元が川の中に脚を踏み入れはじめていた。彼の向かった先には、枝で組まれた籠のようなものがある。
「あぁ。ラウォマㇷ゚といって、川魚を獲るための仕掛けだ」
それを聞いて、菊乃は杉元が引き上げたラウォマㇷ゚の傍まで寄る。中を開けてみると、十匹ほどの魚がかかっていた。
「いっぱい入ってる!」
「ねー、すごいでしょ?」
「なんで杉元が得意気なんだ。仕掛けたのは私だぞ」
二人の応酬に、菊乃はくすくすと笑いが漏れた。籠の中で魚が跳ねるたびに、水しぶきがきらめいている。
「料亭でいただくお魚も、こうして誰かが獲ってくれているんですよね。そういうこと、あまり考えたこと無かったな」
「そうだね。誰かの手を介して届けられたと思うよ」
ポツリと漏らした菊乃の言葉に、杉元がにこりと笑って言った。
やがて、全ての仕掛けから魚を回収し、ひと息つこうと三人が腰を下ろしたその時、がさり──と川上の茂みで草の擦れる音がして、菊乃は咄嗟に視線を向けた。
「アシㇼパさん杉元さん、あれ……」
菊乃が指さした先に現れたのは、一頭のエゾシカだった。立派な角が生えている雄鹿で、その動きはどこか不自然だった。右の後ろ脚を引きずっており、歩みが緩慢だ。
「脚をやってるな」
「仕留めよう」
そう言ってアシㇼパが静かに弓を構えた。杉元が傍に立って援護に回る。菊乃は思わず息を呑んで見守った。
程なくして、アシㇼパの手から静かに矢が放たれると、ぐらりと揺れた鹿の身体が水際に崩れた。
「よし」
その光景に、菊乃は何も言えずただ茫然と見つめる。これほど間近で狩猟が行われる様を見るのは、はじめてだった。
杉元が手際よく刃物を抜き、アシㇼパと共に解体を始める。皮を剥ぎ、筋を断ち、血を抜く──その手際は無駄がない。
「皮はどうする?」
「うーん。加工して使うか。今のうちに冬用の靴にしておくのもいいな」
そんなやり取りを聞きながら、菊乃はじっと二人の様子を見守っていた。生々しい匂い、赤い血の色。しかし、そこには残酷さというより、命に対する敬意を感じる。
「菊乃さん、やってみる?」
突然杉元にそう問われ、一瞬身がすくんだ。それでも、力になれたら──その思いで奮い立つ。
「教えてください」
深く頷く菊乃に杉元は微笑んで、刃の持ち方や切る位置を教えてくれた。
「今日は、菊乃に鹿のオハウを食べさせてやろうな」
手にした鹿肉を荷袋に仕分けながらアシㇼパが言うと、杉元がにこりと笑って、
「じゃ~あ~。アレ、入れちゃう?アシㇼパさんっ」
杉元が、わざとらしく目を細めて笑う。アシㇼパもそれに合わせて、ニヤリと笑みを返している。
「フフフ。当り前じゃないか杉元~」
二人だけで何やら通じ合っている様子に、菊乃は思わず眉を顰め、
「アレ、って?」
首をかしげ尋ねると、間髪入れずにアシㇼパが、
「杉元のオソマだ!」
と高らかに叫んだ。その目を輝かせて。
「オソマ……?」
菊乃は戸惑う。コタンには、アシㇼパの従妹だというオソマちゃんがいるが、どうもその子を指しているわけではなさそうで。
「うんこだ!」
続いてアシㇼパが、胸を張って誇らしげに言った。
「う……っ、杉元さんの!?」
目を剥き、声が裏返る。さすがに真に受けたわけではないが、そこにある冗談ではなさそうな勢いが、菊乃の動揺を煽った。ついあらぬ方向に想像が飛びそうになって大きく頭を振る。
「そっ、そうじゃないんだ菊乃さん!アシㇼパさんの言ってるオソマは味噌のことだから!!」
うんこを入れると言われ、思わず顔を引いた菊乃に、慌てて杉元が釈明する。それを聞いて、菊乃はほっとしたと同時に激しい脱力感に見舞われた。オソマちゃんの名の由来に、複雑な感情を抱く。
やがて、澄んだ川音の合間に二人の笑い声が心地よく響いた。その姿を見つめて菊乃は考える。命をいただく──アイヌの暮らしが、今こうして生きていることを強く実感させた。
新しい生活には、不思議なほどすんなりと慣れた。アシㇼパたちが暮らすコタンは、初めて訪れる場所なのにどこか懐かしさを感じさせた。言うなれば、朧げに覚えている夢の中の風景が、現実となって目の前に現れたような感覚──。
「……来たことが、あったのかな」
小さく呟きながら、菊乃は縫い物に指先を走らせた。森岡のように、いつかその情景が浮かんできたりするのだろうか──。
思い出すことが正しいのかさえ分からないまま、菊乃は目の前の作業に気を戻す。
その時、小走りに足音を立てながら駆け寄ってくる気配がして、
「菊乃!」
呼ばれて振り向けば、アシㇼパが立っていた。濃い藍地に独特の文様が施された衣姿の彼女は、手に弓を抱えている。
「魚を獲りに行く。一緒に来るか?」
まっすぐと澄んだ瞳が菊乃を見つめていた。
食料調達は、主にアシㇼパと杉元が担っており、これまで菊乃が同行することはなかった。今日は、比較的足場の良い場所での漁だからと誘ってくれたようだ。
ここでは、どうしても出来ることが限られる。だから少しずつでも、彼等の暮らしに触れて力になれたらと菊乃は思う。
「はい、行きます!」
笑みを浮かべて返すと、アシㇼパは小さく頷いた。
「準備できたよー」
外から杉元の声も聞こえてきた。菊乃は、急いで女将が馬と一緒に持たせてくれた荷物の中から、着古した作業用の着物を取り出した。
着替えて外へ出れば、初夏の陽が優しく山肌を照らしている。空気は澄んでいて、鼻先を擽るのは青々とした葉と土の匂い。まるで自然そのものに包まれている感覚が面白い。集落の外れを流れる川は、さらさらと穏やかな音を立てていた。アシㇼパと杉元の後について歩きながら、菊乃は小樽の知らなかった自然の豊かさに深く感嘆した。
「あれは……罠ですか?」
川辺に着くと、杉元が川の中に脚を踏み入れはじめていた。彼の向かった先には、枝で組まれた籠のようなものがある。
「あぁ。ラウォマㇷ゚といって、川魚を獲るための仕掛けだ」
それを聞いて、菊乃は杉元が引き上げたラウォマㇷ゚の傍まで寄る。中を開けてみると、十匹ほどの魚がかかっていた。
「いっぱい入ってる!」
「ねー、すごいでしょ?」
「なんで杉元が得意気なんだ。仕掛けたのは私だぞ」
二人の応酬に、菊乃はくすくすと笑いが漏れた。籠の中で魚が跳ねるたびに、水しぶきがきらめいている。
「料亭でいただくお魚も、こうして誰かが獲ってくれているんですよね。そういうこと、あまり考えたこと無かったな」
「そうだね。誰かの手を介して届けられたと思うよ」
ポツリと漏らした菊乃の言葉に、杉元がにこりと笑って言った。
やがて、全ての仕掛けから魚を回収し、ひと息つこうと三人が腰を下ろしたその時、がさり──と川上の茂みで草の擦れる音がして、菊乃は咄嗟に視線を向けた。
「アシㇼパさん杉元さん、あれ……」
菊乃が指さした先に現れたのは、一頭のエゾシカだった。立派な角が生えている雄鹿で、その動きはどこか不自然だった。右の後ろ脚を引きずっており、歩みが緩慢だ。
「脚をやってるな」
「仕留めよう」
そう言ってアシㇼパが静かに弓を構えた。杉元が傍に立って援護に回る。菊乃は思わず息を呑んで見守った。
程なくして、アシㇼパの手から静かに矢が放たれると、ぐらりと揺れた鹿の身体が水際に崩れた。
「よし」
その光景に、菊乃は何も言えずただ茫然と見つめる。これほど間近で狩猟が行われる様を見るのは、はじめてだった。
杉元が手際よく刃物を抜き、アシㇼパと共に解体を始める。皮を剥ぎ、筋を断ち、血を抜く──その手際は無駄がない。
「皮はどうする?」
「うーん。加工して使うか。今のうちに冬用の靴にしておくのもいいな」
そんなやり取りを聞きながら、菊乃はじっと二人の様子を見守っていた。生々しい匂い、赤い血の色。しかし、そこには残酷さというより、命に対する敬意を感じる。
「菊乃さん、やってみる?」
突然杉元にそう問われ、一瞬身がすくんだ。それでも、力になれたら──その思いで奮い立つ。
「教えてください」
深く頷く菊乃に杉元は微笑んで、刃の持ち方や切る位置を教えてくれた。
「今日は、菊乃に鹿のオハウを食べさせてやろうな」
手にした鹿肉を荷袋に仕分けながらアシㇼパが言うと、杉元がにこりと笑って、
「じゃ~あ~。アレ、入れちゃう?アシㇼパさんっ」
杉元が、わざとらしく目を細めて笑う。アシㇼパもそれに合わせて、ニヤリと笑みを返している。
「フフフ。当り前じゃないか杉元~」
二人だけで何やら通じ合っている様子に、菊乃は思わず眉を顰め、
「アレ、って?」
首をかしげ尋ねると、間髪入れずにアシㇼパが、
「杉元のオソマだ!」
と高らかに叫んだ。その目を輝かせて。
「オソマ……?」
菊乃は戸惑う。コタンには、アシㇼパの従妹だというオソマちゃんがいるが、どうもその子を指しているわけではなさそうで。
「うんこだ!」
続いてアシㇼパが、胸を張って誇らしげに言った。
「う……っ、杉元さんの!?」
目を剥き、声が裏返る。さすがに真に受けたわけではないが、そこにある冗談ではなさそうな勢いが、菊乃の動揺を煽った。ついあらぬ方向に想像が飛びそうになって大きく頭を振る。
「そっ、そうじゃないんだ菊乃さん!アシㇼパさんの言ってるオソマは味噌のことだから!!」
うんこを入れると言われ、思わず顔を引いた菊乃に、慌てて杉元が釈明する。それを聞いて、菊乃はほっとしたと同時に激しい脱力感に見舞われた。オソマちゃんの名の由来に、複雑な感情を抱く。
やがて、澄んだ川音の合間に二人の笑い声が心地よく響いた。その姿を見つめて菊乃は考える。命をいただく──アイヌの暮らしが、今こうして生きていることを強く実感させた。
