番外編
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金比羅船々(後)
――姿を現したのは、鯉登だった。その凛とした立ち姿に、菊乃の鼓動が一気に騒ぐ。咄嗟に背筋を正して息を整えた。
「……随分出来上がっとるようだな」
呆れたように言いながら、鯉登はごく自然に菊乃の隣に座った。
軍服の釦を外し着崩す鯉登を横目で窺う。ほんの一瞬、視線が交わった。菊乃は、誤魔化すように盃を取り、銚子を手にしてそっと彼に差し出した。
「お疲れでしたでしょう……?」
努めて穏やかな声を出したつもりだったが、どこかぎこちない。
「ん」
鯉登もまた、目を逸らしながら小さく返した。
その様子を見ていた橘が、ニヤリと口の端を上げながら切り込む。
「で?あの時お嬢さんに何て言って泣かせたんだっけ~?」
そう言う橘に、怪訝な顔をして、
「私は泣かせとらん」
と鯉登が真顔で返す。
「んなこたぁイイから。菊乃さん気になって仕方ないってよ?」
「っえ!?」
またもや唐突な振りに、菊乃は肩をびくんと揺らした。再び鯉登と視線がぶつかり、咄嗟に逸らす。
「気に、なるのか……?」
鯉登がボソリと言った。
菊乃が逸らした視線を鯉登へ戻すと、彼はその瞳に読めない感情を携えていた。
気にならない――と言えば嘘になる。ただ、そのままを言葉にするのも憚られて、菊乃はコクリとひとつ頷いてみせた。
それから一拍置いて、鯉登がぽつりと、
「……『鶴見どんのこつで頭がいっぱいじゃっで、そい以外のこつには気ぃ回らん』」
菊乃は、思わず反射的に彼を見た。まさか、ここで鶴見の名が出るなんて思いもしなかった。
「心酔も甚だしかったもんな、あの頃は」
「黙っちょれ」
口を尖らせて鯉登は盃を煽った。
「そ、それで……泣いてしまって……?」
「面白いのはここからだよ菊乃さん」
「へ?」
橘がこちらへ顔を覗き込み、
「そのお嬢さんに『鶴見どんって誰ですか?』って聞かれて、コイツ『陸軍の将校だ』って答えたからさ、その子が鯉登のこと“男色”だって思ったらしくて」
「……っえええ!?」
衝撃があまりに大きすぎて、菊乃は声を上げるとそのまま固まった。
「その時、ちょうど俺が通りがかって必死に宥めたんだって。下手したら教官に大目玉食らってたよ。な?感謝してるか鯉登~?」
と橘がおどけて言った。
鯉登は明らかに不機嫌な顔で、黙って盃を煽っている。この話、彼にとってあまりいい思い出とは言えなさそうだ。
「あ?まーたコイツら寝てやがる……」
橘の声に、向かいの席を見た。静かに飲んでいると思っていた荒木と本庄が、いつの間にか突っ伏して寝息を立てている。
「あ、大分飲まれてたから……大丈夫でしょうか?」
「だーいじょぶだいじょぶ。帰る時叩き起こすから」
「いつもの事」と言って橘がふらりと立ち上がった。そして、「厠」と呟きふらふらと歩き出す。
パタン、と襖が閉じると、しん……と静まり返る部屋に残された二人。
菊乃は、盃を見つめたまま内心で額を押さえる。案の定、気まずい空気が漂っているのを感じた。
「……が、学生の頃から鶴見さんのことご存じだったんですね」
逃げ場はなく、流石にこのままではいけないと沈黙に耐えかねた言葉だった。
鯉登は、少し目を細めて盃を揺らすと、
「あぁ……まぁ。いろいろあってな」
ぽつりとだけ返されたその言葉が、思いの他重く落ちた。
――会話終了。
菊乃が、次の言葉を探しながら盃の中の酒を見ていると、
「……お前も、あるのか?所謂、恋慕の情を打ち明けられたこと」
不意に、鯉登の低い声が落ちてきた。菊乃が驚いて顔を上げると、視線が交わり、そしてまた逸らす。
「わ、私は……お座敷での戯れ言で頂戴することはあっても」
視線を落とし、手にした盃を少しだけ揺らしながら、菊乃は言葉を探す。
「鯉登さんみたいに、お付き合いを申し込まれるようなことはない、ですし……っ」
自分でも、どうしてそんな言い方になったのか分からなかった。どこか突き放すようで、どこか羨むようで――ああ、まずい。と思った菊乃は、冷静になろうと盃を煽った。
それから、ちら、と再び鯉登を見た。彼は、目を丸くしてこちらを見ていた。少しの間、驚いたような表情で黙って、やがてふっと三日月のように目元を緩めた。
その意味深で何かを悟ったような微笑みから、目が離せなかった。頬がじんわりと熱を帯びていく。酒の酔いもよく回っていた。
「意外だ」
不意に落とされた低い声に、菊乃は目を瞬いた。
「え?」
聞き返すと、鯉登は盃をそっと卓に戻し、菊乃を見つめた。その目には、どう言葉にしていいか分からない強い感情が浮かんでいる。
「ただひとりの男にも口説かれたことがないとは……」
そう呟くと、鯉登はそっと手を伸ばし、指の背で菊乃の頬を撫でた。
それはあまりに唐突で、
「――っ!」
反射的に菊乃がびくりと跳ねた。触れられたところから、波紋のように熱が広がる。寧ろ、触れるその手がこの空間すべての温度を変えてしまったかのようで。
戸惑いと羞恥、そして拭いきれない微かなときめきに、胸が騒いだ。
「っよ……酔っていらっしゃるんですか……っ?」
声が僅かに震える。今までなら、もっと落ち着いて受け流せるはずだった。それなのに、今の鯉登の仕草はそれだけで心の奥まで触れてくるようで、上手くいなすことができない。
「……かもな」
鯉登はいたずらっぽく肩を竦めてみせたが、指先は頬の輪郭を撫でるように、名残惜しげに留まったまま。
酒の酔いと、彼の熱と、何よりこの近距離に、菊乃は居たたまれなくなる。
「こっ、鯉登さんっ、もう――っ」
菊乃が勢い任せに言葉を吐き出そうとした、その時、
「お待たせしましたー!」
ガラッ――襖が景気よく開かれ、同時に菊乃が両腕を突っぱねた。
「新しい銚子置いときますねー」
明るく声を上げた店員は、場の状況など意にも介さず、台に銚子を置いた。颯爽と出て行くその姿を、息を切らしながら菊乃が見送る。
ぱたん、と襖が閉じて、室内にしん……と沈黙が戻った。
菊乃は、驚きと照れと動揺が入り混じったまま、暫し息を呑んでいた。そして、ふと隣を見ると、
「ひぁっ!?」
鯉登が畳の上でひっくり返っていた。彼は、片膝を立て仰向けに転がったまま、虚空を見つめている。
「こ、鯉登さん……ッ!?」
菊乃は思わず身を乗り出し、倒れた彼を覗き込んだ。
「す、すみません!突き飛ばすつもりじゃなくて、びっくりしちゃたというか……!」
衝動的に突っぱねた反動で、鯉登が見事に倒れ込んでいた。軍服がはだけているせいか、思っている以上に派手に倒れてしまったのかと不安になる。
そこへ、
「ただーい、ま……」
襖がガラリと開き、戻ってきた橘がその場で足を止める。
時が止まったかのような沈黙。三人の視線が交差した。
「……あー、ごめん。そこまでいくとは思ってなかった」
「え」
「菊乃さんって、結構大胆なんだね」
「えっ」
橘は菊乃の動揺をよそに、にやりと意地の悪い笑みを浮かべている。
「コラ、お前ら起きろ。じゃ、俺ら先に帰るわ。あとはお二人で、ご・ゆ・っ・く・り♪」
最後のひと言を、妙に区切って甘く言い放つと、橘は荒木と本庄の腕を肩に引っかけてずるずると引きずっていく。
襖が閉じる直前、放心する菊乃と意味深な橘の視線がもう一度交わされた。
「……たっ、橘さん!違います!一緒に帰るから待って!」
我に返った菊乃が声を張り上げ、がばっと立ち上がった。ひっくり返ったままの鯉登の腕を引っ張りながら、慌てて荷物を掴む。
上体を起こした鯉登は、ぼやっとした顔のまま足をふらつかせ立ち上がると、
「……菊乃」
ぼそり、と低く名を呼ばれた。
振り返った先――酔いの滲む瞳には、ブレの無い真剣さが灯っている。
「また、こいふうにいっしょきおっでけたらうれしか」
――また、こうやって一緒に過ごせたら嬉しい。
赤ら顔で放たれたその一言に、菊乃は呼吸を忘れた。胸の奥が痛むような、でも温かい感情が同時に押し寄せる。
けれど、それに応える勇気が、今は持てない。
「……いずれ、また……」
そう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。
店の活気溢れる音が、どこか虚しさを帯びて聞こえた。
――姿を現したのは、鯉登だった。その凛とした立ち姿に、菊乃の鼓動が一気に騒ぐ。咄嗟に背筋を正して息を整えた。
「……随分出来上がっとるようだな」
呆れたように言いながら、鯉登はごく自然に菊乃の隣に座った。
軍服の釦を外し着崩す鯉登を横目で窺う。ほんの一瞬、視線が交わった。菊乃は、誤魔化すように盃を取り、銚子を手にしてそっと彼に差し出した。
「お疲れでしたでしょう……?」
努めて穏やかな声を出したつもりだったが、どこかぎこちない。
「ん」
鯉登もまた、目を逸らしながら小さく返した。
その様子を見ていた橘が、ニヤリと口の端を上げながら切り込む。
「で?あの時お嬢さんに何て言って泣かせたんだっけ~?」
そう言う橘に、怪訝な顔をして、
「私は泣かせとらん」
と鯉登が真顔で返す。
「んなこたぁイイから。菊乃さん気になって仕方ないってよ?」
「っえ!?」
またもや唐突な振りに、菊乃は肩をびくんと揺らした。再び鯉登と視線がぶつかり、咄嗟に逸らす。
「気に、なるのか……?」
鯉登がボソリと言った。
菊乃が逸らした視線を鯉登へ戻すと、彼はその瞳に読めない感情を携えていた。
気にならない――と言えば嘘になる。ただ、そのままを言葉にするのも憚られて、菊乃はコクリとひとつ頷いてみせた。
それから一拍置いて、鯉登がぽつりと、
「……『鶴見どんのこつで頭がいっぱいじゃっで、そい以外のこつには気ぃ回らん』」
菊乃は、思わず反射的に彼を見た。まさか、ここで鶴見の名が出るなんて思いもしなかった。
「心酔も甚だしかったもんな、あの頃は」
「黙っちょれ」
口を尖らせて鯉登は盃を煽った。
「そ、それで……泣いてしまって……?」
「面白いのはここからだよ菊乃さん」
「へ?」
橘がこちらへ顔を覗き込み、
「そのお嬢さんに『鶴見どんって誰ですか?』って聞かれて、コイツ『陸軍の将校だ』って答えたからさ、その子が鯉登のこと“男色”だって思ったらしくて」
「……っえええ!?」
衝撃があまりに大きすぎて、菊乃は声を上げるとそのまま固まった。
「その時、ちょうど俺が通りがかって必死に宥めたんだって。下手したら教官に大目玉食らってたよ。な?感謝してるか鯉登~?」
と橘がおどけて言った。
鯉登は明らかに不機嫌な顔で、黙って盃を煽っている。この話、彼にとってあまりいい思い出とは言えなさそうだ。
「あ?まーたコイツら寝てやがる……」
橘の声に、向かいの席を見た。静かに飲んでいると思っていた荒木と本庄が、いつの間にか突っ伏して寝息を立てている。
「あ、大分飲まれてたから……大丈夫でしょうか?」
「だーいじょぶだいじょぶ。帰る時叩き起こすから」
「いつもの事」と言って橘がふらりと立ち上がった。そして、「厠」と呟きふらふらと歩き出す。
パタン、と襖が閉じると、しん……と静まり返る部屋に残された二人。
菊乃は、盃を見つめたまま内心で額を押さえる。案の定、気まずい空気が漂っているのを感じた。
「……が、学生の頃から鶴見さんのことご存じだったんですね」
逃げ場はなく、流石にこのままではいけないと沈黙に耐えかねた言葉だった。
鯉登は、少し目を細めて盃を揺らすと、
「あぁ……まぁ。いろいろあってな」
ぽつりとだけ返されたその言葉が、思いの他重く落ちた。
――会話終了。
菊乃が、次の言葉を探しながら盃の中の酒を見ていると、
「……お前も、あるのか?所謂、恋慕の情を打ち明けられたこと」
不意に、鯉登の低い声が落ちてきた。菊乃が驚いて顔を上げると、視線が交わり、そしてまた逸らす。
「わ、私は……お座敷での戯れ言で頂戴することはあっても」
視線を落とし、手にした盃を少しだけ揺らしながら、菊乃は言葉を探す。
「鯉登さんみたいに、お付き合いを申し込まれるようなことはない、ですし……っ」
自分でも、どうしてそんな言い方になったのか分からなかった。どこか突き放すようで、どこか羨むようで――ああ、まずい。と思った菊乃は、冷静になろうと盃を煽った。
それから、ちら、と再び鯉登を見た。彼は、目を丸くしてこちらを見ていた。少しの間、驚いたような表情で黙って、やがてふっと三日月のように目元を緩めた。
その意味深で何かを悟ったような微笑みから、目が離せなかった。頬がじんわりと熱を帯びていく。酒の酔いもよく回っていた。
「意外だ」
不意に落とされた低い声に、菊乃は目を瞬いた。
「え?」
聞き返すと、鯉登は盃をそっと卓に戻し、菊乃を見つめた。その目には、どう言葉にしていいか分からない強い感情が浮かんでいる。
「ただひとりの男にも口説かれたことがないとは……」
そう呟くと、鯉登はそっと手を伸ばし、指の背で菊乃の頬を撫でた。
それはあまりに唐突で、
「――っ!」
反射的に菊乃がびくりと跳ねた。触れられたところから、波紋のように熱が広がる。寧ろ、触れるその手がこの空間すべての温度を変えてしまったかのようで。
戸惑いと羞恥、そして拭いきれない微かなときめきに、胸が騒いだ。
「っよ……酔っていらっしゃるんですか……っ?」
声が僅かに震える。今までなら、もっと落ち着いて受け流せるはずだった。それなのに、今の鯉登の仕草はそれだけで心の奥まで触れてくるようで、上手くいなすことができない。
「……かもな」
鯉登はいたずらっぽく肩を竦めてみせたが、指先は頬の輪郭を撫でるように、名残惜しげに留まったまま。
酒の酔いと、彼の熱と、何よりこの近距離に、菊乃は居たたまれなくなる。
「こっ、鯉登さんっ、もう――っ」
菊乃が勢い任せに言葉を吐き出そうとした、その時、
「お待たせしましたー!」
ガラッ――襖が景気よく開かれ、同時に菊乃が両腕を突っぱねた。
「新しい銚子置いときますねー」
明るく声を上げた店員は、場の状況など意にも介さず、台に銚子を置いた。颯爽と出て行くその姿を、息を切らしながら菊乃が見送る。
ぱたん、と襖が閉じて、室内にしん……と沈黙が戻った。
菊乃は、驚きと照れと動揺が入り混じったまま、暫し息を呑んでいた。そして、ふと隣を見ると、
「ひぁっ!?」
鯉登が畳の上でひっくり返っていた。彼は、片膝を立て仰向けに転がったまま、虚空を見つめている。
「こ、鯉登さん……ッ!?」
菊乃は思わず身を乗り出し、倒れた彼を覗き込んだ。
「す、すみません!突き飛ばすつもりじゃなくて、びっくりしちゃたというか……!」
衝動的に突っぱねた反動で、鯉登が見事に倒れ込んでいた。軍服がはだけているせいか、思っている以上に派手に倒れてしまったのかと不安になる。
そこへ、
「ただーい、ま……」
襖がガラリと開き、戻ってきた橘がその場で足を止める。
時が止まったかのような沈黙。三人の視線が交差した。
「……あー、ごめん。そこまでいくとは思ってなかった」
「え」
「菊乃さんって、結構大胆なんだね」
「えっ」
橘は菊乃の動揺をよそに、にやりと意地の悪い笑みを浮かべている。
「コラ、お前ら起きろ。じゃ、俺ら先に帰るわ。あとはお二人で、ご・ゆ・っ・く・り♪」
最後のひと言を、妙に区切って甘く言い放つと、橘は荒木と本庄の腕を肩に引っかけてずるずると引きずっていく。
襖が閉じる直前、放心する菊乃と意味深な橘の視線がもう一度交わされた。
「……たっ、橘さん!違います!一緒に帰るから待って!」
我に返った菊乃が声を張り上げ、がばっと立ち上がった。ひっくり返ったままの鯉登の腕を引っ張りながら、慌てて荷物を掴む。
上体を起こした鯉登は、ぼやっとした顔のまま足をふらつかせ立ち上がると、
「……菊乃」
ぼそり、と低く名を呼ばれた。
振り返った先――酔いの滲む瞳には、ブレの無い真剣さが灯っている。
「また、こいふうにいっしょきおっでけたらうれしか」
――また、こうやって一緒に過ごせたら嬉しい。
赤ら顔で放たれたその一言に、菊乃は呼吸を忘れた。胸の奥が痛むような、でも温かい感情が同時に押し寄せる。
けれど、それに応える勇気が、今は持てない。
「……いずれ、また……」
そう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。
店の活気溢れる音が、どこか虚しさを帯びて聞こえた。
