本編
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保護(一)
はじめて見る町並み。立派な大橋。まっすぐ伸びる広道。
菊乃は、高揚感を抑えられなかった。先程まで抱いていたちょっとの不安なんて、あっという間に浮き立つ気分へと変わっていく。
「わぁ……わぁ……っ」
驚きの声が自然とこぼれた。
菊乃は、旭川の街に敷かれた路面軌道、馬車鉄道に乗っていた。線路の上をゆっくりと進む木製の車両を、たった一頭の馬が頼もしく引いている。たまに乗る一般的な馬車とはまた違う趣に、菊乃は窓に顔を寄せ目を輝かせた。
「菊乃さん。ちょっと落ち着きましょうか」
子どものように興奮する菊乃を、横に座る月島が窘めた。
「菊乃。さっき停車場の前で豆菓子を売っていたんだ。食べるか?」
月島とは反対側から、鯉登が掌いっぱいに乗せた菓子を差し出す。ちょうど小腹が空いていた菊乃は「ありがとうございます」と礼を言って、一粒口に放り込んだ。
「ん、甘くておいしいです」
「うふふ、もっと食べろ」
「月島さんも一緒にいただきましょう?」
「私は結構です」
いつもの調子で遠慮する月島に、菊乃はくすりと笑った。
馬蹄と車輪の音を立てながら、車両は旭川の町を進んでいく。通りには、洋装の紳士や和装の女性たちが行き交い、馬車や荷車、時折軍服を纏う青年たちの姿もあった。その一つひとつが新鮮に見えて、菊乃はきょろきょろと目を奪われてばかりだ。
乗車した一行が向かうは、ここ旭川に構える陸軍第七師団本部である。
遡ること二か月前──。魁燿亭襲撃事件は、軍本部をも巻き込む大事となった。襲撃犯がロシア人集団だったことが、大きく問題視されたのだという。
「そういえば、いつまでお世話になるんでしょう?私……」
控えめな声色で菊乃がぽつりと尋ねた。
話によれば、本部の偉い人(菊乃が理解できる精いっぱいの呼称)から「菊乃を師団本部にて一時保護せよ」という指令が下ったらしい。
「我々にも、具体的な期間は示されていません。“一時”とのことなのでそう長くはない、とは思いますが……」
月島の声には、どこか歯切れの悪さがあった。その言葉の裏には“長引く可能性もある”ことを含んでいる。
「菊乃。心配するな。なるべく早く戻れるように私たちも善処する」
「……はい。ありがとうございます」
明るく言う鯉登に、菊乃は柔らかく微笑んだ。鯉登たちがいる旭川への滞在は、身に起こったことを鑑みるに、菊乃にとっても悪い話ではなかった。
がたん、と馬車が大きく揺れた。曲がり角を過ぎた視界の先に、大きな造りの建物がずらりと並ぶ広大な敷地が姿を現した。
「……第、七、師団、司令部」
停車場で降りるとすぐ先に、重厚な門柱と堂々とした看板がそびえ立っていた。
菊乃は、大胆に書き連ねられた文字列を追う。しかし、そのすぐ横にも“なんたら司令部”“こーたら司令部”と別の名の看板がいくつもあって、いろんな司令部があるんだな。と心の中で唱えると、その文字数の多さに途中で読むのをやめた。
「じゃあ、最終確認だが」
そう切り出した鯉登へ、菊乃と月島の視線がぴたりと向く。
「これから淀川中佐のところへ到着の報告に行く。菊乃、事前に打ち合わせした事項は覚えているな?」
「はい。“鶴見さんのことは絶対口にしない”──でいいんですよね」
鶴見と菊乃が過去に接点を持っていたという事実。知る限り、魁燿亭の人間以外に鯉登と月島しか知らない。それが上層部に伝われば、大変話がこじれる可能性があった。
「写真も……半分、置いてきました」
鶴見と森岡が写る写真。半分は切り取り、鶴見が写りこんでいる部分を女将に預けてきた。致し方ないにしても、写真を裂く時には鶴見の面影が目に焼きついて、菊乃はたいそう心苦しく切り取るまでに随分と躊躇った。
「それ以外の情報は、概ね正式に報告が上がっている」
鯉登が簡潔に説明する。
菊乃が身寄りのない記憶喪失者であること。現在は魁燿亭の芸者であること。数少ない手持ち品の中に森岡の写真があり、彼と何かしらの関わりが疑われること──。
だから、再び彼女が狙われる可能性がある、ということ。
「……大丈夫ですか?菊乃さん」
眉間にうっすらと皺を寄せたままの菊乃に、月島が声をかけた。その声は柔らかいが、底にある警戒心は微かに滲んでいる。
「私と鯉登少尉が傍につきますので、危うくなれば我々がなんとかします」
その真剣な声に、菊乃はきょとんと目を丸くした。
「あ、違うんです。そのことじゃなくて……」
言い淀みながら、視線を落とす。
「写真……なんだか鶴見さんと森岡さんの仲を引き裂いちゃったみたいだったから。鶴見さんに申し訳ないなって、ちょっとだけ悲しくなっちゃったというか……」
声は消え入りそうに小さく、顔には複雑な色が差していた。
その様子に、鯉登と月島は暫し沈黙したまま菊乃を見つめる。
「月島。菊乃はこう見えて図太いから心配はいらん」
「最近悪戯される機会が少なかったので、失念していました」
「え、どういう意味ですか?」
事情が飲み込めないままの菊乃を横目に、二人は既に歩き出していた。
「あ、ちょっと、待ってください!」
先ゆく二人の後を、菊乃は慌てて追いかけた。
──応接室の扉が静かに閉まると、室内は思いのほか無機質で、しんと静まり返っていた。壁に掛けられた賞状や色褪せた旭日旗、勲章をずらりと着けた偉人たちの写真──。
ひと通り見回した菊乃は、月島に勧められた椅子に腰かけると、指先で袂を撫でながら暇な時間を持て余す。
後方では、後ろで手を組む鯉登と直立する月島が、表情一つ動かさず静かに待機している。鮮やかな和装の菊乃だけが、異物のように浮いて見えた。
やがて、廊下から足音が響いて扉が開かれた。姿を現した淀川を、鯉登と月島が敬礼で迎える。
「中佐殿、こちらが──」
その時、鯉登の言葉を遮るように菊乃がすっと立ち上がった。
「お初にお目にかかります。小樽 魁燿亭から参りました菊乃と申します」
一瞬にして夜の顔へと切り替わった。予期しなかった菊乃の変貌ぶりに、後方で控えていた鯉登と月島は思わず目を見開く。
「淀川です。遠路遥々ご足労いただき感謝します。菊乃殿」
「とんでもないことでございます。この度は、淀川様をはじめ師団の皆様からのご厚情にあずかり、心より御礼申し上げます」
菊乃はゆったりと膝を折り、淑やかに頭を下げる。その指先まで品をたたえた仕草と、控えめながらも漂う香の香りに、その場の空気が和らいだ。
「む。れ、礼には及びません。国民の安全のため尽力することが、我々の使命ですから」
淀川の頬が、じわりと赤らむ。
鯉登のこめかみに筋が浮かぶ。
月島の眉が僅かに動く。
そんな周囲の様子など意に介さず、菊乃は伏し目がちに艶を含んだ視線を淀川へ向けた。
「軍の本部とはどれ程殺伐とした場所かと、とても不安でした……けれど、淀川様のようにご見識とご経験に富むお方がいらしてくだされば、安心して過ごせそうです」
「も、勿論、菊乃殿が心安らかにお過ごしいただけるよう万全を尽くしますぞ」
前のめりになる淀川。
今にも飛び出しかねない鯉登。
それを腕で押しとどめる月島。
菊乃はそこで、ふぅ、と色香を漂わせる息を小さく吐いた。
「淀川様。菊乃から、ひとつお願いがあるのですけれど……」
もじりと身をよじる仕草を見せながら、菊乃は小首をかしげ上目づかいに視線を送る。
「な、なんだ。言ってみなさい」
淀川の喉がごくりと鳴った。どこか期待に満ちた声を聞き、菊乃は満面の笑みを浮かべ、
「小樽へお越しの際は、是非魁燿亭まで会いに来てくださいねっ」
そう言って、さっと手元から差し出された花名刺。淀川は、少し面食らいながらもそれを両手で受け取った。
そこで部下たちの視線に気づき、慌てるように一つ咳払いをすると、
「菊乃殿に、施設内を案内して差し上げろ」
それだけ言い残し、踵を返すと淀川は足早に応接室を後にした。
扉が閉まるのを見計らい、菊乃はくるりと二人の方へ振り返る。
「女将さんから『手ぶらで帰ってきては駄目よ』って言われちゃって」
ぺろっと舌を出して笑うその顔は、先ほどまでの艶めいた表情とは別人のように愛嬌に満ちていた。
その瞬間、鯉登が“グンニャ”と音を立てるように膝から後方へと崩れ落ちた。隣では、月島がひとつため息をつき、呆れたような、それでいてどこか感心したような目で菊乃を見つめた。
「あなた方以上に強かな女性はいないでしょうね」
その言葉に、菊乃はくすくすと花が咲いたように笑った。
はじめて見る町並み。立派な大橋。まっすぐ伸びる広道。
菊乃は、高揚感を抑えられなかった。先程まで抱いていたちょっとの不安なんて、あっという間に浮き立つ気分へと変わっていく。
「わぁ……わぁ……っ」
驚きの声が自然とこぼれた。
菊乃は、旭川の街に敷かれた路面軌道、馬車鉄道に乗っていた。線路の上をゆっくりと進む木製の車両を、たった一頭の馬が頼もしく引いている。たまに乗る一般的な馬車とはまた違う趣に、菊乃は窓に顔を寄せ目を輝かせた。
「菊乃さん。ちょっと落ち着きましょうか」
子どものように興奮する菊乃を、横に座る月島が窘めた。
「菊乃。さっき停車場の前で豆菓子を売っていたんだ。食べるか?」
月島とは反対側から、鯉登が掌いっぱいに乗せた菓子を差し出す。ちょうど小腹が空いていた菊乃は「ありがとうございます」と礼を言って、一粒口に放り込んだ。
「ん、甘くておいしいです」
「うふふ、もっと食べろ」
「月島さんも一緒にいただきましょう?」
「私は結構です」
いつもの調子で遠慮する月島に、菊乃はくすりと笑った。
馬蹄と車輪の音を立てながら、車両は旭川の町を進んでいく。通りには、洋装の紳士や和装の女性たちが行き交い、馬車や荷車、時折軍服を纏う青年たちの姿もあった。その一つひとつが新鮮に見えて、菊乃はきょろきょろと目を奪われてばかりだ。
乗車した一行が向かうは、ここ旭川に構える陸軍第七師団本部である。
遡ること二か月前──。魁燿亭襲撃事件は、軍本部をも巻き込む大事となった。襲撃犯がロシア人集団だったことが、大きく問題視されたのだという。
「そういえば、いつまでお世話になるんでしょう?私……」
控えめな声色で菊乃がぽつりと尋ねた。
話によれば、本部の偉い人(菊乃が理解できる精いっぱいの呼称)から「菊乃を師団本部にて一時保護せよ」という指令が下ったらしい。
「我々にも、具体的な期間は示されていません。“一時”とのことなのでそう長くはない、とは思いますが……」
月島の声には、どこか歯切れの悪さがあった。その言葉の裏には“長引く可能性もある”ことを含んでいる。
「菊乃。心配するな。なるべく早く戻れるように私たちも善処する」
「……はい。ありがとうございます」
明るく言う鯉登に、菊乃は柔らかく微笑んだ。鯉登たちがいる旭川への滞在は、身に起こったことを鑑みるに、菊乃にとっても悪い話ではなかった。
がたん、と馬車が大きく揺れた。曲がり角を過ぎた視界の先に、大きな造りの建物がずらりと並ぶ広大な敷地が姿を現した。
「……第、七、師団、司令部」
停車場で降りるとすぐ先に、重厚な門柱と堂々とした看板がそびえ立っていた。
菊乃は、大胆に書き連ねられた文字列を追う。しかし、そのすぐ横にも“なんたら司令部”“こーたら司令部”と別の名の看板がいくつもあって、いろんな司令部があるんだな。と心の中で唱えると、その文字数の多さに途中で読むのをやめた。
「じゃあ、最終確認だが」
そう切り出した鯉登へ、菊乃と月島の視線がぴたりと向く。
「これから淀川中佐のところへ到着の報告に行く。菊乃、事前に打ち合わせした事項は覚えているな?」
「はい。“鶴見さんのことは絶対口にしない”──でいいんですよね」
鶴見と菊乃が過去に接点を持っていたという事実。知る限り、魁燿亭の人間以外に鯉登と月島しか知らない。それが上層部に伝われば、大変話がこじれる可能性があった。
「写真も……半分、置いてきました」
鶴見と森岡が写る写真。半分は切り取り、鶴見が写りこんでいる部分を女将に預けてきた。致し方ないにしても、写真を裂く時には鶴見の面影が目に焼きついて、菊乃はたいそう心苦しく切り取るまでに随分と躊躇った。
「それ以外の情報は、概ね正式に報告が上がっている」
鯉登が簡潔に説明する。
菊乃が身寄りのない記憶喪失者であること。現在は魁燿亭の芸者であること。数少ない手持ち品の中に森岡の写真があり、彼と何かしらの関わりが疑われること──。
だから、再び彼女が狙われる可能性がある、ということ。
「……大丈夫ですか?菊乃さん」
眉間にうっすらと皺を寄せたままの菊乃に、月島が声をかけた。その声は柔らかいが、底にある警戒心は微かに滲んでいる。
「私と鯉登少尉が傍につきますので、危うくなれば我々がなんとかします」
その真剣な声に、菊乃はきょとんと目を丸くした。
「あ、違うんです。そのことじゃなくて……」
言い淀みながら、視線を落とす。
「写真……なんだか鶴見さんと森岡さんの仲を引き裂いちゃったみたいだったから。鶴見さんに申し訳ないなって、ちょっとだけ悲しくなっちゃったというか……」
声は消え入りそうに小さく、顔には複雑な色が差していた。
その様子に、鯉登と月島は暫し沈黙したまま菊乃を見つめる。
「月島。菊乃はこう見えて図太いから心配はいらん」
「最近悪戯される機会が少なかったので、失念していました」
「え、どういう意味ですか?」
事情が飲み込めないままの菊乃を横目に、二人は既に歩き出していた。
「あ、ちょっと、待ってください!」
先ゆく二人の後を、菊乃は慌てて追いかけた。
──応接室の扉が静かに閉まると、室内は思いのほか無機質で、しんと静まり返っていた。壁に掛けられた賞状や色褪せた旭日旗、勲章をずらりと着けた偉人たちの写真──。
ひと通り見回した菊乃は、月島に勧められた椅子に腰かけると、指先で袂を撫でながら暇な時間を持て余す。
後方では、後ろで手を組む鯉登と直立する月島が、表情一つ動かさず静かに待機している。鮮やかな和装の菊乃だけが、異物のように浮いて見えた。
やがて、廊下から足音が響いて扉が開かれた。姿を現した淀川を、鯉登と月島が敬礼で迎える。
「中佐殿、こちらが──」
その時、鯉登の言葉を遮るように菊乃がすっと立ち上がった。
「お初にお目にかかります。小樽 魁燿亭から参りました菊乃と申します」
一瞬にして夜の顔へと切り替わった。予期しなかった菊乃の変貌ぶりに、後方で控えていた鯉登と月島は思わず目を見開く。
「淀川です。遠路遥々ご足労いただき感謝します。菊乃殿」
「とんでもないことでございます。この度は、淀川様をはじめ師団の皆様からのご厚情にあずかり、心より御礼申し上げます」
菊乃はゆったりと膝を折り、淑やかに頭を下げる。その指先まで品をたたえた仕草と、控えめながらも漂う香の香りに、その場の空気が和らいだ。
「む。れ、礼には及びません。国民の安全のため尽力することが、我々の使命ですから」
淀川の頬が、じわりと赤らむ。
鯉登のこめかみに筋が浮かぶ。
月島の眉が僅かに動く。
そんな周囲の様子など意に介さず、菊乃は伏し目がちに艶を含んだ視線を淀川へ向けた。
「軍の本部とはどれ程殺伐とした場所かと、とても不安でした……けれど、淀川様のようにご見識とご経験に富むお方がいらしてくだされば、安心して過ごせそうです」
「も、勿論、菊乃殿が心安らかにお過ごしいただけるよう万全を尽くしますぞ」
前のめりになる淀川。
今にも飛び出しかねない鯉登。
それを腕で押しとどめる月島。
菊乃はそこで、ふぅ、と色香を漂わせる息を小さく吐いた。
「淀川様。菊乃から、ひとつお願いがあるのですけれど……」
もじりと身をよじる仕草を見せながら、菊乃は小首をかしげ上目づかいに視線を送る。
「な、なんだ。言ってみなさい」
淀川の喉がごくりと鳴った。どこか期待に満ちた声を聞き、菊乃は満面の笑みを浮かべ、
「小樽へお越しの際は、是非魁燿亭まで会いに来てくださいねっ」
そう言って、さっと手元から差し出された花名刺。淀川は、少し面食らいながらもそれを両手で受け取った。
そこで部下たちの視線に気づき、慌てるように一つ咳払いをすると、
「菊乃殿に、施設内を案内して差し上げろ」
それだけ言い残し、踵を返すと淀川は足早に応接室を後にした。
扉が閉まるのを見計らい、菊乃はくるりと二人の方へ振り返る。
「女将さんから『手ぶらで帰ってきては駄目よ』って言われちゃって」
ぺろっと舌を出して笑うその顔は、先ほどまでの艶めいた表情とは別人のように愛嬌に満ちていた。
その瞬間、鯉登が“グンニャ”と音を立てるように膝から後方へと崩れ落ちた。隣では、月島がひとつため息をつき、呆れたような、それでいてどこか感心したような目で菊乃を見つめた。
「あなた方以上に強かな女性はいないでしょうね」
その言葉に、菊乃はくすくすと花が咲いたように笑った。
