本編
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自覚(三)
鯉登と距離をとることで、菊乃の行き場のない想いはゆっくりと鎮まっていった。
今まで近すぎたのがいけなかったのだ。立場をわきまえていれば、淡い想いにも自然と区切りがつく──。そう思えば、心が軽くなる気がした。
その代わり、大澤と顔を合わせる時間が増えた。普段の真面目な姿とは程遠い素の彼を見る度、彼も普通の人間で、心の奥に脆さを抱えている。自分と同じ部分を感じて、菊乃はどこか安心できた。
ある日のこと。菊乃は、ふと田島が持ち場から離れる姿を窓から見かけた。それから思い立ち、玄関へと向かう。扉を開けて外に出ると、そこにはやはり、煙草をくわえ火をつけようとしている大澤の姿があった。
目が合うと、彼はいつものように微笑みかけてくる。その柔らかい眼差しと他愛のない会話。それが、いつしか菊乃にとって心を穏やかにしてくれる時間になっていた。
「菊乃さんは……鯉登少尉殿を慕っておられるのですか?」
それは何気ない調子だった。けれど、その言葉に菊乃は身を強張らせ、弾かれるように大澤を見た。頬に熱が差し、思った言葉がそのまま口を突いて出る。
「そ、そんな、あり得ません!私は……芸者です、から……」
口にした途端、自分の声が震えていることに気づいた。尻すぼみに沈んでいく言葉を、大澤は黙って聞いている。
「そんな想いを向けたら、きっと鯉登さんを困らせてしまいます……」
「何故?」
「将校さんと芸者なんて、体裁が悪い、じゃないですか……」
ごく一般論を述べただけ。それなのに、口に出した途端その言葉が重くのしかかる。
「鯉登少尉殿が、そう仰ったんですか?」
「……いえ。でも、そう思っていらっしゃると、思います……」
鶴見との関係について誤解を解いた時、そんな素振りを見せていたし。
それを聞いて、大澤は唇を引き結び、顎に手を当てて考え込む素振りを見せた。その姿を横目に、菊乃は落ち着かない。どうして彼は、こんなことを聞いてくるのだろう。できればそっとしておいてほしいのに──。
「僕だったら、菊乃さんの気持ちに応えますけどね」
突然落とされた思いもよらぬ言葉に、菊乃は目を丸くして大澤を見上げた。
「……え!?」
驚きに固まった菊乃を見て、大澤は小さく笑った。
「例え周りの目が厳しくとも、僕が軍務で功績を上げれば周囲の声なんて自然と消えていきます。確かに、将来婚姻関係を結ぶためには許可がないと難しいですが、高官で何人か芸者と結婚したって話も聞きますし」
穏やかに言う大澤の瞳には、真剣な色が宿る。
「僕は絶対に、菊乃さんのこと悲しませません」
菊乃の胸に痛みが走った。大澤の優しさを、都合のいい言葉を、鯉登と重ねた。
彼がそう言ってくれたなら──。こうして、また罪を重ねていく自分は、なんと愚かなのだろうか。
「……菊乃さん」
彼の指先が頬に触れた。そっと涙を拭ってくれるその優しさに、菊乃は抑える術を失くしてしまう。
「そろそろ中に戻りましょうか」
そう声をかけた大澤の手が、菊乃の肩に触れた。彼の支えで立ち上がると、そのまま静かに玄関を抜ける。
客間まで連れられる道すがら、菊乃の胸には後悔と自責が交錯していた。大澤は優しいから、自分の隠しきれない想いに気付いてあんなことを言ったに違いない──気を使わせてしまった、と思った。
客間に一歩入ると、手巾で涙をぬぐい、菊乃は息を整えながらようやく口を開いた。
「……大澤さん。ありがとうござ」
──後ろを振り返ようとして、出来なかった。背中に感じる温もりと、両腕を後ろから回された感触。
大澤に、抱きしめられていた。
「お……大澤、さん……?」
「僕なら、将校のしがらみもない……菊乃さんのこと、幸せにできます」
息が詰まりそうな程に、ぐっと腕の力が強まる。耳元で彼の息が触れ、顔を寄せられているのが分かった。
「菊乃さん……」
低く湿った声で名前を囁かれた瞬間、全身が粟立った。大澤の掌が、胸元にかかる──そこで、ようやく菊乃の本能が恐怖を叫んだ。
「っ、いけません大澤さん……!」
声は震え、身体は思うように動かない。それでも懸命に捩って抜け出そうともがくが、男の力に敵うはずがなかった。
「いやッ、離して!」
必死に叫んだつもりだったが、心許無い抵抗だった。恐怖と怒りと混乱が綯い交ぜになって、涙が滲む。
──嫌だ。怖い。鯉登さん──!
心で彼を呼んだその時、菊乃のこめかみに硬く冷たいものが不意に触れた。
「……このまま、流されてほしかった……」
「……っ、え……?」
カチャ、と乾いた金属音が耳を突く。
──銃口を、向けられていた。
あまりのことに息が詰まり、菊乃は言葉を失った。泣くことさえ忘れていた。
「痛い思いはさせたくない……このまま、大人しく僕についてきてくれませんか」
その声音は、穏やかだった。けれど確かに、狂気の底を孕んでいた。
菊乃は、頭が真っ白になる中、
「ついて、……?どこ、へ……?」
僅かな問いを返すだけで精一杯だった。彼が、ひとつ深く息を吸い込む。
そして、返ってきた言葉はあまりに現実離れしていて、菊乃を更に深くかき乱した。
「──東京の、陸軍省です」
🌙side story🌙
──ある日の午後。
「……全然終わってないじゃないですか」
執務机に突っ伏している背中へ、月島がため息混じりに声をかけた。頼んでいた書類の束は、そのままの形で積まれている。筆一本動かした形跡すらなかった。
「……菊乃に避けられている気がする」
鯉登から唐突に漏れた弱音。まるで、胸の奥に抱えていた感情がぽつりとこぼれたように。
「はあ」
月島は目を細め、しょっぱい返事を返す。事情が読めず眉をしかめると、鯉登は机にへばりついたまま、顔だけぐるりと月島に向けた。いつもの快活な光が宿らないその目は、明らかに心ここにあらずといった風だ。
「食事に誘っても断られるのだ……最近は見張りに弁当を持って来させてるらしい」
そう呟く声には、一抹の寂しさが混じる。
月島も思い当たる節があった。ここ数日、下士居室で顔を合わせると菊乃は箸をあまり進めず、よくおかずを月島たちに分けていた。
「……まぁ、女性は体調の波があると言いますから」
淡々と返しつつ、月島は考え込む。鯉登がここまで沈んだ様子は珍しい。普段なら鬱陶しいほど押しの強い男が、今はただ肩を落としているなんて。
「……そうかもしれんが……」
まるで子供のように項垂れる姿に、月島は内心で深くため息をついた。こうも沈まれては、自分の仕事にも支障が出かねない。
しぶしぶながら、月島は直接本人に確かめてみることに決めた。
──偕行社が見えてくると、入口の前には見張り兵が二人、背筋を正して立っていた。月島の姿に気づくと、揃って直立敬礼する。
「ご苦労。菊乃さんは中だな?」
「はい!」
手本のような返事に頷いて、月島は扉を押し開けた。中は静寂に包まれ、兵舎とはまた違う凛とした空気が流れている。
脇の通路を抜け客間の前に立つと、扉を控えめにコン、コンと叩いた。
「あ、はい」
「月島です」
すると、内側からぱたぱたと軽やかな足音が近づき、扉が開いた。
「月島さん!どうかされたんですか?」
「少し、お話いいですか?」
開け放たれた扉の先、顔を出した菊乃は思いのほか元気そうで、少しだけ安堵する。
中へと勧められたが、あえて敷居を跨がず、月島は軍帽を手に扉の前に立ったまま切り出した。
「最近、体調がすぐれないようですが大丈夫ですか?」
その一言に、菊乃の表情が一変する。肩が小さく跳ね、笑みが一瞬にして消えた。
「無理は禁物です。必要であれば医者を──」
「いえっ、違うんです!お医者様に診てもらうようなことではなくて……本当に、大丈夫ですっ!」
言葉が食い気味に重なる。大丈夫、何でもないと繰り返すその声に、返って不安が募る。
だが、それ以上踏み込めばむしろ逆効果だろう──と月島は判断した。
「……分かりました。ならいいんです。……それと、鯉登少尉が心配していましたよ」
月島が言葉を添える。あなたのことを心配している人がいる──。その一言で、何かが変わることを期待して。
「あっ、そっ、そう……なんです、か……」
みるみるうちに顔が紅潮し、視線が泳ぐ。菊乃の狼狽えた様子に、月島は心の中で首を傾げた。
「最近、少尉殿の誘いを断っているそうですね。そのことが気になって仕事に手がつかないようなんで、無理のない範囲で付き合っていただけたらありがたいのですが」
「ぅえ!?それは、その……善処、します……」
声が小さくしぼみ、ついには耳まで赤くなっている。その姿に、とうとう月島が確信を得た。
「あ~~~」と心中で唸り天を仰ぐ。どうしてこう、両者とも極端なのか──。
益々状況が難航してゆくことに、辟易する。
「……面倒くさい」
「え?」
つい、口をついて出た本音。しかしその小さな呟きは、外の風音に紛れて菊乃の耳には届かなかった。
鯉登と距離をとることで、菊乃の行き場のない想いはゆっくりと鎮まっていった。
今まで近すぎたのがいけなかったのだ。立場をわきまえていれば、淡い想いにも自然と区切りがつく──。そう思えば、心が軽くなる気がした。
その代わり、大澤と顔を合わせる時間が増えた。普段の真面目な姿とは程遠い素の彼を見る度、彼も普通の人間で、心の奥に脆さを抱えている。自分と同じ部分を感じて、菊乃はどこか安心できた。
ある日のこと。菊乃は、ふと田島が持ち場から離れる姿を窓から見かけた。それから思い立ち、玄関へと向かう。扉を開けて外に出ると、そこにはやはり、煙草をくわえ火をつけようとしている大澤の姿があった。
目が合うと、彼はいつものように微笑みかけてくる。その柔らかい眼差しと他愛のない会話。それが、いつしか菊乃にとって心を穏やかにしてくれる時間になっていた。
「菊乃さんは……鯉登少尉殿を慕っておられるのですか?」
それは何気ない調子だった。けれど、その言葉に菊乃は身を強張らせ、弾かれるように大澤を見た。頬に熱が差し、思った言葉がそのまま口を突いて出る。
「そ、そんな、あり得ません!私は……芸者です、から……」
口にした途端、自分の声が震えていることに気づいた。尻すぼみに沈んでいく言葉を、大澤は黙って聞いている。
「そんな想いを向けたら、きっと鯉登さんを困らせてしまいます……」
「何故?」
「将校さんと芸者なんて、体裁が悪い、じゃないですか……」
ごく一般論を述べただけ。それなのに、口に出した途端その言葉が重くのしかかる。
「鯉登少尉殿が、そう仰ったんですか?」
「……いえ。でも、そう思っていらっしゃると、思います……」
鶴見との関係について誤解を解いた時、そんな素振りを見せていたし。
それを聞いて、大澤は唇を引き結び、顎に手を当てて考え込む素振りを見せた。その姿を横目に、菊乃は落ち着かない。どうして彼は、こんなことを聞いてくるのだろう。できればそっとしておいてほしいのに──。
「僕だったら、菊乃さんの気持ちに応えますけどね」
突然落とされた思いもよらぬ言葉に、菊乃は目を丸くして大澤を見上げた。
「……え!?」
驚きに固まった菊乃を見て、大澤は小さく笑った。
「例え周りの目が厳しくとも、僕が軍務で功績を上げれば周囲の声なんて自然と消えていきます。確かに、将来婚姻関係を結ぶためには許可がないと難しいですが、高官で何人か芸者と結婚したって話も聞きますし」
穏やかに言う大澤の瞳には、真剣な色が宿る。
「僕は絶対に、菊乃さんのこと悲しませません」
菊乃の胸に痛みが走った。大澤の優しさを、都合のいい言葉を、鯉登と重ねた。
彼がそう言ってくれたなら──。こうして、また罪を重ねていく自分は、なんと愚かなのだろうか。
「……菊乃さん」
彼の指先が頬に触れた。そっと涙を拭ってくれるその優しさに、菊乃は抑える術を失くしてしまう。
「そろそろ中に戻りましょうか」
そう声をかけた大澤の手が、菊乃の肩に触れた。彼の支えで立ち上がると、そのまま静かに玄関を抜ける。
客間まで連れられる道すがら、菊乃の胸には後悔と自責が交錯していた。大澤は優しいから、自分の隠しきれない想いに気付いてあんなことを言ったに違いない──気を使わせてしまった、と思った。
客間に一歩入ると、手巾で涙をぬぐい、菊乃は息を整えながらようやく口を開いた。
「……大澤さん。ありがとうござ」
──後ろを振り返ようとして、出来なかった。背中に感じる温もりと、両腕を後ろから回された感触。
大澤に、抱きしめられていた。
「お……大澤、さん……?」
「僕なら、将校のしがらみもない……菊乃さんのこと、幸せにできます」
息が詰まりそうな程に、ぐっと腕の力が強まる。耳元で彼の息が触れ、顔を寄せられているのが分かった。
「菊乃さん……」
低く湿った声で名前を囁かれた瞬間、全身が粟立った。大澤の掌が、胸元にかかる──そこで、ようやく菊乃の本能が恐怖を叫んだ。
「っ、いけません大澤さん……!」
声は震え、身体は思うように動かない。それでも懸命に捩って抜け出そうともがくが、男の力に敵うはずがなかった。
「いやッ、離して!」
必死に叫んだつもりだったが、心許無い抵抗だった。恐怖と怒りと混乱が綯い交ぜになって、涙が滲む。
──嫌だ。怖い。鯉登さん──!
心で彼を呼んだその時、菊乃のこめかみに硬く冷たいものが不意に触れた。
「……このまま、流されてほしかった……」
「……っ、え……?」
カチャ、と乾いた金属音が耳を突く。
──銃口を、向けられていた。
あまりのことに息が詰まり、菊乃は言葉を失った。泣くことさえ忘れていた。
「痛い思いはさせたくない……このまま、大人しく僕についてきてくれませんか」
その声音は、穏やかだった。けれど確かに、狂気の底を孕んでいた。
菊乃は、頭が真っ白になる中、
「ついて、……?どこ、へ……?」
僅かな問いを返すだけで精一杯だった。彼が、ひとつ深く息を吸い込む。
そして、返ってきた言葉はあまりに現実離れしていて、菊乃を更に深くかき乱した。
「──東京の、陸軍省です」
🌙side story🌙
──ある日の午後。
「……全然終わってないじゃないですか」
執務机に突っ伏している背中へ、月島がため息混じりに声をかけた。頼んでいた書類の束は、そのままの形で積まれている。筆一本動かした形跡すらなかった。
「……菊乃に避けられている気がする」
鯉登から唐突に漏れた弱音。まるで、胸の奥に抱えていた感情がぽつりとこぼれたように。
「はあ」
月島は目を細め、しょっぱい返事を返す。事情が読めず眉をしかめると、鯉登は机にへばりついたまま、顔だけぐるりと月島に向けた。いつもの快活な光が宿らないその目は、明らかに心ここにあらずといった風だ。
「食事に誘っても断られるのだ……最近は見張りに弁当を持って来させてるらしい」
そう呟く声には、一抹の寂しさが混じる。
月島も思い当たる節があった。ここ数日、下士居室で顔を合わせると菊乃は箸をあまり進めず、よくおかずを月島たちに分けていた。
「……まぁ、女性は体調の波があると言いますから」
淡々と返しつつ、月島は考え込む。鯉登がここまで沈んだ様子は珍しい。普段なら鬱陶しいほど押しの強い男が、今はただ肩を落としているなんて。
「……そうかもしれんが……」
まるで子供のように項垂れる姿に、月島は内心で深くため息をついた。こうも沈まれては、自分の仕事にも支障が出かねない。
しぶしぶながら、月島は直接本人に確かめてみることに決めた。
──偕行社が見えてくると、入口の前には見張り兵が二人、背筋を正して立っていた。月島の姿に気づくと、揃って直立敬礼する。
「ご苦労。菊乃さんは中だな?」
「はい!」
手本のような返事に頷いて、月島は扉を押し開けた。中は静寂に包まれ、兵舎とはまた違う凛とした空気が流れている。
脇の通路を抜け客間の前に立つと、扉を控えめにコン、コンと叩いた。
「あ、はい」
「月島です」
すると、内側からぱたぱたと軽やかな足音が近づき、扉が開いた。
「月島さん!どうかされたんですか?」
「少し、お話いいですか?」
開け放たれた扉の先、顔を出した菊乃は思いのほか元気そうで、少しだけ安堵する。
中へと勧められたが、あえて敷居を跨がず、月島は軍帽を手に扉の前に立ったまま切り出した。
「最近、体調がすぐれないようですが大丈夫ですか?」
その一言に、菊乃の表情が一変する。肩が小さく跳ね、笑みが一瞬にして消えた。
「無理は禁物です。必要であれば医者を──」
「いえっ、違うんです!お医者様に診てもらうようなことではなくて……本当に、大丈夫ですっ!」
言葉が食い気味に重なる。大丈夫、何でもないと繰り返すその声に、返って不安が募る。
だが、それ以上踏み込めばむしろ逆効果だろう──と月島は判断した。
「……分かりました。ならいいんです。……それと、鯉登少尉が心配していましたよ」
月島が言葉を添える。あなたのことを心配している人がいる──。その一言で、何かが変わることを期待して。
「あっ、そっ、そう……なんです、か……」
みるみるうちに顔が紅潮し、視線が泳ぐ。菊乃の狼狽えた様子に、月島は心の中で首を傾げた。
「最近、少尉殿の誘いを断っているそうですね。そのことが気になって仕事に手がつかないようなんで、無理のない範囲で付き合っていただけたらありがたいのですが」
「ぅえ!?それは、その……善処、します……」
声が小さくしぼみ、ついには耳まで赤くなっている。その姿に、とうとう月島が確信を得た。
「あ~~~」と心中で唸り天を仰ぐ。どうしてこう、両者とも極端なのか──。
益々状況が難航してゆくことに、辟易する。
「……面倒くさい」
「え?」
つい、口をついて出た本音。しかしその小さな呟きは、外の風音に紛れて菊乃の耳には届かなかった。
