本編
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魁燿亭(五)
「──そう、でしたか……女将さんが」
菊乃は視線を落としてそっと息を吐いた。乾ききらぬままの涙の痕を、手の甲でそっと拭う。
三人だけで話がしたいと願い出て、玉には下がってもらった。今は菊乃と、向かい合う鯉登、月島の三人だけだ。
「ここに来る前のことは、全く思い出せんと聞いたが」
鯉登がやや低く探るような声音で問うと、菊乃は僅かに頷いた。声に出すのが憚られる気持ちもあったが、向き合わねばならぬ時だと覚悟を決めた。
「ただ、ここ数日の間で少しずつ、……ロシア語のような歌を思い出すようになりました」
小樽では、あちこちにロシア語の看板が立っているほど馴染みのある言語だ。しかし、この町の何処かでその歌を聞いたわけでもないし、意味だって理解できない。
唇をかみしめ、眉尻が沈む。誰かに聞きたくとも、口にすれば何かが壊れるのではないかと、菊乃の中で漠然とした恐怖がずっと根を張っていた。
「……聴かせてくれないか」
鯉登の静かな言葉に、菊乃は少し間をあけてこくりと頷いた。心の奥にずっと仕舞い込んでいたものに、今ようやく光を当てようとしている。
緊張を解すように一度息を吸い込み、吐く。畳にすがるように視線を落とした。
Звезда одна,
слеза в ночи,
Две звезды,
встречаются у сакуры.
Три звезды,
часы молчат,
Четыре звезды,
тайну хранят,
Пять звезд спят под снегом.
遠慮がちで弱々しかったが、優しく心安らぐような歌声だった。それは、まるで子守唄のような旋律を帯びている。
鯉登と月島は、互いに視線を交わす。二人の間には、衝撃と戸惑いがあった。
「……確かにロシア語、だな」
ぽつりと呟いた鯉登の声には、どこか警戒するような含みがあった。
「しかし、どうにも奇妙だ」
「あり得る可能性としては、ロシア圏にいたことがあったか……」
「やはり、失った記憶と関係が……?」
二人の反応は、煮え切らない。菊乃は膝の上で拳を握った。頭に浮かんだのは、店の前で見た三人組の姿。鳥肌の立つ想像が脳裏を過ぎり、足元が揺らぐような錯覚に襲われる。自分を魁燿亭から連れ出そうとしている──なんて突拍子もない事を考えて恐ろしくなった。どう見たって、本当の家族なんて風貌ではなかった。
「とりあえず訳せるか、月島」
「あ、はい」
重たい沈黙を破ったのは、鯉登だった。そして、事もなげに返す月島。そのやりとりに、顔を上げた菊乃は目を丸くした。
「つ、月島さんロシア語が分かるんですか!?」
「はい、まぁ。業務上必要に迫られて」
「菊乃。紙と何か書くもの持ってきてくれ」
呆気にとられる菊乃に鯉登の声が掛かった。まるで作戦行動のような機敏な指示に圧倒されつつ、菊乃は「は、はいっ」と思わず反射的に返事をしてしまった。
それが、少し照れくさくもあり、不謹慎にもわくわくさせた。
菊乃は素早く立ち上がると、わずかに袖を翻しながら物入れの前へ向かった。膝をついて引き出しに手を伸ばす。どこか焦りにも似た忙しなさで、客人用に備えてある万年筆と紙を月島に手渡した。
「もう一度、歌いますね」
菊乃がそう言うと、月島が静かに頷いた。紙の上に綴られゆく未知の歌の先に、一体どんな真実が待っているのか。期待と不安が交錯していた。
星ひとつ 夜に涙をこぼし
星ふたつ 桜のもとに集う
星みっつ 銀の時計は黙り
星よっつ 秘密を抱きしめて
星いつつ 雪の下で眠る
「──耳に残りやすい単語が多いですね。子どもでも歌いやすい」
訳文を見つめながら、月島が静かに言った。その声は落ち着いているものの、どこか釈然としない色を含んでいる。
「内容にまとまりがなく、意味はよく分かりませんが……」
「数え歌、のようなものだろうか……?」
鯉登もまた、紙に顔を寄せ腕を組んで唸る。
「……暗号……とか」
静寂の中、月島がぽつりと呟くと、鯉登と菊乃が振り向いた。“暗号”という言葉は、きな臭い緊張を与える。
「使われている単語の頭文字を並べるとか、節ごとに意味を当てはめるとか……。まぁ、そうだとしても材料がほぼ無いんじゃ解読は無理ですね」
三人の間に、重たい沈黙が落ちる。火鉢の炭が小さく爆ぜる音が、妙に大きく響いて聞こえた。
紙に書かれた文字は、ただの言葉の羅列のようで、深い意味を孕んでいるようにも見える。数々の言葉が、どこか暗喩的なものなのではと錯覚を起こす。
そんな中、暫し迷うように視線をさまよわせていた菊乃が、やがてぽつりと切り出した。
「あの……もう一つ、お話してもいいでしょうか」
鯉登と月島が同時に顔を上げる。その様子に、菊乃は一瞬たじろぎながらも、覚悟を決めた。
「最近、店の周りをうろついている異国の男たちがいるんです」
菊乃の声はわずかに震えていた。両の手を膝の上で固く組み、爪が白くなるほど指に力がこもっている。
「店を覗き見てるような姿を何度も目撃されていて……今日私も見たんです。それで話しかけたら」
「……待て。話しかけたとは、まさか一人でか?」
食い気味に問い返した鯉登の声が、不意に鋭さを帯びる。
「は、はい……。その時はただ、お店に入ろうか迷ってるのかなーって思ったから」
「バカタレ!得体のしれん輩へ話しかけにいくやつがあるか!」
その勢いに驚いたのか、菊乃は思わずキュっと目を瞑る。色々と言い訳したいことが喉元まで出かけて、結局飲み込んだ。
「鯉登少尉殿、それは一旦置いといて。……話しかけてどうしたんです?」
月島が冷静に話を戻すと、菊乃は小さく頷いた。
「話しかけたら、ひとりがたぶんロシア語……で何か言って、すぐ行ってしまいました。帽子を深く被っていて顔もよく見えなかったし、それがなんか怖くて……」
言葉とともに、記憶が蘇ったのか、菊乃の表情に一瞬、怯えの色が差した。その手が無意識に袖を握り、着物がくしゃりと音を立てる。
「偶然、でしょうか……」
菊乃の視線が不安げに泳ぐ。灯りに照らされた頬はわずかに青ざめていた。
「その話、何故もっと早く言わん」
菊乃は、ハッとして顔を上げた。鯉登が、凛とした眼差しでこちらを見つめていた。
「遠慮なく私を頼れ。不安だと、はっきり言ってくれていい」
菊乃は言葉を失った。秘めていた恐れと迷いを一瞬で見抜かれ、驚きと恥ずかしさと、どこか救われたような安堵が胸の内で綯い交ぜになる。
「菊乃と関わりのある人間かどうか、とっ捕まえれば分かることだ」
そこからの話は早かった。
「何人かに警戒させる。念の為町中の巡回もやるか。二、三人なら動かせるだろう?」
「はい。“不審なロシア人の警戒”としておけば問題ないかと」
「こっちにいる期間も伸ばすと伝えておいてくれ」
二人の声音には、淡々とした調子の中にしっかりと緊張感が漂う。
鯉登は一呼吸置いてから、再び菊乃へと振り返った。先程までの厳しさとは違う穏やかな眼差しで、
「心配はいらん。お前に何もさせやせん」
そう言って、鯉登は菊乃をまっすぐ見つめた。
熱くなる胸と気の緩みで視界がぼやける。菊乃は、唇をかみしめ小さく頷いた。
🌙side story🌙
月島は、無言の圧力に気を張っていた。
「……近いです。お二人とも」
低くぼやくように抗議の声を漏らすも、彼の両端にぴったり張り付くように座る鯉登と菊乃は、一向に気にする様子がない。彼の手元、訳文を書き進める紙と筆先に二人の視線は集中している。鯉登に至っては、そこから徐々にねっとりとした視線を月島の顔に滑らせてきた。妙に勘ぐるような目つきで。
だが、それ以上に月島の平常心を乱していたのは、菊乃だった。
ぴたりと寄せられた彼女の体温。視界の端には、芸者特有の絶妙な衿引きによって広く露わになった白いうなじがちらつく。女らしい線を描き、清らかさと艶やかさを併せ持つその姿に、月島の喉が思わず鳴った。
更にほんのりと、甘く落ち着いた香の匂いが鼻を擽る。ふいに感じたその柔らかさが、兵舎に蔓延る男共の臭いとはまるで異なる別世界のもので、ひどく戸惑いを覚えた。
居心地の悪さと、妙な緊張感。手の中の万年筆がいつもより重く感じられるのは気のせいではない。必死に集中し、文字を一つひとつ確実に記していく。
「……できました」
やや早口にそう言うと、月島は手をついてすっと机から後退った。その動きには「もう解放してくれ」と言わんばかりの必死さを醸し出す。
ずずいと前に出て訳文の書かれた紙を覗き込む菊乃。その顔には、緊張、好奇心、それと不安が入り混じっていた。訳された言葉が、過去に繋がる何かであると期待を抱いていることだろう。
その菊乃とは対照的に、鯉登はまだ月島の顔面を覗き込むように凝視している。
「月島ぁ」
ねっとりとした声音。まるで詰問である。
「……見てません」
「まだなにも言っとらんぞ」
月島は、姿勢正しく前を向いたまま小声で、だがきっぱりと言い放つ。
鯉登の返しは、やや膨れた声だ。
「見てません」
二度、主張しておく。翻訳作業よりも神経をすり減らした時間がようやく終わり、月島の中には、妙な疲労と得体の知れない焦燥感が残った。
すぐ隣では、菊乃が訳文に目を通しながら眉を寄せている。彼女の過去に繋がる記憶の扉が、少しずつ開かれようとしていた。
「──そう、でしたか……女将さんが」
菊乃は視線を落としてそっと息を吐いた。乾ききらぬままの涙の痕を、手の甲でそっと拭う。
三人だけで話がしたいと願い出て、玉には下がってもらった。今は菊乃と、向かい合う鯉登、月島の三人だけだ。
「ここに来る前のことは、全く思い出せんと聞いたが」
鯉登がやや低く探るような声音で問うと、菊乃は僅かに頷いた。声に出すのが憚られる気持ちもあったが、向き合わねばならぬ時だと覚悟を決めた。
「ただ、ここ数日の間で少しずつ、……ロシア語のような歌を思い出すようになりました」
小樽では、あちこちにロシア語の看板が立っているほど馴染みのある言語だ。しかし、この町の何処かでその歌を聞いたわけでもないし、意味だって理解できない。
唇をかみしめ、眉尻が沈む。誰かに聞きたくとも、口にすれば何かが壊れるのではないかと、菊乃の中で漠然とした恐怖がずっと根を張っていた。
「……聴かせてくれないか」
鯉登の静かな言葉に、菊乃は少し間をあけてこくりと頷いた。心の奥にずっと仕舞い込んでいたものに、今ようやく光を当てようとしている。
緊張を解すように一度息を吸い込み、吐く。畳にすがるように視線を落とした。
Звезда одна,
слеза в ночи,
Две звезды,
встречаются у сакуры.
Три звезды,
часы молчат,
Четыре звезды,
тайну хранят,
Пять звезд спят под снегом.
遠慮がちで弱々しかったが、優しく心安らぐような歌声だった。それは、まるで子守唄のような旋律を帯びている。
鯉登と月島は、互いに視線を交わす。二人の間には、衝撃と戸惑いがあった。
「……確かにロシア語、だな」
ぽつりと呟いた鯉登の声には、どこか警戒するような含みがあった。
「しかし、どうにも奇妙だ」
「あり得る可能性としては、ロシア圏にいたことがあったか……」
「やはり、失った記憶と関係が……?」
二人の反応は、煮え切らない。菊乃は膝の上で拳を握った。頭に浮かんだのは、店の前で見た三人組の姿。鳥肌の立つ想像が脳裏を過ぎり、足元が揺らぐような錯覚に襲われる。自分を魁燿亭から連れ出そうとしている──なんて突拍子もない事を考えて恐ろしくなった。どう見たって、本当の家族なんて風貌ではなかった。
「とりあえず訳せるか、月島」
「あ、はい」
重たい沈黙を破ったのは、鯉登だった。そして、事もなげに返す月島。そのやりとりに、顔を上げた菊乃は目を丸くした。
「つ、月島さんロシア語が分かるんですか!?」
「はい、まぁ。業務上必要に迫られて」
「菊乃。紙と何か書くもの持ってきてくれ」
呆気にとられる菊乃に鯉登の声が掛かった。まるで作戦行動のような機敏な指示に圧倒されつつ、菊乃は「は、はいっ」と思わず反射的に返事をしてしまった。
それが、少し照れくさくもあり、不謹慎にもわくわくさせた。
菊乃は素早く立ち上がると、わずかに袖を翻しながら物入れの前へ向かった。膝をついて引き出しに手を伸ばす。どこか焦りにも似た忙しなさで、客人用に備えてある万年筆と紙を月島に手渡した。
「もう一度、歌いますね」
菊乃がそう言うと、月島が静かに頷いた。紙の上に綴られゆく未知の歌の先に、一体どんな真実が待っているのか。期待と不安が交錯していた。
星ひとつ 夜に涙をこぼし
星ふたつ 桜のもとに集う
星みっつ 銀の時計は黙り
星よっつ 秘密を抱きしめて
星いつつ 雪の下で眠る
「──耳に残りやすい単語が多いですね。子どもでも歌いやすい」
訳文を見つめながら、月島が静かに言った。その声は落ち着いているものの、どこか釈然としない色を含んでいる。
「内容にまとまりがなく、意味はよく分かりませんが……」
「数え歌、のようなものだろうか……?」
鯉登もまた、紙に顔を寄せ腕を組んで唸る。
「……暗号……とか」
静寂の中、月島がぽつりと呟くと、鯉登と菊乃が振り向いた。“暗号”という言葉は、きな臭い緊張を与える。
「使われている単語の頭文字を並べるとか、節ごとに意味を当てはめるとか……。まぁ、そうだとしても材料がほぼ無いんじゃ解読は無理ですね」
三人の間に、重たい沈黙が落ちる。火鉢の炭が小さく爆ぜる音が、妙に大きく響いて聞こえた。
紙に書かれた文字は、ただの言葉の羅列のようで、深い意味を孕んでいるようにも見える。数々の言葉が、どこか暗喩的なものなのではと錯覚を起こす。
そんな中、暫し迷うように視線をさまよわせていた菊乃が、やがてぽつりと切り出した。
「あの……もう一つ、お話してもいいでしょうか」
鯉登と月島が同時に顔を上げる。その様子に、菊乃は一瞬たじろぎながらも、覚悟を決めた。
「最近、店の周りをうろついている異国の男たちがいるんです」
菊乃の声はわずかに震えていた。両の手を膝の上で固く組み、爪が白くなるほど指に力がこもっている。
「店を覗き見てるような姿を何度も目撃されていて……今日私も見たんです。それで話しかけたら」
「……待て。話しかけたとは、まさか一人でか?」
食い気味に問い返した鯉登の声が、不意に鋭さを帯びる。
「は、はい……。その時はただ、お店に入ろうか迷ってるのかなーって思ったから」
「バカタレ!得体のしれん輩へ話しかけにいくやつがあるか!」
その勢いに驚いたのか、菊乃は思わずキュっと目を瞑る。色々と言い訳したいことが喉元まで出かけて、結局飲み込んだ。
「鯉登少尉殿、それは一旦置いといて。……話しかけてどうしたんです?」
月島が冷静に話を戻すと、菊乃は小さく頷いた。
「話しかけたら、ひとりがたぶんロシア語……で何か言って、すぐ行ってしまいました。帽子を深く被っていて顔もよく見えなかったし、それがなんか怖くて……」
言葉とともに、記憶が蘇ったのか、菊乃の表情に一瞬、怯えの色が差した。その手が無意識に袖を握り、着物がくしゃりと音を立てる。
「偶然、でしょうか……」
菊乃の視線が不安げに泳ぐ。灯りに照らされた頬はわずかに青ざめていた。
「その話、何故もっと早く言わん」
菊乃は、ハッとして顔を上げた。鯉登が、凛とした眼差しでこちらを見つめていた。
「遠慮なく私を頼れ。不安だと、はっきり言ってくれていい」
菊乃は言葉を失った。秘めていた恐れと迷いを一瞬で見抜かれ、驚きと恥ずかしさと、どこか救われたような安堵が胸の内で綯い交ぜになる。
「菊乃と関わりのある人間かどうか、とっ捕まえれば分かることだ」
そこからの話は早かった。
「何人かに警戒させる。念の為町中の巡回もやるか。二、三人なら動かせるだろう?」
「はい。“不審なロシア人の警戒”としておけば問題ないかと」
「こっちにいる期間も伸ばすと伝えておいてくれ」
二人の声音には、淡々とした調子の中にしっかりと緊張感が漂う。
鯉登は一呼吸置いてから、再び菊乃へと振り返った。先程までの厳しさとは違う穏やかな眼差しで、
「心配はいらん。お前に何もさせやせん」
そう言って、鯉登は菊乃をまっすぐ見つめた。
熱くなる胸と気の緩みで視界がぼやける。菊乃は、唇をかみしめ小さく頷いた。
🌙side story🌙
月島は、無言の圧力に気を張っていた。
「……近いです。お二人とも」
低くぼやくように抗議の声を漏らすも、彼の両端にぴったり張り付くように座る鯉登と菊乃は、一向に気にする様子がない。彼の手元、訳文を書き進める紙と筆先に二人の視線は集中している。鯉登に至っては、そこから徐々にねっとりとした視線を月島の顔に滑らせてきた。妙に勘ぐるような目つきで。
だが、それ以上に月島の平常心を乱していたのは、菊乃だった。
ぴたりと寄せられた彼女の体温。視界の端には、芸者特有の絶妙な衿引きによって広く露わになった白いうなじがちらつく。女らしい線を描き、清らかさと艶やかさを併せ持つその姿に、月島の喉が思わず鳴った。
更にほんのりと、甘く落ち着いた香の匂いが鼻を擽る。ふいに感じたその柔らかさが、兵舎に蔓延る男共の臭いとはまるで異なる別世界のもので、ひどく戸惑いを覚えた。
居心地の悪さと、妙な緊張感。手の中の万年筆がいつもより重く感じられるのは気のせいではない。必死に集中し、文字を一つひとつ確実に記していく。
「……できました」
やや早口にそう言うと、月島は手をついてすっと机から後退った。その動きには「もう解放してくれ」と言わんばかりの必死さを醸し出す。
ずずいと前に出て訳文の書かれた紙を覗き込む菊乃。その顔には、緊張、好奇心、それと不安が入り混じっていた。訳された言葉が、過去に繋がる何かであると期待を抱いていることだろう。
その菊乃とは対照的に、鯉登はまだ月島の顔面を覗き込むように凝視している。
「月島ぁ」
ねっとりとした声音。まるで詰問である。
「……見てません」
「まだなにも言っとらんぞ」
月島は、姿勢正しく前を向いたまま小声で、だがきっぱりと言い放つ。
鯉登の返しは、やや膨れた声だ。
「見てません」
二度、主張しておく。翻訳作業よりも神経をすり減らした時間がようやく終わり、月島の中には、妙な疲労と得体の知れない焦燥感が残った。
すぐ隣では、菊乃が訳文に目を通しながら眉を寄せている。彼女の過去に繋がる記憶の扉が、少しずつ開かれようとしていた。
