本編
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露西亜(二)
暫し、膠着状態が続いた。敵もこちらの反撃に対して慎重になっている様子で、銃声が途切れた静寂の合間、ロシア語が下階から飛んでくる。
「Где, чёрт возьми, документы Мориока!」
「Где вы спрятали документы!?」
意味の通じない言葉が、より緊迫した空気を増幅させた。
そんな中菊乃は、女将の手当をしている途中、彼女が怪訝な顔をしていることに気づく。
「女将さん……?」
「隠した文書がどーの、って言ってるのよね……」
「お……女将さん、ロシア語分かるんですか?」
「昔、うちの旦那が一時満洲に行っててね。ほんの少し教わっただけ」
語る声は落ち着いていたが、瞳の奥に影が差していた。
話している間にも、再び威嚇の発砲音が響く。周囲が一際強く身を竦めた。
「あとさっきから、モリ、オーカ……てよく叫んでるの……名前かしら……」
瞬間、菊乃は凍りついた。モリオカ──写真に写る、あの人物の名前だ。
「ほ……他には、なんて……?」
「そこまでちゃんと聞き取れなくてね……分かるのは“隠した文書”と“モリオーカ”って名前?くらい……」
自分と彼等は何か関わりがある──菊乃の中で、その可能性がより濃厚になりつつあった。
“隠した文書”が何のことかは分からない。森岡に関する何かを求めているとするなら──思い当たる物といえば、あの写真か絵本しかない。
菊乃は、堪らず震える手で女将の袖を握った。
「女将さん……私の絵本に挟まっていた写真……写っている人の名前、“森岡さん”、だったんです」
鯉登から聞いたと言う菊乃の告白に、女将が息を呑んだ。
「ロシア語の歌も、知ってた……きっと私が……っ!」
涙が滲んで咄嗟に唇を噛んで堪えた。自分が原因かもしれないと考えた瞬間、全身が軋むほど罪悪感に苛まれた。
そうして震える声が詰まったその時、強く肩を掴まれ、
「馬鹿言わないで!そんな曖昧な憶測で……!」
「でも、こんなのもう偶然じゃ……っ」
胸の奥に湧き上がる焦燥が、冷静さを失わせる。
菊乃は目を閉じた。今、何ができる。どうすればこの場を収められる──。
「女将さん!奴ら上がってくる!」
交戦していた仲居の一人が叫んだ。刻一刻と、破滅の音が近づいている。
「写真か絵本……渡せば大人しくなるかもしれない。取りに行きます」
「許可できない!」
「ここに来たこと後悔したくないんですッ!」
菊乃の瞳は決意に濡れていた。何もしないままでは、いたくなかった。
「こちらに気を向けさせていてください……必ずここに戻ります。だから……」
沈黙が落ちる。これがもし見当違いだったなら──敵の狙いが自分自身であったときは、身を挺してでもここを守らなくてはならない。
菊乃が静かな決意を固めようとしていると、やがて女将が無言でナガンを差し出してきた。
「もう弾がこれしかないけど、他のものより威力がある。……躊躇わず引きなさい」
「……はい」
菊乃は、弾倉に入った二発の弾を確認しナガンを帯に差し込むと、自身の拳銃も握って窓へと向かった。
「一階へ行きたいので、援護をお願いします」
女将と菊乃の会話を聞いていた女たちが、それぞれの判断で武器を構える。話が見えず理解しきれない者もいたが、女将の決断に異を唱える者はいなかった。
その時、部屋の窓枠が爆ぜた。銃声と共に木片が散って、咄嗟に身を屈める。
「こっちに回ってきた!」
男が二人、東側に回り込んで屋外から射撃を始めた。先程より雨脚が弱まってきて、騒ぎに気づき、だんだん遠巻きに野次馬も現れはじめている。これは、警察が駆けつける方が早いかもしれない。
しかし困った。菊乃が一階へ出るのに、外回りの動きが厄介になる。何故、一階と二階の隠し部屋は繋がっていないのかと心底恨んだ。
「他に降りられる場所……っ」
「丸見えだ。撃ち落とす」
女将と歳の近い古参の仲居が、小銃を構え、ひょいと柱の陰から身を出す。一発。敵の腹をとらえ、男が呻きながら地面に伏した。
「上手い……」
「感心してないであんたも撃ちなッ」
息を呑んだ菊乃に、仲居が声を張った。
銃を構えるその手が震える。人に向けて引き金を引いたことなど、あるはずもない。
壁に身を隠し敵の発砲を一発やり過ごすと、菊乃は震える指で自身の拳銃を構えた。照準をほんの少しだけずらす──狙いは脚。
引き金を、引いた。
「はぁ……、はぁ……っ」
息を、殺していた。その一発は、敵の左脚に命中し、男が崩れるのが見えた。
柱の陰に引っ込み、再び吸い込んだ空気で肺が痛む。身体中を血液が巡る感覚がした。
「菊乃は筋がいい」
そう言った仲居が、とどめの一発を撃った。
褒められて嬉しいと思えなかったのは、はじめてだった。
🌙side story🌙
外が騒がしかった。窓辺に立った月島は、何気なく様子を覗き見てその異様な光景に眉を顰めた。
歩哨の一兵卒たちが、四つん這いの女を囲んでいる。
暫し観察していると、ほどなくして別の兵士が月島の元へ現れ、荒い息を整える暇もなく声を荒げた。
「軍曹殿!」
「何の騒ぎだ」
「それが、魁燿亭の芸者が一人、血相を変えて駆け込んできまして……!」
「なに……?」
その言葉に月島の胸がざわつく。聞けば、履物もなくずぶ濡れだという。──脳裏をかすめるただ一人の姿に、焦りが生まれた。
「鯉登少尉を呼んで来い!」
迷いなく命じるや否や、月島は女のもとへと急いだ。
「……玉さんか!?」
そこにいたのは予想していた娘ではなく、月島の緊張が一度途切れた。
だがそれも束の間、震えながら顔をゆがめた玉の姿が、ただ事ではない事態を告げる。
「つ、月島さ、ま……っ!」
玉は、堰を切ったように声をあげた。
月島は慌てて彼女の背をそっと摩り、
「玉さん、何があった?」
できる限り穏やかに問いかけた。
「か、魁燿亭に、銃を持った男たちが……っ!」
その言葉は、氷水でも浴びせられたような衝撃だった。
「あのロシア人か?菊乃さんたちはどうした……!?」
玉は息を荒くしながら、何度も何度も頷いた。震える肩が、怯えと無力感を物語っている。月島が再度菊乃の安否を求めようとしたその時、
「月島ァ!!」
声を荒らげた鯉登が走りやってきた。駆け込んできた者が菊乃でないことに一瞬の安堵を浮かべつつ、状況を問う視線を月島に向ける。
「魁燿亭がロシア人の襲撃にあってるようです」
「っ、なんだと……!?」
「女将さんが、菊乃ちゃんたちが……っ、店の銃で戦ってるの!お願い助けて!」
銃で戦っている──?
信じがたい言葉だった。その場にいた者たちが、一瞬の沈黙に呑まれる。
「歩哨以外全員揃えろ!魁燿亭へ向かう!!」
その重く張り詰めた空気が破られた。鯉登の声が鋭く響き、上官の号令に兵たちは一斉に動き出す。
月島は玉の手をそっと歩哨兵に預け、彼女の瞳をしっかりと見て頷いた。
「必ず助ける」
そうひと言残し、小銃を肩に駆け出した。
間に合ってくれ──と柄にもなく、祈りの言葉が過ぎった。
暫し、膠着状態が続いた。敵もこちらの反撃に対して慎重になっている様子で、銃声が途切れた静寂の合間、ロシア語が下階から飛んでくる。
「Где, чёрт возьми, документы Мориока!」
「Где вы спрятали документы!?」
意味の通じない言葉が、より緊迫した空気を増幅させた。
そんな中菊乃は、女将の手当をしている途中、彼女が怪訝な顔をしていることに気づく。
「女将さん……?」
「隠した文書がどーの、って言ってるのよね……」
「お……女将さん、ロシア語分かるんですか?」
「昔、うちの旦那が一時満洲に行っててね。ほんの少し教わっただけ」
語る声は落ち着いていたが、瞳の奥に影が差していた。
話している間にも、再び威嚇の発砲音が響く。周囲が一際強く身を竦めた。
「あとさっきから、モリ、オーカ……てよく叫んでるの……名前かしら……」
瞬間、菊乃は凍りついた。モリオカ──写真に写る、あの人物の名前だ。
「ほ……他には、なんて……?」
「そこまでちゃんと聞き取れなくてね……分かるのは“隠した文書”と“モリオーカ”って名前?くらい……」
自分と彼等は何か関わりがある──菊乃の中で、その可能性がより濃厚になりつつあった。
“隠した文書”が何のことかは分からない。森岡に関する何かを求めているとするなら──思い当たる物といえば、あの写真か絵本しかない。
菊乃は、堪らず震える手で女将の袖を握った。
「女将さん……私の絵本に挟まっていた写真……写っている人の名前、“森岡さん”、だったんです」
鯉登から聞いたと言う菊乃の告白に、女将が息を呑んだ。
「ロシア語の歌も、知ってた……きっと私が……っ!」
涙が滲んで咄嗟に唇を噛んで堪えた。自分が原因かもしれないと考えた瞬間、全身が軋むほど罪悪感に苛まれた。
そうして震える声が詰まったその時、強く肩を掴まれ、
「馬鹿言わないで!そんな曖昧な憶測で……!」
「でも、こんなのもう偶然じゃ……っ」
胸の奥に湧き上がる焦燥が、冷静さを失わせる。
菊乃は目を閉じた。今、何ができる。どうすればこの場を収められる──。
「女将さん!奴ら上がってくる!」
交戦していた仲居の一人が叫んだ。刻一刻と、破滅の音が近づいている。
「写真か絵本……渡せば大人しくなるかもしれない。取りに行きます」
「許可できない!」
「ここに来たこと後悔したくないんですッ!」
菊乃の瞳は決意に濡れていた。何もしないままでは、いたくなかった。
「こちらに気を向けさせていてください……必ずここに戻ります。だから……」
沈黙が落ちる。これがもし見当違いだったなら──敵の狙いが自分自身であったときは、身を挺してでもここを守らなくてはならない。
菊乃が静かな決意を固めようとしていると、やがて女将が無言でナガンを差し出してきた。
「もう弾がこれしかないけど、他のものより威力がある。……躊躇わず引きなさい」
「……はい」
菊乃は、弾倉に入った二発の弾を確認しナガンを帯に差し込むと、自身の拳銃も握って窓へと向かった。
「一階へ行きたいので、援護をお願いします」
女将と菊乃の会話を聞いていた女たちが、それぞれの判断で武器を構える。話が見えず理解しきれない者もいたが、女将の決断に異を唱える者はいなかった。
その時、部屋の窓枠が爆ぜた。銃声と共に木片が散って、咄嗟に身を屈める。
「こっちに回ってきた!」
男が二人、東側に回り込んで屋外から射撃を始めた。先程より雨脚が弱まってきて、騒ぎに気づき、だんだん遠巻きに野次馬も現れはじめている。これは、警察が駆けつける方が早いかもしれない。
しかし困った。菊乃が一階へ出るのに、外回りの動きが厄介になる。何故、一階と二階の隠し部屋は繋がっていないのかと心底恨んだ。
「他に降りられる場所……っ」
「丸見えだ。撃ち落とす」
女将と歳の近い古参の仲居が、小銃を構え、ひょいと柱の陰から身を出す。一発。敵の腹をとらえ、男が呻きながら地面に伏した。
「上手い……」
「感心してないであんたも撃ちなッ」
息を呑んだ菊乃に、仲居が声を張った。
銃を構えるその手が震える。人に向けて引き金を引いたことなど、あるはずもない。
壁に身を隠し敵の発砲を一発やり過ごすと、菊乃は震える指で自身の拳銃を構えた。照準をほんの少しだけずらす──狙いは脚。
引き金を、引いた。
「はぁ……、はぁ……っ」
息を、殺していた。その一発は、敵の左脚に命中し、男が崩れるのが見えた。
柱の陰に引っ込み、再び吸い込んだ空気で肺が痛む。身体中を血液が巡る感覚がした。
「菊乃は筋がいい」
そう言った仲居が、とどめの一発を撃った。
褒められて嬉しいと思えなかったのは、はじめてだった。
🌙side story🌙
外が騒がしかった。窓辺に立った月島は、何気なく様子を覗き見てその異様な光景に眉を顰めた。
歩哨の一兵卒たちが、四つん這いの女を囲んでいる。
暫し観察していると、ほどなくして別の兵士が月島の元へ現れ、荒い息を整える暇もなく声を荒げた。
「軍曹殿!」
「何の騒ぎだ」
「それが、魁燿亭の芸者が一人、血相を変えて駆け込んできまして……!」
「なに……?」
その言葉に月島の胸がざわつく。聞けば、履物もなくずぶ濡れだという。──脳裏をかすめるただ一人の姿に、焦りが生まれた。
「鯉登少尉を呼んで来い!」
迷いなく命じるや否や、月島は女のもとへと急いだ。
「……玉さんか!?」
そこにいたのは予想していた娘ではなく、月島の緊張が一度途切れた。
だがそれも束の間、震えながら顔をゆがめた玉の姿が、ただ事ではない事態を告げる。
「つ、月島さ、ま……っ!」
玉は、堰を切ったように声をあげた。
月島は慌てて彼女の背をそっと摩り、
「玉さん、何があった?」
できる限り穏やかに問いかけた。
「か、魁燿亭に、銃を持った男たちが……っ!」
その言葉は、氷水でも浴びせられたような衝撃だった。
「あのロシア人か?菊乃さんたちはどうした……!?」
玉は息を荒くしながら、何度も何度も頷いた。震える肩が、怯えと無力感を物語っている。月島が再度菊乃の安否を求めようとしたその時、
「月島ァ!!」
声を荒らげた鯉登が走りやってきた。駆け込んできた者が菊乃でないことに一瞬の安堵を浮かべつつ、状況を問う視線を月島に向ける。
「魁燿亭がロシア人の襲撃にあってるようです」
「っ、なんだと……!?」
「女将さんが、菊乃ちゃんたちが……っ、店の銃で戦ってるの!お願い助けて!」
銃で戦っている──?
信じがたい言葉だった。その場にいた者たちが、一瞬の沈黙に呑まれる。
「歩哨以外全員揃えろ!魁燿亭へ向かう!!」
その重く張り詰めた空気が破られた。鯉登の声が鋭く響き、上官の号令に兵たちは一斉に動き出す。
月島は玉の手をそっと歩哨兵に預け、彼女の瞳をしっかりと見て頷いた。
「必ず助ける」
そうひと言残し、小銃を肩に駆け出した。
間に合ってくれ──と柄にもなく、祈りの言葉が過ぎった。
