本編
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罠(一)
陸軍省──日本陸軍を管轄する中央官庁。
なぜ、自分がそんな場所へ連れて行かれようとしているのか。菊乃には、まるで心当たりがなかった。
「ど……どうして、私を……?」
震える声で問えば、
「……そんなの、僕が聞きたいくらいだ」
「え……?」
返ってきたのは、拍子抜けするような言葉だった。
「ただ、あなたを……生きたまま連れて来いと言われました。菊乃さん、君はいったい何者だ……?」
大澤の答えに、菊乃は思わず目を瞬かせる。偽りではない、本心からの戸惑いを感じた。大澤自身も、何故か目的が分からないという。
菊乃の胸に、怒りがこみ上げた。理由も分からぬまま、こんな理不尽な目に遭わされていいはずがない。誰かの命令だというのなら、尚更だ。まるで、自分の意思でこんなことをしているのではないという彼の言い訳など、到底受け入れられなかった。
「っそんなの知りません!もう離して!!」
怒りに任せて身体を捩る。しかし、その度に拘束はきつくなり、こめかみに当てられた銃口を押しつけられた。
「僕にはもう後がないッ!!」
急に怒声を上げられ、そのあまりの迫力に菊乃はびくりと肩を震わせた。
「お願いだ……菊乃さん……っ」
彼の声の奥に、どこか哀しみが漂うのは気の所為か。
「大澤、さ──」
言いかけた瞬間、菊乃は背中をドンッと突き飛ばされて床の上にうつ伏せに倒れ込んだ。
「きゃッ……!?」
不意の衝撃で戸惑うその隙を突かれ、大澤に馬乗りにされてしまい、
「やっ、いや!!離して大澤さん!!」
「大人しくしてくれ!!頼むから!!」
冷たい縄が手首に食い込んだ。ギリギリと締まり、次いで口に布を嵌められる。菊乃が持っていた手巾だった。あっという間に手と声を封じられ、息苦しさと恐怖に視界が滲んだ。
このまま連れていかれ、それからどうなる。彼等は力ずくも厭わない。魁燿亭にはもう、帰れないかもしれない。鯉登たちにも、二度と会えない──。
悔しくて、悲しくて、菊乃は静かに涙した。帯の中に獲物はあるのに、それを取って戦えない。自分の非力さが憎くて堪らない。
本当は、大好きって言いたかった。こんなことなら、怖がらずにちゃんと伝えておけばよかったと、後悔が菊乃の胸にこみ上げる。
鯉登さん──鯉登さん──助けて──
──ガァンッ。
遠くで何かがぶつかる音が響いた。開けっ放しになっている扉から見える廊下のその先、玄関から聞こえた。菊乃は、泣きはらした目を見開き耳を澄ます。
「ん?やはりおらんのか……?」
それは、ほんの微かであったが、間違いなく鯉登の声だった。菊乃は、弾かれるように顔を上げ、口を布で塞がれたままそれでも叫んだ。
「う゛ーっ!む゛ーっ!」
「今日は会議じゃ……っ!」
大澤が低く唸り、菊乃を引きずる。慌てて寝台の下へ潜り込み、枕で菊乃の顔を押さえつけた。
窓の外から足音が聞こえる。鯉登が客間の窓際へと回り込んできたのだと分かった。しかし、呼びたくても呼べない。胸が痛む。菊乃は、僅かな酸素を吸い込むだけで精一杯だった。
部屋の傍で足音が止まり──そして、再び鳴ると音は徐々に遠ざかっていった。
静寂から暫くして、鯉登が去ったことを確認した大澤は、菊乃を引きずり這い出た。枕は外されたが、菊乃は最早叫ぶ気力も残っていなかった。手足には力が入らず、ただ虚ろに床を見つめる。大澤の手が腕を引く感触すら、どこか遠くの出来事のようだった。
思考も感情も凍りつき、何も浮かばない。一縷の望みが絶たれたことで、ただ絶望が静かに心を支配していった──……。
──ガシャーンッ!!
突然、大きな音を立て窓が割れた。砕けた硝子が宙に舞い、床に散らばる。菊乃は、ぐったりと床に投げた身体をそのままに、割れた窓の方へと顔を向けた。
視線の先、外光を背にして誰かがそこにいる。
──夢を、見ているのかと思った。
「……何をしている、大澤……ッ!!」
怒りに震える声と、鋭い視線。軍刀を抜いた、鯉登が立っていた。怒りを纏ったその姿は、まるで雷神のごとく厳かだ。
菊乃はただ、固唾を呑んで二人の対峙を見つめた。その場に満ちる殺気に圧されながら、ようやく大澤が震える息を吐く。
「ッ、何故……!?」
「扉だ」
何故分かったのか──。全てを聞かずとも、開け放たれた客間の扉を鯉登は指し示した。
「菊乃は、扉を開けっぱなしで留守にするような粗雑な女ではないッ!」
それだけのことで突入を決めたのかと、菊乃は胸が熱くなる。それがなんだか可笑しくて、嬉しくて、鯉登の姿が涙で滲んだ。
「……造反行為と看做していいな」
鯉登が、軍刀を構えた。二人の距離はおよそ12尺(約3.6m)。狙撃に慣れている者ならば、外すことなどあり得ない。
その時、大澤が動いた。菊乃は身体を無理やり引き寄せられ、こめかみに銃口が突きつけられる。
「ん゛っ……!」
「それ以上、近づくな……ッ!」
人質を取られてなお、鯉登は激情をたたえながらも何処か冷静だった。剣先を揺らさず、しっかりと敵を見据えている。
「……お前に撃てるのか、大澤」
その問いに、大澤の顔が歪んだ。鯉登の言葉が、刀の斬撃よりも鋭く彼の胸を抉った。
「菊乃ばほんのこて撃てっか!?大澤ァッ!!」
その怒声が雷鳴のように轟いた次の刹那、菊乃が大澤に体当たりしていた。銃が揺れ、その衝撃で引き金が引かれる。弾丸は、部屋の壁に穿たれた。
それと同時に鯉登が勢いよく駆け出す。耳を劈くほどの猿叫が、建物を揺らした。
「──殺すなッ!!鯉登少尉ッ!!」
ガッ──。外から聞こえた叫び声と同時に、聞いたことのない鈍い音がした。体当たりの衝撃で床に伏していた菊乃が顔を上げると、割れた窓から身を乗り出している月島が見えた。
「菊乃さんッ!!」
月島が駆け寄って、菊乃の口枷を外した。随分と走ってきたのか、かなり息を切らしている。
「月、島さん……」
「怪我は!?」
「……ない、です。たぶん……」
押し倒され、引きずられ、体当たりもしたからか、身体のあちこちをぶつけて痛い気がした。だけど、混乱と安堵が入り混じり、菊乃は自分の状態すら曖昧だった。
月島は菊乃の肩を支え起こすと、荒く縛られた縄を解いた。
「あ……鯉登さん……っ!」
ようやく周囲に目を向けると、鯉登が静かに立っていた。その足元には、倒れ伏した大澤──。
あの軍刀で討ったのか。菊乃の胸に、凍えるような不安が走る。だが、血だまりらしきものは一つもなく、軍刀は床にめり込んでいる。
「殴られて気絶しているだけです」
低い声が届き、月島に顔を向ける。視線が合ったその目は、ずいぶんと憂いを帯びていた。
「……菊乃」
名前を呼ばれ振り向いた。月島が立ち上がり、入れ替わるように鯉登が膝をつく。
「ぁ……っ」
彼と目が合った瞬間、ありがとうも、怖かったも、ずっと避けていてごめんなさいも、心に浮かんでは声にならず、代わりに涙が溢れた。
不意に鯉登の腕が伸びてきて、菊乃はあっという間に彼の胸に収まった。その力強い抱擁が、息苦しくて、すごく安心できた。
「……っ……ぁぁっ、あぁぁぁぁぁあっ!」
ついに抑えきれず、堰を切ったように声を上げて菊乃は泣いた。
鯉登は何も言わぬまま、震える背中をさすり、頭を撫でて、ただひたすら静かに菊乃を抱きしめた。
陸軍省──日本陸軍を管轄する中央官庁。
なぜ、自分がそんな場所へ連れて行かれようとしているのか。菊乃には、まるで心当たりがなかった。
「ど……どうして、私を……?」
震える声で問えば、
「……そんなの、僕が聞きたいくらいだ」
「え……?」
返ってきたのは、拍子抜けするような言葉だった。
「ただ、あなたを……生きたまま連れて来いと言われました。菊乃さん、君はいったい何者だ……?」
大澤の答えに、菊乃は思わず目を瞬かせる。偽りではない、本心からの戸惑いを感じた。大澤自身も、何故か目的が分からないという。
菊乃の胸に、怒りがこみ上げた。理由も分からぬまま、こんな理不尽な目に遭わされていいはずがない。誰かの命令だというのなら、尚更だ。まるで、自分の意思でこんなことをしているのではないという彼の言い訳など、到底受け入れられなかった。
「っそんなの知りません!もう離して!!」
怒りに任せて身体を捩る。しかし、その度に拘束はきつくなり、こめかみに当てられた銃口を押しつけられた。
「僕にはもう後がないッ!!」
急に怒声を上げられ、そのあまりの迫力に菊乃はびくりと肩を震わせた。
「お願いだ……菊乃さん……っ」
彼の声の奥に、どこか哀しみが漂うのは気の所為か。
「大澤、さ──」
言いかけた瞬間、菊乃は背中をドンッと突き飛ばされて床の上にうつ伏せに倒れ込んだ。
「きゃッ……!?」
不意の衝撃で戸惑うその隙を突かれ、大澤に馬乗りにされてしまい、
「やっ、いや!!離して大澤さん!!」
「大人しくしてくれ!!頼むから!!」
冷たい縄が手首に食い込んだ。ギリギリと締まり、次いで口に布を嵌められる。菊乃が持っていた手巾だった。あっという間に手と声を封じられ、息苦しさと恐怖に視界が滲んだ。
このまま連れていかれ、それからどうなる。彼等は力ずくも厭わない。魁燿亭にはもう、帰れないかもしれない。鯉登たちにも、二度と会えない──。
悔しくて、悲しくて、菊乃は静かに涙した。帯の中に獲物はあるのに、それを取って戦えない。自分の非力さが憎くて堪らない。
本当は、大好きって言いたかった。こんなことなら、怖がらずにちゃんと伝えておけばよかったと、後悔が菊乃の胸にこみ上げる。
鯉登さん──鯉登さん──助けて──
──ガァンッ。
遠くで何かがぶつかる音が響いた。開けっ放しになっている扉から見える廊下のその先、玄関から聞こえた。菊乃は、泣きはらした目を見開き耳を澄ます。
「ん?やはりおらんのか……?」
それは、ほんの微かであったが、間違いなく鯉登の声だった。菊乃は、弾かれるように顔を上げ、口を布で塞がれたままそれでも叫んだ。
「う゛ーっ!む゛ーっ!」
「今日は会議じゃ……っ!」
大澤が低く唸り、菊乃を引きずる。慌てて寝台の下へ潜り込み、枕で菊乃の顔を押さえつけた。
窓の外から足音が聞こえる。鯉登が客間の窓際へと回り込んできたのだと分かった。しかし、呼びたくても呼べない。胸が痛む。菊乃は、僅かな酸素を吸い込むだけで精一杯だった。
部屋の傍で足音が止まり──そして、再び鳴ると音は徐々に遠ざかっていった。
静寂から暫くして、鯉登が去ったことを確認した大澤は、菊乃を引きずり這い出た。枕は外されたが、菊乃は最早叫ぶ気力も残っていなかった。手足には力が入らず、ただ虚ろに床を見つめる。大澤の手が腕を引く感触すら、どこか遠くの出来事のようだった。
思考も感情も凍りつき、何も浮かばない。一縷の望みが絶たれたことで、ただ絶望が静かに心を支配していった──……。
──ガシャーンッ!!
突然、大きな音を立て窓が割れた。砕けた硝子が宙に舞い、床に散らばる。菊乃は、ぐったりと床に投げた身体をそのままに、割れた窓の方へと顔を向けた。
視線の先、外光を背にして誰かがそこにいる。
──夢を、見ているのかと思った。
「……何をしている、大澤……ッ!!」
怒りに震える声と、鋭い視線。軍刀を抜いた、鯉登が立っていた。怒りを纏ったその姿は、まるで雷神のごとく厳かだ。
菊乃はただ、固唾を呑んで二人の対峙を見つめた。その場に満ちる殺気に圧されながら、ようやく大澤が震える息を吐く。
「ッ、何故……!?」
「扉だ」
何故分かったのか──。全てを聞かずとも、開け放たれた客間の扉を鯉登は指し示した。
「菊乃は、扉を開けっぱなしで留守にするような粗雑な女ではないッ!」
それだけのことで突入を決めたのかと、菊乃は胸が熱くなる。それがなんだか可笑しくて、嬉しくて、鯉登の姿が涙で滲んだ。
「……造反行為と看做していいな」
鯉登が、軍刀を構えた。二人の距離はおよそ12尺(約3.6m)。狙撃に慣れている者ならば、外すことなどあり得ない。
その時、大澤が動いた。菊乃は身体を無理やり引き寄せられ、こめかみに銃口が突きつけられる。
「ん゛っ……!」
「それ以上、近づくな……ッ!」
人質を取られてなお、鯉登は激情をたたえながらも何処か冷静だった。剣先を揺らさず、しっかりと敵を見据えている。
「……お前に撃てるのか、大澤」
その問いに、大澤の顔が歪んだ。鯉登の言葉が、刀の斬撃よりも鋭く彼の胸を抉った。
「菊乃ばほんのこて撃てっか!?大澤ァッ!!」
その怒声が雷鳴のように轟いた次の刹那、菊乃が大澤に体当たりしていた。銃が揺れ、その衝撃で引き金が引かれる。弾丸は、部屋の壁に穿たれた。
それと同時に鯉登が勢いよく駆け出す。耳を劈くほどの猿叫が、建物を揺らした。
「──殺すなッ!!鯉登少尉ッ!!」
ガッ──。外から聞こえた叫び声と同時に、聞いたことのない鈍い音がした。体当たりの衝撃で床に伏していた菊乃が顔を上げると、割れた窓から身を乗り出している月島が見えた。
「菊乃さんッ!!」
月島が駆け寄って、菊乃の口枷を外した。随分と走ってきたのか、かなり息を切らしている。
「月、島さん……」
「怪我は!?」
「……ない、です。たぶん……」
押し倒され、引きずられ、体当たりもしたからか、身体のあちこちをぶつけて痛い気がした。だけど、混乱と安堵が入り混じり、菊乃は自分の状態すら曖昧だった。
月島は菊乃の肩を支え起こすと、荒く縛られた縄を解いた。
「あ……鯉登さん……っ!」
ようやく周囲に目を向けると、鯉登が静かに立っていた。その足元には、倒れ伏した大澤──。
あの軍刀で討ったのか。菊乃の胸に、凍えるような不安が走る。だが、血だまりらしきものは一つもなく、軍刀は床にめり込んでいる。
「殴られて気絶しているだけです」
低い声が届き、月島に顔を向ける。視線が合ったその目は、ずいぶんと憂いを帯びていた。
「……菊乃」
名前を呼ばれ振り向いた。月島が立ち上がり、入れ替わるように鯉登が膝をつく。
「ぁ……っ」
彼と目が合った瞬間、ありがとうも、怖かったも、ずっと避けていてごめんなさいも、心に浮かんでは声にならず、代わりに涙が溢れた。
不意に鯉登の腕が伸びてきて、菊乃はあっという間に彼の胸に収まった。その力強い抱擁が、息苦しくて、すごく安心できた。
「……っ……ぁぁっ、あぁぁぁぁぁあっ!」
ついに抑えきれず、堰を切ったように声を上げて菊乃は泣いた。
鯉登は何も言わぬまま、震える背中をさすり、頭を撫でて、ただひたすら静かに菊乃を抱きしめた。
