本編
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
アイヌ(三)
焚火の灯りが消えかける頃、菊乃はアシㇼパに案内され小さな小屋へと入っていた。
「これはクチャといって、狩猟で使う仮小屋なんだ」
「へぇ、とてもしっかり作られているんですね」
菊乃は感嘆の声を漏らした。土の匂いが鼻をかすめ、小枝と木の葉で編まれた壁は思いの外頑丈だ。小屋の中は簡素ながらも暖かく、どこか安らぎを覚える。
今夜は、アシㇼパと菊乃がクチャで、鯉登たち三人は傍に張った軍用天幕で休むことになった。
敷き詰められた松の葉の上に二人寝転がる。虫の声と焚火の残り香が心を落ち着かせた。
「菊乃……お前は、本当に鶴見中尉の娘なのか?」
アシㇼパがぽつりと声を落とした。言葉は穏やかだったが、どこか核心に触れるような色がほの見える。
「……正しくは、そうなる予定だったんです」
沈んだその声音に、アシㇼパはただ静かに耳を傾けている。
孤児で身寄りがなかったこと。魁燿亭に拾われ、芸者として働く中で鶴見と出会ったこと。彼が、養子縁組を申し出てくれたこと。しかし、迎えに来ることはなかったこと──。
説明する菊乃の声は、消え入りそうに小さかった。薄く開かれた瞳に宿る光が、ゆっくりと翳っていく。
「……菊乃は、鶴見中尉が昔ロシアに住んでいたこと知ってるか?」
アシㇼパの問いかけに、菊乃ははっと目を見開いた。
「え……っ?」
「じゃあ、そこに妻と子がいたことも……?」
それはまるで、雷に打たれたようだった。知らない。何故それをアシㇼパが知っているのか。胸のざわめきは静まることを知らず、菊乃は固く唇を結んでひとつ頷いた。驚きと混乱に揺れる菊乃の顔を、アシㇼパはまっすぐに見つめ続ける。
そこからの話は、菊乃の心を容赦なく抉った。軍の諜報活動の中、そこで築かれた幸せが無慈悲に奪われてしまったこと。彼女の父親との因縁──争いの中で彼からそう説明されたのだとアシㇼパは言った。
鶴見が人知れず背負ってきた過去に、菊乃は涙が止まらなかった。言葉にならない思いが、喉元で詰まる。
「私も菊乃と同じだ。……だから、お前ともっと話がしたいと思った」
アシㇼパはそう言って、菊乃を抱き寄せた。小柄な体にそぐわぬ強さで、菊乃の背を優しく撫でる。
「すまない。こんなときに話すべきじゃなかったな……鯉登たちが夜明けには出発すると言っていた。もう寝よう」
アシㇼパのささやきに、菊乃は頷く。でも、静かに流れる涙はまだ止まりそうになかった。
暫くして耳を澄ませると、静かな寝息が聞こえてきて、菊乃もようやく瞼を閉じていく。静寂に包まれる夜の森の中、深く呼吸をすると疲れがどっと出てきて、菊乃もすぐ眠りについた。
──アシㇼパに教えられた沢まで来て、菊乃はそっとしゃがみこむと冷たい水で顔を洗った。夜明け前の空には、まだかすかに星が残っている。
皆よりも早く目が覚めてしまった。野外の寝床に慣れない体が少しきしむ。けれど、それよりも心の奥底でざわつく思いのほうが余っ程辛かった。
──鯉登たちが、もうすぐ発つ。今度はどれほど会えなくなるか分からない。その寂しさが、胸の奥で痛みとなって広がっていく。
「……菊乃」
ふいに名を呼ばれて、はっと振り向くと、朝靄の中に鯉登が立っていた。まだ陽の差さぬ薄闇の中で、彼の姿はどこか幻想的に映った。
「あ……おはようございます」
「おはよう」
隣に並び、鯉登もしゃがんで水に手を浸した。両の手で顔を洗い、持参の手拭いで顔を覆う。
「早いな」
「……なんだか、目が覚めてしまって」
簡素なやりとりのあと、二人の間に沈黙が流れた。沢のせせらぎだけが、静かにその間を埋めていく。
「菊乃」
静寂を破って、鯉登が再び菊乃の名を呼ぶ。視線は流れる水に落とされたまま。
「中央側の動向を掴むには、並大抵のやり方では通用しない。時間がいる……だが必ず、私が黒幕の正体を突き止める。そうしたら──」
それから、顔を上げて菊乃をまっすぐに見つめ、
「必ず、お前を迎えに行く」
その言葉が落とされた瞬間、菊乃の表情が微かに歪んだ。凍りついたようにこわばったまま、ゆっくりと瞳の中が涙で溜まる。
「……そう言って、来なかった……っ」
その嘆きは震えていた。堪えきれない想いがこぼれ落ちるように、菊乃の頬を涙が伝う。それは続けざまに、ぽたり、ぽたりと溢れて止まらない。
「っ、菊乃、私は鶴見中尉とは違う!」
思わず鯉登が声を荒げた。両の手で、細い肩を掴む。けれど、菊乃はその手を振りほどくことも反論することもせず、顔を伏せただ首を横に振る。
「……好き……」
小さな、けれど確かなその声に鯉登が息を呑んだ。
頭では分かっている。けれど、また大切な誰かがいなくなってしまうかもしれない恐怖が、菊乃の心に絡まって離れなかった。あの寂しさをもう一度味わうなんて──。
「鯉登さんが好き、だから……っ!鯉登さんまでいなくなったらって、思っ……!」
そう言いかけた時、不意に頬に触れた温かい手にびくりと肩を震わせて、顔を上げた瞬間──柔らかな感触が、菊乃の唇を優しく覆った。
何が起こったのか分からなかった。頭は真っ白。ただ、鯉登の顔がすぐそこにある。
閉じられていた彼の瞳が徐々に開かれて、唇がそっと離れていく。
震える。触れたばかりの熱が、まだそこに残っていた。
「……私も、菊乃が好きだ」
静かな、けれど深い愛情を湛えた声だった。
「え……」
「だから、菊乃のことは何に代えても守りたい」
胸の奥が、熱くなる。張り裂けそうなほどの感情が、満ちていく。
「お前を脅かすものから、私が必ず守り抜くと誓う」
その言葉は、菊乃の奥底の不安をすくい取っていくようだった。堰を切ったように、再び涙があふれ出す。
「約束だ。必ず迎えに来る。私のことを──信じて待っていてほしい」
こんな喜びを、再び得られる日が来るなんて思っていなかった。いや、彼の言葉と温もりは、それ以上の幸せを与えてくれる。
濡れた頬を、鯉登の指が優しくなぞる。その指先は少しざらついていて、けれどとてもあたたかい。
再び、彼の顔がそっと寄ってくる。今度はゆっくりと互いの存在を確かめるように、何度も、何度も、口付けた。
🎏side story🎏
三人は、月明かりに照らされた山道を進んでいた。周囲の木々が風に揺れ、葉擦れの音に紛れるように、馬の蹄の音だけが一定の拍子で響いている。先導するのは月島。数歩後ろを、鯉登と菊乃を乗せた馬が続く。
鯉登は背筋をピンと伸ばし、顔を正面に向けたまま表情を凍らせている。すぐ目の前には、彼の腕の中にすっぽり収まるようにして、横向きに座った菊乃の姿。道に合わせて揺れるたび、彼女の肩が鯉登の胸にかすかに触れる。
最初こそ、涼しい顔で馬に跨り任せておけと言わんばかりの仕草で手綱を引いた。ほんの少し緊張した様子の菊乃に、声をかけて安心させもした。
だが実際は、鼓動がこれでもかと強く打って仕方なかった。この距離、仄かに感じる体温、ふと流れてくる香の香り。それらすべてが、自分の中の理性を溶かしていく。
好きだ──頭の中は、既にそれでいっぱいだった。
そんな中、ふいに菊乃が、
「大丈夫?疲れてない?」
と語りだした。
それは、馬の首筋に向けた優しい問いだった。静かに揺れるたてがみにそっと手を添えて、撫でるようにしながら語りかけている。
それを見ていた鯉登が突然、
「待て、それは不味い!」
と、勢いよく声を張り上げた。
「きゃっ!」
菊乃が驚きの声を上げ、体がぐらりと揺れる。
「危っ──!」
咄嗟に鯉登が片腕を伸ばし、菊乃の肩をしっかり引き寄せ落下を防いだ。馬が軽く踏みしめ直し、再び均衡を保つ。菊乃はそのまま、鯉登の胸に抱き込まれる形で収まった。
「だ、大丈夫か……?」
見下ろす鯉登の表情は真剣そのものだが、胸元に引き寄せられた菊乃の顔は真っ赤に染まり、目元には涙の粒が浮かびかけていた。
「なっ、なな、なんですか!?急に大声出さないでくださいっ!」
「あ、ああ、すまん。その……」
鯉登は口ごもり、一呼吸おいてから低い声で、
「菊乃。今……馬に話しかけただろ」
「?はい……二人も乗せて疲れてないかなって、思って」
「それは、縁起が悪いんだぞ。知らんのか?」
きょとんとする菊乃。その顔もかわいい。
鯉登は緩みきった顔を正し、重々しく言葉を続けた。
「“女が馬に話しかけると、旅の途中で身を落とす”って、薩摩じゃ昔から言われている」
「……ぇえっ!?そ、そうなんですか……っ」
「祖母がよく言っていた。『馬は神の使いで、女が情けをかけると馬が喜び神隠しに連れてゆく』と」
「かっ……神・隠・し……!?」
想像力が働いたのか、菊乃は顔を強張らせ、ぎゅっと鯉登の軍服を握った。
その仕草に、鯉登が僅かに肩を揺らす。かわいい。
「ど、どこに連れていかれるんでしょう……?」
「か、神の使いなのだから……私は、あの世だと思っていたが……」
鯉登が動揺しつつ答えると、その一言に菊乃の顔からさっと血の気が引いた。力なく項垂れ、
「……あの世じゃ、鯉登さんに来てもらえな……」
と言いかけて、菊乃ははっと両手で口を押さえた。暗に「助けに来てほしい」と言いたげな菊乃に、頼られていることに、鯉登の心が高鳴った。
「あん世じゃっどん 、おいが必ず助けに行 っ」
そう言うと、菊乃がはっと顔を上げた。恥じらいと嬉しさが入り混じった表情のまま俯くと、そっと額を鯉登の胸に寄せて、
「……待ってます」
と言ったその瞬間、鯉登の意識が弾けた。まるで力が抜けたようにグンニャと仰け反り、
「や、ちょっ、鯉登さん!?」
そのまま馬の体に沿うように倒れた。その拍子に手綱が引かれて馬が止まる。彼はというと、天性の柔軟体質と体幹力によって器用に落下を免れていた。
「こっ、鯉登さん起きて!月島さんに置いてかれちゃう!」
菊乃が一生懸命、鯉登を揺すったり声をかけたりしている。
「……何をやってるんだ、あの人たちは」
その様子を、数歩先で立ち止まった月島が呆れ顔で見ている。
夜の山道に、大きなため息が一つ溶けていった。
焚火の灯りが消えかける頃、菊乃はアシㇼパに案内され小さな小屋へと入っていた。
「これはクチャといって、狩猟で使う仮小屋なんだ」
「へぇ、とてもしっかり作られているんですね」
菊乃は感嘆の声を漏らした。土の匂いが鼻をかすめ、小枝と木の葉で編まれた壁は思いの外頑丈だ。小屋の中は簡素ながらも暖かく、どこか安らぎを覚える。
今夜は、アシㇼパと菊乃がクチャで、鯉登たち三人は傍に張った軍用天幕で休むことになった。
敷き詰められた松の葉の上に二人寝転がる。虫の声と焚火の残り香が心を落ち着かせた。
「菊乃……お前は、本当に鶴見中尉の娘なのか?」
アシㇼパがぽつりと声を落とした。言葉は穏やかだったが、どこか核心に触れるような色がほの見える。
「……正しくは、そうなる予定だったんです」
沈んだその声音に、アシㇼパはただ静かに耳を傾けている。
孤児で身寄りがなかったこと。魁燿亭に拾われ、芸者として働く中で鶴見と出会ったこと。彼が、養子縁組を申し出てくれたこと。しかし、迎えに来ることはなかったこと──。
説明する菊乃の声は、消え入りそうに小さかった。薄く開かれた瞳に宿る光が、ゆっくりと翳っていく。
「……菊乃は、鶴見中尉が昔ロシアに住んでいたこと知ってるか?」
アシㇼパの問いかけに、菊乃ははっと目を見開いた。
「え……っ?」
「じゃあ、そこに妻と子がいたことも……?」
それはまるで、雷に打たれたようだった。知らない。何故それをアシㇼパが知っているのか。胸のざわめきは静まることを知らず、菊乃は固く唇を結んでひとつ頷いた。驚きと混乱に揺れる菊乃の顔を、アシㇼパはまっすぐに見つめ続ける。
そこからの話は、菊乃の心を容赦なく抉った。軍の諜報活動の中、そこで築かれた幸せが無慈悲に奪われてしまったこと。彼女の父親との因縁──争いの中で彼からそう説明されたのだとアシㇼパは言った。
鶴見が人知れず背負ってきた過去に、菊乃は涙が止まらなかった。言葉にならない思いが、喉元で詰まる。
「私も菊乃と同じだ。……だから、お前ともっと話がしたいと思った」
アシㇼパはそう言って、菊乃を抱き寄せた。小柄な体にそぐわぬ強さで、菊乃の背を優しく撫でる。
「すまない。こんなときに話すべきじゃなかったな……鯉登たちが夜明けには出発すると言っていた。もう寝よう」
アシㇼパのささやきに、菊乃は頷く。でも、静かに流れる涙はまだ止まりそうになかった。
暫くして耳を澄ませると、静かな寝息が聞こえてきて、菊乃もようやく瞼を閉じていく。静寂に包まれる夜の森の中、深く呼吸をすると疲れがどっと出てきて、菊乃もすぐ眠りについた。
──アシㇼパに教えられた沢まで来て、菊乃はそっとしゃがみこむと冷たい水で顔を洗った。夜明け前の空には、まだかすかに星が残っている。
皆よりも早く目が覚めてしまった。野外の寝床に慣れない体が少しきしむ。けれど、それよりも心の奥底でざわつく思いのほうが余っ程辛かった。
──鯉登たちが、もうすぐ発つ。今度はどれほど会えなくなるか分からない。その寂しさが、胸の奥で痛みとなって広がっていく。
「……菊乃」
ふいに名を呼ばれて、はっと振り向くと、朝靄の中に鯉登が立っていた。まだ陽の差さぬ薄闇の中で、彼の姿はどこか幻想的に映った。
「あ……おはようございます」
「おはよう」
隣に並び、鯉登もしゃがんで水に手を浸した。両の手で顔を洗い、持参の手拭いで顔を覆う。
「早いな」
「……なんだか、目が覚めてしまって」
簡素なやりとりのあと、二人の間に沈黙が流れた。沢のせせらぎだけが、静かにその間を埋めていく。
「菊乃」
静寂を破って、鯉登が再び菊乃の名を呼ぶ。視線は流れる水に落とされたまま。
「中央側の動向を掴むには、並大抵のやり方では通用しない。時間がいる……だが必ず、私が黒幕の正体を突き止める。そうしたら──」
それから、顔を上げて菊乃をまっすぐに見つめ、
「必ず、お前を迎えに行く」
その言葉が落とされた瞬間、菊乃の表情が微かに歪んだ。凍りついたようにこわばったまま、ゆっくりと瞳の中が涙で溜まる。
「……そう言って、来なかった……っ」
その嘆きは震えていた。堪えきれない想いがこぼれ落ちるように、菊乃の頬を涙が伝う。それは続けざまに、ぽたり、ぽたりと溢れて止まらない。
「っ、菊乃、私は鶴見中尉とは違う!」
思わず鯉登が声を荒げた。両の手で、細い肩を掴む。けれど、菊乃はその手を振りほどくことも反論することもせず、顔を伏せただ首を横に振る。
「……好き……」
小さな、けれど確かなその声に鯉登が息を呑んだ。
頭では分かっている。けれど、また大切な誰かがいなくなってしまうかもしれない恐怖が、菊乃の心に絡まって離れなかった。あの寂しさをもう一度味わうなんて──。
「鯉登さんが好き、だから……っ!鯉登さんまでいなくなったらって、思っ……!」
そう言いかけた時、不意に頬に触れた温かい手にびくりと肩を震わせて、顔を上げた瞬間──柔らかな感触が、菊乃の唇を優しく覆った。
何が起こったのか分からなかった。頭は真っ白。ただ、鯉登の顔がすぐそこにある。
閉じられていた彼の瞳が徐々に開かれて、唇がそっと離れていく。
震える。触れたばかりの熱が、まだそこに残っていた。
「……私も、菊乃が好きだ」
静かな、けれど深い愛情を湛えた声だった。
「え……」
「だから、菊乃のことは何に代えても守りたい」
胸の奥が、熱くなる。張り裂けそうなほどの感情が、満ちていく。
「お前を脅かすものから、私が必ず守り抜くと誓う」
その言葉は、菊乃の奥底の不安をすくい取っていくようだった。堰を切ったように、再び涙があふれ出す。
「約束だ。必ず迎えに来る。私のことを──信じて待っていてほしい」
こんな喜びを、再び得られる日が来るなんて思っていなかった。いや、彼の言葉と温もりは、それ以上の幸せを与えてくれる。
濡れた頬を、鯉登の指が優しくなぞる。その指先は少しざらついていて、けれどとてもあたたかい。
再び、彼の顔がそっと寄ってくる。今度はゆっくりと互いの存在を確かめるように、何度も、何度も、口付けた。
🎏side story🎏
三人は、月明かりに照らされた山道を進んでいた。周囲の木々が風に揺れ、葉擦れの音に紛れるように、馬の蹄の音だけが一定の拍子で響いている。先導するのは月島。数歩後ろを、鯉登と菊乃を乗せた馬が続く。
鯉登は背筋をピンと伸ばし、顔を正面に向けたまま表情を凍らせている。すぐ目の前には、彼の腕の中にすっぽり収まるようにして、横向きに座った菊乃の姿。道に合わせて揺れるたび、彼女の肩が鯉登の胸にかすかに触れる。
最初こそ、涼しい顔で馬に跨り任せておけと言わんばかりの仕草で手綱を引いた。ほんの少し緊張した様子の菊乃に、声をかけて安心させもした。
だが実際は、鼓動がこれでもかと強く打って仕方なかった。この距離、仄かに感じる体温、ふと流れてくる香の香り。それらすべてが、自分の中の理性を溶かしていく。
好きだ──頭の中は、既にそれでいっぱいだった。
そんな中、ふいに菊乃が、
「大丈夫?疲れてない?」
と語りだした。
それは、馬の首筋に向けた優しい問いだった。静かに揺れるたてがみにそっと手を添えて、撫でるようにしながら語りかけている。
それを見ていた鯉登が突然、
「待て、それは不味い!」
と、勢いよく声を張り上げた。
「きゃっ!」
菊乃が驚きの声を上げ、体がぐらりと揺れる。
「危っ──!」
咄嗟に鯉登が片腕を伸ばし、菊乃の肩をしっかり引き寄せ落下を防いだ。馬が軽く踏みしめ直し、再び均衡を保つ。菊乃はそのまま、鯉登の胸に抱き込まれる形で収まった。
「だ、大丈夫か……?」
見下ろす鯉登の表情は真剣そのものだが、胸元に引き寄せられた菊乃の顔は真っ赤に染まり、目元には涙の粒が浮かびかけていた。
「なっ、なな、なんですか!?急に大声出さないでくださいっ!」
「あ、ああ、すまん。その……」
鯉登は口ごもり、一呼吸おいてから低い声で、
「菊乃。今……馬に話しかけただろ」
「?はい……二人も乗せて疲れてないかなって、思って」
「それは、縁起が悪いんだぞ。知らんのか?」
きょとんとする菊乃。その顔もかわいい。
鯉登は緩みきった顔を正し、重々しく言葉を続けた。
「“女が馬に話しかけると、旅の途中で身を落とす”って、薩摩じゃ昔から言われている」
「……ぇえっ!?そ、そうなんですか……っ」
「祖母がよく言っていた。『馬は神の使いで、女が情けをかけると馬が喜び神隠しに連れてゆく』と」
「かっ……神・隠・し……!?」
想像力が働いたのか、菊乃は顔を強張らせ、ぎゅっと鯉登の軍服を握った。
その仕草に、鯉登が僅かに肩を揺らす。かわいい。
「ど、どこに連れていかれるんでしょう……?」
「か、神の使いなのだから……私は、あの世だと思っていたが……」
鯉登が動揺しつつ答えると、その一言に菊乃の顔からさっと血の気が引いた。力なく項垂れ、
「……あの世じゃ、鯉登さんに来てもらえな……」
と言いかけて、菊乃ははっと両手で口を押さえた。暗に「助けに来てほしい」と言いたげな菊乃に、頼られていることに、鯉登の心が高鳴った。
「
そう言うと、菊乃がはっと顔を上げた。恥じらいと嬉しさが入り混じった表情のまま俯くと、そっと額を鯉登の胸に寄せて、
「……待ってます」
と言ったその瞬間、鯉登の意識が弾けた。まるで力が抜けたようにグンニャと仰け反り、
「や、ちょっ、鯉登さん!?」
そのまま馬の体に沿うように倒れた。その拍子に手綱が引かれて馬が止まる。彼はというと、天性の柔軟体質と体幹力によって器用に落下を免れていた。
「こっ、鯉登さん起きて!月島さんに置いてかれちゃう!」
菊乃が一生懸命、鯉登を揺すったり声をかけたりしている。
「……何をやってるんだ、あの人たちは」
その様子を、数歩先で立ち止まった月島が呆れ顔で見ている。
夜の山道に、大きなため息が一つ溶けていった。
