本編
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魁燿亭(六)
斯くして魁燿亭では、鯉登少尉の指揮によって第七師団の警戒体制が敷かれた。
明るいうちは広範囲で町中を巡回し、怪しいロシア人の姿を探す。料亭周辺は、目立たぬよう二人一組の夜間見回りに切り替えられた。
鯉登も、魁燿亭を訪れては、ロシア人を目撃したという従業員から容姿や言動を丁寧に聴取した。
そんな動きに気づいたからか、あれから怪しい人物が現れることはなかった。
――数日後。午後の巡回中に月島が町角で立ち止まっていると、見慣れた顔がふいに現れた。
「どうだ?」
そう声をかけてきた鯉登は、風を受けながら町のざわめきに目を細めている。
「それらしい人物は見ませんね。やはり我々の存在を意識し始めた可能性も」
「少し派手に動きすぎたか」
鯉登は肩を竦め、吐息を漏らす。
「よし。昼間の巡回はもういい月島」
「よろしいのですか?」
「うむ。今から魁燿亭に行くぞ」
「は?」
月島は、先程定食屋で確認した時刻を思い出す。あれから一時間も経っていない。あの店が開くには早すぎる。
「いや、まだ閉まってますよ」
「でも菊乃はいるだろ?」
「……そりゃ、いるでしょうけど」
「少し話をするだけだ」
鯉登は、幾多の修羅場を経て将校としての自覚を深め、徐々に本来の奔放な性格をあまり表に出さなくなった。しかし、時折こういった自己中心的な性格が顔を出す。
月島は、うんざりするような、それでいてむず痒い気持ちになる。窘めるべきところだが、こうして駄々のような言い分に付き合わされることも、自分には気を許しているのかと思うとやぶさかではない。月島にとって、もはや慣れた日常の一部である。
とはいえ、他人に――特に、菊乃に迷惑をかけるのはまた別の話。
「待ってください少尉殿!」
それでも結局、気がつけば二人並んで魁燿亭の門前に立っているのだから、どうにも始末が悪い。
「いまじゃった ー。菊乃ー」
玄関の格子戸を開けるなり、鯉登は晴れやかな声で言った。無造作に飛び出た「ただいま」は、最早彼にとってここが帰る場所になっていることを示す。
ただし、まだ店は開いていない。
「鯉登さん?月島さんも。どうしたんですか?」
昼下がりの柔らかな光が菊乃を照らす。夜の華やぎとは打って変わって、小花の散る小紋をゆるく着こなし、髪も軽くまとめただけ。素顔のまま白粉もなく、素朴で清らかなその姿に、鯉登は言葉を忘れて見惚れている。
「……鯉登少尉殿」
見かねた月島が肘で小突くと、鯉登はようやく我に返る。
「い、いや、その。巡回で近くまで来たから様子を見に寄ったんだ」
「それは、わざわざありがとうございます。よかったらお茶をお入れします」
微笑みながら、菊乃は二人を招いた。
月島は、やれやれと短く息を吐く。いじらしいというかなんというか――。ため息まじりに、促されるまま、鯉登に続いて中へと上がった。
「皆、鯉登さんたちに感謝してました。本当にありがとうございます」
「いや。逆に警戒されたかもしれん。それらしい男たちを見つけられんでな」
「このまま現れなくなるなら、それはそれで構いません」
そう言った菊乃の声には、ほっとしたような、けれどどこかまだ不安を引きずる響きが混じっていた。
窓の外、陽の傾きにあわせて畳に射す光が長く伸びている。菊乃は湯呑にお茶を注ぎ、静かに二人の前に置いた。それを見計らって月島が、
「菊乃さん。今更ですが開店前に突然押しかけて申し訳ない」
と続けると、隣の鯉登が不満げにジトと睨んでくる。月島は、気づかぬふりをした。今となっては二人揃ってすっかり常連扱いだが、節度は守るべきである。
「いいえ。ちょうど三味線のお稽古が終わったところですから」
気になさらず、と微笑む菊乃の表情は晴れやかだった。
「素人目にも、菊乃は唄も三味線も上手いから、さぞたくさん練習しているのだろう?」
鯉登が素直な気持ちで褒め称えた。しかし、その言葉に菊乃は曖昧な表情のまま視線を落とす。
「……私には、それしかありませんから」
ぽつりとこぼれた菊乃の瞳は、ここではない何処かを見るように虚ろだった。言葉の奥にあるものを、二人は咄嗟に掴みかねる。
けれど、問いただす間もなく、
「そうだ!“今だから”できることしませんか?」
と、菊乃はぱっと笑顔を咲かせた。
「今だから?」
「できること?」
「かくれんぼ、です!」
軽やかに告げたその言葉に、二人は声を失った。
静かな座敷に差し込む冬の午後の光。その中で微笑む菊乃の顔は、あどけなさを残した少女のようだった。
菊乃の勢いに流され、あれよあれよという間に三人のかくれんぼは始まった。
鬼は鯉登と月島。百数えるあいだに隠れた菊乃を見つけ出さねばならない。
菊乃は、にこりと笑って「客間のどこかに隠れる」と言い残し、襖の向こうへ颯爽と姿を消した。
――あれから三十分が経とうとしている。二人がかりで探し回っても、菊乃の気配すら掴めないでいた。
「もう一通り見ましたけど、いませんね」
月島が、静まり返った客間に声を落とす。
「どけ行たんじゃ菊乃ーっ」
焦れた鯉登が、情けなくも声を張り上げた。
数ではこちらが圧倒的に有利なはずだった。軍人二人、軍務で鍛えられた目と勘を持ってしても娘ひとり捕まえられないとは、遊びであってもなんだか体裁が悪い。
魁燿亭の客間は、全七部屋が廊下を挟んで向かい合わせになっていた。さらに奥へ進むと、大広間と厨房があるのみだし、二階は従業員用で立ち入ることはできない。隠れ場所は客間に限るのだから、分かりやすいはずだった。
「掛け軸の裏もめくったが、隠し部屋があるわけでもなさそうだ」
「何やってるんですかあなた……」
至極真面目に腕を組んだ鯉登が放った一言に、呆れ顔で月島が眉を顰めた。
いつか菊乃が言っていた女将のこだわり――客人の職業や趣味に合わせ、毎日違う掛け軸を飾るという粋なもてなし。恐ろしく高価に違いないその逸品を、まるで暖簾でもくぐるようにめくったであろう鯉登に、月島は冷ややかな視線を送る。
――隠し部屋。
ふと彼の脳裏を過ったのは、この料亭の成り立ちだった。
魁燿亭は明治初期から続く店であり、かつて要人たちの密談の場としても使われてきたという。料亭側がどこまで知っていたのか定かではないが、何らかの“配慮”があったであろうことは想像に難くない。
近年では、日露戦争の折に軍の会議や宴を催す場として使われたこともあった。
月島は、ふと床の間の柱に手を当てた。そのまま無言で、壁伝いに指先を滑らせる。木肌の感触、わずかな空気の流れ、音の反響――そんな些細なものに耳を澄ませるようにして、部屋の隅まで歩いたかと思うと、不意に速足で廊下に出る。
「……月島?」
訝しげに呼びかける鯉登に構わず、彼は小さく呟いた。
「壁が……厚すぎる?」
その声には、確信に近い直感を含んでいた。ふと立ち止まって廊下を見渡す。板張りの床がきしむ音が、静まり返る廊下に響く。
客間の数に対して、廊下の長さが合わない――ただ歩いているだけでは気づかない小さな違和感が、月島の隠れた好奇心を掻き立てた。
「鯉登少尉殿。客間の壁を叩いて他とは違う音がするところを探してください」
「壁なんて叩いてどうするのだ?」
困惑する声に、月島は口元を緩めてみせた。それは、まるで秘密基地に心躍らせる少年のような表情だった。
「“隠し部屋”――本当にあるのかもしれませんよ」
斯くして魁燿亭では、鯉登少尉の指揮によって第七師団の警戒体制が敷かれた。
明るいうちは広範囲で町中を巡回し、怪しいロシア人の姿を探す。料亭周辺は、目立たぬよう二人一組の夜間見回りに切り替えられた。
鯉登も、魁燿亭を訪れては、ロシア人を目撃したという従業員から容姿や言動を丁寧に聴取した。
そんな動きに気づいたからか、あれから怪しい人物が現れることはなかった。
――数日後。午後の巡回中に月島が町角で立ち止まっていると、見慣れた顔がふいに現れた。
「どうだ?」
そう声をかけてきた鯉登は、風を受けながら町のざわめきに目を細めている。
「それらしい人物は見ませんね。やはり我々の存在を意識し始めた可能性も」
「少し派手に動きすぎたか」
鯉登は肩を竦め、吐息を漏らす。
「よし。昼間の巡回はもういい月島」
「よろしいのですか?」
「うむ。今から魁燿亭に行くぞ」
「は?」
月島は、先程定食屋で確認した時刻を思い出す。あれから一時間も経っていない。あの店が開くには早すぎる。
「いや、まだ閉まってますよ」
「でも菊乃はいるだろ?」
「……そりゃ、いるでしょうけど」
「少し話をするだけだ」
鯉登は、幾多の修羅場を経て将校としての自覚を深め、徐々に本来の奔放な性格をあまり表に出さなくなった。しかし、時折こういった自己中心的な性格が顔を出す。
月島は、うんざりするような、それでいてむず痒い気持ちになる。窘めるべきところだが、こうして駄々のような言い分に付き合わされることも、自分には気を許しているのかと思うとやぶさかではない。月島にとって、もはや慣れた日常の一部である。
とはいえ、他人に――特に、菊乃に迷惑をかけるのはまた別の話。
「待ってください少尉殿!」
それでも結局、気がつけば二人並んで魁燿亭の門前に立っているのだから、どうにも始末が悪い。
「
玄関の格子戸を開けるなり、鯉登は晴れやかな声で言った。無造作に飛び出た「ただいま」は、最早彼にとってここが帰る場所になっていることを示す。
ただし、まだ店は開いていない。
「鯉登さん?月島さんも。どうしたんですか?」
昼下がりの柔らかな光が菊乃を照らす。夜の華やぎとは打って変わって、小花の散る小紋をゆるく着こなし、髪も軽くまとめただけ。素顔のまま白粉もなく、素朴で清らかなその姿に、鯉登は言葉を忘れて見惚れている。
「……鯉登少尉殿」
見かねた月島が肘で小突くと、鯉登はようやく我に返る。
「い、いや、その。巡回で近くまで来たから様子を見に寄ったんだ」
「それは、わざわざありがとうございます。よかったらお茶をお入れします」
微笑みながら、菊乃は二人を招いた。
月島は、やれやれと短く息を吐く。いじらしいというかなんというか――。ため息まじりに、促されるまま、鯉登に続いて中へと上がった。
「皆、鯉登さんたちに感謝してました。本当にありがとうございます」
「いや。逆に警戒されたかもしれん。それらしい男たちを見つけられんでな」
「このまま現れなくなるなら、それはそれで構いません」
そう言った菊乃の声には、ほっとしたような、けれどどこかまだ不安を引きずる響きが混じっていた。
窓の外、陽の傾きにあわせて畳に射す光が長く伸びている。菊乃は湯呑にお茶を注ぎ、静かに二人の前に置いた。それを見計らって月島が、
「菊乃さん。今更ですが開店前に突然押しかけて申し訳ない」
と続けると、隣の鯉登が不満げにジトと睨んでくる。月島は、気づかぬふりをした。今となっては二人揃ってすっかり常連扱いだが、節度は守るべきである。
「いいえ。ちょうど三味線のお稽古が終わったところですから」
気になさらず、と微笑む菊乃の表情は晴れやかだった。
「素人目にも、菊乃は唄も三味線も上手いから、さぞたくさん練習しているのだろう?」
鯉登が素直な気持ちで褒め称えた。しかし、その言葉に菊乃は曖昧な表情のまま視線を落とす。
「……私には、それしかありませんから」
ぽつりとこぼれた菊乃の瞳は、ここではない何処かを見るように虚ろだった。言葉の奥にあるものを、二人は咄嗟に掴みかねる。
けれど、問いただす間もなく、
「そうだ!“今だから”できることしませんか?」
と、菊乃はぱっと笑顔を咲かせた。
「今だから?」
「できること?」
「かくれんぼ、です!」
軽やかに告げたその言葉に、二人は声を失った。
静かな座敷に差し込む冬の午後の光。その中で微笑む菊乃の顔は、あどけなさを残した少女のようだった。
菊乃の勢いに流され、あれよあれよという間に三人のかくれんぼは始まった。
鬼は鯉登と月島。百数えるあいだに隠れた菊乃を見つけ出さねばならない。
菊乃は、にこりと笑って「客間のどこかに隠れる」と言い残し、襖の向こうへ颯爽と姿を消した。
――あれから三十分が経とうとしている。二人がかりで探し回っても、菊乃の気配すら掴めないでいた。
「もう一通り見ましたけど、いませんね」
月島が、静まり返った客間に声を落とす。
「どけ行たんじゃ菊乃ーっ」
焦れた鯉登が、情けなくも声を張り上げた。
数ではこちらが圧倒的に有利なはずだった。軍人二人、軍務で鍛えられた目と勘を持ってしても娘ひとり捕まえられないとは、遊びであってもなんだか体裁が悪い。
魁燿亭の客間は、全七部屋が廊下を挟んで向かい合わせになっていた。さらに奥へ進むと、大広間と厨房があるのみだし、二階は従業員用で立ち入ることはできない。隠れ場所は客間に限るのだから、分かりやすいはずだった。
「掛け軸の裏もめくったが、隠し部屋があるわけでもなさそうだ」
「何やってるんですかあなた……」
至極真面目に腕を組んだ鯉登が放った一言に、呆れ顔で月島が眉を顰めた。
いつか菊乃が言っていた女将のこだわり――客人の職業や趣味に合わせ、毎日違う掛け軸を飾るという粋なもてなし。恐ろしく高価に違いないその逸品を、まるで暖簾でもくぐるようにめくったであろう鯉登に、月島は冷ややかな視線を送る。
――隠し部屋。
ふと彼の脳裏を過ったのは、この料亭の成り立ちだった。
魁燿亭は明治初期から続く店であり、かつて要人たちの密談の場としても使われてきたという。料亭側がどこまで知っていたのか定かではないが、何らかの“配慮”があったであろうことは想像に難くない。
近年では、日露戦争の折に軍の会議や宴を催す場として使われたこともあった。
月島は、ふと床の間の柱に手を当てた。そのまま無言で、壁伝いに指先を滑らせる。木肌の感触、わずかな空気の流れ、音の反響――そんな些細なものに耳を澄ませるようにして、部屋の隅まで歩いたかと思うと、不意に速足で廊下に出る。
「……月島?」
訝しげに呼びかける鯉登に構わず、彼は小さく呟いた。
「壁が……厚すぎる?」
その声には、確信に近い直感を含んでいた。ふと立ち止まって廊下を見渡す。板張りの床がきしむ音が、静まり返る廊下に響く。
客間の数に対して、廊下の長さが合わない――ただ歩いているだけでは気づかない小さな違和感が、月島の隠れた好奇心を掻き立てた。
「鯉登少尉殿。客間の壁を叩いて他とは違う音がするところを探してください」
「壁なんて叩いてどうするのだ?」
困惑する声に、月島は口元を緩めてみせた。それは、まるで秘密基地に心躍らせる少年のような表情だった。
「“隠し部屋”――本当にあるのかもしれませんよ」
