本編
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アイヌ(一)
移動が決まると、偕行社にはあえて戻らず怒涛の勢いで病院を出た。
──昼に立つ列車に三人で飛び乗ってから数時間。列車に揺られながら、菊乃は車窓から見える景色を静かに眺めていた。湿った土と新緑の香りが窓の隙間から微かに入り込む。流れる風景は、どこか遠い世界のもののように見えた。
旭川へ向かっていたあのとき、胸の奥は少しの緊張で満ちていて、着いてみれば新しい世界に心が踊ることもあった。
しかし、今は違う。脳が飽和したように重たく、まともに思考することもままならない。今はただ、流れゆく景色に目を預けるだけだ。
鯉登から語られた言葉の数々は、菊乃がすんなりと飲み込める範疇を超えていた。彼らが叛旗を翻し、独自の軍事政権樹立を目論んでいたなどと、いったい誰が信じようか──。旭川へ赴く前の菊乃であれば、間違いなくそう思った。
理想を掲げ犠牲も厭わず進んだ彼らのやり方に、完全な是認はできない。けれど、間違っているとも言い切れない。そう思える自分がいることに、菊乃は小さく戸惑っていた。
「……菊乃、寝ていてもいいぞ。到着は夜だ」
不意にかけられた声に、はっと我に返る。隣に座る鯉登が、気遣わしげな表情で見つめていた。向かいに座る月島も、黙ってその視線を向けてくる。
「はい……」
僅かに掠れた声で答えながら、菊乃は再び視線を窓の外へ戻した。列車の音だけが、一定の拍子を刻んでいる。
「……私、鶴見さんにいろんなことを教わりました」
ぽつりとこぼれた言葉に、ふたりの視線が車窓を見る菊乃へと向けられた。
「本を読んだだけじゃ分からないことも、聞けば全部答えてくれた。……私、本当はずっと不安だった。ここにいていいのか分からなくなって、一人前の芸者でいることで認められるって思って過ごしてきました。でも昔は失敗ばかりして……それでも『大丈夫』って言って鶴見さんはずっと傍にいてくれた」
懐かしさと痛みの混じるような声音で、菊乃は小さく息を吐いた。
「本当の気持ちを言ってもいいんだって、鶴見さんが教えてくれたんです」
それまで伏せていた顔を上げた菊乃は、月島と鯉登どちらにも視線を向けた。
「戦争のこと、少しだけ話してくれたことがありました。『どうして、たくさんの人が傷つくのに、戦争はなくならないのか』って……私、聞いたんです」
そう言うと、一拍の沈黙が落ちた。菊乃は静かに記憶を探るように目を伏せる。
「『人は守りたいもののため、正義を貫こうと必死になるものだから』って……その言葉が、ずっと胸に残ってる」
その言葉を反芻するように、菊乃はそっと目を閉じた。
そして、思いを噛みしめるように、菊乃は鯉登を正面から見据えて、
「鶴見さんの正義がすべて正しかったとは思っていません。でも……今の私があるのは、鶴見さんの正義があったからで、私はそれに生かされた……だから、私も一緒に背負っていきたい」
その一言に、空気が張りつめた。鯉登と月島、ふたりが同時に小さく息を呑む。
「鶴見中尉や私たちがやってきたことと、菊乃は関係が──!」
思わず言いかけた鯉登に、菊乃はかぶりを振って制した。
「私は、鶴見篤四郎の娘ですから」
目を瞠り固まる二人に構わず、菊乃は真剣な眼差しを逸らさない。
「彼女にも、そうお伝えするつもりです」
「菊乃、私はそういうつもりで」
鯉登が何かを言いかけると、菊乃は柔らかく、それでいてしっかりとした口調で、
「分かっています。これはただ……あの人の娘でいたいという、私の我儘なんです」
そうでなければ、自分はただ守られるばかりで、鯉登と月島だけ矢面に立たせてしまう。それは、違うと思った。自分にも、果たさなければならない役目がある──。
「女の子が、無事に帰っているといいな……」
ぽつりとそう呟いて、菊乃は再び窓の向こうに目をやった。
西の空で、少しずつ太陽が傾いてゆく。どこか切なく、美しい色をしていた。
──小樽駅に着いた頃には、陽がすっかり落ち、街灯がぼんやりと道を照らし始めていた。歩いている人の姿はまばらで、冷たい風が時折吹き抜ける駅前は、どこか寂しげな静けさに包まれている。
「菊乃ちゃん!」
駅舎を出た瞬間、菊乃の名を呼ぶ声が聞こえた。顔を向けると、そこには魁燿亭の女将が立っていた。
「女将さん……!」
菊乃は声を上ずらせ、小走りで駆け寄った。女将に強く抱きしめられると、その腕の温もりに、堪えていたものが一気に解けた。
「怖かったでしょうに……!よく、よく無事で帰ってきてくれた……っ」
その言葉が胸に響いて、菊乃の目に自然と涙が滲んだ。旭川で何があったのか、きっと鯉登から聞いていたのだろう。
ふと女将の背後を見ると、料亭の仲居が二頭の馬を連れて立っていた。薄明かりの下で、馬たちの毛並みがかすかに光っている。
「移動に使いたいって頼まれていた馬だよ」
と女将が言った。アイヌの集落までは馬で移動すると、列車の中で鯉登が言っていたのを思い出す。
「女将さん、ありが……ん?」
礼を言いかけたその瞬間、女将が菊乃の脇を通り過ぎた。次いで、バチン!──という鋭く乾いた音が聞こえて、
「おっ、女将さん!?なん、な、何してるんですか!?」
驚いて振り向くと、女将が鯉登の頬を思いきり平手打ちしていた。菊乃は目を見開き、慌てて駆け寄ろうとすると、
「いいんだ、菊乃」
頬を赤く腫らした鯉登が、静かに言った。
「えっ……?」
状況が飲み込めていない菊乃が固まる中、気づけば鯉登が深々と頭を下げていて、
「再び菊乃さんを傷つけてしまったのは、全て私の不徳の致すところです。本当に、申し訳ありませんでした」
気づけば、鯉登の後方に控えていた月島もそれに倣うように頭を下げている。
「……ち、違います!女将さん!鯉登さんは私を」
「あなた方の内輪揉めなど知ったことではありません」
女将の声が、その場の空気を切り裂いた。それは、静かながら決して逆らえぬ気を帯びている。
「これ以上この子を不幸にするのなら、次はこんなものでは済まないと肝に銘じておきなさい」
女将が静かに激昂するときは本気の時、と菊乃は知っている。いつか客筋の悪い男が店で暴れたときも、笑みを絶やさぬまま、最後は包丁を突きつけた──その時の空気と、全く同じだ。
「必ず、菊乃さんを無事にお返しすると約束します」
鯉登のその言葉で、張りつめていた空気にようやく僅かな緩みが生まれた。女将は一つ息をつき、不意に菊乃の方へと振り返る。
「菊乃ちゃん」
「は、はいっ!」
まるで叱られた子供のように、菊乃は反射的に返事をした。
「辛くなったら、いつでも連絡寄こしなさい。すぐ迎えに行きますからね」
そして、女将はにっこり笑って、
「銃器を一層して、どんな武装勢力も一網打尽だから、安心なさいな」
冗談とも本気ともつかぬ口調でそう続けた。
「はい……ありがとう、ございま、す」
そう答えながら、女将へ引き攣るような笑みを返した。
ふと鯉登たちを見ると、頭を下げたまま微動だにしない。菊乃は慌てて彼らに駆け寄った。
「鯉登さん、もう顔上げて……月島さんも」
そっと鯉登の肩に触れると、二人がようやく静かに上体を起こした。赤く腫らした鯉登の頬が痛々しく、菊乃は思わず手を伸ばして撫でた。
びくりと、彼の肩が小さく震える。
「菊乃ちゃん、これを」
振り返ると、女将が濡れた手拭いを差し出していた。
「女将さん、まさか……最初からそのつもりで……」
「一発殴りでもしなければ、気が済みませんからね」
にこやかに言い放つ女将に、菊乃は複雑な表情を浮かべた。
受け取った手拭いを、鯉登の頬に当てた。すると、その菊乃の手を彼の掌が不意に包んできて、
「えっ、あ……っ」
目を閉じた鯉登は、何も言うことなくそのままじっとしている。手に伝わる温もりに、鼓動が強く打つ。どうしたらいいのか分からず、菊乃はただ戸惑って視線を彷徨わせた。
「鯉登少尉殿、そろそろ」
月島の声が、二人の間に静かに差し込まれた。
「……ああ、行こう」
鯉登の瞼が開き、手が離れると彼は馬の方へと向かっていった。その姿を目で追いながら菊乃は手拭いを降ろし、その余韻に小さく息を呑んだ。
馬に乗ったのは、幼い頃に一度だけ。菊乃はやや緊張しながら、鯉登の支えで馬の背に横乗りになると、手近にあったたてがみにそっと触れてみた。想像していたよりずっと柔らかであたたかく、ふわふわしていてなめらかだった。無意識に撫で続けていると、馬の後方に鯉登が乗ってきて、菊乃が驚き振り向くと、
「ひぁッ」
予想以上の近さに思わず変な声が漏れてしまい、菊乃は慌てて口を押さえた。
「大丈夫か?」
その問いに、二度頷いて返す。声を出せばまた変な音が出そうで、口を開けない。
「女将。馬は明日の早朝までに返しにいく」
「ええ。菊乃のこと、よろしくお願いいたします」
女将の声に、鯉登は短く一つ頷いた。
馬蹄の音が、薄闇に吸い込まれてゆくように鳴り響く。月島の乗る馬と並び、小樽の街はずれから続く森の奥へと歩みを進めた。
菊乃は、半身に感じるぬくもりに高鳴る鼓動を抑えるように、深呼吸をひとつつく。先の見えない道のりへ、けれど不思議と心は軽く、まっすぐ行く先を見据えた。
移動が決まると、偕行社にはあえて戻らず怒涛の勢いで病院を出た。
──昼に立つ列車に三人で飛び乗ってから数時間。列車に揺られながら、菊乃は車窓から見える景色を静かに眺めていた。湿った土と新緑の香りが窓の隙間から微かに入り込む。流れる風景は、どこか遠い世界のもののように見えた。
旭川へ向かっていたあのとき、胸の奥は少しの緊張で満ちていて、着いてみれば新しい世界に心が踊ることもあった。
しかし、今は違う。脳が飽和したように重たく、まともに思考することもままならない。今はただ、流れゆく景色に目を預けるだけだ。
鯉登から語られた言葉の数々は、菊乃がすんなりと飲み込める範疇を超えていた。彼らが叛旗を翻し、独自の軍事政権樹立を目論んでいたなどと、いったい誰が信じようか──。旭川へ赴く前の菊乃であれば、間違いなくそう思った。
理想を掲げ犠牲も厭わず進んだ彼らのやり方に、完全な是認はできない。けれど、間違っているとも言い切れない。そう思える自分がいることに、菊乃は小さく戸惑っていた。
「……菊乃、寝ていてもいいぞ。到着は夜だ」
不意にかけられた声に、はっと我に返る。隣に座る鯉登が、気遣わしげな表情で見つめていた。向かいに座る月島も、黙ってその視線を向けてくる。
「はい……」
僅かに掠れた声で答えながら、菊乃は再び視線を窓の外へ戻した。列車の音だけが、一定の拍子を刻んでいる。
「……私、鶴見さんにいろんなことを教わりました」
ぽつりとこぼれた言葉に、ふたりの視線が車窓を見る菊乃へと向けられた。
「本を読んだだけじゃ分からないことも、聞けば全部答えてくれた。……私、本当はずっと不安だった。ここにいていいのか分からなくなって、一人前の芸者でいることで認められるって思って過ごしてきました。でも昔は失敗ばかりして……それでも『大丈夫』って言って鶴見さんはずっと傍にいてくれた」
懐かしさと痛みの混じるような声音で、菊乃は小さく息を吐いた。
「本当の気持ちを言ってもいいんだって、鶴見さんが教えてくれたんです」
それまで伏せていた顔を上げた菊乃は、月島と鯉登どちらにも視線を向けた。
「戦争のこと、少しだけ話してくれたことがありました。『どうして、たくさんの人が傷つくのに、戦争はなくならないのか』って……私、聞いたんです」
そう言うと、一拍の沈黙が落ちた。菊乃は静かに記憶を探るように目を伏せる。
「『人は守りたいもののため、正義を貫こうと必死になるものだから』って……その言葉が、ずっと胸に残ってる」
その言葉を反芻するように、菊乃はそっと目を閉じた。
そして、思いを噛みしめるように、菊乃は鯉登を正面から見据えて、
「鶴見さんの正義がすべて正しかったとは思っていません。でも……今の私があるのは、鶴見さんの正義があったからで、私はそれに生かされた……だから、私も一緒に背負っていきたい」
その一言に、空気が張りつめた。鯉登と月島、ふたりが同時に小さく息を呑む。
「鶴見中尉や私たちがやってきたことと、菊乃は関係が──!」
思わず言いかけた鯉登に、菊乃はかぶりを振って制した。
「私は、鶴見篤四郎の娘ですから」
目を瞠り固まる二人に構わず、菊乃は真剣な眼差しを逸らさない。
「彼女にも、そうお伝えするつもりです」
「菊乃、私はそういうつもりで」
鯉登が何かを言いかけると、菊乃は柔らかく、それでいてしっかりとした口調で、
「分かっています。これはただ……あの人の娘でいたいという、私の我儘なんです」
そうでなければ、自分はただ守られるばかりで、鯉登と月島だけ矢面に立たせてしまう。それは、違うと思った。自分にも、果たさなければならない役目がある──。
「女の子が、無事に帰っているといいな……」
ぽつりとそう呟いて、菊乃は再び窓の向こうに目をやった。
西の空で、少しずつ太陽が傾いてゆく。どこか切なく、美しい色をしていた。
──小樽駅に着いた頃には、陽がすっかり落ち、街灯がぼんやりと道を照らし始めていた。歩いている人の姿はまばらで、冷たい風が時折吹き抜ける駅前は、どこか寂しげな静けさに包まれている。
「菊乃ちゃん!」
駅舎を出た瞬間、菊乃の名を呼ぶ声が聞こえた。顔を向けると、そこには魁燿亭の女将が立っていた。
「女将さん……!」
菊乃は声を上ずらせ、小走りで駆け寄った。女将に強く抱きしめられると、その腕の温もりに、堪えていたものが一気に解けた。
「怖かったでしょうに……!よく、よく無事で帰ってきてくれた……っ」
その言葉が胸に響いて、菊乃の目に自然と涙が滲んだ。旭川で何があったのか、きっと鯉登から聞いていたのだろう。
ふと女将の背後を見ると、料亭の仲居が二頭の馬を連れて立っていた。薄明かりの下で、馬たちの毛並みがかすかに光っている。
「移動に使いたいって頼まれていた馬だよ」
と女将が言った。アイヌの集落までは馬で移動すると、列車の中で鯉登が言っていたのを思い出す。
「女将さん、ありが……ん?」
礼を言いかけたその瞬間、女将が菊乃の脇を通り過ぎた。次いで、バチン!──という鋭く乾いた音が聞こえて、
「おっ、女将さん!?なん、な、何してるんですか!?」
驚いて振り向くと、女将が鯉登の頬を思いきり平手打ちしていた。菊乃は目を見開き、慌てて駆け寄ろうとすると、
「いいんだ、菊乃」
頬を赤く腫らした鯉登が、静かに言った。
「えっ……?」
状況が飲み込めていない菊乃が固まる中、気づけば鯉登が深々と頭を下げていて、
「再び菊乃さんを傷つけてしまったのは、全て私の不徳の致すところです。本当に、申し訳ありませんでした」
気づけば、鯉登の後方に控えていた月島もそれに倣うように頭を下げている。
「……ち、違います!女将さん!鯉登さんは私を」
「あなた方の内輪揉めなど知ったことではありません」
女将の声が、その場の空気を切り裂いた。それは、静かながら決して逆らえぬ気を帯びている。
「これ以上この子を不幸にするのなら、次はこんなものでは済まないと肝に銘じておきなさい」
女将が静かに激昂するときは本気の時、と菊乃は知っている。いつか客筋の悪い男が店で暴れたときも、笑みを絶やさぬまま、最後は包丁を突きつけた──その時の空気と、全く同じだ。
「必ず、菊乃さんを無事にお返しすると約束します」
鯉登のその言葉で、張りつめていた空気にようやく僅かな緩みが生まれた。女将は一つ息をつき、不意に菊乃の方へと振り返る。
「菊乃ちゃん」
「は、はいっ!」
まるで叱られた子供のように、菊乃は反射的に返事をした。
「辛くなったら、いつでも連絡寄こしなさい。すぐ迎えに行きますからね」
そして、女将はにっこり笑って、
「銃器を一層して、どんな武装勢力も一網打尽だから、安心なさいな」
冗談とも本気ともつかぬ口調でそう続けた。
「はい……ありがとう、ございま、す」
そう答えながら、女将へ引き攣るような笑みを返した。
ふと鯉登たちを見ると、頭を下げたまま微動だにしない。菊乃は慌てて彼らに駆け寄った。
「鯉登さん、もう顔上げて……月島さんも」
そっと鯉登の肩に触れると、二人がようやく静かに上体を起こした。赤く腫らした鯉登の頬が痛々しく、菊乃は思わず手を伸ばして撫でた。
びくりと、彼の肩が小さく震える。
「菊乃ちゃん、これを」
振り返ると、女将が濡れた手拭いを差し出していた。
「女将さん、まさか……最初からそのつもりで……」
「一発殴りでもしなければ、気が済みませんからね」
にこやかに言い放つ女将に、菊乃は複雑な表情を浮かべた。
受け取った手拭いを、鯉登の頬に当てた。すると、その菊乃の手を彼の掌が不意に包んできて、
「えっ、あ……っ」
目を閉じた鯉登は、何も言うことなくそのままじっとしている。手に伝わる温もりに、鼓動が強く打つ。どうしたらいいのか分からず、菊乃はただ戸惑って視線を彷徨わせた。
「鯉登少尉殿、そろそろ」
月島の声が、二人の間に静かに差し込まれた。
「……ああ、行こう」
鯉登の瞼が開き、手が離れると彼は馬の方へと向かっていった。その姿を目で追いながら菊乃は手拭いを降ろし、その余韻に小さく息を呑んだ。
馬に乗ったのは、幼い頃に一度だけ。菊乃はやや緊張しながら、鯉登の支えで馬の背に横乗りになると、手近にあったたてがみにそっと触れてみた。想像していたよりずっと柔らかであたたかく、ふわふわしていてなめらかだった。無意識に撫で続けていると、馬の後方に鯉登が乗ってきて、菊乃が驚き振り向くと、
「ひぁッ」
予想以上の近さに思わず変な声が漏れてしまい、菊乃は慌てて口を押さえた。
「大丈夫か?」
その問いに、二度頷いて返す。声を出せばまた変な音が出そうで、口を開けない。
「女将。馬は明日の早朝までに返しにいく」
「ええ。菊乃のこと、よろしくお願いいたします」
女将の声に、鯉登は短く一つ頷いた。
馬蹄の音が、薄闇に吸い込まれてゆくように鳴り響く。月島の乗る馬と並び、小樽の街はずれから続く森の奥へと歩みを進めた。
菊乃は、半身に感じるぬくもりに高鳴る鼓動を抑えるように、深呼吸をひとつつく。先の見えない道のりへ、けれど不思議と心は軽く、まっすぐ行く先を見据えた。
