本編
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自覚(二)
夕食を終え、宵闇の道を並んで歩く。偕行社からそう遠くない砂利混じりの小径で、少しひんやりとした風が肌を撫でた。
他愛のない話をぽつりぽつりと交わし、鯉登との間に話題が尽きかけた頃、ふとした拍子に菊乃が足元の石に気づかず躓いてしまい、
「っ、危ない!」
反射的に伸ばされた手に引き寄せられた。咄嗟のことで、菊乃はそのまま彼の胸元に倒れ込む。近すぎる距離に、互いの息が触れそうで──。
菊乃は、見上げた先の瞳に言葉を失った。
「大丈夫か?」
低く問いかけられて、菊乃はすぐに身を引いた。だが、隠したはずの心のざわめきは、もう引き返せないほど揺れている。
「す、すみません!ちょっと、余所見を……」
「気をつけて歩け。足元暗いんだから」
その言葉に込められた優しさが、胸の奥に深く響く。心のどこかで感じている、目を逸らしたくなる感情が再び浮かび上がり淡く灯った。
その時、
「──菊乃さん!」
駆けてくる足音と共に届いた声。顔を向けると、大澤が慌てるようにこちらへ向かって来ていた。
彼は傍まで来て一旦立ち止まると、鯉登に向かって敬礼をする。
「すみません!迎えがすれ違ってしまって……もう戻ってしまったかと」
「あ……!」
迎えに行く──。
昼間、大澤から言われたその言葉が菊乃の脳裏を過った。
「ごめんなさい!私、完全に忘れてて……」
「大丈夫ですよ。追いつけたんですから」
いつもの調子で笑う大澤の姿に、菊乃はホッと息をついた。
「大澤。私がいる時の迎えは無用だ」
鯉登の言葉には、少しの鋭さと瞳の奥に複雑な色が差していて、
「も、申し訳ありません!出過ぎた真似を……」
大澤は慌てて頭を下げた。
その反応に菊乃は焦った。すかさず、
「あのっ、鯉登さん。大澤さんは悪くないので……。そ、それにもうすぐそこですし、ここまでで結構ですよ」
そう、咄嗟に言ってしまった。そうしなければ、いよいよボロが出てしまいそうだった。今は鯉登との距離を、少しでも置きたい──。
鯉登は、一瞬何か言いかけた。けれど、その言葉を飲み込むように小さく俯き、
「そうか……気をつけて帰れ。夜道はまだ冷える。大澤、後は頼む」
それだけ言うと、背を向けて歩き出した。歩幅はいつもより少しだけ大きく、その背中がどこか寂しげなのは気のせいか──。
「……菊乃さん。すみません、庇っていただいて」
申し訳なさそうに言う大澤に、菊乃は力なく笑った。
「私が悪いんです。気にしないで」
笑顔の奥で、心が揺れる。上手く笑えていたかどうかは分からない。ただ、何とかして自分を押さえなければと、それだけを思った。
そのまま、菊乃は偕行社へと足を向ける。鯉登の背中は、すっかり見えなくなっていた。
──ある日の早朝、起床し身支度を整えた菊乃は、玄関の扉に手をかけた。西洋らしい硝子窓の備わる扉からは、淡く差し込む朝の光が廊下に伸びている。
扉を開けると、冷えた空気が入り込み、人の姿が目に入る。夜勤兵と交代で立っていたのは、大澤と田島だった。
「おはようございます」
菊乃の柔らかな声に、先に気づいた大澤が振り返る。
「あ、おはようございます菊乃さん。こちら朝食です」
両手で差し出されたのは、小ぶりな折詰と蓋のついた椀。
礼を言って受け取ろうとしたその時、菊乃はふと彼の軍服の胸元に目が留まった。
「大澤さん。釦が、取れかかってます」
「え?」
胸元の釦が、今にも落ちそうな状態でだらしなく糸一本でぶら下がっていた。
「おっと……落とす前でよかった」
「あの、よかったら付け直しましょうか?」
菊乃がそう申し出ると、大澤は目を瞠った。
「い、いいんですか?」
「もちろん」
「いや、助かります……縫い物は苦手で」
どこか照れたように頭の後ろをかいた大澤は、軍服を脱ぐとそっと菊乃に手渡した。
「朝食をいただいたら、すぐ縫って戻しますね」
「お願いします」
笑みを交わし、菊乃は客間へと戻った。
少し急ぎ気味で朝食を平らげ、裁縫道具を取り出した。針を運び、素早く糸を通す──。
さっと直し終えた菊乃は、軍服を手に再び玄関扉を開けた。するとそこには、扉前の柱に寄りかかる大澤の姿があった。右手には煙草。ゆるやかに吐き出された煙は、朝の光に吸い込まれていくように立ち昇っている。
「え、もう終わったんですか!?」
菊乃の姿に気づいて、大澤が慌てたように言った。
「あ、はい……。えっと、田島さんは?」
もう一人の見張り、田島の姿がない。
だが、それよりなにより、無防備に一服している大澤の姿に菊乃は僅かな衝撃を受けた。
「あいつ、朝は腹が緩いんで厠にこもるんですよ。いやー……菊乃さん、このことはどうか内密に」
煙草の火を見せつけるように持ち、人差し指を唇に立てて大澤が言う。その姿がどこか滑稽でもあり、彼の“真面目な上等兵”という印象がふっと崩れた。
「ふふふっ」
「え?」
「大澤さんも、こっそり息抜きされるんですね。なんか意外で」
笑いながら軍服を差し出す。大澤は小さく苦笑し、煙草を地面に押しつけて火を消した。
「まいったな……ここじゃ吸える場所が限られてるもので」
軍服を手に取り、それを羽織りながら大澤がふと遠くを見やった。
「菊乃さん見てると、妹のこと思い出すんですよね」
「妹さんがいらっしゃるんですか」
「はい。あいつも縫物が得意で、家族の服をよく繕ってくれてました」
ふと和らぐ表情。だがその優しさの奥に、どこか寂しげな色が滲んでいる。
「ただ、身体が弱くて……今は、ほとんど寝たきりなんです」
「そう、でしたか……」
「病院の治療を続けているんですが、これがなかなか金のかかることで」
静かに続けられた言葉に、菊乃は秘めていた疑問の答えにたどり着く。大澤がここにいる理由を。
「僕の稼ぎなんて大したものではありませんが、ここにいれば食い扶持には困りません。親も安心して妹にかかりきりになれる」
そう独り言のように言って、大澤は笑っていた。
「良くなるといいですね、妹さん」
「……ありがとうございます」
月並みな言葉しかかけることが出来なくて情けない。それでも、彼がいつものように笑ってくれたことが救いだった。
夕食を終え、宵闇の道を並んで歩く。偕行社からそう遠くない砂利混じりの小径で、少しひんやりとした風が肌を撫でた。
他愛のない話をぽつりぽつりと交わし、鯉登との間に話題が尽きかけた頃、ふとした拍子に菊乃が足元の石に気づかず躓いてしまい、
「っ、危ない!」
反射的に伸ばされた手に引き寄せられた。咄嗟のことで、菊乃はそのまま彼の胸元に倒れ込む。近すぎる距離に、互いの息が触れそうで──。
菊乃は、見上げた先の瞳に言葉を失った。
「大丈夫か?」
低く問いかけられて、菊乃はすぐに身を引いた。だが、隠したはずの心のざわめきは、もう引き返せないほど揺れている。
「す、すみません!ちょっと、余所見を……」
「気をつけて歩け。足元暗いんだから」
その言葉に込められた優しさが、胸の奥に深く響く。心のどこかで感じている、目を逸らしたくなる感情が再び浮かび上がり淡く灯った。
その時、
「──菊乃さん!」
駆けてくる足音と共に届いた声。顔を向けると、大澤が慌てるようにこちらへ向かって来ていた。
彼は傍まで来て一旦立ち止まると、鯉登に向かって敬礼をする。
「すみません!迎えがすれ違ってしまって……もう戻ってしまったかと」
「あ……!」
迎えに行く──。
昼間、大澤から言われたその言葉が菊乃の脳裏を過った。
「ごめんなさい!私、完全に忘れてて……」
「大丈夫ですよ。追いつけたんですから」
いつもの調子で笑う大澤の姿に、菊乃はホッと息をついた。
「大澤。私がいる時の迎えは無用だ」
鯉登の言葉には、少しの鋭さと瞳の奥に複雑な色が差していて、
「も、申し訳ありません!出過ぎた真似を……」
大澤は慌てて頭を下げた。
その反応に菊乃は焦った。すかさず、
「あのっ、鯉登さん。大澤さんは悪くないので……。そ、それにもうすぐそこですし、ここまでで結構ですよ」
そう、咄嗟に言ってしまった。そうしなければ、いよいよボロが出てしまいそうだった。今は鯉登との距離を、少しでも置きたい──。
鯉登は、一瞬何か言いかけた。けれど、その言葉を飲み込むように小さく俯き、
「そうか……気をつけて帰れ。夜道はまだ冷える。大澤、後は頼む」
それだけ言うと、背を向けて歩き出した。歩幅はいつもより少しだけ大きく、その背中がどこか寂しげなのは気のせいか──。
「……菊乃さん。すみません、庇っていただいて」
申し訳なさそうに言う大澤に、菊乃は力なく笑った。
「私が悪いんです。気にしないで」
笑顔の奥で、心が揺れる。上手く笑えていたかどうかは分からない。ただ、何とかして自分を押さえなければと、それだけを思った。
そのまま、菊乃は偕行社へと足を向ける。鯉登の背中は、すっかり見えなくなっていた。
──ある日の早朝、起床し身支度を整えた菊乃は、玄関の扉に手をかけた。西洋らしい硝子窓の備わる扉からは、淡く差し込む朝の光が廊下に伸びている。
扉を開けると、冷えた空気が入り込み、人の姿が目に入る。夜勤兵と交代で立っていたのは、大澤と田島だった。
「おはようございます」
菊乃の柔らかな声に、先に気づいた大澤が振り返る。
「あ、おはようございます菊乃さん。こちら朝食です」
両手で差し出されたのは、小ぶりな折詰と蓋のついた椀。
礼を言って受け取ろうとしたその時、菊乃はふと彼の軍服の胸元に目が留まった。
「大澤さん。釦が、取れかかってます」
「え?」
胸元の釦が、今にも落ちそうな状態でだらしなく糸一本でぶら下がっていた。
「おっと……落とす前でよかった」
「あの、よかったら付け直しましょうか?」
菊乃がそう申し出ると、大澤は目を瞠った。
「い、いいんですか?」
「もちろん」
「いや、助かります……縫い物は苦手で」
どこか照れたように頭の後ろをかいた大澤は、軍服を脱ぐとそっと菊乃に手渡した。
「朝食をいただいたら、すぐ縫って戻しますね」
「お願いします」
笑みを交わし、菊乃は客間へと戻った。
少し急ぎ気味で朝食を平らげ、裁縫道具を取り出した。針を運び、素早く糸を通す──。
さっと直し終えた菊乃は、軍服を手に再び玄関扉を開けた。するとそこには、扉前の柱に寄りかかる大澤の姿があった。右手には煙草。ゆるやかに吐き出された煙は、朝の光に吸い込まれていくように立ち昇っている。
「え、もう終わったんですか!?」
菊乃の姿に気づいて、大澤が慌てたように言った。
「あ、はい……。えっと、田島さんは?」
もう一人の見張り、田島の姿がない。
だが、それよりなにより、無防備に一服している大澤の姿に菊乃は僅かな衝撃を受けた。
「あいつ、朝は腹が緩いんで厠にこもるんですよ。いやー……菊乃さん、このことはどうか内密に」
煙草の火を見せつけるように持ち、人差し指を唇に立てて大澤が言う。その姿がどこか滑稽でもあり、彼の“真面目な上等兵”という印象がふっと崩れた。
「ふふふっ」
「え?」
「大澤さんも、こっそり息抜きされるんですね。なんか意外で」
笑いながら軍服を差し出す。大澤は小さく苦笑し、煙草を地面に押しつけて火を消した。
「まいったな……ここじゃ吸える場所が限られてるもので」
軍服を手に取り、それを羽織りながら大澤がふと遠くを見やった。
「菊乃さん見てると、妹のこと思い出すんですよね」
「妹さんがいらっしゃるんですか」
「はい。あいつも縫物が得意で、家族の服をよく繕ってくれてました」
ふと和らぐ表情。だがその優しさの奥に、どこか寂しげな色が滲んでいる。
「ただ、身体が弱くて……今は、ほとんど寝たきりなんです」
「そう、でしたか……」
「病院の治療を続けているんですが、これがなかなか金のかかることで」
静かに続けられた言葉に、菊乃は秘めていた疑問の答えにたどり着く。大澤がここにいる理由を。
「僕の稼ぎなんて大したものではありませんが、ここにいれば食い扶持には困りません。親も安心して妹にかかりきりになれる」
そう独り言のように言って、大澤は笑っていた。
「良くなるといいですね、妹さん」
「……ありがとうございます」
月並みな言葉しかかけることが出来なくて情けない。それでも、彼がいつものように笑ってくれたことが救いだった。
