本編
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罠(三)
借りた病院の一室で、鯉登と月島、そしてその向かいに菊乃が座った。
「大澤は、陸軍省──我々は“中央”と呼んでいるが、そこにいる何者かの指示でお前を拉致しようとした」
静かな口調。だがそこには怒りが満ちていた。菊乃は一拍置いて、そっと頷く。
「私にも、そう、言ってました……でもどうして……?軍を統括するところでしょう?何のためにあんなこと……」
「すまない。まだそこまで突き止められていない」
鯉登は視線を伏せ、膝の上で拳を固く握った。悔しさと無力さが滲む。大澤は、指示した人物の名をついに明かさなかったという。
「大澤は、妹の治療費と引き換えに今回の依頼を引き受けたそうです」
月島の静かな声が部屋に落ちた。菊乃の顔が哀しみに歪む。前に大澤が言っていた、病で伏せている妹のことだ。
「大澤さん……」
その姿が、頭の中で重なる。大人しく従ってくれと何度も言った彼の言葉の裏に、どれほどの苦しみと葛藤が隠されていたのかようやく理解できた。彼は、愛する家族を人質に取られていたのだ。そうして今も、縛られ続けている──。
「だからといって、あいつのやったことが許される訳じゃない。相応の処分は受けてもらう」
鯉登が言い放ったその厳しい言葉に、菊乃は強く反応した。
「っま、待ってください!」
まさか殺しはしないだろうが、兵を辞めさせられたら──それだけは、止めたかった。彼が守ろうとした家族のためにも。
「私、確かに縛られたり脅されたりもしました。でも今はもう何ともないんです!だから……!」
「……菊乃……」
眉根を寄せる鯉登の声に、菊乃は目を伏せて小さく頭を下げた。
「お願い……私、もう大澤さんのこと、許してますから……」
沈黙が落ちる。それは、重く、長かった。
やがて、鯉登が低く深く息を吐く。
「……分かった。お前の気持ちも考慮する」
その答えに、菊乃は安堵の笑みをこぼしそっと胸をなでおろした。
「──本題はここからだ」
ほっとしたのもつかの間、正面に座る鯉登の眼差しがいつになく鋭く厳しい。その視線に、菊乃の背筋が強張った。
「お前を、別の場所に移す」
「……移、す?」
その意味をすぐには理解できなくて、菊乃は目を瞬いた。
偕行社では安全が保てないから──そういう理由なのかと考え至る。
「えっと……別の建物に、ということですか?」
「いや……小樽だ」
故郷の名前を耳にして、菊乃は苦悶の表情を浮かべた。致し方ないにしても、こんなかたちで帰されるなんて──。
「では、魁燿亭に……」
「いや、あそこではまた同じことが起きかねん」
鯉登のきっぱりとした言葉に、菊乃は戸惑った。なら一体、どこに行けというのだろう。
「あ、あの……小樽の何処に?」
妙にもったいぶる鯉登に、菊乃はじれったくなる。早く、言って。と逸る気持ちが顔に出た。
「アイヌの集落だ」
「…………へ?」
微塵も想定していなかった答えが返ってきて、緊張感漂うこの場に似合わない間の抜けた声が漏れた。
「そこで、お前の身を隠す」
冗談だと思った。相変わらず真剣な目を向ける鯉登に、何か試されているのではないか──菊乃は言葉を失い、ついそんなことを勘ぐってしまった。
🎏side story🌙
──「……月島も、いるのか?」
どう答えるのが正解だったのか、正直なところ月島にも分からなかった。ただ一つ言えるのは、鯉登が過去ではなく、変わらず今の自分を見ようとしてくれていることが救いだった。
鯉登は、妙なところで人の核心に踏み込んでくるところがある。まっすぐと。周囲の感情には敏感なくせに、惚れた女相手だと意気地がなくなるのはなんなのか──。月島が心の中で独り言ちる。
先程の例え話。はじめは本当にただの仮定の話のつもりだった。それが、進めるに従って不思議と現実味を帯びていって、月島自身も驚いた。
「案外、核心をついていたかもしれん」
花柳界を生きる菊乃なら、自分と相手の立場を痛いほど理解しているはずだから。
ふ、と小さく鼻を鳴らし、月島は立ち上がった。軍服の釦を留め軍帽を被ると、訓練へと向かう。
道中、ふと一人の兵が視界に入る。見覚えのある背中は、田島だった。
「田島!今日は偕行社だろう。ここで何をしている!」
鬼軍曹の怒声に、田島はビクリと肩を揺らし、慌てて敬礼した。
「ぐ、軍曹殿!それが、今日は急遽見張りの交代があると言われまして!」
聞き覚えのない話に、月島の眉がぴくりと動いた。
「誰に言われた?」
「お、大澤上等兵です!」
その名を聞いた瞬間、月島の眉間に深く皺が寄る。
「お前の代わりに立った奴は?」
「そ、それが……自分、腹の調子が悪く、そいつが到着する前に慌てて厠へ行ったので……。誰かも聞きそびれまして」
鬼軍曹の喝が一発飛ぶところだが、それどころではなかった。
本当に交代が行われるのならば、自分に話が通っていないのはおかしい──。その不審な動きに警鐘が鳴る。嫌な予感がした。
「田島。暇そうなやつ二、三人連れて偕行社へ来い!」
ただならぬ気配に田島が慌てて「は、はいっ!」と返すと、月島は拳銃を掴み偕行社へと走った。重く地を打つ軍靴の音の中、胸のざわめきが一層強くなっていった。
***
──大澤は、概ね尋問には素直に応じた。しかし、肝心の黒幕の名についてだけは、どれだけ揺さぶりをかけても頑として口を噤んだ。
「まだかかりそうか」
鯉登が問うた声には、焦燥が滲む。
「恐らく」
月島が静かに答えるのを聞きながら、鯉登は内心で舌打ちする。
時間などかけていられない。大澤の背後にいるそれが、すぐ次の一手を打ってくる可能性は高かった。動くなら、先手でなければならない。
大澤の拘束については、極秘裏に進められていた。黒幕が中央内部に存在すると判明した今、下手に事を荒立ててはこちらが動きにくくなる。それだけは避けなければならなかった。
「菊乃を旭川で保護するよう指示したのも……ッ」
そう言って、鯉登は苦々しく奥歯を噛みしめた。中央の動きに違和感は抱いていた。それなのに──そんな悔しさも混じる。
「中佐殿が何かご存じでは?」
月島が問うと、鯉登は首を横に振る。
「いや、直接連絡を寄こしたのは官房の秘書官だったらしい。石本中将や坂下少将などの名を出し、それらの代理人だと言って」
「ちなみに、その代理を名乗った秘書官は……」
「在籍していない。偽物だ」
その言葉に、月島は深く息を吐いた。
回りくどいやり方で、こちらの動きを淡々と窺い見ていたのか──まるで、全てお見通しとでも言うかのように。
「……ここに、菊乃を置いてはおけない」
鯉登の声が、静かに落ちた。その瞳は、怒りとやるせなさで揺れる。
「しかし……それすら向こうの思惑通りだとしたら」
互いに、言葉を飲み込む。大澤のような内通者が他にいないとも限らない。
敵の裏をかく何かが必要だった。
「……ひとつ……当てがある」
鯉登の口から絞り出されたその言葉に、月島は反射的に視線を向けた。
だが、鯉登の表情には確信というより僅かな迷いと不安が覗く。
「小樽……アイヌの集落だ」
その一言で、月島は息を呑んだ。二の句が継げず、やっと出た声は苦渋に満ちる。
「本気で仰ってるんですか……?」
「無論だ。今はこれしか思いつかん」
「しかし……!」
「行ってみる、価値はある……!」
語気を強めて鯉登は言った。
国家転覆を企て、その資金源とすべく鶴見が27聯隊を率いて狙ったアイヌの金塊。鯉登も月島も、彼の元で戦った、金塊争奪戦。
その渦中にいた少女が暮らしていた集落が小樽にある。今更、協力を仰ぐなどと推察される可能性は低い。鯉登はそう判断した。
「アシㇼパ……遺体は見つかっていなかったな」
「……生きていれば、集落に帰っているでしょうね」
追い返される可能性は十分にある。それは、一か八かの賭けだった。
各々の中で渦巻く感情が、沈黙の中で静かに交わされる。
「病院で私から菊乃に話す。私たちが行ってきたことも伝えたうえで……移動を開始する」
鯉登の鋭い眼光が、強い決意を物語っていた。
月島が瞼を伏せ、やがて、
「分かりました」
視線を上げて放ったその短い言葉に、全てを受け入れる覚悟が込められていた。
借りた病院の一室で、鯉登と月島、そしてその向かいに菊乃が座った。
「大澤は、陸軍省──我々は“中央”と呼んでいるが、そこにいる何者かの指示でお前を拉致しようとした」
静かな口調。だがそこには怒りが満ちていた。菊乃は一拍置いて、そっと頷く。
「私にも、そう、言ってました……でもどうして……?軍を統括するところでしょう?何のためにあんなこと……」
「すまない。まだそこまで突き止められていない」
鯉登は視線を伏せ、膝の上で拳を固く握った。悔しさと無力さが滲む。大澤は、指示した人物の名をついに明かさなかったという。
「大澤は、妹の治療費と引き換えに今回の依頼を引き受けたそうです」
月島の静かな声が部屋に落ちた。菊乃の顔が哀しみに歪む。前に大澤が言っていた、病で伏せている妹のことだ。
「大澤さん……」
その姿が、頭の中で重なる。大人しく従ってくれと何度も言った彼の言葉の裏に、どれほどの苦しみと葛藤が隠されていたのかようやく理解できた。彼は、愛する家族を人質に取られていたのだ。そうして今も、縛られ続けている──。
「だからといって、あいつのやったことが許される訳じゃない。相応の処分は受けてもらう」
鯉登が言い放ったその厳しい言葉に、菊乃は強く反応した。
「っま、待ってください!」
まさか殺しはしないだろうが、兵を辞めさせられたら──それだけは、止めたかった。彼が守ろうとした家族のためにも。
「私、確かに縛られたり脅されたりもしました。でも今はもう何ともないんです!だから……!」
「……菊乃……」
眉根を寄せる鯉登の声に、菊乃は目を伏せて小さく頭を下げた。
「お願い……私、もう大澤さんのこと、許してますから……」
沈黙が落ちる。それは、重く、長かった。
やがて、鯉登が低く深く息を吐く。
「……分かった。お前の気持ちも考慮する」
その答えに、菊乃は安堵の笑みをこぼしそっと胸をなでおろした。
「──本題はここからだ」
ほっとしたのもつかの間、正面に座る鯉登の眼差しがいつになく鋭く厳しい。その視線に、菊乃の背筋が強張った。
「お前を、別の場所に移す」
「……移、す?」
その意味をすぐには理解できなくて、菊乃は目を瞬いた。
偕行社では安全が保てないから──そういう理由なのかと考え至る。
「えっと……別の建物に、ということですか?」
「いや……小樽だ」
故郷の名前を耳にして、菊乃は苦悶の表情を浮かべた。致し方ないにしても、こんなかたちで帰されるなんて──。
「では、魁燿亭に……」
「いや、あそこではまた同じことが起きかねん」
鯉登のきっぱりとした言葉に、菊乃は戸惑った。なら一体、どこに行けというのだろう。
「あ、あの……小樽の何処に?」
妙にもったいぶる鯉登に、菊乃はじれったくなる。早く、言って。と逸る気持ちが顔に出た。
「アイヌの集落だ」
「…………へ?」
微塵も想定していなかった答えが返ってきて、緊張感漂うこの場に似合わない間の抜けた声が漏れた。
「そこで、お前の身を隠す」
冗談だと思った。相変わらず真剣な目を向ける鯉登に、何か試されているのではないか──菊乃は言葉を失い、ついそんなことを勘ぐってしまった。
🎏side story🌙
──「……月島も、いるのか?」
どう答えるのが正解だったのか、正直なところ月島にも分からなかった。ただ一つ言えるのは、鯉登が過去ではなく、変わらず今の自分を見ようとしてくれていることが救いだった。
鯉登は、妙なところで人の核心に踏み込んでくるところがある。まっすぐと。周囲の感情には敏感なくせに、惚れた女相手だと意気地がなくなるのはなんなのか──。月島が心の中で独り言ちる。
先程の例え話。はじめは本当にただの仮定の話のつもりだった。それが、進めるに従って不思議と現実味を帯びていって、月島自身も驚いた。
「案外、核心をついていたかもしれん」
花柳界を生きる菊乃なら、自分と相手の立場を痛いほど理解しているはずだから。
ふ、と小さく鼻を鳴らし、月島は立ち上がった。軍服の釦を留め軍帽を被ると、訓練へと向かう。
道中、ふと一人の兵が視界に入る。見覚えのある背中は、田島だった。
「田島!今日は偕行社だろう。ここで何をしている!」
鬼軍曹の怒声に、田島はビクリと肩を揺らし、慌てて敬礼した。
「ぐ、軍曹殿!それが、今日は急遽見張りの交代があると言われまして!」
聞き覚えのない話に、月島の眉がぴくりと動いた。
「誰に言われた?」
「お、大澤上等兵です!」
その名を聞いた瞬間、月島の眉間に深く皺が寄る。
「お前の代わりに立った奴は?」
「そ、それが……自分、腹の調子が悪く、そいつが到着する前に慌てて厠へ行ったので……。誰かも聞きそびれまして」
鬼軍曹の喝が一発飛ぶところだが、それどころではなかった。
本当に交代が行われるのならば、自分に話が通っていないのはおかしい──。その不審な動きに警鐘が鳴る。嫌な予感がした。
「田島。暇そうなやつ二、三人連れて偕行社へ来い!」
ただならぬ気配に田島が慌てて「は、はいっ!」と返すと、月島は拳銃を掴み偕行社へと走った。重く地を打つ軍靴の音の中、胸のざわめきが一層強くなっていった。
***
──大澤は、概ね尋問には素直に応じた。しかし、肝心の黒幕の名についてだけは、どれだけ揺さぶりをかけても頑として口を噤んだ。
「まだかかりそうか」
鯉登が問うた声には、焦燥が滲む。
「恐らく」
月島が静かに答えるのを聞きながら、鯉登は内心で舌打ちする。
時間などかけていられない。大澤の背後にいるそれが、すぐ次の一手を打ってくる可能性は高かった。動くなら、先手でなければならない。
大澤の拘束については、極秘裏に進められていた。黒幕が中央内部に存在すると判明した今、下手に事を荒立ててはこちらが動きにくくなる。それだけは避けなければならなかった。
「菊乃を旭川で保護するよう指示したのも……ッ」
そう言って、鯉登は苦々しく奥歯を噛みしめた。中央の動きに違和感は抱いていた。それなのに──そんな悔しさも混じる。
「中佐殿が何かご存じでは?」
月島が問うと、鯉登は首を横に振る。
「いや、直接連絡を寄こしたのは官房の秘書官だったらしい。石本中将や坂下少将などの名を出し、それらの代理人だと言って」
「ちなみに、その代理を名乗った秘書官は……」
「在籍していない。偽物だ」
その言葉に、月島は深く息を吐いた。
回りくどいやり方で、こちらの動きを淡々と窺い見ていたのか──まるで、全てお見通しとでも言うかのように。
「……ここに、菊乃を置いてはおけない」
鯉登の声が、静かに落ちた。その瞳は、怒りとやるせなさで揺れる。
「しかし……それすら向こうの思惑通りだとしたら」
互いに、言葉を飲み込む。大澤のような内通者が他にいないとも限らない。
敵の裏をかく何かが必要だった。
「……ひとつ……当てがある」
鯉登の口から絞り出されたその言葉に、月島は反射的に視線を向けた。
だが、鯉登の表情には確信というより僅かな迷いと不安が覗く。
「小樽……アイヌの集落だ」
その一言で、月島は息を呑んだ。二の句が継げず、やっと出た声は苦渋に満ちる。
「本気で仰ってるんですか……?」
「無論だ。今はこれしか思いつかん」
「しかし……!」
「行ってみる、価値はある……!」
語気を強めて鯉登は言った。
国家転覆を企て、その資金源とすべく鶴見が27聯隊を率いて狙ったアイヌの金塊。鯉登も月島も、彼の元で戦った、金塊争奪戦。
その渦中にいた少女が暮らしていた集落が小樽にある。今更、協力を仰ぐなどと推察される可能性は低い。鯉登はそう判断した。
「アシㇼパ……遺体は見つかっていなかったな」
「……生きていれば、集落に帰っているでしょうね」
追い返される可能性は十分にある。それは、一か八かの賭けだった。
各々の中で渦巻く感情が、沈黙の中で静かに交わされる。
「病院で私から菊乃に話す。私たちが行ってきたことも伝えたうえで……移動を開始する」
鯉登の鋭い眼光が、強い決意を物語っていた。
月島が瞼を伏せ、やがて、
「分かりました」
視線を上げて放ったその短い言葉に、全てを受け入れる覚悟が込められていた。
