本編
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露西亜(一)
「今日はお一人なんですね」
珍しく、いつもの連れである月島の姿が見えなかった。静かに湯気の立つ銚子から酒を注ぐ菊乃が、鯉登に向かって微笑みかけると、
「いろいろ頼みごとをしていてな」
「月島さん、お仕事できそうですもんね」
「無論だ」
間髪入れず返ってきた一言に、菊乃はくすりと笑みをこぼす。どこか誇らしげに、そして揺るぎない信頼を言葉に乗せる鯉登の姿は、見ているこちらまで清々しい。凛とした物言いの中に、月島という男への厚い信頼と、それを語る喜びのようなものを感じた。
「あぁそうだ……借りていた写真を返す」
鯉登は懐に手を入れると、写真を一枚静かに差し出した。
「鶴見中尉殿と写っているのは、森岡義信という男だった」
「森岡、さん……」
「聞き覚えはあるか?」
そう問われ、菊乃は記憶の糸を手繰るが、そのような名前の人物に心当たりはなく、ふるふると頭を横に振る。
鯉登が小さく「そうか」と告げると、ほんの一瞬二人の間に静寂が流れた。
「そういえば、鶴見さんはお名前教えてくださらなかった……」
思い出したように菊乃がぽつりと呟いた。彼があまり話したがらなかったのもあって、写真の話題を菊乃から聞くことはほぼなかった。ただ「彼は私の恩人なんだ」と遠い眼差しで微笑んだ姿が、今もはっきりと目に焼き付いている。
「菊乃……その、なんだ」
不意にかけられた鯉登の声に、現実へと引き戻される。客の前で思いに耽っていたことに気づき、菊乃はハっとして、
「あ、ごめんなさい!またぼーっとして」
「別にそれはいい」
と大して問題にしていない鯉登の返答にほっとしたが、それにしては彼の挙動がおかしかった。最近は専ら頼もしい姿を見ることの方が多かったから、そのぎこちなさがちょっと懐かしい。
「菊乃は、鶴見中尉殿を、しっ……慕っていたのだよな?」
俯き加減にぽつり、と落とされたその言葉に、菊乃は目を瞬かせた。
慕う──それが尊敬の念や親愛という意味ならば、菊乃が鶴見に対して抱いている気持ちはそれに他ならず、
「はい、勿論です」
迷いなくそう告げると、鯉登が息を呑んだ。ぐっと言葉を詰まらせているその様子に、菊乃は状況が掴めず首を傾げていると、
「そう、だよな……当然だ……。一緒になる約束をしていたんだものな……」
その一言が、異物のように落ちた。
「……一、緒……?誰と誰が、ですか?」
「お前と、鶴見中尉殿が。に決まっているだろう」
ジト、とした視線を向けられた菊乃は、一瞬戸惑い、そして胸がざわめいた。まるで、悪いことでもして責められているようだった。
“一緒になる”とはつまり、“夫婦になる”という意のあれだ。そして、菊乃は重大な事に気がつく。彼に、鶴見とのことを何も話していなかったことに。
何がどこでそういう話になったのかは知らないが、事情を知らぬまま鯉登がこの誤解をずっと抱えていたのかと思うと、それがなんだか落ち着かなくて、
「ちっ、違います!結婚じゃなくて、鶴見さんは養子縁組を考えてくださってたんですっ」
その言葉に、今度は鯉登が面食らう。
「……よ、養子縁、組……?」
「親子にならないかと、言ってくださった、だけ、で……」
だけ、とは何とも不躾な言い草だが、菊乃は誤解を解かねばと必死だった。
「そう、か……私はてっきり……」
鯉登は「そうか、そうか」としきりにつぶやき、どこか安心したように息をついていた。
どうやらこの件、彼の胸中であまり快いことではなかったようだ、と菊乃は理解した。結婚だなんて、将校と芸者とではやはり体裁良くはないのだ。
それを言うなら養子縁組も似たようなものだろうか──今更ながら事の重大さに気付き、菊乃は悩ましげに視線を流した。
「……そういえば、鶴見さんのお手紙には“約束を守れない”と書かれていたんでしたね」
「あ、ああ。それを菊乃に伝えてほしい、と」
“約束”と言えば確かに伝わる。二人で交わしたそれは一つだけ。しかし、わざわざ“約束”という表現にした意味とは──。
そこまで考えて菊乃は、はっと何か重大なことでも思い出したように両手で口を押えた。
「……菊乃?」
見るからに狼狽えている菊乃を、鯉登が心配そうに覗き込む。二人の目が合った瞬間、菊乃は反射的に鯉登のもとへ身を寄せた。
「キェェエーッ!?」
膝同士がくっつく距離に堪らず猿叫。がっしと鯉登の両手を握りしめた菊乃の瞳は真剣そのもので、あまりにも急な接触にされるがままの鯉登は、ますます顔を紅潮させた。
「鯉登さんっ!」
「なっ、なななんj◎▲¥◇*%×!?」
「今話したこと、誰にも言わないでくださいね!?」
「い、今、は、話し、た……?」
「鶴見さんとの“約束”のこと、誰にも言っちゃだめですよっ!」
その気迫に押された鯉登が言葉を紡げずこくこくと頷くと、安心したように菊乃がほっと息をつき離れていった。
一方、解放された手で胸を押さえる鯉登は、ハーッハーッと必死に息を整えている。
その様子を、仲居たちが襖の隙間から色めき立って覗いていたことを、二人は知らない。
──その日は、朝から雨だった。まだ三月に入ったばかりだというのに暖かさが増し、あれほど覆っていた雪も殆ど溶けていた。
「芸者さんが片づけまで手伝うたぁ、ほんと変わったところだな、ここは」
「今日は暇でしたから、体力余ってるんですっ」
客足もいつもより大人しく、魁燿亭は早めの店じまいを決めた。菊乃は早々に着替えを済ませ、厨房の片づけを手伝っている。
明日の仕込みに手を動かしながら話しかけてきた男、喜八は、最近雇われたばかりの料理人だ。昨日から主人が出張で不在のため、ひとりで厨房を任されていた。
「喜八さん、お一人で大変でしょう」
「大変なんてとんでもねぇ。俺が来るまで厨は旦那様一人で回してたっていうんですから……」
喜八は頭をかきながら、はにかんだように笑った。背は高く骨太で、手は包丁によるものか、ところどころ古い傷が走っている。口数こそ少ないが、仕込みの手際も整然としており、見ていて小気味よかった。
菊乃は、これ以上邪魔になってはいけないと、洗い終わった皿を棚に戻す作業に意識を向ける。
──やがて、
「それじゃあ、お先に失礼します」
きりの良いところで手を引き厨房を出た。
それから、数歩進んだところで菊乃はふいに振り返った。背後から扉の開く音が聞こえたのだ。しかし、今出てきた扉ではない。厨房奥の勝手口が開けられたようだった。
喜八が外に出たんだろうが、外は土砂降りの雨が降っている。わざわざ今出ていくことに妙な違和感を抱きつつ、菊乃は階段へ向かって再び歩き出した。
正面口の近くへ差しかかると、今度は何やら騒がしい気配に咄嗟に足を止めた。様子をうかがうため、そっと陰から覗き込むと、
「Выведите женщину, которая была с Мориокой.」
「申し訳ありませんが、本日もう店じまいなんです」
そのロシア語にゾッとした。例の不審なロシア人、だろうか。応対する仲居の声も警戒の色を出している。客足の絶えた夜更けに、しかもこの雨の中──である。
「どうかした?」
玄関で揉めているところに女将がやってきた。頼もしい声がして、菊乃が思わず安堵の息を漏らすが、
「Женщину сюда, живо!」
怒号と共に、ロシア人が懐に手を入れた──次の瞬間、魁燿亭に似つかわしくない筒音が一発轟く。
「きゃぁっ!?」
「!…Ай…!Чёрт…!?」
菊乃の目の前で、女将が帯の中から銀のナガンを抜き、一発撃ち抜いていた。撃たれた男が呻き声をあげ、どさりと崩れる。
「──あんた、どこの客の使いだい」
低く鋭い声が、空気を裂いた。
続いて、別のロシア人二人が拳銃を握って飛び込んでくる。
「女将さん!!」
菊乃は思わず叫んだ。女将は一歩も引かず、足を運ぶ角度で死角を作り、敵の銃口がこちらへ向く前に引き金を引いた。
小柄な身体が機敏に揺れて、次の瞬間には三人目の男の腕と膝を正確に撃ち抜いていた。
「菊乃!“非常事態”だ!」
女将の叫びが雷鳴のように響き、空中にひと筋の弧が描かれた。
彼女の懐から投げ渡されたものは、錆びついた鍵。隠し部屋、その奥にある“武器庫”の鍵だった。菊乃がそれを受け取ると、冷たい感触が掌をしびれさせた。
魁燿亭の従業員にとって「非常事態」は合図だ。その瞬間から、彼らは武装組織へと姿を変える。
返事もそこそこに、菊乃は駆け上がった。銃声がまだ耳の奥で鳴っている。踏み板が軋むたびに鼓動も逸る。
武器庫は、上の階の隠し部屋にある。既に銃声に気づいた仲間たちは、緊張に顔を強張らせていた。
「鍵開けます!」
女将の伝達を叫びながら隠し部屋へと入る。鍵を差し込み、重い扉が開かれた。
そこには、拳銃、小銃、弾薬が整然と並ぶ。緊張しながらも、皆が次々に武器を手に取った。
「……随分久しぶりだね、これ出すの」
勤めて長い仲居や芸者たちが、懐かしむようにそう漏らした。各自、慣れた所作で弾薬を装填していく。
そんな中、誰かが障子窓を僅かに開け、外を見やりながらぼそりと呟いた。
「北鎮部隊様はどうしたんだろうね……姿が見えない」
菊乃の背筋がひやりと凍る。鯉登の小隊から下士官が交代で巡回しているはずだった。
それからは、妙な静寂が訪れた。壁の時計が刻む針の音さえ、やけに大きく感じられる。まるで、嵐の前のような静けさだ。今、下の階には女将と仲居の二人。そして喜八がいるはずだ。
襲撃者はあの三人だけだったのだろうか──以前目撃した男たちの姿が菊乃の頭を過ぎる。
その時、続けざま二発の銃声とともに階段を駆け上がる音がした。女将の左肩から血が滲み、仲居の一人は手に拳銃を握りながら肩で息をしている。
「あと五、六人はいる!二階で迎え撃つよ!」
女将の声に、全員が息を呑んだ。
「菊乃ちゃん……っ」
玉が菊乃に縋った。お互い、実戦は初めてだ。訓練を受けたとはいえ、震えるのも無理はない。菊乃自身だって、煩いくらいに心臓の鼓動が耳を打っていた。
菊乃は、玉の肩を抱いて手をしっかりと握る。小さな手が、氷のように冷たかった。
「敵は西側に隠れてたのかな?」
誰かがふと漏らした。窓から見える東側には、街路灯が整備され見通しが良い。さらに、立ち並ぶ民家が近く人目に付きやすい上、こうして二階からも目立つ。今は、雨音が激しくて銃声すら微かにしか聞こえないだろう──。
そこで、菊乃はひとつ良案を思いついた。
「玉、聞いて。縄を使ってここから降りて、使っていない裏の抜け道を通ってまっすぐ北に……鯉登さんたちのところまで行って知らせてほしいの」
「え。で、でも……」
「行って、お願い。あなたがこの中で一番足が速い」
不安に潤む瞳を見つめ返しながら、菊乃はまっすぐ告げた。玉の手を取り、その細い肩にも力を込める。
玉は小さく、けれど確かに頷いた。
雨のお陰で音は上手くかき消されるだろう。万一見つかっても、二階から援護ができる。数人に作戦の指示を出し、玉を送り出す準備が整った。
第七師団の到着まで、狭い通路におびき寄せての籠城戦──。
冷たい金属の感触が、掌から伝わる。菊乃は震える手を押さえつけ、拳銃を強く握った。
「今日はお一人なんですね」
珍しく、いつもの連れである月島の姿が見えなかった。静かに湯気の立つ銚子から酒を注ぐ菊乃が、鯉登に向かって微笑みかけると、
「いろいろ頼みごとをしていてな」
「月島さん、お仕事できそうですもんね」
「無論だ」
間髪入れず返ってきた一言に、菊乃はくすりと笑みをこぼす。どこか誇らしげに、そして揺るぎない信頼を言葉に乗せる鯉登の姿は、見ているこちらまで清々しい。凛とした物言いの中に、月島という男への厚い信頼と、それを語る喜びのようなものを感じた。
「あぁそうだ……借りていた写真を返す」
鯉登は懐に手を入れると、写真を一枚静かに差し出した。
「鶴見中尉殿と写っているのは、森岡義信という男だった」
「森岡、さん……」
「聞き覚えはあるか?」
そう問われ、菊乃は記憶の糸を手繰るが、そのような名前の人物に心当たりはなく、ふるふると頭を横に振る。
鯉登が小さく「そうか」と告げると、ほんの一瞬二人の間に静寂が流れた。
「そういえば、鶴見さんはお名前教えてくださらなかった……」
思い出したように菊乃がぽつりと呟いた。彼があまり話したがらなかったのもあって、写真の話題を菊乃から聞くことはほぼなかった。ただ「彼は私の恩人なんだ」と遠い眼差しで微笑んだ姿が、今もはっきりと目に焼き付いている。
「菊乃……その、なんだ」
不意にかけられた鯉登の声に、現実へと引き戻される。客の前で思いに耽っていたことに気づき、菊乃はハっとして、
「あ、ごめんなさい!またぼーっとして」
「別にそれはいい」
と大して問題にしていない鯉登の返答にほっとしたが、それにしては彼の挙動がおかしかった。最近は専ら頼もしい姿を見ることの方が多かったから、そのぎこちなさがちょっと懐かしい。
「菊乃は、鶴見中尉殿を、しっ……慕っていたのだよな?」
俯き加減にぽつり、と落とされたその言葉に、菊乃は目を瞬かせた。
慕う──それが尊敬の念や親愛という意味ならば、菊乃が鶴見に対して抱いている気持ちはそれに他ならず、
「はい、勿論です」
迷いなくそう告げると、鯉登が息を呑んだ。ぐっと言葉を詰まらせているその様子に、菊乃は状況が掴めず首を傾げていると、
「そう、だよな……当然だ……。一緒になる約束をしていたんだものな……」
その一言が、異物のように落ちた。
「……一、緒……?誰と誰が、ですか?」
「お前と、鶴見中尉殿が。に決まっているだろう」
ジト、とした視線を向けられた菊乃は、一瞬戸惑い、そして胸がざわめいた。まるで、悪いことでもして責められているようだった。
“一緒になる”とはつまり、“夫婦になる”という意のあれだ。そして、菊乃は重大な事に気がつく。彼に、鶴見とのことを何も話していなかったことに。
何がどこでそういう話になったのかは知らないが、事情を知らぬまま鯉登がこの誤解をずっと抱えていたのかと思うと、それがなんだか落ち着かなくて、
「ちっ、違います!結婚じゃなくて、鶴見さんは養子縁組を考えてくださってたんですっ」
その言葉に、今度は鯉登が面食らう。
「……よ、養子縁、組……?」
「親子にならないかと、言ってくださった、だけ、で……」
だけ、とは何とも不躾な言い草だが、菊乃は誤解を解かねばと必死だった。
「そう、か……私はてっきり……」
鯉登は「そうか、そうか」としきりにつぶやき、どこか安心したように息をついていた。
どうやらこの件、彼の胸中であまり快いことではなかったようだ、と菊乃は理解した。結婚だなんて、将校と芸者とではやはり体裁良くはないのだ。
それを言うなら養子縁組も似たようなものだろうか──今更ながら事の重大さに気付き、菊乃は悩ましげに視線を流した。
「……そういえば、鶴見さんのお手紙には“約束を守れない”と書かれていたんでしたね」
「あ、ああ。それを菊乃に伝えてほしい、と」
“約束”と言えば確かに伝わる。二人で交わしたそれは一つだけ。しかし、わざわざ“約束”という表現にした意味とは──。
そこまで考えて菊乃は、はっと何か重大なことでも思い出したように両手で口を押えた。
「……菊乃?」
見るからに狼狽えている菊乃を、鯉登が心配そうに覗き込む。二人の目が合った瞬間、菊乃は反射的に鯉登のもとへ身を寄せた。
「キェェエーッ!?」
膝同士がくっつく距離に堪らず猿叫。がっしと鯉登の両手を握りしめた菊乃の瞳は真剣そのもので、あまりにも急な接触にされるがままの鯉登は、ますます顔を紅潮させた。
「鯉登さんっ!」
「なっ、なななんj◎▲¥◇*%×!?」
「今話したこと、誰にも言わないでくださいね!?」
「い、今、は、話し、た……?」
「鶴見さんとの“約束”のこと、誰にも言っちゃだめですよっ!」
その気迫に押された鯉登が言葉を紡げずこくこくと頷くと、安心したように菊乃がほっと息をつき離れていった。
一方、解放された手で胸を押さえる鯉登は、ハーッハーッと必死に息を整えている。
その様子を、仲居たちが襖の隙間から色めき立って覗いていたことを、二人は知らない。
──その日は、朝から雨だった。まだ三月に入ったばかりだというのに暖かさが増し、あれほど覆っていた雪も殆ど溶けていた。
「芸者さんが片づけまで手伝うたぁ、ほんと変わったところだな、ここは」
「今日は暇でしたから、体力余ってるんですっ」
客足もいつもより大人しく、魁燿亭は早めの店じまいを決めた。菊乃は早々に着替えを済ませ、厨房の片づけを手伝っている。
明日の仕込みに手を動かしながら話しかけてきた男、喜八は、最近雇われたばかりの料理人だ。昨日から主人が出張で不在のため、ひとりで厨房を任されていた。
「喜八さん、お一人で大変でしょう」
「大変なんてとんでもねぇ。俺が来るまで厨は旦那様一人で回してたっていうんですから……」
喜八は頭をかきながら、はにかんだように笑った。背は高く骨太で、手は包丁によるものか、ところどころ古い傷が走っている。口数こそ少ないが、仕込みの手際も整然としており、見ていて小気味よかった。
菊乃は、これ以上邪魔になってはいけないと、洗い終わった皿を棚に戻す作業に意識を向ける。
──やがて、
「それじゃあ、お先に失礼します」
きりの良いところで手を引き厨房を出た。
それから、数歩進んだところで菊乃はふいに振り返った。背後から扉の開く音が聞こえたのだ。しかし、今出てきた扉ではない。厨房奥の勝手口が開けられたようだった。
喜八が外に出たんだろうが、外は土砂降りの雨が降っている。わざわざ今出ていくことに妙な違和感を抱きつつ、菊乃は階段へ向かって再び歩き出した。
正面口の近くへ差しかかると、今度は何やら騒がしい気配に咄嗟に足を止めた。様子をうかがうため、そっと陰から覗き込むと、
「Выведите женщину, которая была с Мориокой.」
「申し訳ありませんが、本日もう店じまいなんです」
そのロシア語にゾッとした。例の不審なロシア人、だろうか。応対する仲居の声も警戒の色を出している。客足の絶えた夜更けに、しかもこの雨の中──である。
「どうかした?」
玄関で揉めているところに女将がやってきた。頼もしい声がして、菊乃が思わず安堵の息を漏らすが、
「Женщину сюда, живо!」
怒号と共に、ロシア人が懐に手を入れた──次の瞬間、魁燿亭に似つかわしくない筒音が一発轟く。
「きゃぁっ!?」
「!…Ай…!Чёрт…!?」
菊乃の目の前で、女将が帯の中から銀のナガンを抜き、一発撃ち抜いていた。撃たれた男が呻き声をあげ、どさりと崩れる。
「──あんた、どこの客の使いだい」
低く鋭い声が、空気を裂いた。
続いて、別のロシア人二人が拳銃を握って飛び込んでくる。
「女将さん!!」
菊乃は思わず叫んだ。女将は一歩も引かず、足を運ぶ角度で死角を作り、敵の銃口がこちらへ向く前に引き金を引いた。
小柄な身体が機敏に揺れて、次の瞬間には三人目の男の腕と膝を正確に撃ち抜いていた。
「菊乃!“非常事態”だ!」
女将の叫びが雷鳴のように響き、空中にひと筋の弧が描かれた。
彼女の懐から投げ渡されたものは、錆びついた鍵。隠し部屋、その奥にある“武器庫”の鍵だった。菊乃がそれを受け取ると、冷たい感触が掌をしびれさせた。
魁燿亭の従業員にとって「非常事態」は合図だ。その瞬間から、彼らは武装組織へと姿を変える。
返事もそこそこに、菊乃は駆け上がった。銃声がまだ耳の奥で鳴っている。踏み板が軋むたびに鼓動も逸る。
武器庫は、上の階の隠し部屋にある。既に銃声に気づいた仲間たちは、緊張に顔を強張らせていた。
「鍵開けます!」
女将の伝達を叫びながら隠し部屋へと入る。鍵を差し込み、重い扉が開かれた。
そこには、拳銃、小銃、弾薬が整然と並ぶ。緊張しながらも、皆が次々に武器を手に取った。
「……随分久しぶりだね、これ出すの」
勤めて長い仲居や芸者たちが、懐かしむようにそう漏らした。各自、慣れた所作で弾薬を装填していく。
そんな中、誰かが障子窓を僅かに開け、外を見やりながらぼそりと呟いた。
「北鎮部隊様はどうしたんだろうね……姿が見えない」
菊乃の背筋がひやりと凍る。鯉登の小隊から下士官が交代で巡回しているはずだった。
それからは、妙な静寂が訪れた。壁の時計が刻む針の音さえ、やけに大きく感じられる。まるで、嵐の前のような静けさだ。今、下の階には女将と仲居の二人。そして喜八がいるはずだ。
襲撃者はあの三人だけだったのだろうか──以前目撃した男たちの姿が菊乃の頭を過ぎる。
その時、続けざま二発の銃声とともに階段を駆け上がる音がした。女将の左肩から血が滲み、仲居の一人は手に拳銃を握りながら肩で息をしている。
「あと五、六人はいる!二階で迎え撃つよ!」
女将の声に、全員が息を呑んだ。
「菊乃ちゃん……っ」
玉が菊乃に縋った。お互い、実戦は初めてだ。訓練を受けたとはいえ、震えるのも無理はない。菊乃自身だって、煩いくらいに心臓の鼓動が耳を打っていた。
菊乃は、玉の肩を抱いて手をしっかりと握る。小さな手が、氷のように冷たかった。
「敵は西側に隠れてたのかな?」
誰かがふと漏らした。窓から見える東側には、街路灯が整備され見通しが良い。さらに、立ち並ぶ民家が近く人目に付きやすい上、こうして二階からも目立つ。今は、雨音が激しくて銃声すら微かにしか聞こえないだろう──。
そこで、菊乃はひとつ良案を思いついた。
「玉、聞いて。縄を使ってここから降りて、使っていない裏の抜け道を通ってまっすぐ北に……鯉登さんたちのところまで行って知らせてほしいの」
「え。で、でも……」
「行って、お願い。あなたがこの中で一番足が速い」
不安に潤む瞳を見つめ返しながら、菊乃はまっすぐ告げた。玉の手を取り、その細い肩にも力を込める。
玉は小さく、けれど確かに頷いた。
雨のお陰で音は上手くかき消されるだろう。万一見つかっても、二階から援護ができる。数人に作戦の指示を出し、玉を送り出す準備が整った。
第七師団の到着まで、狭い通路におびき寄せての籠城戦──。
冷たい金属の感触が、掌から伝わる。菊乃は震える手を押さえつけ、拳銃を強く握った。
