本編
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魁燿亭(二)
廊下には、冬の夜風がよく吹き込んだ。雪見障子から外を覗けば、庭の雪が月明かりに照らされてぼんやりと揺れている。
菊乃は、女将の指示で鯉登たちの客間を離れた。「すぐに戻ります」と告げて常連客のもとへと来たのだが、ひとつ問題が起きていた。
「菊乃ちゃん。どうしても俺の座敷に来てくれないのかい?」
「申し訳ありません。今夜は他のお客様のところに……」
「いいじゃないか。女将には俺から話付けるからさ」
軽く挨拶を済ますだけのはずが、足止めを食らっていた。
客の男に腕を掴まれ身動きが取れない。柔らかく断る声と絡むような言葉の応酬が続く。
男は、五十代ほどの恰幅の良い商人風で、所謂太客だった。その手には、不自然なまでに金色の指輪がいくつもはめられている。
「吉川様。申し訳ありませんが……」
菊乃の声は礼儀正しく柔らかい。それでも、手首を握る男の指は絡まって一向に離れる素振りも見せない。
「じゃあ、終わったあとならどうだ?家で美味いものを食わせてやろう」
「っあの」
ぐっと引かれた腕に、思わず息が詰まる。世間では、影で色を売る芸者もいるものだから、こういう誘いをしてくる客もたまにいた。しかし魁燿亭では、品格を損なう振る舞いはご法度だ。
「吉川様、いけません。また次の機会に――」
無礼があってはならないという教えが、身体に染みついていた。菊乃はやんわりと袖を引き戻そうとするが、相手の力は増すばかりだ。
「まあまあ、そう固いこと言うなよ。俺も独り身で寂しいんだ……」
吉川の顔が近づいてくる。酒臭い息が鼻を突き、菊乃は反射的に目を閉じた。
その瞬間、ドンッと激しく突くような床の軋む音がした。
「何だ?」
吉川が驚いたように振り返ると、そこには鯉登が立っていた。目元に薄く険が走り、その瞳はまっすぐに吉川を射抜いている。
「何をしている」
鯉登の言葉は低く静かで、有無を言わせぬ圧が込められていた。
「……誰だいあんた?」
「陸軍第七師団の鯉登だ」
そう言うと、吉川の顔色がわずかに変わる。しかし、怯む様子はない。むしろ酔いの勢いも手伝ってか、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「北鎮部隊様とはご立派なもんだが、ここは俺の贔屓の店でね。口出しされる筋合いはないよ」
吉川はそう言って掴む手に力を入れた。菊乃の表情が強張るのを見て、鯉登の眉間に深い皺が刻まれた。
「関係ないとは、よく言えたもんだ」
静かに一歩、鯉登が前に出る。その足音が床に響き、吉川は思わず身を竦めた。
「その手を放せ」
「な、なんだと?」
「聞こえなかったか。今すぐ、放せと言った」
鋭い視線が吉川を貫く。鯉登の声には微塵の揺らぎもない。端正な顔立ちの青年の面影は消え失せ、ただ冷徹な軍人の顔がそこにあった。
吉川は、暫くその眼差しに睨まれた後、渋々と手を離した。
「……ふん。偉そうに」
捨て台詞を吐き、吉川は大きく足音を鳴らしながら座敷へと戻っていった。
その姿を見送りほっとした菊乃は、掴まれた手首をさすりながら小さく頭を下げた。
「助かりました。鯉登さん」
「なに、当然のことだ」
そう言った鯉登の視線がふと、菊乃の華奢な手首へと落ちた。吉川に掴まれていたそこは、くっきり赤みを帯びている。その痕へ手が伸びかけ、慌てるように引っ込められた。
「……大丈夫か?」
「はい。お恥ずかしいところをお見せしました」
「恥ずかしいのはあの男の方だろう」
しかめっ面で苦々しく言い放つ鯉登の言葉に、菊乃はふっと微笑んだ。先ほどの緊張が少しだけ緩む。
「あの、どうしてこちらへ?」
「厠だ。帰る途中であのパヤパヤ頭の声が聞こえたんでな」
「パヤパヤ……?」
菊乃は首をかしげた。鯉登は時折、不意に訛りの強い言葉を放つ。同じ国の言葉とは思えないほどに難解で、その度に菊乃を悩ませた。
「知らんか?毛がまばらのハゲ散らかし頭、の様な意味だ」
鯉登はドヤ、と得意げな顔で説明した。どうやらそれは、彼の御国言葉というわけではなく、軍の間でよく使われるただの悪口だった。
「ふふ…っ!」
菊乃は、つい吉川の頭頂部を思い出し堪え切れずに噴き出した。声が響かないよう手を口元に当てて笑う。それでも漏れ出る笑い声に、鯉登は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情は和らいだ。彼の眼差しは、どこか安堵にも似た温もりが浮かび、頬は僅かに赤らんでいる。酒のせいか寒さのせいか――菊乃がそんな事を考えて暫し見つめていると、鯉登はふいに顔を逸らしてしまった。
「……もう行っど。月島が待っちょい」
「はい」
鯉登の言葉に、菊乃は静かに頷いた。すっと背筋を伸ばし、着物の裾を整え歩きやすいよう褄を取った。
廊下を歩き始める二人の姿は、どこか不思議な調和を見せていた。鯉登は少し前を歩きながらも、ちらちらと後ろを振り返る。足元の床が軽く軋む音と、菊乃の衣擦れの音が廊下に心地よく響いた。
暫くして、ふと菊乃が足を止め鯉登の背中に目を留めた。
たった一言、当たり前のように「当然だ」と言い放った彼の言葉に、自分でも驚くほど強い感動を覚えた。とても嬉しかった。
そっと目を細める。廊下は刺すように冷たい。それでも、もう少しだけこのまま歩いていられないだろうか――心の奥で思った。冬の夜気に触れるたび、彼と共有している時間を確かめられるような気がした。
「菊乃?」
鯉登が振り返った。洋灯の明かりに照らされたその横顔は、彼が軍人であることを忘れそうになるほどに優しく映る。
「急がんと、冷えるぞ」
少し先を歩いていた鯉登は、立ち止まって菊乃を待っていた。誰だってこの寒さは堪えるに決まっているのに、彼も同じように感じている事が、不謹慎にも嬉しかった。
「はい。すみません」
菊乃は微笑んで歩みを早める。鯉登の後ろに追いつくと、二人の影が再び重なり伸びていった。
廊下には、冬の夜風がよく吹き込んだ。雪見障子から外を覗けば、庭の雪が月明かりに照らされてぼんやりと揺れている。
菊乃は、女将の指示で鯉登たちの客間を離れた。「すぐに戻ります」と告げて常連客のもとへと来たのだが、ひとつ問題が起きていた。
「菊乃ちゃん。どうしても俺の座敷に来てくれないのかい?」
「申し訳ありません。今夜は他のお客様のところに……」
「いいじゃないか。女将には俺から話付けるからさ」
軽く挨拶を済ますだけのはずが、足止めを食らっていた。
客の男に腕を掴まれ身動きが取れない。柔らかく断る声と絡むような言葉の応酬が続く。
男は、五十代ほどの恰幅の良い商人風で、所謂太客だった。その手には、不自然なまでに金色の指輪がいくつもはめられている。
「吉川様。申し訳ありませんが……」
菊乃の声は礼儀正しく柔らかい。それでも、手首を握る男の指は絡まって一向に離れる素振りも見せない。
「じゃあ、終わったあとならどうだ?家で美味いものを食わせてやろう」
「っあの」
ぐっと引かれた腕に、思わず息が詰まる。世間では、影で色を売る芸者もいるものだから、こういう誘いをしてくる客もたまにいた。しかし魁燿亭では、品格を損なう振る舞いはご法度だ。
「吉川様、いけません。また次の機会に――」
無礼があってはならないという教えが、身体に染みついていた。菊乃はやんわりと袖を引き戻そうとするが、相手の力は増すばかりだ。
「まあまあ、そう固いこと言うなよ。俺も独り身で寂しいんだ……」
吉川の顔が近づいてくる。酒臭い息が鼻を突き、菊乃は反射的に目を閉じた。
その瞬間、ドンッと激しく突くような床の軋む音がした。
「何だ?」
吉川が驚いたように振り返ると、そこには鯉登が立っていた。目元に薄く険が走り、その瞳はまっすぐに吉川を射抜いている。
「何をしている」
鯉登の言葉は低く静かで、有無を言わせぬ圧が込められていた。
「……誰だいあんた?」
「陸軍第七師団の鯉登だ」
そう言うと、吉川の顔色がわずかに変わる。しかし、怯む様子はない。むしろ酔いの勢いも手伝ってか、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「北鎮部隊様とはご立派なもんだが、ここは俺の贔屓の店でね。口出しされる筋合いはないよ」
吉川はそう言って掴む手に力を入れた。菊乃の表情が強張るのを見て、鯉登の眉間に深い皺が刻まれた。
「関係ないとは、よく言えたもんだ」
静かに一歩、鯉登が前に出る。その足音が床に響き、吉川は思わず身を竦めた。
「その手を放せ」
「な、なんだと?」
「聞こえなかったか。今すぐ、放せと言った」
鋭い視線が吉川を貫く。鯉登の声には微塵の揺らぎもない。端正な顔立ちの青年の面影は消え失せ、ただ冷徹な軍人の顔がそこにあった。
吉川は、暫くその眼差しに睨まれた後、渋々と手を離した。
「……ふん。偉そうに」
捨て台詞を吐き、吉川は大きく足音を鳴らしながら座敷へと戻っていった。
その姿を見送りほっとした菊乃は、掴まれた手首をさすりながら小さく頭を下げた。
「助かりました。鯉登さん」
「なに、当然のことだ」
そう言った鯉登の視線がふと、菊乃の華奢な手首へと落ちた。吉川に掴まれていたそこは、くっきり赤みを帯びている。その痕へ手が伸びかけ、慌てるように引っ込められた。
「……大丈夫か?」
「はい。お恥ずかしいところをお見せしました」
「恥ずかしいのはあの男の方だろう」
しかめっ面で苦々しく言い放つ鯉登の言葉に、菊乃はふっと微笑んだ。先ほどの緊張が少しだけ緩む。
「あの、どうしてこちらへ?」
「厠だ。帰る途中であのパヤパヤ頭の声が聞こえたんでな」
「パヤパヤ……?」
菊乃は首をかしげた。鯉登は時折、不意に訛りの強い言葉を放つ。同じ国の言葉とは思えないほどに難解で、その度に菊乃を悩ませた。
「知らんか?毛がまばらのハゲ散らかし頭、の様な意味だ」
鯉登はドヤ、と得意げな顔で説明した。どうやらそれは、彼の御国言葉というわけではなく、軍の間でよく使われるただの悪口だった。
「ふふ…っ!」
菊乃は、つい吉川の頭頂部を思い出し堪え切れずに噴き出した。声が響かないよう手を口元に当てて笑う。それでも漏れ出る笑い声に、鯉登は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情は和らいだ。彼の眼差しは、どこか安堵にも似た温もりが浮かび、頬は僅かに赤らんでいる。酒のせいか寒さのせいか――菊乃がそんな事を考えて暫し見つめていると、鯉登はふいに顔を逸らしてしまった。
「……もう行っど。月島が待っちょい」
「はい」
鯉登の言葉に、菊乃は静かに頷いた。すっと背筋を伸ばし、着物の裾を整え歩きやすいよう褄を取った。
廊下を歩き始める二人の姿は、どこか不思議な調和を見せていた。鯉登は少し前を歩きながらも、ちらちらと後ろを振り返る。足元の床が軽く軋む音と、菊乃の衣擦れの音が廊下に心地よく響いた。
暫くして、ふと菊乃が足を止め鯉登の背中に目を留めた。
たった一言、当たり前のように「当然だ」と言い放った彼の言葉に、自分でも驚くほど強い感動を覚えた。とても嬉しかった。
そっと目を細める。廊下は刺すように冷たい。それでも、もう少しだけこのまま歩いていられないだろうか――心の奥で思った。冬の夜気に触れるたび、彼と共有している時間を確かめられるような気がした。
「菊乃?」
鯉登が振り返った。洋灯の明かりに照らされたその横顔は、彼が軍人であることを忘れそうになるほどに優しく映る。
「急がんと、冷えるぞ」
少し先を歩いていた鯉登は、立ち止まって菊乃を待っていた。誰だってこの寒さは堪えるに決まっているのに、彼も同じように感じている事が、不謹慎にも嬉しかった。
「はい。すみません」
菊乃は微笑んで歩みを早める。鯉登の後ろに追いつくと、二人の影が再び重なり伸びていった。
