本編
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魁燿亭(一)
周りの心配を他所に、菊乃はいつもと変わらぬ日々を過ごしていた。
朝は決まった時間に起床し、廊下の隅々まで清掃。その後は、三味線など芸事の稽古に勤しむ。そのしっかりと調律された音色が、聴く者の心を洗った。
鶴見殉死の話は、一日も立たぬうちに魁燿亭の者たちの耳に届いた。菊乃と鶴見の間柄は皆承知の事実で、彼女はさぞ気を落としているに違いない――そんな心痛を誰もが抱いた。
しかし、当の本人はまるで何事もなかったかのように、淡々と業務をこなしていた。
「今日は団体さんが入るんでしたよね」
菊乃が笑顔で声をかける。気丈な様子に、たまらず女将が近寄った。
「菊乃ちゃん……無理はしないで少しお休み取ってもいいのよ」
女将の瞳は、菊乃を気遣う色を隠しきれない。それを悟ったのか、
「ありがとうございます。私は大丈夫ですから」
菊乃は、申し訳なさそうに微笑んだ。
悲しく寂しい気持ちが無くなったわけではない。しかし、そこから少し背を向けることで平常を保った。笑顔を崩さずにいれば、誰にも心の内を知られずに済む。女将の優しさが心に沁みたが、涙なんてとうに枯れた。
そんな日々の中、ふと思い出のは、鶴見の部下であると名乗った鯉登と月島。彼等が姿を見せてから、数日が経った。
あの日は、仕事の都合ですぐに魁燿亭を後にした二人。多忙な合間をぬって来てくれたことに感謝してもしきれなかった。真実を知ることのないまま生きていくことほど、虚しいことはない。
鯉登は、鶴見の事情を真摯に伝え、その経緯まで説明してくれた。勿論、全てを語った訳では無いだろう。それでも、菊乃は彼の誠実な性格を垣間見た。
ふと障子を開けて向こうを見ると、庭先の松の枝に積もっていた雪がどさっと落ちた。身を切るような空気が、ほんの少し開け放った隙間から肌を撫でていく。
菊乃はふと息をつき、手のひらを見つめた。凍てつく寒さに指先はかじかんでいるけれど、掌を擦り合わせ息を吐けば、微かな温もりがそこに灯る。
「大丈夫。今まで通りやればいい……」
静かな独白は、白い息となってふわりと空に溶けて消えた。
やがて、夕陽が魁燿亭の廊下を橙色に染めたかと思えば、黄昏時は儚くも直ぐに宵闇へと変わった。
菊乃が、開店準備のため客間の洋燈に明かりを灯していると、
「菊乃ちゃん。団体さん来られなくなっちゃったから今日お休みでいいわ」
女将の言葉に手を止めて顔を上げる。女将は、少し申し訳なさそうに微笑んでいた。
「急に予約を取り消してきたらしいの」
「あらまぁ……」
既に並べられた膳を見渡す。奥に飾られ温もりを添える花々が、かえって少し切なく見えた。
「今日は来たとしてもたかが知れているでしょうから、ゆっくりなさいな」
「ありがとうございます」
女将の優しい言葉に促され、菊乃は淑やかに頭を下げた。
上階の支度部屋へ上がり、手早く片付けようとしたその時、
「二人入れるか?」
不意打ちのようなその声に、菊乃の手が止まる。障子の向こうから聞こえた階下の声は僅かだったが、間違いなく聞き覚えがあった。
まっすぐな目をしていた、あの人――鯉登の声だ。聞き耳を立てれば、今日は客人としてやってきたらしい。
――もっと話しをしてみたい。
そう思うと、菊乃は手早く支度を再開させた。
***
「申し訳ありません。今日菊乃はお休みをいただいてまして」
鯉登と月島は、顔を見合わせた。客間まで誘導する女将が申し訳なさそうに頭を下げると、鯉登の肩ががっくりと落ちる。
「そう、なのか……」
月島が隣から見上げると、少し残念そうな顔が見えた。
「どうします?鯉登少尉殿」
「ああ、いや。折角だから少しだけい きぇぇぇぇぇえッ!?」
「少尉殿!?」
突然の猿叫に、月島も思わず目を見開いた。
ぞわっと走った違和感に、鯉登は背中をさすりながら振り返る。月島もその動きにつられ背後へ視線を向けた。
「いらっしゃいませ」
菊乃が立っていた。品の良い着物の裾が揺れ、ちらりと白足袋を覗かせる。無邪気な笑顔を浮かべたその姿に、先日の寂しさを押し殺したような影は微塵もなかった。
鯉登が背中に感じた違和感――それは、菊乃の華奢な指がそっと彼の背中を滑った感触だった。
「なっ、ななな何しちょっ!?」
顔を真っ赤に染めた鯉登が、狼狽しながら後ずさる。
「ふふふ」と楽しげに笑う菊乃の目がきらきらと輝いている。それに気づいた女将が顔を覗かせ、
「んまぁ。いつもお客様に悪戯はやめなさいって言ってるでしょう!」
叱責が飛んだが、菊乃はどこ吹く風だ。してやったりと笑う彼女の様子に、鯉登は頬を真っ赤に染めたまま、どうしたらいいのか分からず視線を泳がせる。
一方、その様子をなんとも言えない表情で見つめる月島は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせた。
***
魁燿亭の明かりは柔らかに灯り、廊下に差し込む淡い光が床を滑るように伸びていた。襖の隙間から鯉登を見た仲居や芸者たちは、目を輝かせながら口々に囁く。「男前の将校さんだねぇ」と。
その視線を余所に、菊乃は鯉登が手に持つ盃に酒を注いだ。鮮やかな色彩の冴えを見せる液体が、音もなく満たされていく。その様は、どこか儚げで美しい。
「お酒はお嫌いですか?」
菊乃の問いかけに、鯉登は少しぎこちない表情で応じた。前回の堂々とした態度とはまるで正反対で、菊乃はつい笑みをこぼす。彼の背中には、まだあの指の感触が残っているのだろうか。
「いや、嫌いではない……。ただ、こういう場にはその、あまり慣れていない」
確かに若さが滲むその顔立ちは、こうした席に不釣り合いにも思える。唯一彼の片頬に刻まれた一本傷が、まるで生き様を表すかのようにその存在を主張する。幾度もの命の境界を超えてきた証とでもいうようだ。自分とそう変わらない年齢だろうに、と菊乃は思う。
「き、今日は……」
「はい」
「休みだと聞いていたが、よかったのか?」
「はい。鯉登様とお話したかったので」
「きぇっ」
鯉登から漏れる変わった悲鳴に、くすくす笑う菊乃がふと向かいを見ると、無表情のままの月島が静かに盃を傾けていた。彼の隣には別の芸者がついており、程よい距離感で会話を交わしながらも、鯉登と菊乃のやり取りにさりげなく耳を傾けている様子。
そんな対照的な二人に、菊乃は無垢な笑顔を浮かべる。
「菊乃さん」
ふと目があって、月島が声をかけてきた。その声は落ち着いていて、どこか穏やかさを含み、よく通った。
「実は以前、鶴見中尉とこちらに伺ったことがあります。覚えていらっしゃいますか?」
菊乃はひとつ間を開けたあと、ぱっと微笑んだ。
「あ。あの時のご一緒にいた兵隊さん!」
「はい」
「何の話だ?月島」
鯉登が訝しげに目をぱちぱちと瞬かせている。月島は少し困ったように頬をかきながら、
「あー。話しそびれてましたが、菊乃さんとは一度お会いしたことが」
「なにぃ!?」
鯉登は身を乗り出し、月島の顔を覗き込むようにして声を荒げた。盃の酒が揺れ、数滴こぼれる。周囲の芸者たちが一瞬驚いた顔を見せ、また笑みを浮かべた。
月島はそれを制するように片手を上げて、
「いや、敢えて話すことでもないと思ったもので。五年以上も前のことですし」
「もう、そんなに経ちますか」
菊乃は目を細めて微笑んだ。記憶の糸を手繰るように、静かに思い出す──。寡黙に、鶴見の背後から周囲を警戒するよう目を光らせていた月島の姿が浮かんだ。
以前見たときと比べ、穏やかな雰囲気になったように感じた。緊張気味の鯉登を気遣っていることが、端々の様子から感じ取れる。
ふと鯉登を見れば、月島へ睨みつけるような視線を送っていた。黙っていたことがそんなに気に障ったのか。その反応に、再びくすりと笑いが漏れた。
その後もたわいもない会話が続き、唄と踊りが華やかに繰り広げられた。三味線の音色に合わせ、長く引いた裾が畳を撫でる。絹の光沢が洋灯の揺らめきに反射して艶やかに輝いた。
ふと見れば、少し緊張していた鯉登も次第にその場に馴染んでいる。盃を傾け、時折月島と小声で話し、芸者たちの舞に目を細める。その表情には、どこか無邪気な興味と好奇心が滲んでいた。
「──どうぞ、鯉登様」
披露が終わると、菊乃が何度目かの酒を注いだ。上質な青冴えが盃を満たし、静かな音を立てて波打つ。
だが、注がれた酒はそのまま動かない。鯉登の手元は微動だにせず、まるで凍りついたように固まっていた。不思議に思った菊乃が顔を上げる。
――至近距離に、彼の真剣な眼差しがあった。
洋灯の淡い光に照らされたその瞳は、夜の湖面のように澄んでいて、どこか真摯な色を宿す。頬には薄く赤みが差し、随分と呑んでいるようだが、それにしてはあまりにも強い光だった。
「鯉登様……?」
菊乃が静かに名を呼ぶも、鯉登はぴくりともせずその視線を一瞬も逸らさない。
「鯉登少尉殿。見すぎです」
月島がため息混じりに突っ込む。
「菊乃は、鶴見中尉殿のことを鶴見さんと呼んでいたな?」
唐突な問いに、菊乃はきょとんと目を瞬かせる。
「は、はい」
「では、なぜ私のことは鯉登様なのだ?」
「え」
菊乃の目が驚きに見開かれる。月島は面倒くさそうにため息をつき、
「鯉登少尉殿。菊乃さんが困ってますよ」
と軽く注意を促したが、当人は意に介していない。
「上官の中尉がさんなら、私のこともさんでなければおかしいではないか」
まるで駄々をこねる子供のような言い様に、菊乃は思わず呆気にとられた。
そして次の瞬間には、耐えきれずに吹き出して、
「ふふ……っ、あはは!確かにそうですね」
肩を揺らして笑う菊乃に、鯉登は口を尖らせて、
「オイはおかしなことゆちょらんぞっ!」
漏れた御国の言葉とあまりにも真剣な表情に、菊乃はまだ笑いをこらえきれない。
「ふふふ……。ごめんなさい、鯉登さん」
それを耳にした瞬間、鯉登の顔が一気に明るくなる。目を輝かせて、まるで褒められた子供のように満足げに頷いた。その無邪気さに、菊乃の笑顔も自然と柔らかくなる。
「月島もだぞ、菊乃」
「はい、月島さん」
「え、私は……」
思わず反射的に返そうとした月島だが、やがて諦めたように肩を竦め、静かに盃を持ち上げた。
「よろしくお願いします、菊乃さん」
月島のその一言に、菊乃と鯉登は顔を見合わせて笑い合った。
周りの心配を他所に、菊乃はいつもと変わらぬ日々を過ごしていた。
朝は決まった時間に起床し、廊下の隅々まで清掃。その後は、三味線など芸事の稽古に勤しむ。そのしっかりと調律された音色が、聴く者の心を洗った。
鶴見殉死の話は、一日も立たぬうちに魁燿亭の者たちの耳に届いた。菊乃と鶴見の間柄は皆承知の事実で、彼女はさぞ気を落としているに違いない――そんな心痛を誰もが抱いた。
しかし、当の本人はまるで何事もなかったかのように、淡々と業務をこなしていた。
「今日は団体さんが入るんでしたよね」
菊乃が笑顔で声をかける。気丈な様子に、たまらず女将が近寄った。
「菊乃ちゃん……無理はしないで少しお休み取ってもいいのよ」
女将の瞳は、菊乃を気遣う色を隠しきれない。それを悟ったのか、
「ありがとうございます。私は大丈夫ですから」
菊乃は、申し訳なさそうに微笑んだ。
悲しく寂しい気持ちが無くなったわけではない。しかし、そこから少し背を向けることで平常を保った。笑顔を崩さずにいれば、誰にも心の内を知られずに済む。女将の優しさが心に沁みたが、涙なんてとうに枯れた。
そんな日々の中、ふと思い出のは、鶴見の部下であると名乗った鯉登と月島。彼等が姿を見せてから、数日が経った。
あの日は、仕事の都合ですぐに魁燿亭を後にした二人。多忙な合間をぬって来てくれたことに感謝してもしきれなかった。真実を知ることのないまま生きていくことほど、虚しいことはない。
鯉登は、鶴見の事情を真摯に伝え、その経緯まで説明してくれた。勿論、全てを語った訳では無いだろう。それでも、菊乃は彼の誠実な性格を垣間見た。
ふと障子を開けて向こうを見ると、庭先の松の枝に積もっていた雪がどさっと落ちた。身を切るような空気が、ほんの少し開け放った隙間から肌を撫でていく。
菊乃はふと息をつき、手のひらを見つめた。凍てつく寒さに指先はかじかんでいるけれど、掌を擦り合わせ息を吐けば、微かな温もりがそこに灯る。
「大丈夫。今まで通りやればいい……」
静かな独白は、白い息となってふわりと空に溶けて消えた。
やがて、夕陽が魁燿亭の廊下を橙色に染めたかと思えば、黄昏時は儚くも直ぐに宵闇へと変わった。
菊乃が、開店準備のため客間の洋燈に明かりを灯していると、
「菊乃ちゃん。団体さん来られなくなっちゃったから今日お休みでいいわ」
女将の言葉に手を止めて顔を上げる。女将は、少し申し訳なさそうに微笑んでいた。
「急に予約を取り消してきたらしいの」
「あらまぁ……」
既に並べられた膳を見渡す。奥に飾られ温もりを添える花々が、かえって少し切なく見えた。
「今日は来たとしてもたかが知れているでしょうから、ゆっくりなさいな」
「ありがとうございます」
女将の優しい言葉に促され、菊乃は淑やかに頭を下げた。
上階の支度部屋へ上がり、手早く片付けようとしたその時、
「二人入れるか?」
不意打ちのようなその声に、菊乃の手が止まる。障子の向こうから聞こえた階下の声は僅かだったが、間違いなく聞き覚えがあった。
まっすぐな目をしていた、あの人――鯉登の声だ。聞き耳を立てれば、今日は客人としてやってきたらしい。
――もっと話しをしてみたい。
そう思うと、菊乃は手早く支度を再開させた。
***
「申し訳ありません。今日菊乃はお休みをいただいてまして」
鯉登と月島は、顔を見合わせた。客間まで誘導する女将が申し訳なさそうに頭を下げると、鯉登の肩ががっくりと落ちる。
「そう、なのか……」
月島が隣から見上げると、少し残念そうな顔が見えた。
「どうします?鯉登少尉殿」
「ああ、いや。折角だから少しだけい きぇぇぇぇぇえッ!?」
「少尉殿!?」
突然の猿叫に、月島も思わず目を見開いた。
ぞわっと走った違和感に、鯉登は背中をさすりながら振り返る。月島もその動きにつられ背後へ視線を向けた。
「いらっしゃいませ」
菊乃が立っていた。品の良い着物の裾が揺れ、ちらりと白足袋を覗かせる。無邪気な笑顔を浮かべたその姿に、先日の寂しさを押し殺したような影は微塵もなかった。
鯉登が背中に感じた違和感――それは、菊乃の華奢な指がそっと彼の背中を滑った感触だった。
「なっ、ななな何しちょっ!?」
顔を真っ赤に染めた鯉登が、狼狽しながら後ずさる。
「ふふふ」と楽しげに笑う菊乃の目がきらきらと輝いている。それに気づいた女将が顔を覗かせ、
「んまぁ。いつもお客様に悪戯はやめなさいって言ってるでしょう!」
叱責が飛んだが、菊乃はどこ吹く風だ。してやったりと笑う彼女の様子に、鯉登は頬を真っ赤に染めたまま、どうしたらいいのか分からず視線を泳がせる。
一方、その様子をなんとも言えない表情で見つめる月島は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせた。
***
魁燿亭の明かりは柔らかに灯り、廊下に差し込む淡い光が床を滑るように伸びていた。襖の隙間から鯉登を見た仲居や芸者たちは、目を輝かせながら口々に囁く。「男前の将校さんだねぇ」と。
その視線を余所に、菊乃は鯉登が手に持つ盃に酒を注いだ。鮮やかな色彩の冴えを見せる液体が、音もなく満たされていく。その様は、どこか儚げで美しい。
「お酒はお嫌いですか?」
菊乃の問いかけに、鯉登は少しぎこちない表情で応じた。前回の堂々とした態度とはまるで正反対で、菊乃はつい笑みをこぼす。彼の背中には、まだあの指の感触が残っているのだろうか。
「いや、嫌いではない……。ただ、こういう場にはその、あまり慣れていない」
確かに若さが滲むその顔立ちは、こうした席に不釣り合いにも思える。唯一彼の片頬に刻まれた一本傷が、まるで生き様を表すかのようにその存在を主張する。幾度もの命の境界を超えてきた証とでもいうようだ。自分とそう変わらない年齢だろうに、と菊乃は思う。
「き、今日は……」
「はい」
「休みだと聞いていたが、よかったのか?」
「はい。鯉登様とお話したかったので」
「きぇっ」
鯉登から漏れる変わった悲鳴に、くすくす笑う菊乃がふと向かいを見ると、無表情のままの月島が静かに盃を傾けていた。彼の隣には別の芸者がついており、程よい距離感で会話を交わしながらも、鯉登と菊乃のやり取りにさりげなく耳を傾けている様子。
そんな対照的な二人に、菊乃は無垢な笑顔を浮かべる。
「菊乃さん」
ふと目があって、月島が声をかけてきた。その声は落ち着いていて、どこか穏やかさを含み、よく通った。
「実は以前、鶴見中尉とこちらに伺ったことがあります。覚えていらっしゃいますか?」
菊乃はひとつ間を開けたあと、ぱっと微笑んだ。
「あ。あの時のご一緒にいた兵隊さん!」
「はい」
「何の話だ?月島」
鯉登が訝しげに目をぱちぱちと瞬かせている。月島は少し困ったように頬をかきながら、
「あー。話しそびれてましたが、菊乃さんとは一度お会いしたことが」
「なにぃ!?」
鯉登は身を乗り出し、月島の顔を覗き込むようにして声を荒げた。盃の酒が揺れ、数滴こぼれる。周囲の芸者たちが一瞬驚いた顔を見せ、また笑みを浮かべた。
月島はそれを制するように片手を上げて、
「いや、敢えて話すことでもないと思ったもので。五年以上も前のことですし」
「もう、そんなに経ちますか」
菊乃は目を細めて微笑んだ。記憶の糸を手繰るように、静かに思い出す──。寡黙に、鶴見の背後から周囲を警戒するよう目を光らせていた月島の姿が浮かんだ。
以前見たときと比べ、穏やかな雰囲気になったように感じた。緊張気味の鯉登を気遣っていることが、端々の様子から感じ取れる。
ふと鯉登を見れば、月島へ睨みつけるような視線を送っていた。黙っていたことがそんなに気に障ったのか。その反応に、再びくすりと笑いが漏れた。
その後もたわいもない会話が続き、唄と踊りが華やかに繰り広げられた。三味線の音色に合わせ、長く引いた裾が畳を撫でる。絹の光沢が洋灯の揺らめきに反射して艶やかに輝いた。
ふと見れば、少し緊張していた鯉登も次第にその場に馴染んでいる。盃を傾け、時折月島と小声で話し、芸者たちの舞に目を細める。その表情には、どこか無邪気な興味と好奇心が滲んでいた。
「──どうぞ、鯉登様」
披露が終わると、菊乃が何度目かの酒を注いだ。上質な青冴えが盃を満たし、静かな音を立てて波打つ。
だが、注がれた酒はそのまま動かない。鯉登の手元は微動だにせず、まるで凍りついたように固まっていた。不思議に思った菊乃が顔を上げる。
――至近距離に、彼の真剣な眼差しがあった。
洋灯の淡い光に照らされたその瞳は、夜の湖面のように澄んでいて、どこか真摯な色を宿す。頬には薄く赤みが差し、随分と呑んでいるようだが、それにしてはあまりにも強い光だった。
「鯉登様……?」
菊乃が静かに名を呼ぶも、鯉登はぴくりともせずその視線を一瞬も逸らさない。
「鯉登少尉殿。見すぎです」
月島がため息混じりに突っ込む。
「菊乃は、鶴見中尉殿のことを鶴見さんと呼んでいたな?」
唐突な問いに、菊乃はきょとんと目を瞬かせる。
「は、はい」
「では、なぜ私のことは鯉登様なのだ?」
「え」
菊乃の目が驚きに見開かれる。月島は面倒くさそうにため息をつき、
「鯉登少尉殿。菊乃さんが困ってますよ」
と軽く注意を促したが、当人は意に介していない。
「上官の中尉がさんなら、私のこともさんでなければおかしいではないか」
まるで駄々をこねる子供のような言い様に、菊乃は思わず呆気にとられた。
そして次の瞬間には、耐えきれずに吹き出して、
「ふふ……っ、あはは!確かにそうですね」
肩を揺らして笑う菊乃に、鯉登は口を尖らせて、
「オイはおかしなことゆちょらんぞっ!」
漏れた御国の言葉とあまりにも真剣な表情に、菊乃はまだ笑いをこらえきれない。
「ふふふ……。ごめんなさい、鯉登さん」
それを耳にした瞬間、鯉登の顔が一気に明るくなる。目を輝かせて、まるで褒められた子供のように満足げに頷いた。その無邪気さに、菊乃の笑顔も自然と柔らかくなる。
「月島もだぞ、菊乃」
「はい、月島さん」
「え、私は……」
思わず反射的に返そうとした月島だが、やがて諦めたように肩を竦め、静かに盃を持ち上げた。
「よろしくお願いします、菊乃さん」
月島のその一言に、菊乃と鯉登は顔を見合わせて笑い合った。
