番外編
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湯浴(前)
*〈金比羅船々〉から数日後のお話
その日、菊乃は知った。当然あると思っていたものが見当たらない時、頭の中は真っ白になるのだと──。
「……あれ?石鹸どこ?」
すっと伸ばした手を宙に浮かせたまま、口をついて出た。
確かにここに置いていた。もう幾度も利用してきた偕行社の浴場。自前の道具は、ある程度決まったところへ置いていた筈なのに。
「もう脱いじゃったし、お湯張っちゃったし……今から借りに行く訳にも……」
その時、格子窓の向こうから「カリッガタッ」と音がして、菊乃はびくりと肩を揺らした。
ここ数日、入浴の時間になると決まって外から物音が聞こえてくるのだ。
まさか……と思ってある日、意を決して格子の隙間から外を見たが、不届き者がノゾキにやってきているわけではなさそうだった。それに、すりガラスになっているため、覗こうと思ったところで締め切れば室内を見ることは叶わないはずなのに──。
致し方なく、その日は簡単に湯だけをかぶって早めに床に就いたのだった。
──翌日。
「石鹸が?」
昼食のため下士居室を訪れた菊乃は、月島に石鹸行方不明事件の報告と、代わりのものを支給してもらえないか相談すれば、
「ええ、それは構いませんよ」
「すみません。一つしか持ってこなかったもので……。一昨日の夜までは間違いなくあったんですけど」
決して広いとは言えない簡易的な作りの浴場だ。いくら小さな石鹸とはいえ、突然無くなるなんて考え難いことだった。
「お気になさらず。石鹸一つ許可を取らずともお渡しできますから」
「はい。ありがとうございます月島さん」
「あー、それと菊乃さん。最近、兵舎内で“物取り”が増えているので、念の為用心してください」
「っえ?」
「取られているものは食い物が殆どなので、同一犯とは思えませんが……。見張りがいて、不在時は施錠もさせていますし。でも一応、お伝えしておいた方がいいと思って」
菊乃は、神妙な面持ちでその話を聞いていた。侵入者がいたのかも──、という不穏な影に、内心穏やかではない。
その後月島から、「急ぎの用件を片付けた後に持っていく」と告げられた菊乃は、一旦偕行社へと戻ることにした。
──陽が傾き始めた頃。月島がまだ姿を現していないことに気づき、お仕事忙しいのかな──菊乃がそう思った矢先、外から聞こえた話し声に思わず窓を覗くと、
「え……っ!」
僅かな角度から見えた姿。それは月島ではなく、
「な、ななんで……っ」
薄茶色の軍服を纏った男──鯉登が建物の中へと入っていくところだった。
菊乃は焦る。彼への恋心を自覚して以来、接触を避け続ける日々──鯉登から受ける数々の誘いは、全て断る徹底ぶりだ。
どうしよう──。何処かに身を隠せないかと考え始めた時、コンコン、と控えめに扉が叩かれた。
流石に無理がある──。菊乃は潔く諦めて、「……はい」と弱々しい返事をした。
「菊乃……私だ」
聞こえた声に、菊乃はきゅっと唇を噛み締める。やがて、そっと扉の取っ手に手をかけ捻った。
「……あ、えっと……なにか御用でしょうか?」
「あぁ……石鹸が無くなったと聞いた」
「……え?」
「月島が、兵舎で使っている粗末なものを持っていこうとしていたから、代わりのものを用意した」
そう言って鯉登が差し出してきたものは、桐製の小箱だった。蓋側には銀文字で“艶菊石鹸”と刻まれていて、受け取った菊乃が蓋を開けると、中には薄いろう紙に包まれた淡い象牙色の石鹸が入っていた。
それを手に取ると、薔薇のように華やかで、また菊花のような淡く気品ある香気が鼻先を擽った。あとから爽やかな柑橘の実もほんのりと感じられ、つい、いい香り──とうっとりしかけた菊乃は慌てて、
「こっ、これすごく高価なものでは……っ」
思わず口走ってから、はっとして鯉登を見上げる。彼の瞳が、淡い夕陽の光を受けて微かに輝いた。
「あんな安物でお前の肌が荒れてはことだ。それを使え」
「で、でも……」
「私も同じものを使っている。質は確かだ。安心しろ」
時折彼から香る、華やかで清涼感のある香り──その正体に、菊乃は胸を高鳴らせた。
嬉しい。でも苦しい──。複雑な感情が綯い交ぜとなって、溢れ出しそうだった。
「……じゃあ、あの……使わせて、いただきます」
「ん。……他に不自由はないか?」
思わず伏せていた顔を上げた。そこにある複雑に揺れる瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。
離れることを自ら望んだのに──優しくされる度、閉じ込めた熱はその扉をこじ開けてくる。
勘違いをしてしまう。どうしようもなく、縋りたくなる──。
「……何も」
「菊乃は相変わらず嘘が下手だな」
「う……っ」
これが月島であれば、何か察していたとしても敢えて引いてくれるに違いないのに──。菊乃は、瞼をぎゅっと閉じて来てくれなかった彼を恨めしく思った。
鯉登は、その場から一歩も動こうとしない。これは、言うまで帰らないつもりかもしれない。
本音は、あの謎の音の正体を突き止めたかった。もしかしたら、例の物取りだった可能性も否定できないし──。悩みに悩んで、それから菊乃は意を決して、
「……夜、お風呂に入っていると、決まって窓の外から音がするんです……」
そのか細い声に、鯉登は眉根を寄せた。
「音?」
「はい……カリカリ、というかガタガタというか……それで、誰か覗こうとしているのかと思って」
「ナニぃッ!?」
「あっ、や、窓の外を見ましたけど誰もいなくて……私の勘違い、だったんです。たぶん……」
「見張りは何をしておったのだッ」
忌々しそうに顔を顰めた鯉登が、玄関方向に目をやって吐き捨てるように言った。
不穏な空気を察して、菊乃は「ですから、その時は風の音か何かだったんですっ」と宥めるように言って、
「でも、その……最近、物取りが現れたって月島さんから今日聞いて……関連性は低いだろうと仰ってたんですが、やっぱりちょっと不安というか……石鹸無くなっちゃったし……」
徐々に萎んでいく声。何か出来ることと言えば、見張りを今よりも厳重に──くらいしか思いつかない。
しかしそんな事、世話になっている身で気安く言えるわけもなく。月島に言われた通り、取られて困るものは傍に置いておくなどして様子を見るしかなさそうだ──。
菊乃がそう結論づけたところで、
「今日風呂に入る時、私が見張りに立つ」
「やっぱそうですよね。ありがとうご……ッんえ!?」
驚きすぎて、出したことのない声が出た。菊乃は、目を丸くして鯉登を見上げる。
──今なんと?
「疑いたくはないが、見張りの仕業という可能性も捨てきれんからな」
「そ、そんなこと……っ、大澤さんたちに限って……」
これまで、一度たりとも無礼な行為を受けたことはない。不在の間に侵入して、彼等が私物を漁り持ち出した──など、信じ難い事だった。
「……随分と大澤のこと信用しているのだな」
「え……?」
「いや……何でもない。兎に角だッ!お前に何かあってはならん」
そんな調子で、あれよあれよという間に、鯉登が見張りに立つことが決まってしまった。
彼から指示を受ける大澤たちの困惑する様子を、菊乃は申し訳ない気持ちで見つめていたのだった。
──夕食を終えた夜。鯉登が木槽に湯が満ちたのを確かめると、
「外の様子を見てくる。……湯加減を確かめたら入れ」
「はい」
鯉登の言葉に菊乃は小さく頷いて、扉が閉まったのを確認すると背を向けた。
足元に敷かれた簀子はほんのり温かく、裸電球の光が湯面に淡く揺れている。格子の影をぼんやり透かすすりガラスの向こうには、しんと静まる月夜の気配が見えた。
湯温を確かめた菊乃は、脱衣場に立ち帯を解くと、着物と襦袢を肩から滑らせた。
浴場との境に立つ衝立を抜けると、桶にすくい入れた湯をそっと肩へかけた。檜の香りが立ちのぼり、湯気が軽く結い上げた髪を湿らせていく。
控えめな水音だけが反響する静けさの中、膝をついて桐箱の蓋をそっと開けた。
中から取り出した淡い象牙色の石鹸。濡れた手で撫でると、それは少しずつ柔らかくなっていき、ほのかに花の香が咲いた。
湯気に混じって漂うそれは、花そのものよりも落ち着いていて──彼の香りを運ぶ。
頬の火照りは、果たして湯のせいか逸る鼓動のせいか──。
息を詰めたその時、聞こえる足音に菊乃の心臓が跳ねた。
一歩、二歩──、板を踏む音が近づいてきて、扉の向こうで止まる。
「……ゆ、湯加減はどうだ……?」
「あっ……は、はい。ちょうど、良いです……」
湯気越しに聞こえる声が妙に近く──、でも見えない。見えないことが、却って意識を研ぎ澄ませた。
「扉の先にいる。……何かあれば呼べ」
その言葉に返事を返すと、菊乃はソワソワと落ち着かない様子で手ぬぐいに石鹸を擦りつける。
やがて、複雑に高鳴る鼓動を誤魔化すように、いつもより強く身体を洗い始めた。
*〈金比羅船々〉から数日後のお話
その日、菊乃は知った。当然あると思っていたものが見当たらない時、頭の中は真っ白になるのだと──。
「……あれ?石鹸どこ?」
すっと伸ばした手を宙に浮かせたまま、口をついて出た。
確かにここに置いていた。もう幾度も利用してきた偕行社の浴場。自前の道具は、ある程度決まったところへ置いていた筈なのに。
「もう脱いじゃったし、お湯張っちゃったし……今から借りに行く訳にも……」
その時、格子窓の向こうから「カリッガタッ」と音がして、菊乃はびくりと肩を揺らした。
ここ数日、入浴の時間になると決まって外から物音が聞こえてくるのだ。
まさか……と思ってある日、意を決して格子の隙間から外を見たが、不届き者がノゾキにやってきているわけではなさそうだった。それに、すりガラスになっているため、覗こうと思ったところで締め切れば室内を見ることは叶わないはずなのに──。
致し方なく、その日は簡単に湯だけをかぶって早めに床に就いたのだった。
──翌日。
「石鹸が?」
昼食のため下士居室を訪れた菊乃は、月島に石鹸行方不明事件の報告と、代わりのものを支給してもらえないか相談すれば、
「ええ、それは構いませんよ」
「すみません。一つしか持ってこなかったもので……。一昨日の夜までは間違いなくあったんですけど」
決して広いとは言えない簡易的な作りの浴場だ。いくら小さな石鹸とはいえ、突然無くなるなんて考え難いことだった。
「お気になさらず。石鹸一つ許可を取らずともお渡しできますから」
「はい。ありがとうございます月島さん」
「あー、それと菊乃さん。最近、兵舎内で“物取り”が増えているので、念の為用心してください」
「っえ?」
「取られているものは食い物が殆どなので、同一犯とは思えませんが……。見張りがいて、不在時は施錠もさせていますし。でも一応、お伝えしておいた方がいいと思って」
菊乃は、神妙な面持ちでその話を聞いていた。侵入者がいたのかも──、という不穏な影に、内心穏やかではない。
その後月島から、「急ぎの用件を片付けた後に持っていく」と告げられた菊乃は、一旦偕行社へと戻ることにした。
──陽が傾き始めた頃。月島がまだ姿を現していないことに気づき、お仕事忙しいのかな──菊乃がそう思った矢先、外から聞こえた話し声に思わず窓を覗くと、
「え……っ!」
僅かな角度から見えた姿。それは月島ではなく、
「な、ななんで……っ」
薄茶色の軍服を纏った男──鯉登が建物の中へと入っていくところだった。
菊乃は焦る。彼への恋心を自覚して以来、接触を避け続ける日々──鯉登から受ける数々の誘いは、全て断る徹底ぶりだ。
どうしよう──。何処かに身を隠せないかと考え始めた時、コンコン、と控えめに扉が叩かれた。
流石に無理がある──。菊乃は潔く諦めて、「……はい」と弱々しい返事をした。
「菊乃……私だ」
聞こえた声に、菊乃はきゅっと唇を噛み締める。やがて、そっと扉の取っ手に手をかけ捻った。
「……あ、えっと……なにか御用でしょうか?」
「あぁ……石鹸が無くなったと聞いた」
「……え?」
「月島が、兵舎で使っている粗末なものを持っていこうとしていたから、代わりのものを用意した」
そう言って鯉登が差し出してきたものは、桐製の小箱だった。蓋側には銀文字で“艶菊石鹸”と刻まれていて、受け取った菊乃が蓋を開けると、中には薄いろう紙に包まれた淡い象牙色の石鹸が入っていた。
それを手に取ると、薔薇のように華やかで、また菊花のような淡く気品ある香気が鼻先を擽った。あとから爽やかな柑橘の実もほんのりと感じられ、つい、いい香り──とうっとりしかけた菊乃は慌てて、
「こっ、これすごく高価なものでは……っ」
思わず口走ってから、はっとして鯉登を見上げる。彼の瞳が、淡い夕陽の光を受けて微かに輝いた。
「あんな安物でお前の肌が荒れてはことだ。それを使え」
「で、でも……」
「私も同じものを使っている。質は確かだ。安心しろ」
時折彼から香る、華やかで清涼感のある香り──その正体に、菊乃は胸を高鳴らせた。
嬉しい。でも苦しい──。複雑な感情が綯い交ぜとなって、溢れ出しそうだった。
「……じゃあ、あの……使わせて、いただきます」
「ん。……他に不自由はないか?」
思わず伏せていた顔を上げた。そこにある複雑に揺れる瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。
離れることを自ら望んだのに──優しくされる度、閉じ込めた熱はその扉をこじ開けてくる。
勘違いをしてしまう。どうしようもなく、縋りたくなる──。
「……何も」
「菊乃は相変わらず嘘が下手だな」
「う……っ」
これが月島であれば、何か察していたとしても敢えて引いてくれるに違いないのに──。菊乃は、瞼をぎゅっと閉じて来てくれなかった彼を恨めしく思った。
鯉登は、その場から一歩も動こうとしない。これは、言うまで帰らないつもりかもしれない。
本音は、あの謎の音の正体を突き止めたかった。もしかしたら、例の物取りだった可能性も否定できないし──。悩みに悩んで、それから菊乃は意を決して、
「……夜、お風呂に入っていると、決まって窓の外から音がするんです……」
そのか細い声に、鯉登は眉根を寄せた。
「音?」
「はい……カリカリ、というかガタガタというか……それで、誰か覗こうとしているのかと思って」
「ナニぃッ!?」
「あっ、や、窓の外を見ましたけど誰もいなくて……私の勘違い、だったんです。たぶん……」
「見張りは何をしておったのだッ」
忌々しそうに顔を顰めた鯉登が、玄関方向に目をやって吐き捨てるように言った。
不穏な空気を察して、菊乃は「ですから、その時は風の音か何かだったんですっ」と宥めるように言って、
「でも、その……最近、物取りが現れたって月島さんから今日聞いて……関連性は低いだろうと仰ってたんですが、やっぱりちょっと不安というか……石鹸無くなっちゃったし……」
徐々に萎んでいく声。何か出来ることと言えば、見張りを今よりも厳重に──くらいしか思いつかない。
しかしそんな事、世話になっている身で気安く言えるわけもなく。月島に言われた通り、取られて困るものは傍に置いておくなどして様子を見るしかなさそうだ──。
菊乃がそう結論づけたところで、
「今日風呂に入る時、私が見張りに立つ」
「やっぱそうですよね。ありがとうご……ッんえ!?」
驚きすぎて、出したことのない声が出た。菊乃は、目を丸くして鯉登を見上げる。
──今なんと?
「疑いたくはないが、見張りの仕業という可能性も捨てきれんからな」
「そ、そんなこと……っ、大澤さんたちに限って……」
これまで、一度たりとも無礼な行為を受けたことはない。不在の間に侵入して、彼等が私物を漁り持ち出した──など、信じ難い事だった。
「……随分と大澤のこと信用しているのだな」
「え……?」
「いや……何でもない。兎に角だッ!お前に何かあってはならん」
そんな調子で、あれよあれよという間に、鯉登が見張りに立つことが決まってしまった。
彼から指示を受ける大澤たちの困惑する様子を、菊乃は申し訳ない気持ちで見つめていたのだった。
──夕食を終えた夜。鯉登が木槽に湯が満ちたのを確かめると、
「外の様子を見てくる。……湯加減を確かめたら入れ」
「はい」
鯉登の言葉に菊乃は小さく頷いて、扉が閉まったのを確認すると背を向けた。
足元に敷かれた簀子はほんのり温かく、裸電球の光が湯面に淡く揺れている。格子の影をぼんやり透かすすりガラスの向こうには、しんと静まる月夜の気配が見えた。
湯温を確かめた菊乃は、脱衣場に立ち帯を解くと、着物と襦袢を肩から滑らせた。
浴場との境に立つ衝立を抜けると、桶にすくい入れた湯をそっと肩へかけた。檜の香りが立ちのぼり、湯気が軽く結い上げた髪を湿らせていく。
控えめな水音だけが反響する静けさの中、膝をついて桐箱の蓋をそっと開けた。
中から取り出した淡い象牙色の石鹸。濡れた手で撫でると、それは少しずつ柔らかくなっていき、ほのかに花の香が咲いた。
湯気に混じって漂うそれは、花そのものよりも落ち着いていて──彼の香りを運ぶ。
頬の火照りは、果たして湯のせいか逸る鼓動のせいか──。
息を詰めたその時、聞こえる足音に菊乃の心臓が跳ねた。
一歩、二歩──、板を踏む音が近づいてきて、扉の向こうで止まる。
「……ゆ、湯加減はどうだ……?」
「あっ……は、はい。ちょうど、良いです……」
湯気越しに聞こえる声が妙に近く──、でも見えない。見えないことが、却って意識を研ぎ澄ませた。
「扉の先にいる。……何かあれば呼べ」
その言葉に返事を返すと、菊乃はソワソワと落ち着かない様子で手ぬぐいに石鹸を擦りつける。
やがて、複雑に高鳴る鼓動を誤魔化すように、いつもより強く身体を洗い始めた。
