番外編
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
湯浴(後)
鯉登は、鞘に収まった軍刀を床に突き立て、柄に手を添えたまま仁王立ちしていた。
此処から先、何人たりとも通すまじ──そう言わんばかりの凄みがある。
しかし、その勇ましい姿とは裏腹に、胸の内は乱れに乱れていた。
扉を越えた先から聞こえる湯音。ばしゃっ、ざぁぁと流れ、時折ちゃぷ、と小気味いい音も混ざる。それは今、浴場にいる菊乃の手によって立てられている音に違いなかった。
花鳥模様の小紋をするりと解き、一糸纏わぬ姿で湯を浴びている──うっかりその姿を想像してしまい、
「キィ◎▲¥◇*%×ッッ!!」
堪らず猿叫が飛び出そうになって、既の所で口を押さえた。
沸かし湯よりも熱い羞恥と混乱が、彼の頭をぐらぐらと煮立たせている。
後方では再び湯が流れ、ちゃぷん、と跳ねる音がした。
──細く白い指が髪をすくい、項を撫でる。濡れた毛先から垂れる滴が艶やかな肩を伝い、美しい曲線を描く胸元へ滑り落ちる。あの石鹸を溶かした掌が、柔らかでふっくらとした肌を余すことなく撫で上げて──。
思わず、ゴクリと生唾を飲み込んだ。そんな姿、想像してはならぬと分かっているのに──止めねばと思うほど、脳裏の光景はより鮮やかになっていく。
「心頭滅却。心頭滅却。心頭滅却ッ──」
何かに取り憑かれたかの如く、鯉登は一人呪文のように唱え始めた。それから息を吸って、煩悩ごと大きく吐き出す。
昨日の夜、将校集会所で談笑する同期たちに呼び止められ、何事かと思い見れば、唐突に春画を見せられたことを思い出す。
ここはある種、欲にまみれた男共の巣窟。女の裸体を拝もうとする不届き者が現れたっておかしくはない。
そのため、普段から品行方正で仕事もでき、“女に困っていない”人選を組んで見張りを立たせた。
だが、それが間違っていたのならば、全ての責任は自分にある。こうして自ら見張りに立ち、もし“音”が無くなったその時は──。
それがどうしたことか。一歩間違えれば、己がその不届き者になり兼ねない状況に鯉登は悶えた。止まらぬあられもない妄想に、罪悪感が強く襲う。
ぐぬぬ、と声にならない呻きを上げたその時、
「──ひ……っ」
僅かだったが、菊乃の声が聞こえた。木槽に浸かる身が震えたような、ちゃぷっ、と湯の揺れる音も立った。
気の所為か?と扉に近づいて耳を澄ますと、勢いよくザバッと湯の混ざる音。次いでバタバタと簀子を踏む音が聞こえて、不穏な気配を感じ取る。
「菊乃……!?どうかし──」
突然、勢いよく扉が開き、
「だッ!?」
問いかけは、否応なく途切れた。
顔面ごと受けた強い衝撃に、鯉登は堪らずたたらを踏む。掌で顔を抑え、視界でチカチカと星が瞬く中、どすっ、と身体に衝撃を受けた。
──それは随分と温かく、湿っている。
鯉登が見下げる先に、薄い襦袢姿の菊乃がいた。腰紐はなく、衿元を手で押さえている。湯上がりの身体を禄に拭きもせず、そのまま纏ったのだろう。水分を吸った純白の襦袢は、その内にある輪郭をしっとりと透かしていた。
「……ッ!?!?き、き、きッ、きぇ」
「誰がいる……ッ!!」
渾身の猿叫が飛び出す前に、菊乃が叫んだ。
その震えた声に、鯉登が一瞬にして我に返る。
「……窓の外か!?」
その問いに菊乃がコクコクと頷くと、鯉登は菊乃を剥がし素早く軍服を脱ぎはじめた。なるべく視界に入らぬよう視線を逸らし、
「早く身体を拭け。見てくる」
「あっ……、鯉登さん!」
菊乃の肩に軍服を掛けた鯉登は、身を翻して足早に玄関へと向かっていった。
──偕行社の裏手に回ると、暗がりに蠢く塊を見つけた。
鯉登は、右脚を一歩前に出すと軍刀の柄に手をかけ、
「おいッ!そこで何をしているッ!?」
怒声を飛ばすと、塊はすっと立ち上がった。それから、数歩近づいてくる気配がして、僅かな月明かりに照らされた顔が浮かび上がると、
「──鯉登少尉殿。こんなところにいらっしゃったのですか」
「……つ、月島ァッ!?」
突如現れた月島に、鯉登は呆気にとられた。
まさか、お前が?──と言葉が出かかったところで、思わず眉根を寄せる。
「……なんだそれは?」
月島が両手で掴んでいるものに目を奪われた。犬のような獣が、ジタバタと暴れている。
「タヌキです」
「は?……タヌキぃ?」
鯉登は軍刀から手を話すと、思わずかがみ込んでその獣を見つめた。
「おぉ。ほんのこてタヌキじゃっ。むぞかっ」
「コイツが、食い物荒らしの犯人です……いや、犯タヌキ?です」
「食い物荒らし?」
「先日ご報告したでしょう。炊事場に貯蔵している食料が一部食い荒らされていたと」
「……あぁ」
そう言えば、と鯉登が思い出したように頷くと、月島から深いため息が漏れた。
「貯蔵庫から飛び出してきたところを目撃して、ここまで追いかけてきたのです。……まさか少尉殿。菊乃さんに石鹸を届けてからずっとこちらに?」
「あ、あぁ。菊乃が不安がっていたから私も見張りに立っていたのだ。そしたら菊乃が慌てて浴場から飛……ッ。んん゛ッ!「窓の外に誰かがいる」と怯えていたから来てみれば──」
「あ。もしかして私がコイツと格闘していたから……?」
いつの間にか嘘のようにぐったりしている獣(死んだふり)を見つめながら、鯉登は腕を組んでため息混じりに、
「全く。人騒がせな」
「それは、菊乃さんに悪いことをしましたね……。ところで少尉殿、軍──」
月島が何かを言いかけたその時、小走りでこちらへ近づいてくる足音に二人が振り向くと、
「あっ、鯉登さん!だ、誰かいま……あれ、月島さん?」
軽く息を切らせた菊乃が現れた。しっかりと肌を隠した装いに、鯉登がホッとした──のもつかの間、
「お、おいッ!まだ髪が濡れておるではないか!」
菊乃の黒髪は、乾ききらぬまま片側に流し、髪紐一つで纏めただけであった。
無防備な形 で出てくるとは何事か、という本音は隠し、「風邪をひくだろう」と叱りつけるように言う鯉登に、菊乃は「だって……」と困ったように返す。
その様子を見ていた月島が、
「……菊乃さん。今お持ちのものは少尉殿の軍服ですか?」
と言った。それを聞いてはっとした菊乃が、
「そうでした!申し訳ありません、鯉登さん。軍服濡らしてしまって……まだ乾きそうにないし、そのぅ……できればちゃんと綺麗にしてからお返ししようと思うのですが……」
「え。……んん゛ッ!」
菊乃の言葉に、先程の情景を思い出した鯉登の顔は、瞬く間に耳まで真っ赤に染まっていく。
「そっ、い、いや!支障はないッ!」
「でも……」
「清めた身体だったのだから汚れてはいない!そのまま貰うッ!」
そう言って、鯉登は菊乃からふんだくるように軍服を奪い取った。
──その脇に立つ月島は、無言のまま、ただその様子を傍観し続けた。まるで、何かを察したかのような面持ちで。
***
あれから、例の異音はすっかり鳴りを潜めた。
月島曰く、「あれもタヌキの仕業だったのだろう」ということで、菊乃は漸く落ち着いて入浴できる日々を送っていた。
「……ん?」
着替え用の小紋を脱衣場の籠に入れようとした時、小さな何かが転がり落ちた。
よくよく見てみると、
「っあ!石鹸あった!」
無くなったと思っていた石鹸だった。
そう言えば──あの日の朝、浴場を掃除していて邪魔だからと、袂の中に避難させていたことを思い出す。
何とも間抜けな結末に脱力した菊乃は、拾い上げた石鹸を暫し見つめ──それから、籠の脇にそっと置くと、いつものように着物を解いていった。
──湯桶にたっぷり湯を満たし、そこに手ぬぐいを沈める。陶器製の小箱に鎮座する象牙色の石鹸を手に取ると、濡れた手ぬぐいに擦りつけた。
ふわりと立ち昇る花の香り。それを確かめながら、腕、首、肩、胸へと滑らせていく──。
「……もう、私のばかっ」
恐怖して、思わず彼に抱きついてしまった時のことが脳裏に蘇る。
あの時、怯える心中で鼻腔を蕩かしたのは、今身を纏う香りに他ならなかった。
石鹸が無くなるその日まで──。
手拭いで腹を撫でながら、菊乃は毎夜一人悶えることを覚悟した。
🌙side story🌙
「もう、うちには来るんじゃないぞ」
鯉登が麻袋の口を開くと、そこから勢いよく飛び出だしたタヌキは、脇目も振らず一目散に森の奥へと消えていった。
「まったく。少尉殿が駄々をこねるから結局一週間も経ってしまった」
「まぁまぁ、よいではないか!皆エサを与えて可愛がっていたぞ?」
すっかり丸々と太ったタヌキが無事に帰ったことを確認すると、月島は鯉登と共にもと来た道へと引き返す。
「よかったですね」
「何がだ?」
「タヌキの一件で頼ってもらえたんでしょう?菊乃さんに」
菊乃に避けられている、などと嘆いていた鯉登は、あの日から仕事も捗り僅かながら活力を取り戻していた。
「お、おぅ」
微かに頬を染める鯉登に、月島はふっと笑みをもらす。
「そう言えば、無くなったと言っていた石鹸、見つかったそうですよ」
「え、そうなのか?」
「浴場の掃除中、袂の中にしまい込んだのを忘れていたそうで」
「ふっ。しっかりしているようでそそっかしいよな、菊乃は」
「ですが、見つかってからもあなたから貰った石鹸を使い続けているみたいですね」
そう言って、月島は隣を歩く鯉登へちらりと視線を向ける。そこには、眉を顰めた怪訝な顔があった。
「……何故分かる?」
「さぁ。何故でしょうね」
「ま、まさかお前……ッ。やはりノゾキに行」
「くわけでないでしょう。違います」
「きぇっ!?じゃ何故だ答えろ月島ァッ!」
彼女から、ほのかにあなたと似た香りがするので──。
とは口に出してやらない。今はまだ、言えば菊乃の心労を増やし兼ねないだろうから。
おわり
〈あとがき〉
夢創作オンリーゆめすきFESにて先行公開していたお話です。
ほんのちょっとでも楽しめた面白かったよと思ってくださったら
←ポチしていただけたら嬉しいです。
おまけの余話をお読みいただけますのでぜひ。
ハチ
鯉登は、鞘に収まった軍刀を床に突き立て、柄に手を添えたまま仁王立ちしていた。
此処から先、何人たりとも通すまじ──そう言わんばかりの凄みがある。
しかし、その勇ましい姿とは裏腹に、胸の内は乱れに乱れていた。
扉を越えた先から聞こえる湯音。ばしゃっ、ざぁぁと流れ、時折ちゃぷ、と小気味いい音も混ざる。それは今、浴場にいる菊乃の手によって立てられている音に違いなかった。
花鳥模様の小紋をするりと解き、一糸纏わぬ姿で湯を浴びている──うっかりその姿を想像してしまい、
「キィ◎▲¥◇*%×ッッ!!」
堪らず猿叫が飛び出そうになって、既の所で口を押さえた。
沸かし湯よりも熱い羞恥と混乱が、彼の頭をぐらぐらと煮立たせている。
後方では再び湯が流れ、ちゃぷん、と跳ねる音がした。
──細く白い指が髪をすくい、項を撫でる。濡れた毛先から垂れる滴が艶やかな肩を伝い、美しい曲線を描く胸元へ滑り落ちる。あの石鹸を溶かした掌が、柔らかでふっくらとした肌を余すことなく撫で上げて──。
思わず、ゴクリと生唾を飲み込んだ。そんな姿、想像してはならぬと分かっているのに──止めねばと思うほど、脳裏の光景はより鮮やかになっていく。
「心頭滅却。心頭滅却。心頭滅却ッ──」
何かに取り憑かれたかの如く、鯉登は一人呪文のように唱え始めた。それから息を吸って、煩悩ごと大きく吐き出す。
昨日の夜、将校集会所で談笑する同期たちに呼び止められ、何事かと思い見れば、唐突に春画を見せられたことを思い出す。
ここはある種、欲にまみれた男共の巣窟。女の裸体を拝もうとする不届き者が現れたっておかしくはない。
そのため、普段から品行方正で仕事もでき、“女に困っていない”人選を組んで見張りを立たせた。
だが、それが間違っていたのならば、全ての責任は自分にある。こうして自ら見張りに立ち、もし“音”が無くなったその時は──。
それがどうしたことか。一歩間違えれば、己がその不届き者になり兼ねない状況に鯉登は悶えた。止まらぬあられもない妄想に、罪悪感が強く襲う。
ぐぬぬ、と声にならない呻きを上げたその時、
「──ひ……っ」
僅かだったが、菊乃の声が聞こえた。木槽に浸かる身が震えたような、ちゃぷっ、と湯の揺れる音も立った。
気の所為か?と扉に近づいて耳を澄ますと、勢いよくザバッと湯の混ざる音。次いでバタバタと簀子を踏む音が聞こえて、不穏な気配を感じ取る。
「菊乃……!?どうかし──」
突然、勢いよく扉が開き、
「だッ!?」
問いかけは、否応なく途切れた。
顔面ごと受けた強い衝撃に、鯉登は堪らずたたらを踏む。掌で顔を抑え、視界でチカチカと星が瞬く中、どすっ、と身体に衝撃を受けた。
──それは随分と温かく、湿っている。
鯉登が見下げる先に、薄い襦袢姿の菊乃がいた。腰紐はなく、衿元を手で押さえている。湯上がりの身体を禄に拭きもせず、そのまま纏ったのだろう。水分を吸った純白の襦袢は、その内にある輪郭をしっとりと透かしていた。
「……ッ!?!?き、き、きッ、きぇ」
「誰がいる……ッ!!」
渾身の猿叫が飛び出す前に、菊乃が叫んだ。
その震えた声に、鯉登が一瞬にして我に返る。
「……窓の外か!?」
その問いに菊乃がコクコクと頷くと、鯉登は菊乃を剥がし素早く軍服を脱ぎはじめた。なるべく視界に入らぬよう視線を逸らし、
「早く身体を拭け。見てくる」
「あっ……、鯉登さん!」
菊乃の肩に軍服を掛けた鯉登は、身を翻して足早に玄関へと向かっていった。
──偕行社の裏手に回ると、暗がりに蠢く塊を見つけた。
鯉登は、右脚を一歩前に出すと軍刀の柄に手をかけ、
「おいッ!そこで何をしているッ!?」
怒声を飛ばすと、塊はすっと立ち上がった。それから、数歩近づいてくる気配がして、僅かな月明かりに照らされた顔が浮かび上がると、
「──鯉登少尉殿。こんなところにいらっしゃったのですか」
「……つ、月島ァッ!?」
突如現れた月島に、鯉登は呆気にとられた。
まさか、お前が?──と言葉が出かかったところで、思わず眉根を寄せる。
「……なんだそれは?」
月島が両手で掴んでいるものに目を奪われた。犬のような獣が、ジタバタと暴れている。
「タヌキです」
「は?……タヌキぃ?」
鯉登は軍刀から手を話すと、思わずかがみ込んでその獣を見つめた。
「おぉ。ほんのこてタヌキじゃっ。むぞかっ」
「コイツが、食い物荒らしの犯人です……いや、犯タヌキ?です」
「食い物荒らし?」
「先日ご報告したでしょう。炊事場に貯蔵している食料が一部食い荒らされていたと」
「……あぁ」
そう言えば、と鯉登が思い出したように頷くと、月島から深いため息が漏れた。
「貯蔵庫から飛び出してきたところを目撃して、ここまで追いかけてきたのです。……まさか少尉殿。菊乃さんに石鹸を届けてからずっとこちらに?」
「あ、あぁ。菊乃が不安がっていたから私も見張りに立っていたのだ。そしたら菊乃が慌てて浴場から飛……ッ。んん゛ッ!「窓の外に誰かがいる」と怯えていたから来てみれば──」
「あ。もしかして私がコイツと格闘していたから……?」
いつの間にか嘘のようにぐったりしている獣(死んだふり)を見つめながら、鯉登は腕を組んでため息混じりに、
「全く。人騒がせな」
「それは、菊乃さんに悪いことをしましたね……。ところで少尉殿、軍──」
月島が何かを言いかけたその時、小走りでこちらへ近づいてくる足音に二人が振り向くと、
「あっ、鯉登さん!だ、誰かいま……あれ、月島さん?」
軽く息を切らせた菊乃が現れた。しっかりと肌を隠した装いに、鯉登がホッとした──のもつかの間、
「お、おいッ!まだ髪が濡れておるではないか!」
菊乃の黒髪は、乾ききらぬまま片側に流し、髪紐一つで纏めただけであった。
無防備な
その様子を見ていた月島が、
「……菊乃さん。今お持ちのものは少尉殿の軍服ですか?」
と言った。それを聞いてはっとした菊乃が、
「そうでした!申し訳ありません、鯉登さん。軍服濡らしてしまって……まだ乾きそうにないし、そのぅ……できればちゃんと綺麗にしてからお返ししようと思うのですが……」
「え。……んん゛ッ!」
菊乃の言葉に、先程の情景を思い出した鯉登の顔は、瞬く間に耳まで真っ赤に染まっていく。
「そっ、い、いや!支障はないッ!」
「でも……」
「清めた身体だったのだから汚れてはいない!そのまま貰うッ!」
そう言って、鯉登は菊乃からふんだくるように軍服を奪い取った。
──その脇に立つ月島は、無言のまま、ただその様子を傍観し続けた。まるで、何かを察したかのような面持ちで。
***
あれから、例の異音はすっかり鳴りを潜めた。
月島曰く、「あれもタヌキの仕業だったのだろう」ということで、菊乃は漸く落ち着いて入浴できる日々を送っていた。
「……ん?」
着替え用の小紋を脱衣場の籠に入れようとした時、小さな何かが転がり落ちた。
よくよく見てみると、
「っあ!石鹸あった!」
無くなったと思っていた石鹸だった。
そう言えば──あの日の朝、浴場を掃除していて邪魔だからと、袂の中に避難させていたことを思い出す。
何とも間抜けな結末に脱力した菊乃は、拾い上げた石鹸を暫し見つめ──それから、籠の脇にそっと置くと、いつものように着物を解いていった。
──湯桶にたっぷり湯を満たし、そこに手ぬぐいを沈める。陶器製の小箱に鎮座する象牙色の石鹸を手に取ると、濡れた手ぬぐいに擦りつけた。
ふわりと立ち昇る花の香り。それを確かめながら、腕、首、肩、胸へと滑らせていく──。
「……もう、私のばかっ」
恐怖して、思わず彼に抱きついてしまった時のことが脳裏に蘇る。
あの時、怯える心中で鼻腔を蕩かしたのは、今身を纏う香りに他ならなかった。
石鹸が無くなるその日まで──。
手拭いで腹を撫でながら、菊乃は毎夜一人悶えることを覚悟した。
🌙side story🌙
「もう、うちには来るんじゃないぞ」
鯉登が麻袋の口を開くと、そこから勢いよく飛び出だしたタヌキは、脇目も振らず一目散に森の奥へと消えていった。
「まったく。少尉殿が駄々をこねるから結局一週間も経ってしまった」
「まぁまぁ、よいではないか!皆エサを与えて可愛がっていたぞ?」
すっかり丸々と太ったタヌキが無事に帰ったことを確認すると、月島は鯉登と共にもと来た道へと引き返す。
「よかったですね」
「何がだ?」
「タヌキの一件で頼ってもらえたんでしょう?菊乃さんに」
菊乃に避けられている、などと嘆いていた鯉登は、あの日から仕事も捗り僅かながら活力を取り戻していた。
「お、おぅ」
微かに頬を染める鯉登に、月島はふっと笑みをもらす。
「そう言えば、無くなったと言っていた石鹸、見つかったそうですよ」
「え、そうなのか?」
「浴場の掃除中、袂の中にしまい込んだのを忘れていたそうで」
「ふっ。しっかりしているようでそそっかしいよな、菊乃は」
「ですが、見つかってからもあなたから貰った石鹸を使い続けているみたいですね」
そう言って、月島は隣を歩く鯉登へちらりと視線を向ける。そこには、眉を顰めた怪訝な顔があった。
「……何故分かる?」
「さぁ。何故でしょうね」
「ま、まさかお前……ッ。やはりノゾキに行」
「くわけでないでしょう。違います」
「きぇっ!?じゃ何故だ答えろ月島ァッ!」
彼女から、ほのかにあなたと似た香りがするので──。
とは口に出してやらない。今はまだ、言えば菊乃の心労を増やし兼ねないだろうから。
おわり
〈あとがき〉
夢創作オンリーゆめすきFESにて先行公開していたお話です。
ほんのちょっとでも楽しめた面白かったよと思ってくださったら
←ポチしていただけたら嬉しいです。
おまけの余話をお読みいただけますのでぜひ。
ハチ
