本編
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自覚(一)
あれから数日が経ち、菊乃は少しずつ兵舎暮らしに馴染み始めていた。
朝食は見張りの兵士が偕行社まで届けてくれ、午前中は読書や任されている献立表の作成に充てる。経理部との確認事項が生じた際には、見張りを伴って聯隊兵舎へ足を運ぶ。
昼と夕の食事は、月島とともに下士居室で取るか、あるいは鯉登に呼ばれて将校集会所へ向かうこともあった。
それ以外の時間、日中は主に面会室の一角を借りて、縫い物をしたり献立の整理をして過ごすのが常だった。
「菊乃さん。昨日の魚介だしの煮物、すっげえ美味かったです!」
「俺は三日前の牛鍋小鉢!昔一度だけ行った牛鍋屋の味思い出したよ」
面会室にいると、時折兵士たちが気さくに声をかけてくるようになった。菊乃が献立を考えているという話は、いつの間にか知れ渡っていたらしい。その反応が素直に嬉しくて、つい菊乃も話し込んでしまうのだが、
「お前らなにサボってんだコラぁッ!」
と、最終的には上官に見つかり怒号が飛ぶ──。
それが、最近の“お決まり”となりつつあった。
「菊乃さん」
柔らかな声がかかった。顔を上げ目を向けると、そこに立っていたのは大澤だった。
「本日夜間は僕が担当するんですけど、夕食はどちらで?」
「今日は鯉登さんに呼ばれていて、集会所でいただく予定です」
「では、食事がお済みになった頃、将校集会所までお迎えに上がります」
聯隊兵舎内の移動は比較的自由に許されているものの、一歩外へ出る際や偕行社に滞在する時間は必ず見張りが付く。“保護”という名目での滞在である以上、致し方ない。大澤たちに押しつけがましいとこはなく、菊乃も素直に受け入れていた。それに、万が一にも菊乃の身に何かあれば、責任を問われるのは鯉登たちかもしれないのだ。
「献立、好評ですね。僕も正直言って菊乃さんのおかずの方が好きです」
さらりといつもの調子で言う大澤に、菊乃は自然と笑みを返した。
「ふふ、ありがとうございます」
そう答えながら、変わらない無邪気な笑顔に目を奪われた。
やがて、大澤が少し首を傾げ、
「……僕の顔に何かついてますか?」
「はっ」
我に返り、菊乃は慌てて首を横に振った。ここ数日、忙しい鯉登とは殆ど顔を合わせていなかった。無意識に、その寂しさを大澤との会話で紛らわしてしまっているのか──。
そんなことを自覚し、どこか後ろめたく感じる。
「ご、ごめんなさい。見すぎました……」
「いえ。菊乃さんのような綺麗な方に見られるのなら、本望ですよ」
さらっと、そんなことを言う。まっすぐで、擽ったい言葉を。
菊乃はその度に頬を染めて「……ありがとうございます」と控えめに返すのが精一杯だった。どこか鯉登に言われたような錯覚を覚えてしまうほど、大澤の放つ言葉は自然だった。──そんなこと、本人には絶対言えないけれど。
大澤は、会話の引き出しが多く話し上手だし、扉を先に開けたり、段差のある場所では手を差し出してくれるような男だった。生まれ育ちが良いのか、それとも単に身についた気配りなのか。どちらにせよ、堂々としたその在り方に菊乃は常々疑問に思っていた。どんな事情があって、陸軍兵の道を選んだのだろう、と。
「では、また後ほど」
そう言って、大澤は軽く頭を下げると、颯爽と面会室を後にした。その背筋の伸びた後ろ姿を、菊乃は静かに見送った。
──大澤のことで悶々とした胸の内は、鯉登の顔を見た瞬間にたちまち霧が晴れるように消えた。
「なんだか随分と久しい気がするな」
「はい。三日ぶり、ですもんね」
黄昏の空は朱から群青へと移り変わり、街灯の明かりがぽつりぽつりと灯り始めた頃。二人は、兵舎から将校集会所までの短い道のりを並んで歩いていた。遠くからは、兵士たちの笑い声が風に運ばれてくる。
小樽にいたころは、数日会わなくてもなんとも思わなかった。けれど、旭川に来てから毎日のように顔を合わせていたからか、たった数日が妙に長く感じるようになってしまった。
「献立のこと、将校の間でも話題になってるぞ」
「え。そうなんですか?」
「ああ。だから少しの間だが、私たちの分も作るよう頼むことになった」
「え!?」
驚きのあまり、菊乃の声がうわずった。慌てて両手で口を覆い、恥ずかしそうに俯く。そんな様子に、鯉登がふっと笑った。
「安上がりで美味いとなれば、満場一致で皆金を出した」
将校は、下士官兵と違って食費の手当が支給される。ただし尉官のそれは僅かで、大胆に使えば自分の首を絞めるし、逆に使い控えて余らせると周囲からあまりよく思われない。そういう事情で、特に下級の少尉たちはとにかく気を遣う立場なのだと、鯉登は苦笑混じりに語った。
「将校さんたち大変なんですね」
「だから、出世欲のある者も多い」
鯉登もそうなのだろうか──。
「鯉登さんも……?」
ぽつりと心に浮かんだ疑問がこぼれた瞬間、鯉登の表情がほんの一瞬微かに引き締まった。薄闇の中で差す僅かな影が、その鋭さを際立たせる。
「ああ。私は……上に行かねばならん」
“行きたい”ではなく、“行かなければならない”。
その選び取られた言葉の重さに、菊乃の胸が少し痛んだ。彼が背負わされているもの──それが、自分の想像の及ばぬほど、重く厳しいものであることだけは確かだった。
そのまま静かに歩みを進めるうち、二人は将校集会所の前に着いた。
鯉登が一歩前に出て、扉を開ける。その向こうから、にぎやかな笑い声と食事の匂いが漂ってきた。
「……どうした?そんなに頭を振って」
「な、な、何でもないですっ!」
菊乃は慌てて言った。扉を開ける鯉登に、一瞬だけ大澤の姿を重ねてしまった。それが自分でも信じられず、頭で振り払う。
「お。そちらが噂のお嬢さんか、鯉登」
中に入った瞬間、どこか砕けた声が響いた。テーブルを囲んで談笑していた三人の青年将校が、菊乃の姿に目を向けていた。顔を合わせるのは初めてだが、皆どこか人懐っこい雰囲気がある。
「こんばんは。魁燿亭の菊乃と申します」
いつものように挨拶をすると、三人は一斉に立ち上がって菊乃の元へと近寄ってきた。
「こっちの二人は部隊が違うんだけど、全員鯉登と同期なんだ。俺、橘」
「砲兵少尉の本庄だ」
「騎兵少尉の荒木です。よろしく」
「橘さん、本庄さん、荒木さんですね。よろし──」
言い終わる前に遮られた。突然前に出てきた鯉登は、菊乃の目の前で三人を押しのけ、
「近い」
と捨てるように一言吐いた。
菊乃は目を瞬かせた。目前に、鯉登の背中がぴたりと立ちはだかっている。
しかし、橘たちは特に気にした様子もなく、にやにやと笑って、
「成程、ナルホド。そういう感じか」
「これは手厳しいなあ、鯉登。菊乃さん、後でこっそり抜け出して飲みに行きましょうよ」
「おいッ、荒木」
「冗談だよ、冗談。さぁ菊乃さん。こっちの席どうぞ」
その流れで、菊乃は橘たちと同じ席に着くことになった。初対面の将校たちに囲まれるのは少し緊張したが、彼らは思いのほか気さくで笑顔の絶えない会話が続いた。橘は話し上手で場をよく回し、本庄は穏やかで聞き上手。荒木はやや軽口だがどこか憎めない。
そんな中、ふと先程の出来事を思い返す。鯉登が彼らとの間に割って入ってきた時のことを。
菊乃の胸の奥が、擽ったいような、ひりつくような、得体の知れない感覚に包まれた。慌てて懐から献立表を取り出し、気を反らせる。目の前には、全員分の配膳が揃ったところだった。
「今夜は、桜鱒の味噌漬け焼きと、山菜の炊き合わせです」
「美味そう!噂通りだな」
「これに惚れてる奴、きっと何人もいるぞ」
橘と荒木が大げさに言って、本庄がそれに笑いながら頷く。彼らの視線が、さり気なく鯉登のほうへと流れていくのが見えた。案の定、彼らは顔を見合わせ、にやにやと意味ありげな笑みを交わしている。
菊乃も思わず鯉登を見た。眉間にうっすらと皺を寄せた彼は、口元をぴたりと引き結んだまま。一瞬目が合うと、ふいと視線を外されてしまった。
再びこもる得体のしれない熱。胸の奥が膨張したように息苦しくなる。それは、同時に泣きたくなるほど切ない感情でもあった。
そんなはずはない。そんなこと、あってはいけない。
彼は陸軍将校で、自分は、芸者なのだから──。
こんな些細なやり取りで自覚してしまうなんて思ってもいなかった。
菊乃は、これ以上膨らまぬように、まだ形になっていない芽をそっと摘む。胸に広がるざわめきを、微笑みに変えて隠した。
あれから数日が経ち、菊乃は少しずつ兵舎暮らしに馴染み始めていた。
朝食は見張りの兵士が偕行社まで届けてくれ、午前中は読書や任されている献立表の作成に充てる。経理部との確認事項が生じた際には、見張りを伴って聯隊兵舎へ足を運ぶ。
昼と夕の食事は、月島とともに下士居室で取るか、あるいは鯉登に呼ばれて将校集会所へ向かうこともあった。
それ以外の時間、日中は主に面会室の一角を借りて、縫い物をしたり献立の整理をして過ごすのが常だった。
「菊乃さん。昨日の魚介だしの煮物、すっげえ美味かったです!」
「俺は三日前の牛鍋小鉢!昔一度だけ行った牛鍋屋の味思い出したよ」
面会室にいると、時折兵士たちが気さくに声をかけてくるようになった。菊乃が献立を考えているという話は、いつの間にか知れ渡っていたらしい。その反応が素直に嬉しくて、つい菊乃も話し込んでしまうのだが、
「お前らなにサボってんだコラぁッ!」
と、最終的には上官に見つかり怒号が飛ぶ──。
それが、最近の“お決まり”となりつつあった。
「菊乃さん」
柔らかな声がかかった。顔を上げ目を向けると、そこに立っていたのは大澤だった。
「本日夜間は僕が担当するんですけど、夕食はどちらで?」
「今日は鯉登さんに呼ばれていて、集会所でいただく予定です」
「では、食事がお済みになった頃、将校集会所までお迎えに上がります」
聯隊兵舎内の移動は比較的自由に許されているものの、一歩外へ出る際や偕行社に滞在する時間は必ず見張りが付く。“保護”という名目での滞在である以上、致し方ない。大澤たちに押しつけがましいとこはなく、菊乃も素直に受け入れていた。それに、万が一にも菊乃の身に何かあれば、責任を問われるのは鯉登たちかもしれないのだ。
「献立、好評ですね。僕も正直言って菊乃さんのおかずの方が好きです」
さらりといつもの調子で言う大澤に、菊乃は自然と笑みを返した。
「ふふ、ありがとうございます」
そう答えながら、変わらない無邪気な笑顔に目を奪われた。
やがて、大澤が少し首を傾げ、
「……僕の顔に何かついてますか?」
「はっ」
我に返り、菊乃は慌てて首を横に振った。ここ数日、忙しい鯉登とは殆ど顔を合わせていなかった。無意識に、その寂しさを大澤との会話で紛らわしてしまっているのか──。
そんなことを自覚し、どこか後ろめたく感じる。
「ご、ごめんなさい。見すぎました……」
「いえ。菊乃さんのような綺麗な方に見られるのなら、本望ですよ」
さらっと、そんなことを言う。まっすぐで、擽ったい言葉を。
菊乃はその度に頬を染めて「……ありがとうございます」と控えめに返すのが精一杯だった。どこか鯉登に言われたような錯覚を覚えてしまうほど、大澤の放つ言葉は自然だった。──そんなこと、本人には絶対言えないけれど。
大澤は、会話の引き出しが多く話し上手だし、扉を先に開けたり、段差のある場所では手を差し出してくれるような男だった。生まれ育ちが良いのか、それとも単に身についた気配りなのか。どちらにせよ、堂々としたその在り方に菊乃は常々疑問に思っていた。どんな事情があって、陸軍兵の道を選んだのだろう、と。
「では、また後ほど」
そう言って、大澤は軽く頭を下げると、颯爽と面会室を後にした。その背筋の伸びた後ろ姿を、菊乃は静かに見送った。
──大澤のことで悶々とした胸の内は、鯉登の顔を見た瞬間にたちまち霧が晴れるように消えた。
「なんだか随分と久しい気がするな」
「はい。三日ぶり、ですもんね」
黄昏の空は朱から群青へと移り変わり、街灯の明かりがぽつりぽつりと灯り始めた頃。二人は、兵舎から将校集会所までの短い道のりを並んで歩いていた。遠くからは、兵士たちの笑い声が風に運ばれてくる。
小樽にいたころは、数日会わなくてもなんとも思わなかった。けれど、旭川に来てから毎日のように顔を合わせていたからか、たった数日が妙に長く感じるようになってしまった。
「献立のこと、将校の間でも話題になってるぞ」
「え。そうなんですか?」
「ああ。だから少しの間だが、私たちの分も作るよう頼むことになった」
「え!?」
驚きのあまり、菊乃の声がうわずった。慌てて両手で口を覆い、恥ずかしそうに俯く。そんな様子に、鯉登がふっと笑った。
「安上がりで美味いとなれば、満場一致で皆金を出した」
将校は、下士官兵と違って食費の手当が支給される。ただし尉官のそれは僅かで、大胆に使えば自分の首を絞めるし、逆に使い控えて余らせると周囲からあまりよく思われない。そういう事情で、特に下級の少尉たちはとにかく気を遣う立場なのだと、鯉登は苦笑混じりに語った。
「将校さんたち大変なんですね」
「だから、出世欲のある者も多い」
鯉登もそうなのだろうか──。
「鯉登さんも……?」
ぽつりと心に浮かんだ疑問がこぼれた瞬間、鯉登の表情がほんの一瞬微かに引き締まった。薄闇の中で差す僅かな影が、その鋭さを際立たせる。
「ああ。私は……上に行かねばならん」
“行きたい”ではなく、“行かなければならない”。
その選び取られた言葉の重さに、菊乃の胸が少し痛んだ。彼が背負わされているもの──それが、自分の想像の及ばぬほど、重く厳しいものであることだけは確かだった。
そのまま静かに歩みを進めるうち、二人は将校集会所の前に着いた。
鯉登が一歩前に出て、扉を開ける。その向こうから、にぎやかな笑い声と食事の匂いが漂ってきた。
「……どうした?そんなに頭を振って」
「な、な、何でもないですっ!」
菊乃は慌てて言った。扉を開ける鯉登に、一瞬だけ大澤の姿を重ねてしまった。それが自分でも信じられず、頭で振り払う。
「お。そちらが噂のお嬢さんか、鯉登」
中に入った瞬間、どこか砕けた声が響いた。テーブルを囲んで談笑していた三人の青年将校が、菊乃の姿に目を向けていた。顔を合わせるのは初めてだが、皆どこか人懐っこい雰囲気がある。
「こんばんは。魁燿亭の菊乃と申します」
いつものように挨拶をすると、三人は一斉に立ち上がって菊乃の元へと近寄ってきた。
「こっちの二人は部隊が違うんだけど、全員鯉登と同期なんだ。俺、橘」
「砲兵少尉の本庄だ」
「騎兵少尉の荒木です。よろしく」
「橘さん、本庄さん、荒木さんですね。よろし──」
言い終わる前に遮られた。突然前に出てきた鯉登は、菊乃の目の前で三人を押しのけ、
「近い」
と捨てるように一言吐いた。
菊乃は目を瞬かせた。目前に、鯉登の背中がぴたりと立ちはだかっている。
しかし、橘たちは特に気にした様子もなく、にやにやと笑って、
「成程、ナルホド。そういう感じか」
「これは手厳しいなあ、鯉登。菊乃さん、後でこっそり抜け出して飲みに行きましょうよ」
「おいッ、荒木」
「冗談だよ、冗談。さぁ菊乃さん。こっちの席どうぞ」
その流れで、菊乃は橘たちと同じ席に着くことになった。初対面の将校たちに囲まれるのは少し緊張したが、彼らは思いのほか気さくで笑顔の絶えない会話が続いた。橘は話し上手で場をよく回し、本庄は穏やかで聞き上手。荒木はやや軽口だがどこか憎めない。
そんな中、ふと先程の出来事を思い返す。鯉登が彼らとの間に割って入ってきた時のことを。
菊乃の胸の奥が、擽ったいような、ひりつくような、得体の知れない感覚に包まれた。慌てて懐から献立表を取り出し、気を反らせる。目の前には、全員分の配膳が揃ったところだった。
「今夜は、桜鱒の味噌漬け焼きと、山菜の炊き合わせです」
「美味そう!噂通りだな」
「これに惚れてる奴、きっと何人もいるぞ」
橘と荒木が大げさに言って、本庄がそれに笑いながら頷く。彼らの視線が、さり気なく鯉登のほうへと流れていくのが見えた。案の定、彼らは顔を見合わせ、にやにやと意味ありげな笑みを交わしている。
菊乃も思わず鯉登を見た。眉間にうっすらと皺を寄せた彼は、口元をぴたりと引き結んだまま。一瞬目が合うと、ふいと視線を外されてしまった。
再びこもる得体のしれない熱。胸の奥が膨張したように息苦しくなる。それは、同時に泣きたくなるほど切ない感情でもあった。
そんなはずはない。そんなこと、あってはいけない。
彼は陸軍将校で、自分は、芸者なのだから──。
こんな些細なやり取りで自覚してしまうなんて思ってもいなかった。
菊乃は、これ以上膨らまぬように、まだ形になっていない芽をそっと摘む。胸に広がるざわめきを、微笑みに変えて隠した。
