本編
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アイヌ(四)
夜が明け、淡く金色がかった朝の光が森を染める頃──。
やや冷たい風が抜け、湿った大地の匂いが鼻をかすめる中、出発の刻限が静かに迫っていた。
「菊乃、手を出せ」
唐突な言葉に菊乃は小さく瞬きし、鯉登に言われるまま両手をそっと差し出す。その掌の上へチャリ、と音を立てて何かが置かれた。
それは、小ぶりな銀時計だった。文字盤の針がカチカチと確かな音を刻んでいる。所々に擦れた跡があり、長く使い込まれただろうそれは、持ち主が深く愛着を持って扱ってきたのが伝わってくるようだった。
「海軍だった父が、航海の時によく身につけていた形見だ。……お前に持っていてほしい」
菊乃がはっと目を見開いた。
「いけません!そんな大事なものを……!」
菊乃は必死に訴えた。けれど鯉登は揺るがず、まっすぐ菊乃を見つめながら、
「大事なものだからだ。次に会うとき、必ず返してくれ」
その一言に喉の奥が震えた。言葉にできないまま、菊乃はただ力強く頷く。
「ゼンマイを巻かなければ止まってしまうからな。毎日ここを、こうやって回すんだ」
そう言って鯉登は、時計の竜頭を指差し、丁寧に教えた。菊乃も手元を見つめながら、言われた通りにキリキリと巻いてみせる。
「分かりました。忘れないように毎日必ず巻きます!」
「ん」
二人は見つめ合い、自然と微笑んだ。
やがて、不意に鯉登が菊乃をぐっと引き寄せて、
「っえ!あ、あああ、あの」
「約束は、必ず守る」
戸惑う菊乃の傍らで、囁いた。その一言に、抱きしめる腕に込められた想いが伝わってくるようで、菊乃は目を伏せた。彼の背中に腕をまわすと、胸の奥にこびりついていた寂しさが、少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
急に、菊乃も鯉登に自分の存在を持っていてほしくなった。何かないかと考えて、
「あ」
鯉登の腕の中から少し身を引き、袂からそれを取り出す。掌に乗せたものは、小さくて丸い白硝子製の容器だった。
「コールドクリームという化粧品に、少しだけ香油を垂らしたものです。その……代わりに、これを」
もじもじと目を逸らしながら、菊乃がそれを鯉登に手渡した。
「私がいつもつけている香の香り、なので……」
その瞬間、鯉登が膝から崩れ落ちグンニャと上体を仰け反らせる。その体制のまま、一心不乱に容器の蓋を開け、中身ごと吸い込まんとする勢いでくんくんと香りを嗅ぎはじめた。
「……俺たちがいること、忘れてないか」
人目を憚らぬやり取りに、月島が低くぼやくと、
「んもぅ、分かってないなぁ月島軍曹は!ちょっと黙ってて!」
「ふふ」
杉元がそれをなじる。アシㇼパは、仲睦まじい二人を穏やかに眺めていた。
──やがて、鯉登と月島が馬に跨り、出発の時を迎える。
「こちらの近況は手紙で知らせる」
「はい」
鯉登の言葉に、菊乃は柔らかく微笑んで応えた。
「アシㇼパ、杉元……菊乃を頼む」
「ああ、任せろ」
「早く迎えに来てやれよ、少尉殿」
月島と共に、鯉登は手綱を引いた。二人の背中が、朝霧の中へと消えていく。
登る朝日の放つ光が、彼等の行く先を照らしていた。
🎏side story🎏
鯉登は、ずっと秘めていた淡い想いとその熱を、そっと菊乃に押し当てた。
好きだ──その気持ちが触れ合う温度に乗って伝わってゆく。菊乃の目からは、涙が静かに溢れ、止まらない。それをそっと拭って、たまらずもう一度顔を寄せた。
胸の奥で滾るような熱が、行き場を探して疼く。菊乃の小さな唇に自分のそれを重ねるたび、儚く柔らかな感触に心ごと吸い込まれてしまいそうだった。互いに緊張しているのが伝わって、そっと離れては、また惹かれるように口を重ねる。そんな不器用な反復。
それを繰り返すうち、菊乃の方からそっと唇を寄せてきた。その小さな勇気に、鯉登の胸が喜びで震えた。もっと深くを求めたくて、片手をそっと彼女の後頭部へと回す。優しく、けれど強く引き寄せ、
「んっ……!」
びくり、と菊乃の身体が震え、小さく声が漏れた。その一瞬で鯉登は我に返り、慌てて離れると、
「す、すまない……!つい夢中に……」
「へ……変な声出ちゃって……ごめんなさい……」
二人して茹で蛸のように頬を染め、俯く。息も心も落ち着かない。
「……むぜっせぇなんちゅあならん……」
「……なんて?」
うっかりこぼれた鯉登の薩摩弁は、案の定通じなくて、
「可愛くてたまらん──と言った」
言い直すと菊乃が目を瞠った。その顔は、もはや沸騰寸前だった。恥ずかしさで小さく震えるその様子に、鯉登がそっと声をかける。
「もいっど 、してんよかか ?」
今度は、その意味を聞き取れたようだ。けれど菊乃は俯いたまま、ただ両の手を胸の前でぎゅっと重ねている。
その沈黙を承諾と受け取って、鯉登がゆっくり顔を近づけようとした──その時。
ガサッ、と草の揺れる音がして、二人は弾かれるように距離を取った。野生動物か──警戒して、鯉登が菊乃の前へと出ると、
「あれ。菊乃さんも早いね。おはよう」
現れたのは、杉元だった。鯉登が思わず恨めしそうな顔で深々とため息を吐く。
「なんだ、ただの杉元か……」
「なんだとはなんだ、コラ」
軽口の応酬が始まる横で、顔を紅潮させた菊乃がすっと立ち上がり、
「あ、えと……わ、私朝ごはんの用意してきます!」
そう言うが早いか、菊乃は小走りで野営場所の方へ駆けていった。
鯉登が「待て」と言おうと腕を伸ばすが、その姿はすぐに草陰へと消えていき、残された腕だけが空に残る。
「……」
「……もしかして、お邪魔しちゃった感じ?」
杉元のとぼけた口調が、鯉登の癪に触る。鋭い眼差しで睨みつけるも、杉元はへらりと笑って沢の水で顔を洗い始めた。
「お前、前に見た時よりもちょっと大人びた気がしてたけど……そうかそうか、そういうことか~」
「その口、今すぐ閉じんと叩っ斬るぞ……!」
軽口を叱責する鯉登など意に介さず、顔を洗い終わった杉元がふと真顔になる。その変化に、鯉登が眉を顰めた。
「……どうして、鶴見中尉は菊乃さんを養子にしようとしたんだろうな」
「お前、何故その話……」
「や、昨日火の始末してた時にさ。菊乃さんがアシㇼパさんにそんな話をしてたの、ちょっと聞こえちゃって」
杉元は、頬を搔きながら申し訳なさそうに言った。鯉登は暫し黙し、深く息を吐く。
「今となっては誰にも分からん……。ただ、菊乃は鶴見中尉殿が本当の家族になってくれると信じて待っていた……確かなのはそれだけだ」
「……そうか」
そう言うと、杉元は無言のまま鯉登の肩に腕を回しぐいと引き寄せ、
「いい子じゃん。男見せろよ、鯉登少尉」
そう言う杉元に、一拍の間のあと、
「言われずとも。菊乃は、私が守る」
鯉登がまっすぐに答える。杉元がふっと笑みをこぼし、腕を解いて元来た方へと歩き出した。
「菊乃さんに、いーっぱい恋のお話聞かせてもらおーっと♪」
浮かれた足取りで飛び跳ねる杉元に、
「~~ヤメロッ!!菊乃に変なことしたらタダじゃおかんぞ!!」
と、鯉登が吠えた。
朝空が、ゆっくりと白み始める。
鯉登たちが森を発つまで、あと少し。
夜が明け、淡く金色がかった朝の光が森を染める頃──。
やや冷たい風が抜け、湿った大地の匂いが鼻をかすめる中、出発の刻限が静かに迫っていた。
「菊乃、手を出せ」
唐突な言葉に菊乃は小さく瞬きし、鯉登に言われるまま両手をそっと差し出す。その掌の上へチャリ、と音を立てて何かが置かれた。
それは、小ぶりな銀時計だった。文字盤の針がカチカチと確かな音を刻んでいる。所々に擦れた跡があり、長く使い込まれただろうそれは、持ち主が深く愛着を持って扱ってきたのが伝わってくるようだった。
「海軍だった父が、航海の時によく身につけていた形見だ。……お前に持っていてほしい」
菊乃がはっと目を見開いた。
「いけません!そんな大事なものを……!」
菊乃は必死に訴えた。けれど鯉登は揺るがず、まっすぐ菊乃を見つめながら、
「大事なものだからだ。次に会うとき、必ず返してくれ」
その一言に喉の奥が震えた。言葉にできないまま、菊乃はただ力強く頷く。
「ゼンマイを巻かなければ止まってしまうからな。毎日ここを、こうやって回すんだ」
そう言って鯉登は、時計の竜頭を指差し、丁寧に教えた。菊乃も手元を見つめながら、言われた通りにキリキリと巻いてみせる。
「分かりました。忘れないように毎日必ず巻きます!」
「ん」
二人は見つめ合い、自然と微笑んだ。
やがて、不意に鯉登が菊乃をぐっと引き寄せて、
「っえ!あ、あああ、あの」
「約束は、必ず守る」
戸惑う菊乃の傍らで、囁いた。その一言に、抱きしめる腕に込められた想いが伝わってくるようで、菊乃は目を伏せた。彼の背中に腕をまわすと、胸の奥にこびりついていた寂しさが、少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
急に、菊乃も鯉登に自分の存在を持っていてほしくなった。何かないかと考えて、
「あ」
鯉登の腕の中から少し身を引き、袂からそれを取り出す。掌に乗せたものは、小さくて丸い白硝子製の容器だった。
「コールドクリームという化粧品に、少しだけ香油を垂らしたものです。その……代わりに、これを」
もじもじと目を逸らしながら、菊乃がそれを鯉登に手渡した。
「私がいつもつけている香の香り、なので……」
その瞬間、鯉登が膝から崩れ落ちグンニャと上体を仰け反らせる。その体制のまま、一心不乱に容器の蓋を開け、中身ごと吸い込まんとする勢いでくんくんと香りを嗅ぎはじめた。
「……俺たちがいること、忘れてないか」
人目を憚らぬやり取りに、月島が低くぼやくと、
「んもぅ、分かってないなぁ月島軍曹は!ちょっと黙ってて!」
「ふふ」
杉元がそれをなじる。アシㇼパは、仲睦まじい二人を穏やかに眺めていた。
──やがて、鯉登と月島が馬に跨り、出発の時を迎える。
「こちらの近況は手紙で知らせる」
「はい」
鯉登の言葉に、菊乃は柔らかく微笑んで応えた。
「アシㇼパ、杉元……菊乃を頼む」
「ああ、任せろ」
「早く迎えに来てやれよ、少尉殿」
月島と共に、鯉登は手綱を引いた。二人の背中が、朝霧の中へと消えていく。
登る朝日の放つ光が、彼等の行く先を照らしていた。
🎏side story🎏
鯉登は、ずっと秘めていた淡い想いとその熱を、そっと菊乃に押し当てた。
好きだ──その気持ちが触れ合う温度に乗って伝わってゆく。菊乃の目からは、涙が静かに溢れ、止まらない。それをそっと拭って、たまらずもう一度顔を寄せた。
胸の奥で滾るような熱が、行き場を探して疼く。菊乃の小さな唇に自分のそれを重ねるたび、儚く柔らかな感触に心ごと吸い込まれてしまいそうだった。互いに緊張しているのが伝わって、そっと離れては、また惹かれるように口を重ねる。そんな不器用な反復。
それを繰り返すうち、菊乃の方からそっと唇を寄せてきた。その小さな勇気に、鯉登の胸が喜びで震えた。もっと深くを求めたくて、片手をそっと彼女の後頭部へと回す。優しく、けれど強く引き寄せ、
「んっ……!」
びくり、と菊乃の身体が震え、小さく声が漏れた。その一瞬で鯉登は我に返り、慌てて離れると、
「す、すまない……!つい夢中に……」
「へ……変な声出ちゃって……ごめんなさい……」
二人して茹で蛸のように頬を染め、俯く。息も心も落ち着かない。
「……むぜっせぇなんちゅあならん……」
「……なんて?」
うっかりこぼれた鯉登の薩摩弁は、案の定通じなくて、
「可愛くてたまらん──と言った」
言い直すと菊乃が目を瞠った。その顔は、もはや沸騰寸前だった。恥ずかしさで小さく震えるその様子に、鯉登がそっと声をかける。
「
今度は、その意味を聞き取れたようだ。けれど菊乃は俯いたまま、ただ両の手を胸の前でぎゅっと重ねている。
その沈黙を承諾と受け取って、鯉登がゆっくり顔を近づけようとした──その時。
ガサッ、と草の揺れる音がして、二人は弾かれるように距離を取った。野生動物か──警戒して、鯉登が菊乃の前へと出ると、
「あれ。菊乃さんも早いね。おはよう」
現れたのは、杉元だった。鯉登が思わず恨めしそうな顔で深々とため息を吐く。
「なんだ、ただの杉元か……」
「なんだとはなんだ、コラ」
軽口の応酬が始まる横で、顔を紅潮させた菊乃がすっと立ち上がり、
「あ、えと……わ、私朝ごはんの用意してきます!」
そう言うが早いか、菊乃は小走りで野営場所の方へ駆けていった。
鯉登が「待て」と言おうと腕を伸ばすが、その姿はすぐに草陰へと消えていき、残された腕だけが空に残る。
「……」
「……もしかして、お邪魔しちゃった感じ?」
杉元のとぼけた口調が、鯉登の癪に触る。鋭い眼差しで睨みつけるも、杉元はへらりと笑って沢の水で顔を洗い始めた。
「お前、前に見た時よりもちょっと大人びた気がしてたけど……そうかそうか、そういうことか~」
「その口、今すぐ閉じんと叩っ斬るぞ……!」
軽口を叱責する鯉登など意に介さず、顔を洗い終わった杉元がふと真顔になる。その変化に、鯉登が眉を顰めた。
「……どうして、鶴見中尉は菊乃さんを養子にしようとしたんだろうな」
「お前、何故その話……」
「や、昨日火の始末してた時にさ。菊乃さんがアシㇼパさんにそんな話をしてたの、ちょっと聞こえちゃって」
杉元は、頬を搔きながら申し訳なさそうに言った。鯉登は暫し黙し、深く息を吐く。
「今となっては誰にも分からん……。ただ、菊乃は鶴見中尉殿が本当の家族になってくれると信じて待っていた……確かなのはそれだけだ」
「……そうか」
そう言うと、杉元は無言のまま鯉登の肩に腕を回しぐいと引き寄せ、
「いい子じゃん。男見せろよ、鯉登少尉」
そう言う杉元に、一拍の間のあと、
「言われずとも。菊乃は、私が守る」
鯉登がまっすぐに答える。杉元がふっと笑みをこぼし、腕を解いて元来た方へと歩き出した。
「菊乃さんに、いーっぱい恋のお話聞かせてもらおーっと♪」
浮かれた足取りで飛び跳ねる杉元に、
「~~ヤメロッ!!菊乃に変なことしたらタダじゃおかんぞ!!」
と、鯉登が吠えた。
朝空が、ゆっくりと白み始める。
鯉登たちが森を発つまで、あと少し。
