本編
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罠(二)
菊乃は、衛戍 病院に連れてこられた。
身体のあちこちに小さな痣ができていたが、どれも大したものではなく、押し倒された際に打った胸に多少の痛みが残る程度だった。幸い骨に異常はなく、医師の診断に安堵した。
今は、治療室の寝台に横たわっている。静かな空間に包まれても眠気は訪れず、菊乃はただ、先ほどの出来事を反芻していた。
大澤は、月島たちに拘束、そのまま連行された。彼はこれからどうなるのだろう──。あれほど酷いことをされたのに、憎み切れない自分がいた。切羽詰まった彼の声が、まだ耳の奥に残っている。
「もう後がない」──あの必死な声音は、まるで懺悔のようだった。
その時、扉がわずかに開き、廊下から低く話す声が聞こえてきた。
鯉登の声だった。軍医と何か話している。菊乃は身を起こし、布団を正して上体を整える。やがて仕切りの布がわずかに開かれ、鯉登と月島が姿を現した。
「気分はどうだ……?」
その問いに、菊乃はわずかに微笑んで頷いた。
「もう、平気です」
その言葉に、鯉登は小さく息を吐き、安堵の色を見せた。
だが、その表情はすぐに引き締まり、鋭く真剣な眼差しが向けられる。
「菊乃。話しがある……着いてきてくれるか」
ここでは話せないこと──その言葉に含まれる重みを察して、菊乃は黙って頷く。
軍医に礼を告げ、三人は治療室を後にした。
🎏side story🎏
朝から、将校の定例会議が開かれるはずだった。
会議場に足を運んだ鯉登が目にしたのは、まばらに集まっていた将校たちが、呆れた様子で散っていく光景だった。
一人を捕まえて尋ねると、曖昧に肩を竦めて「上の揉め事らしい」とだけ返ってきた。鯉登は内心で毒づいた。最近の軍部は、何かにつけて気が立っている、と。
そんなわけでぽっかり空いた時間。鯉登は兵舎の一角、下士官たちの部屋へと足を向けた。そこにいるであろう人物、月島の顔がふと浮かんだからだ。
戸を開けると、やはり彼はそこにいた。軍服の釦を開け、寝台に腰掛けたまま新聞をめくっている。無防備なようで、どこか隙のない空気をまとっていた。
「会議、どうしたんですか」
「中止だ。上でなんか揉めてるらしい」
そう言って鯉登は、勝手知ったる様子で部屋に入り、空いていた寝台にどさりと体を投げ出した。
「いや、それなら溜まってる仕事してください」
「……そんな気分じゃない」
鯉登は天井を仰いだ。そこに連なる木の板に、無意味な模様が浮かんで見えるのを目でなぞってみる。
ここのところ、まともに机に向かう気力が出なかった。書類に目を落とせば、頭の端にあの光景がちらつく。
──「ここまでで結構ですよ」
先日、偕行社へ向かう道すがら、菊乃は大澤が現れた後にそう言った。それまで自分だけを見ていた表情が、途端に遮断するような硬いものに変わったのを鯉登は思い出す。思わず唇を噛んだ。誰にでも分け隔てなく接する菊乃だが、最近は自分にだけ冷たい。それが悔しくて、哀しくて、どうしようもなく苛立たしかった。
鯉登が、無意識に寝台の上でじたばたと足を揺らしていると、
「ところで、鯉登少尉殿は菊乃さんのことをどうお思いですか?」
不意に飛んできた唐突な問いに、鯉登は跳ねるように体を起こした。月島を見れば、新聞をたたみ寝台の上で正座をしていて、冴え冴えとした眼差しがまっすぐ鯉登を射抜いている。
「な、なんだ藪から棒に」
「どうなんです?」
あまりに真剣な声色に、鯉登は面食らった。
「ど、どうって……質問が抽象的すぎるぞ」
「つまり、好きか否か。ですよ」
「好っ──!?」
鯉登は、咄嗟に声を上げかけて言葉が詰まる。耳まで熱くなるのが分かった。月島は淡々としたまま、動じる様子はない。
「す……す好っ、好、好ぅ……好……き、だけど……」
最後の言葉は、呆れるほど情けなく、しぼんで消えた。
それに構うことなく、月島は一つ頷く。
「よろしい。では、それは異性に対する好意ですか?」
「異……性……?」
「ひとりの女性として、慕っておられるのか──という意味です」
「きっ、今日はどうした?月島……お前がそんな色恋に興味がある男だとは思わなんだ」
「で、どうなんですか?」
「きぇっ」
月島の追及は鋭い。鯉登は狼狽え、言葉を探しては視線を泳がせた。
「そ、それは……」
正直良くわからなかった。これまでは、ただひたすら周囲に認めてもらおうと必死に勉強し、鍛錬に明け暮れる日々で浮いた話など皆無──そんな人生を送ってきた。結婚も親が決めるか関係者の縁で決まるものだろうと、どこか他人事にしか思えなかった。
「どうあれば……恋い慕う、と呼べるのだろうか……」
視線を落とし、弱々しく吐き出された問いだった。
「……菊乃さんと大澤の噂話、少尉殿はお聞きになっていますか?」
鯉登は言葉に詰まる。それは、兵舎内で最近囁かれている兵たちの戯れ事だった。
「……あぁ、まぁ」
「気にならないのですか?」
「当人たちが互いに想い合ってるのなら、別にいいのではないか……」
視線を逸らしながら口にしたその言葉に、自分でも納得できていないのは明らかだった。
胸の奥がきりりと痛み、落ち着かない。彼女が誰かに心奪われることを、素直に受け入れられない。鶴見との約束が結婚ではなかったと知った時、安堵したように。
「これは例えば、の話ですが……菊乃さんが少尉殿に好意を抱いていたとして」
「えっ!?」
反射的に声が裏返る。月島は「“例えば”、ですよ。いいですね?」と念を押してきたが、胸の高鳴りを抑えらず、
「う、うんっ」
鯉登は、“例えば”を何度も心の中で反芻する。
もしそうならば、菊乃の想いに応えた先には、笑顔があるのだろうか。心が通じ合ったと分かったとき、あの声がもう一段と柔らかく響くのだろうか──。想像するだけで、鯉登は胸が熱くなるのを止められなかった。
これを“恋”と呼べばいいのか──そう思った矢先。
「あなたとの身分差を理由に、その好意に否定的な感情を抱くとは思いませんか?」
一瞬で現実に引き戻される。幸福な幻想が崩れる音が耳の奥で響いた。身分という言葉が、鋭く胸を刺す。
考えた先で行き着く──菊乃が、芸者であることを。
「その想いが本気であればあるほど、自分の言動には慎重になるものです」
鯉登は何も言い返せなかった。これは例え話。それなのに、現実の彼女の姿と、不思議なほどぴたりと重なる。
「一度は忘れようと、優しく差し伸べられた別の手を取ってしまうことだってあるかもしれない」
鯉登はゴクリと唾を飲み込む。喉が渇き、その音がやけに大きく感じた。
「彼女の離れる心が名残惜しいというのなら、あるいは、“恋”と呼べるのかもしれませんね」
その一言は、鯉登の胸の深くに、すとん、と落ちた。
そして、月島を見る。その瞳はどこか遠くを見ていて、そこには言葉にできない感情の陰があった。
「……月島も、いるのか?そう思える相手が」
問うと、月島は僅かに目を伏せた。
「……まぁ、あなたより長く生きてますから」
いるのかいないのか、はたまたいた、ということか。先の言葉は言及しない。それは、どこか切なさを漂わせる曖昧な返答だった。
「そうか」
鯉登は、ぽつりとそう呟くと、寝台から立ち上がった。
「少尉殿。どちらへ?」
「菊乃のところだ」
躊躇いのない足取りで、廊下を進む。鯉登が兵舎の扉を開けた瞬間、外の風が頬を撫でた。
彼女に伝えなければ──。今はそれだけだった。
菊乃は、
身体のあちこちに小さな痣ができていたが、どれも大したものではなく、押し倒された際に打った胸に多少の痛みが残る程度だった。幸い骨に異常はなく、医師の診断に安堵した。
今は、治療室の寝台に横たわっている。静かな空間に包まれても眠気は訪れず、菊乃はただ、先ほどの出来事を反芻していた。
大澤は、月島たちに拘束、そのまま連行された。彼はこれからどうなるのだろう──。あれほど酷いことをされたのに、憎み切れない自分がいた。切羽詰まった彼の声が、まだ耳の奥に残っている。
「もう後がない」──あの必死な声音は、まるで懺悔のようだった。
その時、扉がわずかに開き、廊下から低く話す声が聞こえてきた。
鯉登の声だった。軍医と何か話している。菊乃は身を起こし、布団を正して上体を整える。やがて仕切りの布がわずかに開かれ、鯉登と月島が姿を現した。
「気分はどうだ……?」
その問いに、菊乃はわずかに微笑んで頷いた。
「もう、平気です」
その言葉に、鯉登は小さく息を吐き、安堵の色を見せた。
だが、その表情はすぐに引き締まり、鋭く真剣な眼差しが向けられる。
「菊乃。話しがある……着いてきてくれるか」
ここでは話せないこと──その言葉に含まれる重みを察して、菊乃は黙って頷く。
軍医に礼を告げ、三人は治療室を後にした。
🎏side story🎏
朝から、将校の定例会議が開かれるはずだった。
会議場に足を運んだ鯉登が目にしたのは、まばらに集まっていた将校たちが、呆れた様子で散っていく光景だった。
一人を捕まえて尋ねると、曖昧に肩を竦めて「上の揉め事らしい」とだけ返ってきた。鯉登は内心で毒づいた。最近の軍部は、何かにつけて気が立っている、と。
そんなわけでぽっかり空いた時間。鯉登は兵舎の一角、下士官たちの部屋へと足を向けた。そこにいるであろう人物、月島の顔がふと浮かんだからだ。
戸を開けると、やはり彼はそこにいた。軍服の釦を開け、寝台に腰掛けたまま新聞をめくっている。無防備なようで、どこか隙のない空気をまとっていた。
「会議、どうしたんですか」
「中止だ。上でなんか揉めてるらしい」
そう言って鯉登は、勝手知ったる様子で部屋に入り、空いていた寝台にどさりと体を投げ出した。
「いや、それなら溜まってる仕事してください」
「……そんな気分じゃない」
鯉登は天井を仰いだ。そこに連なる木の板に、無意味な模様が浮かんで見えるのを目でなぞってみる。
ここのところ、まともに机に向かう気力が出なかった。書類に目を落とせば、頭の端にあの光景がちらつく。
──「ここまでで結構ですよ」
先日、偕行社へ向かう道すがら、菊乃は大澤が現れた後にそう言った。それまで自分だけを見ていた表情が、途端に遮断するような硬いものに変わったのを鯉登は思い出す。思わず唇を噛んだ。誰にでも分け隔てなく接する菊乃だが、最近は自分にだけ冷たい。それが悔しくて、哀しくて、どうしようもなく苛立たしかった。
鯉登が、無意識に寝台の上でじたばたと足を揺らしていると、
「ところで、鯉登少尉殿は菊乃さんのことをどうお思いですか?」
不意に飛んできた唐突な問いに、鯉登は跳ねるように体を起こした。月島を見れば、新聞をたたみ寝台の上で正座をしていて、冴え冴えとした眼差しがまっすぐ鯉登を射抜いている。
「な、なんだ藪から棒に」
「どうなんです?」
あまりに真剣な声色に、鯉登は面食らった。
「ど、どうって……質問が抽象的すぎるぞ」
「つまり、好きか否か。ですよ」
「好っ──!?」
鯉登は、咄嗟に声を上げかけて言葉が詰まる。耳まで熱くなるのが分かった。月島は淡々としたまま、動じる様子はない。
「す……す好っ、好、好ぅ……好……き、だけど……」
最後の言葉は、呆れるほど情けなく、しぼんで消えた。
それに構うことなく、月島は一つ頷く。
「よろしい。では、それは異性に対する好意ですか?」
「異……性……?」
「ひとりの女性として、慕っておられるのか──という意味です」
「きっ、今日はどうした?月島……お前がそんな色恋に興味がある男だとは思わなんだ」
「で、どうなんですか?」
「きぇっ」
月島の追及は鋭い。鯉登は狼狽え、言葉を探しては視線を泳がせた。
「そ、それは……」
正直良くわからなかった。これまでは、ただひたすら周囲に認めてもらおうと必死に勉強し、鍛錬に明け暮れる日々で浮いた話など皆無──そんな人生を送ってきた。結婚も親が決めるか関係者の縁で決まるものだろうと、どこか他人事にしか思えなかった。
「どうあれば……恋い慕う、と呼べるのだろうか……」
視線を落とし、弱々しく吐き出された問いだった。
「……菊乃さんと大澤の噂話、少尉殿はお聞きになっていますか?」
鯉登は言葉に詰まる。それは、兵舎内で最近囁かれている兵たちの戯れ事だった。
「……あぁ、まぁ」
「気にならないのですか?」
「当人たちが互いに想い合ってるのなら、別にいいのではないか……」
視線を逸らしながら口にしたその言葉に、自分でも納得できていないのは明らかだった。
胸の奥がきりりと痛み、落ち着かない。彼女が誰かに心奪われることを、素直に受け入れられない。鶴見との約束が結婚ではなかったと知った時、安堵したように。
「これは例えば、の話ですが……菊乃さんが少尉殿に好意を抱いていたとして」
「えっ!?」
反射的に声が裏返る。月島は「“例えば”、ですよ。いいですね?」と念を押してきたが、胸の高鳴りを抑えらず、
「う、うんっ」
鯉登は、“例えば”を何度も心の中で反芻する。
もしそうならば、菊乃の想いに応えた先には、笑顔があるのだろうか。心が通じ合ったと分かったとき、あの声がもう一段と柔らかく響くのだろうか──。想像するだけで、鯉登は胸が熱くなるのを止められなかった。
これを“恋”と呼べばいいのか──そう思った矢先。
「あなたとの身分差を理由に、その好意に否定的な感情を抱くとは思いませんか?」
一瞬で現実に引き戻される。幸福な幻想が崩れる音が耳の奥で響いた。身分という言葉が、鋭く胸を刺す。
考えた先で行き着く──菊乃が、芸者であることを。
「その想いが本気であればあるほど、自分の言動には慎重になるものです」
鯉登は何も言い返せなかった。これは例え話。それなのに、現実の彼女の姿と、不思議なほどぴたりと重なる。
「一度は忘れようと、優しく差し伸べられた別の手を取ってしまうことだってあるかもしれない」
鯉登はゴクリと唾を飲み込む。喉が渇き、その音がやけに大きく感じた。
「彼女の離れる心が名残惜しいというのなら、あるいは、“恋”と呼べるのかもしれませんね」
その一言は、鯉登の胸の深くに、すとん、と落ちた。
そして、月島を見る。その瞳はどこか遠くを見ていて、そこには言葉にできない感情の陰があった。
「……月島も、いるのか?そう思える相手が」
問うと、月島は僅かに目を伏せた。
「……まぁ、あなたより長く生きてますから」
いるのかいないのか、はたまたいた、ということか。先の言葉は言及しない。それは、どこか切なさを漂わせる曖昧な返答だった。
「そうか」
鯉登は、ぽつりとそう呟くと、寝台から立ち上がった。
「少尉殿。どちらへ?」
「菊乃のところだ」
躊躇いのない足取りで、廊下を進む。鯉登が兵舎の扉を開けた瞬間、外の風が頬を撫でた。
彼女に伝えなければ──。今はそれだけだった。
