本編
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
保護(二)
菊乃は、偕行社という建物で過ごすことになった。兵士たちが寝泊まりする兵舎からは、少し離れた場所にある洋風建築の施設だ。白く塗られた外壁にアーチ型の窓、二階には屋根のない広々としたベランダが張り出し、どこか異国の趣を漂わせている。天気の良い日にここで佇めば、きっと風が心地よいだろう──。そんな想像が自然と浮かぶ。
「え。ここ、一人で使っていいんですか?」
「ああ。普段は会議や宴会場に使うんだがな。暫く使用予定はないから、気兼ねはいらん」
ぽかんと口を開けたまま、菊乃は偕行社を見上げた。師団本部の広大な敷地もさることながら、建物ひとつとってもこんな大胆な使い方をするとは──。
ここに来て、菊乃の見識は広がるばかりだ。
「基本はここで過ごしてもらうことになる。あまり自由にさせてやれなくてな。すまない」
申し訳なさそうな鯉登の声に、菊乃は首を振った。
「承知の上です」
「常に見張りをつける。信用のおける者に任せるから、安心していい」
配慮の伝わる言い様に、菊乃はふっと笑みを漏らす。
「至れり尽くせり、って感じ」
「当然だろう。お前はいわば万緑叢中紅一点だ。ここではみだりに気を許してくれるな」
鯉登の一言には、彼なりの危惧がこもっていた。
菊乃は真剣な顔で、ゆるやかに背中側の帯へと手を差し入れる。そこから取り出されたのは、銀の光を帯びた小型のナガンだった。
「女将さんが持たせてくれて……身体検査されたらどうしようかとヒヤヒヤしました」
「……そうだったな」
魁燿亭の人間全員、銃器を扱い襲撃者を迎え撃った。菊乃もまた例外ではない。
鯉登は複雑な顔つきで「見なかったことにする」と言った。菊乃は、静かにそれを帯の中へと戻す。
「だがそれでも、だ。先程のような宣伝行為も禁止だ!」
先程の──何を指しているのかは、明白だった。
「えーっ!」
「えーじゃない!」
不満そうに唇を尖らせ、菊乃はしょぼんと肩を落とした。
鯉登は、そんな姿に横目をやりながらぼそりと、
「……おいがおっじゃっで 、やらんでよかっ 」
「え、なんて?」
「なんもなか!あぁほら、荷物を置いて次いくぞ!」
耳まで赤くなった鯉登は、ボソリとなにか呟いたかと思うと顔を背けながら早足で歩き出した。菊乃はくすりと笑いながらその後ろに続く。
あてがわれた部屋に荷物を置くと、再び歩みを進めた。妙に急かされ、菊乃はほんのひと息つく間もなかった。
──次の場所へ向かう道中、菊乃は意外な光景に驚く。軍の敷地内とはいえ、兵士以外の人間も意外に多い。行商人に職人風の男たち、荷を抱えた運送人らしき人物。女性の姿も時折見かける。
きょろきょろと視線を走らせながら進むうち、鯉登たちが所属する歩兵第27聯隊の兵舎が見えてきた。偕行社から歩いて数分。何かあればすぐに駆けつけてもらえる距離に安堵する。
建物の中に入ると、軍服姿の兵士たちが忙しなく行き交っていた。皆、鯉登を見かけるたび立ち止まり、直立不動で敬礼を送る。その光景に菊乃は圧倒された。鯉登の背中が、少しだけ逞しく見えてきた。
「大澤」
ふいに鯉登が誰かの名を呼んだ。正面から一人の青年が駆け寄ってくる。
「はい!」
彼はまっすぐ張った声で応えた。鯉登よりわずかに背が低く華奢な印象を受けるが、整った顔立ちと澄んだ目が印象的だった。
「彼女が偕行社に滞在する菊乃だ。菊乃、今日から見張りを担当する大澤晴真上等兵だ」
「大澤晴真です!」
「はじめまして。魁燿亭の菊乃と申します」
「田島はどこにいる?」
「錬兵場からまだ戻っておりません!」
「じゃあ、あとで紹介してやってくれ」
張りのある返事を返した大澤を、菊乃はじっと観察した。そうしていると、不意に彼と目が合う。
その瞬間、大澤が破顔した。その無邪気な笑みに、菊乃はどこか見覚えを感じる。
それは、鯉登がふとした拍子に見せる笑顔に似ていた。そう思うと、心臓が弾かれるように大きく鳴った。
そんなことを考えているうち、大澤は鯉登に一言告げると、一礼して足早に去っていった。思わずその背を目で追いそうになり、菊乃はハッと我に返る。慌てて鯉登の顔を伺うと、彼は何も気にしていない様子で、次の案内先に向けて歩き出そうとしていた。
「今日は、今の大澤と田島という男が担当になっている。何かあれば二人に伝えてくれ」
「あっ、はい。分かりました」
そう言って、再び歩き出す。菊乃は、逸る鼓動を抱えたまま、無言でその背を追いかけた。
🎏side story🎏
旭川に戻ったときには、既に夜も更け営内は静まり返っていた。星の瞬きが鋭く、濃紺の空を背景に門の影が浮かび上がる。それは、どこか硬質で冷たく、まるで疲れ切った心身に更なる追い打ちをかけるようだった。
小樽での騒動以来、連日の報告、事情聴取、混乱収拾──。
ようやく一息つけるかと思った矢先、聯隊長の淀川から至急の呼び出しが届いた。
「……なんでしょうね」
「分からん……面倒ごとでなければいいが」
鯉登も月島も、ここまでろくに眠れていなかった。疲労を隠せぬまま、二人は庁舎内の扉の前に立つ。その奥から漏れる明かりが、少し不気味に感じられた。
鯉登の指先が、木製の扉を丁寧に叩く。即座に許可の声が返り、静かに扉を押し開けた。
「失礼いたします。鯉登、月島ただいま戻りました」
そこには、淀川がひとり執務机に肘をついていた。立ち上がり無言で二人を一瞥する。鯉登たちは敬礼し、直立不動のまま言葉を待った。
「ご苦労だった。例の、小樽の騒動の件だ」
その言葉に、空気が張り詰めた。
「被害者である料亭の芸者──菊乃といったか。その娘を師団本部で一時保護せよと中央から命を受けた」
「……は?」
思わず漏れた鯉登の声。月島も目を見開いた。静けさのせいか、心臓の鼓動がやけにうるさく響く。
「お待ちください。中央にも今回の件、ご報告を……?」
「私からはしておらん。向こうが聞いてきた。概ね事情を知っていたようだから、その流れで娘のことを伝えたらそういう話になった」
腑に落ちないと言わんばかりの二人の様子を察してか「向こうの新聞にでも載ったのだろう」と淀川が言った。
「……ちなみにだが、師団長を通さず直接聯隊長の私へ下りてきた」
「な……!?」
鯉登の瞳が揺れる。月島も僅かに肩を強張らせた。
「鯉登。一応聞くが今回の騒動……“鶴見絡み”じゃないだろうな?」
淀川の声音は低く、硬い。
「いえ、それはあり得ません」
迷いを悟られぬよう、鯉登は意識して語気を強めた。だが、内心のざわめきは抑えようもない。月島の視線も厳しい光を宿す。
「……なら分かるな。これは好機だ。中央に恩を売れば、お前の陸大推薦の件も有利に運ぶだろう」
肌着に汗がじっとりと滲む。鯉登の背筋を伝う冷たい感覚は、見えぬ鎖で繋がれたような不快さを伴っていた。
「励めよ。その娘、医者の許可が下りたら連れてこい」
「──は!」
「以上だ」
──扉を閉めた瞬間、鯉登はようやく息を吐いた。どれほど身体が強張っていたのか、背に鈍い痛みが走る。
「中央が、なぜそこまで気にする……?」
「……まぁ、あの料亭は中央の高官も立ち寄る有名どころですから、ロシア人の襲撃と聞いて話が大きくなった可能性もあります」
「わざわざ27聯隊を名指しだぞ?一体何が目的だ……」
二人の足音が、夜の廊下に乾いた音を落とす中、再び沈黙が流れる。
暫くして、月島が前を見据えながら、
「警戒は必要でしょうが……“保護”であれば菊乃さんにとっても悪い話じゃないのでは?」
「……そう、か。そうだな……」
鯉登は頷いた。だが、どこか上の空だった。胸の奥には釈然としない、どこか薄気味悪さが残っていた。
菊乃は、偕行社という建物で過ごすことになった。兵士たちが寝泊まりする兵舎からは、少し離れた場所にある洋風建築の施設だ。白く塗られた外壁にアーチ型の窓、二階には屋根のない広々としたベランダが張り出し、どこか異国の趣を漂わせている。天気の良い日にここで佇めば、きっと風が心地よいだろう──。そんな想像が自然と浮かぶ。
「え。ここ、一人で使っていいんですか?」
「ああ。普段は会議や宴会場に使うんだがな。暫く使用予定はないから、気兼ねはいらん」
ぽかんと口を開けたまま、菊乃は偕行社を見上げた。師団本部の広大な敷地もさることながら、建物ひとつとってもこんな大胆な使い方をするとは──。
ここに来て、菊乃の見識は広がるばかりだ。
「基本はここで過ごしてもらうことになる。あまり自由にさせてやれなくてな。すまない」
申し訳なさそうな鯉登の声に、菊乃は首を振った。
「承知の上です」
「常に見張りをつける。信用のおける者に任せるから、安心していい」
配慮の伝わる言い様に、菊乃はふっと笑みを漏らす。
「至れり尽くせり、って感じ」
「当然だろう。お前はいわば万緑叢中紅一点だ。ここではみだりに気を許してくれるな」
鯉登の一言には、彼なりの危惧がこもっていた。
菊乃は真剣な顔で、ゆるやかに背中側の帯へと手を差し入れる。そこから取り出されたのは、銀の光を帯びた小型のナガンだった。
「女将さんが持たせてくれて……身体検査されたらどうしようかとヒヤヒヤしました」
「……そうだったな」
魁燿亭の人間全員、銃器を扱い襲撃者を迎え撃った。菊乃もまた例外ではない。
鯉登は複雑な顔つきで「見なかったことにする」と言った。菊乃は、静かにそれを帯の中へと戻す。
「だがそれでも、だ。先程のような宣伝行為も禁止だ!」
先程の──何を指しているのかは、明白だった。
「えーっ!」
「えーじゃない!」
不満そうに唇を尖らせ、菊乃はしょぼんと肩を落とした。
鯉登は、そんな姿に横目をやりながらぼそりと、
「……
「え、なんて?」
「なんもなか!あぁほら、荷物を置いて次いくぞ!」
耳まで赤くなった鯉登は、ボソリとなにか呟いたかと思うと顔を背けながら早足で歩き出した。菊乃はくすりと笑いながらその後ろに続く。
あてがわれた部屋に荷物を置くと、再び歩みを進めた。妙に急かされ、菊乃はほんのひと息つく間もなかった。
──次の場所へ向かう道中、菊乃は意外な光景に驚く。軍の敷地内とはいえ、兵士以外の人間も意外に多い。行商人に職人風の男たち、荷を抱えた運送人らしき人物。女性の姿も時折見かける。
きょろきょろと視線を走らせながら進むうち、鯉登たちが所属する歩兵第27聯隊の兵舎が見えてきた。偕行社から歩いて数分。何かあればすぐに駆けつけてもらえる距離に安堵する。
建物の中に入ると、軍服姿の兵士たちが忙しなく行き交っていた。皆、鯉登を見かけるたび立ち止まり、直立不動で敬礼を送る。その光景に菊乃は圧倒された。鯉登の背中が、少しだけ逞しく見えてきた。
「大澤」
ふいに鯉登が誰かの名を呼んだ。正面から一人の青年が駆け寄ってくる。
「はい!」
彼はまっすぐ張った声で応えた。鯉登よりわずかに背が低く華奢な印象を受けるが、整った顔立ちと澄んだ目が印象的だった。
「彼女が偕行社に滞在する菊乃だ。菊乃、今日から見張りを担当する大澤晴真上等兵だ」
「大澤晴真です!」
「はじめまして。魁燿亭の菊乃と申します」
「田島はどこにいる?」
「錬兵場からまだ戻っておりません!」
「じゃあ、あとで紹介してやってくれ」
張りのある返事を返した大澤を、菊乃はじっと観察した。そうしていると、不意に彼と目が合う。
その瞬間、大澤が破顔した。その無邪気な笑みに、菊乃はどこか見覚えを感じる。
それは、鯉登がふとした拍子に見せる笑顔に似ていた。そう思うと、心臓が弾かれるように大きく鳴った。
そんなことを考えているうち、大澤は鯉登に一言告げると、一礼して足早に去っていった。思わずその背を目で追いそうになり、菊乃はハッと我に返る。慌てて鯉登の顔を伺うと、彼は何も気にしていない様子で、次の案内先に向けて歩き出そうとしていた。
「今日は、今の大澤と田島という男が担当になっている。何かあれば二人に伝えてくれ」
「あっ、はい。分かりました」
そう言って、再び歩き出す。菊乃は、逸る鼓動を抱えたまま、無言でその背を追いかけた。
🎏side story🎏
旭川に戻ったときには、既に夜も更け営内は静まり返っていた。星の瞬きが鋭く、濃紺の空を背景に門の影が浮かび上がる。それは、どこか硬質で冷たく、まるで疲れ切った心身に更なる追い打ちをかけるようだった。
小樽での騒動以来、連日の報告、事情聴取、混乱収拾──。
ようやく一息つけるかと思った矢先、聯隊長の淀川から至急の呼び出しが届いた。
「……なんでしょうね」
「分からん……面倒ごとでなければいいが」
鯉登も月島も、ここまでろくに眠れていなかった。疲労を隠せぬまま、二人は庁舎内の扉の前に立つ。その奥から漏れる明かりが、少し不気味に感じられた。
鯉登の指先が、木製の扉を丁寧に叩く。即座に許可の声が返り、静かに扉を押し開けた。
「失礼いたします。鯉登、月島ただいま戻りました」
そこには、淀川がひとり執務机に肘をついていた。立ち上がり無言で二人を一瞥する。鯉登たちは敬礼し、直立不動のまま言葉を待った。
「ご苦労だった。例の、小樽の騒動の件だ」
その言葉に、空気が張り詰めた。
「被害者である料亭の芸者──菊乃といったか。その娘を師団本部で一時保護せよと中央から命を受けた」
「……は?」
思わず漏れた鯉登の声。月島も目を見開いた。静けさのせいか、心臓の鼓動がやけにうるさく響く。
「お待ちください。中央にも今回の件、ご報告を……?」
「私からはしておらん。向こうが聞いてきた。概ね事情を知っていたようだから、その流れで娘のことを伝えたらそういう話になった」
腑に落ちないと言わんばかりの二人の様子を察してか「向こうの新聞にでも載ったのだろう」と淀川が言った。
「……ちなみにだが、師団長を通さず直接聯隊長の私へ下りてきた」
「な……!?」
鯉登の瞳が揺れる。月島も僅かに肩を強張らせた。
「鯉登。一応聞くが今回の騒動……“鶴見絡み”じゃないだろうな?」
淀川の声音は低く、硬い。
「いえ、それはあり得ません」
迷いを悟られぬよう、鯉登は意識して語気を強めた。だが、内心のざわめきは抑えようもない。月島の視線も厳しい光を宿す。
「……なら分かるな。これは好機だ。中央に恩を売れば、お前の陸大推薦の件も有利に運ぶだろう」
肌着に汗がじっとりと滲む。鯉登の背筋を伝う冷たい感覚は、見えぬ鎖で繋がれたような不快さを伴っていた。
「励めよ。その娘、医者の許可が下りたら連れてこい」
「──は!」
「以上だ」
──扉を閉めた瞬間、鯉登はようやく息を吐いた。どれほど身体が強張っていたのか、背に鈍い痛みが走る。
「中央が、なぜそこまで気にする……?」
「……まぁ、あの料亭は中央の高官も立ち寄る有名どころですから、ロシア人の襲撃と聞いて話が大きくなった可能性もあります」
「わざわざ27聯隊を名指しだぞ?一体何が目的だ……」
二人の足音が、夜の廊下に乾いた音を落とす中、再び沈黙が流れる。
暫くして、月島が前を見据えながら、
「警戒は必要でしょうが……“保護”であれば菊乃さんにとっても悪い話じゃないのでは?」
「……そう、か。そうだな……」
鯉登は頷いた。だが、どこか上の空だった。胸の奥には釈然としない、どこか薄気味悪さが残っていた。
