本編
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露西亜(五)
玉が病院を後にしてすぐ、鯉登と月島が視線を合わせた。静まり返った空間に微かな衣擦れの音を立て、二人は寝台の傍らに腰を下ろす。
「まず、襲撃犯たちのことですが……全員、死亡が確認されました」
「……え?」
現実味のないその報せに、菊乃がどう言葉を返せばいいのかあぐねていると、
「殆どが、追い詰められると自ら拳銃で頭を撃った」
鯉登が、その顛末を告げた。それから続けて、
「ちなみにだが……喜八という男、分かるか?」
「は、はい。うちの料理人です」
「その男も、死体であがった」
あまりの衝撃に、思わず身体が強張る。
「ど、どこで……っ?」
「漁師が、海岸に浮いていたところを見つけたそうだ。頭を撃ちぬかれていた」
犠牲者は、いた──。
ぐらりと地が傾いたような錯覚に、菊乃は目を見開いた。目にじわりと涙が滲むのを見て、鯉登が言葉を選ぶように続ける。
「お前のせいじゃない」
「っでも……!」
「話は、まだ終りではない。……女将が言うには『喜八がロシア人たちを手引きしたんだろう』と」
「……どう、いうこと……?」
震える声で問い返す菊乃に、今度は月島が、
「『詳しくは話せない』と言われましたが……魁燿亭の主人から、奴には警戒するようにと忠告があったそうです。泳がせて、尻尾を掴むつもりだったと。……武器庫のことは伏せて」
「だが、今回の襲撃は想定外だった、ということか……」
鯉登の言葉に、月島が静かに頷いた。
喜八とは何者だったのか。襲撃犯全員の死を持って、彼らの真の目的を知る者はいなくなってしまった。
「それと、女将がロシア人たちの言葉を片言ながら覚えていたんです。……“森岡が隠した文書”、それを差し出せと言っていたようです」
その言葉に、菊乃の表情がわずかに揺れる。絵本に挟まっていたのは写真一枚のみだし、文書なんてもの検討すらつかない。
そこで菊乃は、自分もあのロシア人と対峙したときに一言二言、話しかけられたことを思い出した。なんだったか──言葉一つでも思い出せれば手がかりになるかもしれない。目を閉じて、記憶を辿る。
「……菊乃?どうした、どこか痛むか?」
「……ドーチ……」
絞るように発した言葉に、月島の眼差しが鋭くなる。
「隠し部屋で男に……彼が言ったんです。ドーチ、モリオカ……」
「Дочь──“娘”、です」
菊乃は、弾かれるように顔を上げた。月島を見る目に、確かな色が差す。
「『森岡の娘』、と……言ったのかもしれません」
月島が、かも、と曖昧な言い回しをしたにもかかわらず、この場にいる全員が同じ可能性を抱いていた。
──菊乃は、森岡の娘なのでは、と。
「あっ、鯉登さんにはお話ししましたが、私昨日思い出したんです。森岡さんと、どこか知らない家で一緒にいたことがあったの……!」
そう話す菊乃を、月島は表情を変えず黙って見ている。彼の視線はまるで、風のない冬の湖面のように静かで読めない。
「待て。しかし鶴見中尉殿は、『森岡に子はいなかった』と言ったのだったな?」
鯉登の言葉に、菊乃が迷いなく一つ頷く。
「当然調べたはずだ。あの鶴見中尉殿が、間違った情報を掴まされた、と、は……ッ」
「……そんなもの、嘘なんていくらでもつけるでしょう」
菊乃は月島を見た。鶴見が自分に嘘の情報を伝えていたかもしれない──それも驚きだったが、それ以上に今の言い方が胸に刺さった。
どこか冷たい、突き放すような声音。これまでの彼の印象とはかけ離れていた。
思わず鯉登を見れば、何かを飲み込むように口を閉じて視線を落としている。彼も、言葉尻が乱れるようだったのは気のせいか──。
その時、病室の扉が叩かれた。菊乃が返事を返すと、第七師団の兵士が一人、直立敬礼をして立っていた。
「失礼いたします!鯉登少尉殿、月島軍曹殿。淀川中佐より、至急旭川へ帰還するようにと連絡が!」
その声が部屋に響いた瞬間、菊乃がはっと息を呑んだ。
旭川──彼ら第七師団の本部がある町だ。菊乃が二人を見ると、互いに一度だけ視線を交わし、重いものを噛み締めるような表情をしていた。
「本日中に戻ると、そう伝えろ」
鯉登の指示に、兵士は敬礼し足音を残して退室していくと、病室に再び静けさが落ちた。
小樽を、立つ──その後はどうするのだろうか。ここに滞在する期間は限られているのだと、いつか言っていた。旭川へ戻ってそのまま──。
そう思った瞬間、胸の奥が不意に疼き出す。
「菊乃」
鯉登に名を呼ばれ、びくりと菊乃の肩が跳ねた。別れの言葉を言うのだと、咄嗟に目を伏せる。よりにもよって、今の状況でそれを聞きたくなかった。分かっていたはずなのに、心が追いついてこない。
「何日かかるか分からんが、必ず戻る。それまでしっかり療養していろ。いいな?」
その言葉に、菊乃は弾かれるように顔を上げた。見れば、鯉登は真剣な表情でまっすぐ菊乃を見つめていて、
「……あ、はい!えっと、戻られる前にあの、治しておきます!」
「戻るのに一か月もかからん。それは無理だ」
鯉登が笑う。その顔に引き込まれるように、菊乃も笑った。嬉しさがこみ上げて、口元が変に緩んでしまっていないかと心配になる。
「もし、旭川で新しい情報が手に入れば伝えよう」
「分かりました」
「行くぞ月島」
「はい」
そうして、二人の背を見送る。鯉登の後について出口へ向かった月島が、ふいに扉の前で振り返って、
「お大事に」
そう淡く、一言だけ残していった。
扉が閉まり、二人の足音が遠ざかっていく。寂しい。でも、悲しくはなかった。湧き上がる安堵と喜びが胸の中で膨らんでいく。
菊乃は、両手で口元を押さえると、それが溢れ出しそうになるのを必死に堪えた。
🎏side story🎏
身体を起こし、息をつく菊乃を静かに見つめていた鯉登は、その塞いだ様子が気にかかった。
昨日「森岡と一緒にいたことがある」と告げられ、興奮する菊乃を落ち着かせたことを思い出す。とにかく、怪我の回復が最優先だから、と記憶の件は一旦保留にさせた。目覚めたばかりで、今はこれ以上心労を増やしてほしくなかった。
「……やっぱ銃創って、痕、残っちゃいますよね」
ぽつり、呟かれた言葉が耳に落ちた瞬間、あの日崩れ落ちた菊乃の姿が脳裏に蘇った。
全身の血の気が引いた。失うかもしれない恐怖に何も考えられなくなった。
しかし、着物の衿に差し込まれた絵本を見て希望を見た。銃弾によって焼け焦げているそれを床に投げ、慌てて傷口を確認した。出血の量が思いの外少なく、絶望の淵から這い上がったようだった。
──そして、ふと思う。あの時は必死だった。だから決して、決してやましい気持ちはこれっぽっちもなかった。誓って。衿元を広げて傷口の状態を確認した。応急処置の為に。何も間違ったことはしていない。
だが、今はというと、菊乃が切なげに視線を落とす先。そう、胸。合わさる衿元に包まれている柔い膨らみ。止血で押さえた時の掌の感触を、今でも鮮明に思い出せる。実に不思議だ。
そんな心の奥底でくすぶる感情を悟られまいと、鯉登は必死で顔を顰めた。そして、不謹慎な感情を払拭するように、目の前の彼女が言わんとすることに心を向ける。
女の象徴──そこを鉄の塊で傷つけられていた。平気なわけがない。傷を持つ女は敬遠されるとよく言うが、そんなくだらない理由によって菊乃の人生を不幸なものにはさせたくなかった。
「あ、あの、鯉と」
「だいじょッ !!」
己が守る。だから安心していい──胸の奥から突き上げる想いを、鯉登はただまっすぐ伝えようとして、
「案じなッ !お、おっ、おいんとこ よ、よよよ、よめじょ に、来っ」
バターンッ!!「キエェェェェエエエッ!!?」
一世一代の決意表明が、虚空に霧散した瞬間だった。
泣きながら駆け寄った玉に優しく寄り添う菊乃。その様子を、数歩下がったところでドッドッドッと逸る鼓動を感じながら、鯉登は静かに見守った。
そんな、己の居場所すら曖昧になりかけている彼の横に、ため息混じりの足音が近づく。
「あれは、あなたと競争させてみたくなりますね」
鯉登の視界の端に、軍帽を軽く傾けた月島が現れた。その視線の先には、玉がいる。
「ふんっ……私が勝つに決まっている!」
「冗談ですよ。なに本気になってるんです、娘相手に」
呆れ顔の月島に、言い返す言葉が見つからない。
鯉登は、ただふてくされたように顔を背けた。
玉が病院を後にしてすぐ、鯉登と月島が視線を合わせた。静まり返った空間に微かな衣擦れの音を立て、二人は寝台の傍らに腰を下ろす。
「まず、襲撃犯たちのことですが……全員、死亡が確認されました」
「……え?」
現実味のないその報せに、菊乃がどう言葉を返せばいいのかあぐねていると、
「殆どが、追い詰められると自ら拳銃で頭を撃った」
鯉登が、その顛末を告げた。それから続けて、
「ちなみにだが……喜八という男、分かるか?」
「は、はい。うちの料理人です」
「その男も、死体であがった」
あまりの衝撃に、思わず身体が強張る。
「ど、どこで……っ?」
「漁師が、海岸に浮いていたところを見つけたそうだ。頭を撃ちぬかれていた」
犠牲者は、いた──。
ぐらりと地が傾いたような錯覚に、菊乃は目を見開いた。目にじわりと涙が滲むのを見て、鯉登が言葉を選ぶように続ける。
「お前のせいじゃない」
「っでも……!」
「話は、まだ終りではない。……女将が言うには『喜八がロシア人たちを手引きしたんだろう』と」
「……どう、いうこと……?」
震える声で問い返す菊乃に、今度は月島が、
「『詳しくは話せない』と言われましたが……魁燿亭の主人から、奴には警戒するようにと忠告があったそうです。泳がせて、尻尾を掴むつもりだったと。……武器庫のことは伏せて」
「だが、今回の襲撃は想定外だった、ということか……」
鯉登の言葉に、月島が静かに頷いた。
喜八とは何者だったのか。襲撃犯全員の死を持って、彼らの真の目的を知る者はいなくなってしまった。
「それと、女将がロシア人たちの言葉を片言ながら覚えていたんです。……“森岡が隠した文書”、それを差し出せと言っていたようです」
その言葉に、菊乃の表情がわずかに揺れる。絵本に挟まっていたのは写真一枚のみだし、文書なんてもの検討すらつかない。
そこで菊乃は、自分もあのロシア人と対峙したときに一言二言、話しかけられたことを思い出した。なんだったか──言葉一つでも思い出せれば手がかりになるかもしれない。目を閉じて、記憶を辿る。
「……菊乃?どうした、どこか痛むか?」
「……ドーチ……」
絞るように発した言葉に、月島の眼差しが鋭くなる。
「隠し部屋で男に……彼が言ったんです。ドーチ、モリオカ……」
「Дочь──“娘”、です」
菊乃は、弾かれるように顔を上げた。月島を見る目に、確かな色が差す。
「『森岡の娘』、と……言ったのかもしれません」
月島が、かも、と曖昧な言い回しをしたにもかかわらず、この場にいる全員が同じ可能性を抱いていた。
──菊乃は、森岡の娘なのでは、と。
「あっ、鯉登さんにはお話ししましたが、私昨日思い出したんです。森岡さんと、どこか知らない家で一緒にいたことがあったの……!」
そう話す菊乃を、月島は表情を変えず黙って見ている。彼の視線はまるで、風のない冬の湖面のように静かで読めない。
「待て。しかし鶴見中尉殿は、『森岡に子はいなかった』と言ったのだったな?」
鯉登の言葉に、菊乃が迷いなく一つ頷く。
「当然調べたはずだ。あの鶴見中尉殿が、間違った情報を掴まされた、と、は……ッ」
「……そんなもの、嘘なんていくらでもつけるでしょう」
菊乃は月島を見た。鶴見が自分に嘘の情報を伝えていたかもしれない──それも驚きだったが、それ以上に今の言い方が胸に刺さった。
どこか冷たい、突き放すような声音。これまでの彼の印象とはかけ離れていた。
思わず鯉登を見れば、何かを飲み込むように口を閉じて視線を落としている。彼も、言葉尻が乱れるようだったのは気のせいか──。
その時、病室の扉が叩かれた。菊乃が返事を返すと、第七師団の兵士が一人、直立敬礼をして立っていた。
「失礼いたします!鯉登少尉殿、月島軍曹殿。淀川中佐より、至急旭川へ帰還するようにと連絡が!」
その声が部屋に響いた瞬間、菊乃がはっと息を呑んだ。
旭川──彼ら第七師団の本部がある町だ。菊乃が二人を見ると、互いに一度だけ視線を交わし、重いものを噛み締めるような表情をしていた。
「本日中に戻ると、そう伝えろ」
鯉登の指示に、兵士は敬礼し足音を残して退室していくと、病室に再び静けさが落ちた。
小樽を、立つ──その後はどうするのだろうか。ここに滞在する期間は限られているのだと、いつか言っていた。旭川へ戻ってそのまま──。
そう思った瞬間、胸の奥が不意に疼き出す。
「菊乃」
鯉登に名を呼ばれ、びくりと菊乃の肩が跳ねた。別れの言葉を言うのだと、咄嗟に目を伏せる。よりにもよって、今の状況でそれを聞きたくなかった。分かっていたはずなのに、心が追いついてこない。
「何日かかるか分からんが、必ず戻る。それまでしっかり療養していろ。いいな?」
その言葉に、菊乃は弾かれるように顔を上げた。見れば、鯉登は真剣な表情でまっすぐ菊乃を見つめていて、
「……あ、はい!えっと、戻られる前にあの、治しておきます!」
「戻るのに一か月もかからん。それは無理だ」
鯉登が笑う。その顔に引き込まれるように、菊乃も笑った。嬉しさがこみ上げて、口元が変に緩んでしまっていないかと心配になる。
「もし、旭川で新しい情報が手に入れば伝えよう」
「分かりました」
「行くぞ月島」
「はい」
そうして、二人の背を見送る。鯉登の後について出口へ向かった月島が、ふいに扉の前で振り返って、
「お大事に」
そう淡く、一言だけ残していった。
扉が閉まり、二人の足音が遠ざかっていく。寂しい。でも、悲しくはなかった。湧き上がる安堵と喜びが胸の中で膨らんでいく。
菊乃は、両手で口元を押さえると、それが溢れ出しそうになるのを必死に堪えた。
🎏side story🎏
身体を起こし、息をつく菊乃を静かに見つめていた鯉登は、その塞いだ様子が気にかかった。
昨日「森岡と一緒にいたことがある」と告げられ、興奮する菊乃を落ち着かせたことを思い出す。とにかく、怪我の回復が最優先だから、と記憶の件は一旦保留にさせた。目覚めたばかりで、今はこれ以上心労を増やしてほしくなかった。
「……やっぱ銃創って、痕、残っちゃいますよね」
ぽつり、呟かれた言葉が耳に落ちた瞬間、あの日崩れ落ちた菊乃の姿が脳裏に蘇った。
全身の血の気が引いた。失うかもしれない恐怖に何も考えられなくなった。
しかし、着物の衿に差し込まれた絵本を見て希望を見た。銃弾によって焼け焦げているそれを床に投げ、慌てて傷口を確認した。出血の量が思いの外少なく、絶望の淵から這い上がったようだった。
──そして、ふと思う。あの時は必死だった。だから決して、決してやましい気持ちはこれっぽっちもなかった。誓って。衿元を広げて傷口の状態を確認した。応急処置の為に。何も間違ったことはしていない。
だが、今はというと、菊乃が切なげに視線を落とす先。そう、胸。合わさる衿元に包まれている柔い膨らみ。止血で押さえた時の掌の感触を、今でも鮮明に思い出せる。実に不思議だ。
そんな心の奥底でくすぶる感情を悟られまいと、鯉登は必死で顔を顰めた。そして、不謹慎な感情を払拭するように、目の前の彼女が言わんとすることに心を向ける。
女の象徴──そこを鉄の塊で傷つけられていた。平気なわけがない。傷を持つ女は敬遠されるとよく言うが、そんなくだらない理由によって菊乃の人生を不幸なものにはさせたくなかった。
「あ、あの、鯉と」
「
己が守る。だから安心していい──胸の奥から突き上げる想いを、鯉登はただまっすぐ伝えようとして、
「
バターンッ!!「キエェェェェエエエッ!!?」
一世一代の決意表明が、虚空に霧散した瞬間だった。
泣きながら駆け寄った玉に優しく寄り添う菊乃。その様子を、数歩下がったところでドッドッドッと逸る鼓動を感じながら、鯉登は静かに見守った。
そんな、己の居場所すら曖昧になりかけている彼の横に、ため息混じりの足音が近づく。
「あれは、あなたと競争させてみたくなりますね」
鯉登の視界の端に、軍帽を軽く傾けた月島が現れた。その視線の先には、玉がいる。
「ふんっ……私が勝つに決まっている!」
「冗談ですよ。なに本気になってるんです、娘相手に」
呆れ顔の月島に、言い返す言葉が見つからない。
鯉登は、ただふてくされたように顔を背けた。
