本編
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魁燿亭(三)
「菊乃ちゃん。吉川様がいらしたから、ご挨拶だけお願い」
客間へ訪れた女将が静かに告げた。廊下を行き交う足音と、交わされる会話が微かに響く中で、菊乃は小さく頷いた。
「ごめんなさい鯉登さん。少し席を外します」
慎ましやかな微笑みを残し、菊乃はそっと襖を開けた。隙間から冷気が一瞬流れ込み、ふわりと彼女の香が薫った。
その姿が見えなくなるまで、鯉登は視線を外さない。名残惜しげなその様子に、月島が軽くため息をついた。
「だから見すぎです、少尉殿」
「うん……」
まるで上の空だった。盃を手にしたまま、ぼんやりと視線を廊下のほうへと投げかけている。月島は軽く肩を竦め、黙って酒を口に含んだ。
「鯉登様。月島様。今宵はお越しいただきありがとうございます」
その場にとどまっていた女将が静かに頭を下げる。その仕草には長年の経験から滲み出る品格があり、部屋の雰囲気が引き締まったように感じられた。
「鶴見様のこと、私共も残念でなりません……」
言葉を選びながら話す女将の横顔は、どこか憂いを帯びている。射し込む淡い座敷洋灯の光が、彼女の目元に儚げな陰影を落としていた。
その様子を静かに見守っていた鯉登が、
「女将。鶴見中尉はいつからこちらに?」
その問いに、一瞬女将の瞳が揺れた。そして懐かしむように目を細め、柔らかな声で答える。
「もう十年以上前です。視察で来られた陸軍省の方々をお連れになった時に、初めてお会いしました」
女将の声には、微かな温かみが含まれていた。思い出を辿るようなその表情に、鯉登も月島も自然と耳を傾ける。
「菊乃が初めて半玉 としてお披露目させていただいたのが、その鶴見様のお座敷でしてね」
その言葉に、二人の目が大きく見開かれた。
「女将。その……菊乃さんのお歳って……」
月島が戸惑いながら問いかけると、女将は悪戯っぽく笑った。
「まぁ月島様、それはご法度ですよ」
ふふふ、と上品に笑みを漏らした女将は手を口元に当て、やがて笑みを抑えるとふぅと息を吐いた。
「おそらくですが、今、二十五ほどではないかと」
その答えに、鯉登と月島は思わず顔を見合わせた。鶴見との初対面時の年齢もさることながら、鯉登より歳が上だという衝撃に二人揃って前のめりになる。
だが、それよりも女将の不自然な言い方に月島は違和感を覚えた。専属で住み込みさせている者の年齢くらい把握しておきそうなものだが、と。
「“おそらく”、とはどういう……?」
「……あの子には、ここに来る前までの記憶がないのです」
月島の問いに、女将の表情がわずかに翳った。その声は静かでありながらも重く、慎重に一語ずつ紡がれる。
「十にも満たないと思われる背丈の女の子でした。菊乃は、店の前で倒れていたんです。真冬の吹雪の日に、あちこち傷だらけで。あのまま放っておけば命はなかったでしょう……それから、私共で引き取り育てたんです」
店先に横たわっていた少女。まるであの時の姿を思い出すように、女将は視線を下げた。
魁燿亭の温かな灯火の中で聞くその話は、どこか現実離れしているようだった。
「あの子が鶴見様にその身の上をお話ししてからは、本当によく気にかけてくださってました」
あの日からの年月を一緒に過ごし、本当の娘のように成長を見守ってきたことがその表情から見て取れる。
「……菊乃に『必ず迎えに来る』と仰ってくださっていたのに」
二人は、思わず息を呑んだ。鶴見の封書に書かれていた言葉の真意。それが今、女将の口から裏付けられた。
「だから、この度のことは……あの子のことを思うと……」
言葉が震えを帯びて、女将は改めて居住まいを正す。
「鯉登様。月島様。無理を承知でお願いいたします。ほんの少しでいいので、菊乃のこと目をかけてやっていただけませんか」
女将の真剣な瞳が、二人をまっすぐに見つめていた。
「鶴見様のもとでお勤めされていたお二人だからか、菊乃も気兼ねがないようです。寂しさを紛らわそうとしてか、ご覧の通りあの歳になっても悪戯癖が抜けずで……」
「女将、分かった。もういい」
と、たまらず鯉登が静かに声をかけた。
「私たちが小樽に滞在する間に限られるが、折を見てここを訪ねよう。いいな、月島」
「はい……」
それを聞いて、深々と下げた頭を上げた女将の顔に、安堵が灯る。
「次のお料理をお持ちします」と告げた彼女の背中が静かに去っていく。その様は、凛とした余韻を残し、二人の胸の内に深く刻み込まれた。
🌙side story🌙
すっかり喧騒から離れた客間で、月島は一人静かに盃を傾けていた。先ほどまで付いていた芸者たちは、鯉登のいない間に心付け(勿論鯉登から持たされたもの)を握らせ下げさせた。
膳にはまだ湯気の立つ銚子が置かれている。注いだ酒は、熟成によって醸しだされた琥珀色に揺れ、洋灯の光を反射して淡い輝きを放っていた。
――菊乃。彼女が魁燿亭に拾われた経緯を聞いたとき、多少の同情は覚えたものの、それは強い疑念を生んだ。
店の前で倒れていた幼い娘。記憶もなく、年齢すら定かではないという。そんな身元のあやふやな者に、なぜ鶴見は目をかけていたのか。
「わざわざ手元に置きたがった理由……」
月島は静かに呟き、盃を口に運んだ。舌の上で広がる辛口の酒が、喉元を焼くように流れ落ちる。
最初から、違和感を覚えていた。鶴見のことだからただの情、ましてや惚れたがために可愛がっていたなど想像しづらい。そこにはもっと合理的で、計算された理由があると考えた方が納得できた。
――利用価値があった。
思考のたどり着いた結論に、月島は眉を顰めた。彼女が目に掛けられていたのは、その存在に何かしらの意味があったから。天涯孤独という身の上ほどに都合のいいものはないだろう。彼女の孤独な心に漬け込み、優しい言葉で懐柔するなど彼のやりそうなことだ。彼女の命も、駒の一つとして消え逝くことだってあり得たのでは――と。
そこまで考えて月島は頭を振った。今更そんな心配をする必要もない。もう、菊乃に危険が及ぶことはないのだから。
口には出さなかったが、おそらく鯉登も同じように考えている――そこまで思って、月島は件の男へ思考を向けた。
鯉登は、菊乃に対して明らかに他者とは違う視線を向けている。本人に自覚はなさそうだが、その様子は手に取るように分かった。恐らくあの無邪気な好意は、いずれ形を持ち始める。
「はぁ……面倒くさい予感しかせん」
月島は溜息を漏らし、並々と注いだ酒をぐっと一気に煽った。喉を焼く辛さが、思考を一瞬だけ白く染め上げる。
淡く燈された光が、静かな部屋の中で彼の影をゆらゆらと揺らした。
「菊乃ちゃん。吉川様がいらしたから、ご挨拶だけお願い」
客間へ訪れた女将が静かに告げた。廊下を行き交う足音と、交わされる会話が微かに響く中で、菊乃は小さく頷いた。
「ごめんなさい鯉登さん。少し席を外します」
慎ましやかな微笑みを残し、菊乃はそっと襖を開けた。隙間から冷気が一瞬流れ込み、ふわりと彼女の香が薫った。
その姿が見えなくなるまで、鯉登は視線を外さない。名残惜しげなその様子に、月島が軽くため息をついた。
「だから見すぎです、少尉殿」
「うん……」
まるで上の空だった。盃を手にしたまま、ぼんやりと視線を廊下のほうへと投げかけている。月島は軽く肩を竦め、黙って酒を口に含んだ。
「鯉登様。月島様。今宵はお越しいただきありがとうございます」
その場にとどまっていた女将が静かに頭を下げる。その仕草には長年の経験から滲み出る品格があり、部屋の雰囲気が引き締まったように感じられた。
「鶴見様のこと、私共も残念でなりません……」
言葉を選びながら話す女将の横顔は、どこか憂いを帯びている。射し込む淡い座敷洋灯の光が、彼女の目元に儚げな陰影を落としていた。
その様子を静かに見守っていた鯉登が、
「女将。鶴見中尉はいつからこちらに?」
その問いに、一瞬女将の瞳が揺れた。そして懐かしむように目を細め、柔らかな声で答える。
「もう十年以上前です。視察で来られた陸軍省の方々をお連れになった時に、初めてお会いしました」
女将の声には、微かな温かみが含まれていた。思い出を辿るようなその表情に、鯉登も月島も自然と耳を傾ける。
「菊乃が初めて
その言葉に、二人の目が大きく見開かれた。
「女将。その……菊乃さんのお歳って……」
月島が戸惑いながら問いかけると、女将は悪戯っぽく笑った。
「まぁ月島様、それはご法度ですよ」
ふふふ、と上品に笑みを漏らした女将は手を口元に当て、やがて笑みを抑えるとふぅと息を吐いた。
「おそらくですが、今、二十五ほどではないかと」
その答えに、鯉登と月島は思わず顔を見合わせた。鶴見との初対面時の年齢もさることながら、鯉登より歳が上だという衝撃に二人揃って前のめりになる。
だが、それよりも女将の不自然な言い方に月島は違和感を覚えた。専属で住み込みさせている者の年齢くらい把握しておきそうなものだが、と。
「“おそらく”、とはどういう……?」
「……あの子には、ここに来る前までの記憶がないのです」
月島の問いに、女将の表情がわずかに翳った。その声は静かでありながらも重く、慎重に一語ずつ紡がれる。
「十にも満たないと思われる背丈の女の子でした。菊乃は、店の前で倒れていたんです。真冬の吹雪の日に、あちこち傷だらけで。あのまま放っておけば命はなかったでしょう……それから、私共で引き取り育てたんです」
店先に横たわっていた少女。まるであの時の姿を思い出すように、女将は視線を下げた。
魁燿亭の温かな灯火の中で聞くその話は、どこか現実離れしているようだった。
「あの子が鶴見様にその身の上をお話ししてからは、本当によく気にかけてくださってました」
あの日からの年月を一緒に過ごし、本当の娘のように成長を見守ってきたことがその表情から見て取れる。
「……菊乃に『必ず迎えに来る』と仰ってくださっていたのに」
二人は、思わず息を呑んだ。鶴見の封書に書かれていた言葉の真意。それが今、女将の口から裏付けられた。
「だから、この度のことは……あの子のことを思うと……」
言葉が震えを帯びて、女将は改めて居住まいを正す。
「鯉登様。月島様。無理を承知でお願いいたします。ほんの少しでいいので、菊乃のこと目をかけてやっていただけませんか」
女将の真剣な瞳が、二人をまっすぐに見つめていた。
「鶴見様のもとでお勤めされていたお二人だからか、菊乃も気兼ねがないようです。寂しさを紛らわそうとしてか、ご覧の通りあの歳になっても悪戯癖が抜けずで……」
「女将、分かった。もういい」
と、たまらず鯉登が静かに声をかけた。
「私たちが小樽に滞在する間に限られるが、折を見てここを訪ねよう。いいな、月島」
「はい……」
それを聞いて、深々と下げた頭を上げた女将の顔に、安堵が灯る。
「次のお料理をお持ちします」と告げた彼女の背中が静かに去っていく。その様は、凛とした余韻を残し、二人の胸の内に深く刻み込まれた。
🌙side story🌙
すっかり喧騒から離れた客間で、月島は一人静かに盃を傾けていた。先ほどまで付いていた芸者たちは、鯉登のいない間に心付け(勿論鯉登から持たされたもの)を握らせ下げさせた。
膳にはまだ湯気の立つ銚子が置かれている。注いだ酒は、熟成によって醸しだされた琥珀色に揺れ、洋灯の光を反射して淡い輝きを放っていた。
――菊乃。彼女が魁燿亭に拾われた経緯を聞いたとき、多少の同情は覚えたものの、それは強い疑念を生んだ。
店の前で倒れていた幼い娘。記憶もなく、年齢すら定かではないという。そんな身元のあやふやな者に、なぜ鶴見は目をかけていたのか。
「わざわざ手元に置きたがった理由……」
月島は静かに呟き、盃を口に運んだ。舌の上で広がる辛口の酒が、喉元を焼くように流れ落ちる。
最初から、違和感を覚えていた。鶴見のことだからただの情、ましてや惚れたがために可愛がっていたなど想像しづらい。そこにはもっと合理的で、計算された理由があると考えた方が納得できた。
――利用価値があった。
思考のたどり着いた結論に、月島は眉を顰めた。彼女が目に掛けられていたのは、その存在に何かしらの意味があったから。天涯孤独という身の上ほどに都合のいいものはないだろう。彼女の孤独な心に漬け込み、優しい言葉で懐柔するなど彼のやりそうなことだ。彼女の命も、駒の一つとして消え逝くことだってあり得たのでは――と。
そこまで考えて月島は頭を振った。今更そんな心配をする必要もない。もう、菊乃に危険が及ぶことはないのだから。
口には出さなかったが、おそらく鯉登も同じように考えている――そこまで思って、月島は件の男へ思考を向けた。
鯉登は、菊乃に対して明らかに他者とは違う視線を向けている。本人に自覚はなさそうだが、その様子は手に取るように分かった。恐らくあの無邪気な好意は、いずれ形を持ち始める。
「はぁ……面倒くさい予感しかせん」
月島は溜息を漏らし、並々と注いだ酒をぐっと一気に煽った。喉を焼く辛さが、思考を一瞬だけ白く染め上げる。
淡く燈された光が、静かな部屋の中で彼の影をゆらゆらと揺らした。
