本編
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魁燿亭(四)
芸者であることは、菊乃にとって“証”だった。
今や、唄も三味線も舞も手本にされるほど上達したし、笑みを浮かべれば「まるで花が咲いたようだ」と感嘆し、酔いの席で交わす戯れも「まるで憎めぬ童子だ」と皆笑って受け流す。
紅を引いた唇、結った黒髪、滑らかな衣擦れの音──そのすべてが、魁燿亭の一輪としてふさわしく、誰もが彼女の居場所はここに違いないと疑わなかった。
しかし、時折胸を締め付ける感覚が襲う。白く霞んだ情景が、夢の中のようにぼんやりと現れては、掴もうとすると指の間をすり抜ける。
思い出せない。
自分がどこから来たのか。
家族はいたのか。
だというのに、ここ数日、頭にこびりついて離れない歌がある。
知らない音。知らない旋律。異国の言葉。
「…Звезда одна, ……」
お座敷で披露するような雅びなものではない。その旋律はどこか切なく、それでいて穏やかでもあった。
意味はわからぬはずなのに、魂だけがそれに震えた。まるで、此処ではない場所へ引きずっていかれそうな感覚までしてくる。喜びと不安という奇妙な矛盾──。
菊乃は、支度部屋にある大きな姿見の前に立った。全て完璧に仕上げられた自分がいる。
けれど、その中に確かに見える──知らない影。
「……あなたは、誰……」
呟いた声は、しんとした空気に溶けていった。その問いに応える者など、どこにもいない。
ただ、薄明かりの中に佇む己の像が、応えもなくじっとこちらを見返していた。
──その日の魁燿亭は、どこか落ち着かない気配に包まれていた。
支度部屋では、仲居や芸者たちが寄り集まり、声を潜めて話し込んでいる。各々の顔には、いつになく深刻な影が差していた。
「菊乃ちゃん、聞いた?」
声をかけてきたのは、同じ専属芸者の玉。歳も変わらず、普段からよく話をする相手だ。少し世間知らずで、どこか浮世離れした言動もあるが、むしろそういうところが放っておけず、周囲にも可愛がられている。
「最近ね、魁燿亭のまわりで“異人”がうろついてるらしいの」
「小樽じゃ、珍しいものでもないでしょう?」
北海道・小樽は北の交易港として栄えてきた町。実際、魁燿亭にも時折異国の客が顔を出す。
「それが、どうも客って感じじゃないらしくて……三人組で、毎日店の裏とか奥を覗くようにしてるって」
「ふうん……」
料亭の噂を聞いて来てみたけれど、いざ入る勇気がなくて、ぐるぐる店の周りをうろついてる──そんな情景を想像してしまって、菊乃からつい「ふふふ」と声が漏れる。
「ちょっと、なに笑ってんの!私ほんとに怖いんだからー!」
「ごめんごめん」
玉の心配も分からないではなかった。異人による暴力事件など、時折小耳に挟む。
「旦那様や女将さんにも話は通ってるだろうし、大丈夫よ」
「うん~……じゃあさ、いつも来てくれる兵隊さんに相談してみてよ」
「え?」
思わず間の抜けた声が出る。鯉登と月島のことを指しているのは明らかだった。
「でも、あの方たちきっと忙しいし……」
「別の兵隊さんを寄こしてくれるかもしれないじゃん?」
「ええー?」
異人がうろついてるから追い払ってください──そんな理由で相談するなど、彼等にしてみれば迷惑な話ではないのか。何かされたわけでもないのだし。
「まぁ……次お越しになったら聞いてみる」
ふわっとそれだけ答えて、菊乃は支度前の持ち場である表口まわりの掃除に向かって歩き出した。
手箒を握り、菊乃は地面に積もった雪をそっと払った。軒下に落ちた細かな枝や葉を拾い集め、通りまで見渡して最後の仕上げ。夕方の薄暮が、木戸や障子の輪郭をほのかに滲ませはじめていた。
「……きれい、よしっ」
指差し確認で声に出すと、つい楽しくなって、そのまま通りまで出てしまう。
「今日もきれい、よしっ!」
声に合わせて勢いよく指をさした先──人影が揺れていた。
二人……いや、三人。まだ雪の白さが残る町筋の向こう、黄昏の薄闇に紛れるように立っている。
「……あれは」
目を細める。遠くてよく見えないが、玉が言っていた“うろつく異人”とは、まさにあれのことではないか。
心の中でそう呟くと、菊乃の足は自然と動いた。雪を踏みしめる音がサク、サクと規則的に響く。冷たい空気が頬を撫で、鼻先がほんのり赤くなった。
今までも、魁燿亭の格式や佇まいに尻込みして、入り口まで来ては帰っていく客もいた。ならばこちらから声をかけてやればいいじゃないか。まだ開店まで少し早いが、頼めば何とかなるだろう。
「あの、魁燿亭の入り口はあちらですよ。ご案内しましょうか?」
少し控えめに微笑んで言う。言葉が通じなくとも、目を見て、身振りで伝えればいい。礼儀と所作には、自信があった。
そのとき、三人の男たちが一斉に振り返った。驚くほど揃った動き。そこまで驚かなくても、と言いたくなるくらいの機敏さだ。
彼らは皆、黒の中折れ帽を目深に被り、顔の半分が影に沈んでいる。瞳の奥までは見えない。しかも、その輪郭に宿る険しさ、頬の張り、無表情に近い口元──。
これは、玉が怖がるのも無理はなかった。菊乃でさえ、無意識に顔が強ばり息を呑むくらいだ。
「……Пойдем」
ひとりが、短く低い声で言った。
「え……」
耳が確かにそれを拾った瞬間、背中がサーと一瞬にして冷めた。
それは、あの歌──あの旋律にあった言葉と響きがよく似ていた。
三人の男たちは、菊乃が我に返った時には雪の向こうに消えていた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
凍えた風が頬を撫でた。通りは静まり返り、雪明かりだけがぼんやりと辺りを照らしている。
菊乃はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
──噂をすればなんとやら。とはよく言うが、菊乃もまさかこんなに都合よく現れるとは思っていなかった。
いつもの軍服姿のまま、やや窶れた顔で酒を口にする鯉登は、盃を三つ空けたあたりからぽつぽつと愚痴をこぼしはじめた。上官との折り合いが悪く、言いたいことの一つ二つ、喉まで出かかったのを堪えたのだという。
「き゛ぇぇぇぇ……っ」
歯噛みするような唸り声と共に、鯉登は膝の上で拳を握りしめている。
「ご立派でしたよ、鯉登少尉殿」
その様子を冷静に見ていた月島が、労いと慰めの言葉を投げる。激情の火を飲み込んだ鯉登の姿は、きっと事情を知る誰もが同情するのだろう。
「将校さんも大変なんですねぇ」
月島の隣に座っていた芸者の玉が、のほほんとした口調で合いの手を入れる。その飄々とした様子に、まるで「ふにゃふにゃと締まりのない女だ」とぼやきそうな表情を向ける月島が、酒をちびちびと舐め続けていた。
そして、鯉登の隣に座るもう一人の芸者──菊乃は、いつもどこか悪戯をたくらむような瞳の輝きがなかった。鯉登の愚痴にも心ここにあらずといった様子で、上の空のまま「へ~」「そうですか~」と生返事を繰り返している。
「……菊乃、酒がこぼれちょっ」
鯉登がぽつりと指摘したときにはもう、菊乃の手元から注がれていた酒が盃の縁を越え、畳へしとしとと滴っていた。
「えっ……やだ、ごめんなさい!」
はっと我に返ったように菊乃は声を上げ、慌てて手拭いを掴み取り、濡れたところを拭きはじめる。酒は鯉登の膝にもかかってしまっており、玉も慌てて手を貸した。
鯉登は、縁スレスレの酒を飲むでもなく菊乃の姿を見続けるものだから、更にぽたりと雫が落ちる。
「……何かあったか?菊乃」
不意に、鯉登が低く問いかけた。先程までとは違う真剣な声音に、菊乃は顔を上げた。視線の先には、まっすぐ自分を見つめる目。思わずその視線から逃れ、その問いの重さに言葉を探した。
「いいえ。申し訳ありません。何でもないんです」
「嘘をつくな」
即座に返された静かな一言に、菊乃は息を呑んだ。酔いの力で誤魔化したいのに、僅かに開いた口が言葉を紡げない。
「今日はずっと様子がおかしいな。具合が悪いなら無理をするな」
「……菊乃さん。体調がすぐれないのなら、我々もうここまでにして」
月島が静かに退出を促した瞬間、
「待ってください!」
咄嗟に飛び出したその声は、菊乃自身も驚くほど苦しげで掠れていた。
ちゃんとしなければ、きちんとしなければ──頭ではそう思うのに、心が追いつかない。何もかもが喉の奥で引っかかり、うまく言葉が出てこなかった。
「本当に、何でもないんです。少しぼーっとしただけ……」
「菊乃ちゃん……?」
隣にいた玉が、不安そうに名を呼ぶ。菊乃の頬を、静かに涙が伝い落ちていた。
一度こぼれた涙は止まらず、菊乃は震える指で口元を覆いながら、俯き堪えようとして、
「っ!」
ぐっと肩を掴まれた。菊乃が驚いて顔を上げると、
「菊乃、私の目を見ろ。──何があった?」
その目に捉えられた瞬間、菊乃は抗う力を失った。胸の奥で絡まり続けていたものが、静かに解けていく感覚がした。
芸者であることは、菊乃にとって“証”だった。
今や、唄も三味線も舞も手本にされるほど上達したし、笑みを浮かべれば「まるで花が咲いたようだ」と感嘆し、酔いの席で交わす戯れも「まるで憎めぬ童子だ」と皆笑って受け流す。
紅を引いた唇、結った黒髪、滑らかな衣擦れの音──そのすべてが、魁燿亭の一輪としてふさわしく、誰もが彼女の居場所はここに違いないと疑わなかった。
しかし、時折胸を締め付ける感覚が襲う。白く霞んだ情景が、夢の中のようにぼんやりと現れては、掴もうとすると指の間をすり抜ける。
思い出せない。
自分がどこから来たのか。
家族はいたのか。
だというのに、ここ数日、頭にこびりついて離れない歌がある。
知らない音。知らない旋律。異国の言葉。
「…Звезда одна, ……」
お座敷で披露するような雅びなものではない。その旋律はどこか切なく、それでいて穏やかでもあった。
意味はわからぬはずなのに、魂だけがそれに震えた。まるで、此処ではない場所へ引きずっていかれそうな感覚までしてくる。喜びと不安という奇妙な矛盾──。
菊乃は、支度部屋にある大きな姿見の前に立った。全て完璧に仕上げられた自分がいる。
けれど、その中に確かに見える──知らない影。
「……あなたは、誰……」
呟いた声は、しんとした空気に溶けていった。その問いに応える者など、どこにもいない。
ただ、薄明かりの中に佇む己の像が、応えもなくじっとこちらを見返していた。
──その日の魁燿亭は、どこか落ち着かない気配に包まれていた。
支度部屋では、仲居や芸者たちが寄り集まり、声を潜めて話し込んでいる。各々の顔には、いつになく深刻な影が差していた。
「菊乃ちゃん、聞いた?」
声をかけてきたのは、同じ専属芸者の玉。歳も変わらず、普段からよく話をする相手だ。少し世間知らずで、どこか浮世離れした言動もあるが、むしろそういうところが放っておけず、周囲にも可愛がられている。
「最近ね、魁燿亭のまわりで“異人”がうろついてるらしいの」
「小樽じゃ、珍しいものでもないでしょう?」
北海道・小樽は北の交易港として栄えてきた町。実際、魁燿亭にも時折異国の客が顔を出す。
「それが、どうも客って感じじゃないらしくて……三人組で、毎日店の裏とか奥を覗くようにしてるって」
「ふうん……」
料亭の噂を聞いて来てみたけれど、いざ入る勇気がなくて、ぐるぐる店の周りをうろついてる──そんな情景を想像してしまって、菊乃からつい「ふふふ」と声が漏れる。
「ちょっと、なに笑ってんの!私ほんとに怖いんだからー!」
「ごめんごめん」
玉の心配も分からないではなかった。異人による暴力事件など、時折小耳に挟む。
「旦那様や女将さんにも話は通ってるだろうし、大丈夫よ」
「うん~……じゃあさ、いつも来てくれる兵隊さんに相談してみてよ」
「え?」
思わず間の抜けた声が出る。鯉登と月島のことを指しているのは明らかだった。
「でも、あの方たちきっと忙しいし……」
「別の兵隊さんを寄こしてくれるかもしれないじゃん?」
「ええー?」
異人がうろついてるから追い払ってください──そんな理由で相談するなど、彼等にしてみれば迷惑な話ではないのか。何かされたわけでもないのだし。
「まぁ……次お越しになったら聞いてみる」
ふわっとそれだけ答えて、菊乃は支度前の持ち場である表口まわりの掃除に向かって歩き出した。
手箒を握り、菊乃は地面に積もった雪をそっと払った。軒下に落ちた細かな枝や葉を拾い集め、通りまで見渡して最後の仕上げ。夕方の薄暮が、木戸や障子の輪郭をほのかに滲ませはじめていた。
「……きれい、よしっ」
指差し確認で声に出すと、つい楽しくなって、そのまま通りまで出てしまう。
「今日もきれい、よしっ!」
声に合わせて勢いよく指をさした先──人影が揺れていた。
二人……いや、三人。まだ雪の白さが残る町筋の向こう、黄昏の薄闇に紛れるように立っている。
「……あれは」
目を細める。遠くてよく見えないが、玉が言っていた“うろつく異人”とは、まさにあれのことではないか。
心の中でそう呟くと、菊乃の足は自然と動いた。雪を踏みしめる音がサク、サクと規則的に響く。冷たい空気が頬を撫で、鼻先がほんのり赤くなった。
今までも、魁燿亭の格式や佇まいに尻込みして、入り口まで来ては帰っていく客もいた。ならばこちらから声をかけてやればいいじゃないか。まだ開店まで少し早いが、頼めば何とかなるだろう。
「あの、魁燿亭の入り口はあちらですよ。ご案内しましょうか?」
少し控えめに微笑んで言う。言葉が通じなくとも、目を見て、身振りで伝えればいい。礼儀と所作には、自信があった。
そのとき、三人の男たちが一斉に振り返った。驚くほど揃った動き。そこまで驚かなくても、と言いたくなるくらいの機敏さだ。
彼らは皆、黒の中折れ帽を目深に被り、顔の半分が影に沈んでいる。瞳の奥までは見えない。しかも、その輪郭に宿る険しさ、頬の張り、無表情に近い口元──。
これは、玉が怖がるのも無理はなかった。菊乃でさえ、無意識に顔が強ばり息を呑むくらいだ。
「……Пойдем」
ひとりが、短く低い声で言った。
「え……」
耳が確かにそれを拾った瞬間、背中がサーと一瞬にして冷めた。
それは、あの歌──あの旋律にあった言葉と響きがよく似ていた。
三人の男たちは、菊乃が我に返った時には雪の向こうに消えていた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
凍えた風が頬を撫でた。通りは静まり返り、雪明かりだけがぼんやりと辺りを照らしている。
菊乃はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
──噂をすればなんとやら。とはよく言うが、菊乃もまさかこんなに都合よく現れるとは思っていなかった。
いつもの軍服姿のまま、やや窶れた顔で酒を口にする鯉登は、盃を三つ空けたあたりからぽつぽつと愚痴をこぼしはじめた。上官との折り合いが悪く、言いたいことの一つ二つ、喉まで出かかったのを堪えたのだという。
「き゛ぇぇぇぇ……っ」
歯噛みするような唸り声と共に、鯉登は膝の上で拳を握りしめている。
「ご立派でしたよ、鯉登少尉殿」
その様子を冷静に見ていた月島が、労いと慰めの言葉を投げる。激情の火を飲み込んだ鯉登の姿は、きっと事情を知る誰もが同情するのだろう。
「将校さんも大変なんですねぇ」
月島の隣に座っていた芸者の玉が、のほほんとした口調で合いの手を入れる。その飄々とした様子に、まるで「ふにゃふにゃと締まりのない女だ」とぼやきそうな表情を向ける月島が、酒をちびちびと舐め続けていた。
そして、鯉登の隣に座るもう一人の芸者──菊乃は、いつもどこか悪戯をたくらむような瞳の輝きがなかった。鯉登の愚痴にも心ここにあらずといった様子で、上の空のまま「へ~」「そうですか~」と生返事を繰り返している。
「……菊乃、酒がこぼれちょっ」
鯉登がぽつりと指摘したときにはもう、菊乃の手元から注がれていた酒が盃の縁を越え、畳へしとしとと滴っていた。
「えっ……やだ、ごめんなさい!」
はっと我に返ったように菊乃は声を上げ、慌てて手拭いを掴み取り、濡れたところを拭きはじめる。酒は鯉登の膝にもかかってしまっており、玉も慌てて手を貸した。
鯉登は、縁スレスレの酒を飲むでもなく菊乃の姿を見続けるものだから、更にぽたりと雫が落ちる。
「……何かあったか?菊乃」
不意に、鯉登が低く問いかけた。先程までとは違う真剣な声音に、菊乃は顔を上げた。視線の先には、まっすぐ自分を見つめる目。思わずその視線から逃れ、その問いの重さに言葉を探した。
「いいえ。申し訳ありません。何でもないんです」
「嘘をつくな」
即座に返された静かな一言に、菊乃は息を呑んだ。酔いの力で誤魔化したいのに、僅かに開いた口が言葉を紡げない。
「今日はずっと様子がおかしいな。具合が悪いなら無理をするな」
「……菊乃さん。体調がすぐれないのなら、我々もうここまでにして」
月島が静かに退出を促した瞬間、
「待ってください!」
咄嗟に飛び出したその声は、菊乃自身も驚くほど苦しげで掠れていた。
ちゃんとしなければ、きちんとしなければ──頭ではそう思うのに、心が追いつかない。何もかもが喉の奥で引っかかり、うまく言葉が出てこなかった。
「本当に、何でもないんです。少しぼーっとしただけ……」
「菊乃ちゃん……?」
隣にいた玉が、不安そうに名を呼ぶ。菊乃の頬を、静かに涙が伝い落ちていた。
一度こぼれた涙は止まらず、菊乃は震える指で口元を覆いながら、俯き堪えようとして、
「っ!」
ぐっと肩を掴まれた。菊乃が驚いて顔を上げると、
「菊乃、私の目を見ろ。──何があった?」
その目に捉えられた瞬間、菊乃は抗う力を失った。胸の奥で絡まり続けていたものが、静かに解けていく感覚がした。
