本編
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芸者
魁燿亭の朝は早い。客の来ない時間帯でも、店の者たちは慌ただしく開店準備を進める。薄く曇った障子越しに差し込む朝の光が、菊乃の影を長く伸ばしていた。
菊乃が、手にした箒を動かしながらいつもと変わらぬ空を見上げていると、
「そろそろ来るかしらね、あの“将校”さん」
同僚の一言に、菊乃の手が一瞬止まる。彼女は微かに笑みを浮かべながら、箒を握り直した。
「どうでしょうね」
と返事を返す。
暫くこちらに来られそうにない。
全てに片が付いたら、必ず迎えに行こう。
その時は――
待てど暮らせど「迎えに行く」と言い残した“あの将校”こと鶴見は、一向に姿を見せない。
身寄りのない自身を気にかけてくれる彼とは、お互い親愛が生まれていた――少なくとも菊乃はそう思っていた。
あれから一年以上が経ち、季節は巡り、魁燿亭の庭先には雪が積もり、溶け、また積もった。きっと忙しくしているのだろうと自分に言い聞かせ、鶴見の残した言葉を心の奥にしまい込み、微かな期待と共に季節を重ねていた。
そんな折、開店時間も迫った夕刻、当てがわれた支度部屋で菊乃が身支度をしていると、店の者が慌ただしく階段を駆け上がって襖を開けた。
「今、下の階に北鎮部隊の人が訪ねてきたらしいよ」
その一言に、菊乃の瞳が大きく揺れた。着付けも半ばのまま、表に出るには不体裁な装いで玄関口へと急ぐ――僅かな期待を胸に。
だが、そこに立っていたのは待ち焦がれた男ではなく、年若い青年将校と些か小柄な兵隊だった。鶴見は、こんなに若くはないしタッパもある。
がっかりする心の中で、彼らが纏う無骨な装いは、やはり魁燿亭の華やかな空間にどこか不釣り合いだ――と菊乃は思った。
「菊乃ちゃん!なんてはしたない格好で!」
女将の叱責が飛ぶも、菊乃は息を切らしながら呆然と立ち尽くしていた。
“青年将校” 鯉登と“小柄な兵隊” 月島も目を見開き、まるで息を呑んだように立ち尽くしている。
「キェェェェェエッ!?」
鯉登に至っては急激に顔を赤らめると、次の瞬間には猿叫を轟かせていた。
そんな中、女将が容赦なく「さあ、早く!」と菊乃の背を押し、強引に奥へと引っ込めていく。菊乃は振り返る間もなく、階上の向こうへとその姿を消した。
***
玄関先に取り残された二人は互いの視線が合うこともなく、ただ妙な緊張感だけをその場に漂わせていた。鯉登は落ち着かない様子で、御國の薩摩方言でなにやら捲したてるばかり。月島は呆気にとられながら「あの子がそうか」と一人呟いた。女将が戻り、二人を奥へ案内するまで、その奇妙ともいえる空気は続いた。
そして今、二人は通された客間で出された茶を手にしている。共に落ち着かない様子で辺りを見回していた。先ほど目にした芸者――菊乃の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
「……随分と若くなかったか?」
鯉登が小声で囁く。月島は頷く代わりに頬を掻いた。
「“菊乃”と呼ばれていたので、おそらく間違いない、と思いますが……」
言葉を選びかねたのか、月島の口調はどこかぎこちない。芸者と聞いて想像していた女性像とは、まるでかけ離れていた。
てっきり、もっと大人びた妖艶な女を思い描いていたのだ。だが、目の前に現れたのは、乱れた格好の若い娘。それも、少女の面影を残した幼さを感じさせる姿。
「鶴見中尉殿が、あんな若い娘を……?」
「きぇぇぇ」と控えめに戦慄く鯉登が、信じられないというように首を傾げる。月島もまた、鶴見の嗜好に少なからず疑念を抱いたが、今更それを詮索するなど意味もない。
ただ、彼女の目に浮かんでいた期待と失望の色が、妙に印象に残った。
「……しかし、余程待ちわびていたのだろうな。あの様子は」
ぼそりと呟いた鯉登の声に、月島は一瞬だけ目を細めた。客間には、静寂だけが流れている。遠くで風の音が僅かに障子を揺らした。
二人の心にまだざわめきが残る中、「失礼いたします」という声と共に目の前の襖がすらっと開いた。
その向こうから、完璧に化粧を施し楚々とした着物を纏った芸者が現れた。先ほどの無防備な姿とは打って変わって、一流としての風格を携えた菊乃がいた。
「魁燿亭の菊乃でございます」
その姿に、二人は思わず目を瞠る。先ほどの、まるで湯上がりのような緩い格好の面影はなく、そこには艶やかで凛とした気配が漂っている。所作は淀みなく、手元一つ乱れない。その姿に自然と二人の背筋も伸びた。
「陸軍第七師団の鯉登だ」
「同じく、月島と申します」
「鯉登様。月島様。先ほどのご無礼、どうかご容赦くださいませ」
鶴見が通い詰めるほどの魅力を持つ女とは如何なる者か――そう想像していた鯉登と月島の心中には、大層な驚きがあった。若々しい顔立ちに何かの間違いだと思ったものの、その立ち振る舞いには確かな品格が感じられる。まるで時が止まったかのような静けさの中、香の香りがふわりと漂った。
「本日はお詫びに、女将から特別な御会席を用意させていただきます」
「いや。我々は客人ではない」
鯉登の言葉に、菊乃の表情がわずかに曇る。彼女の胸中に小さく冷たい波が立ったことが、外からでも察せられた。
「……鶴見さんの使いで、来られたのですね」
二人は目を見合わせ、言葉を失った。想像していた以上に深い関係が、目の前の菊乃の様子から感じ取れるようで。
「……鶴見中尉は、十か月ほど前に函館で起こったロシア人集団との戦闘で殉死した。今日はそれを伝えにきた」
「少尉殿」
月島が慌てて小声で制したが、鯉登は意に介さず、菊乃をまっすぐ見据えている。
菊乃は、彼から視線を落としたあとゆっくり瞬きをし、静かな表情で再び鯉登を見返した。狼狽える様子はない。寧ろ、どこか覚悟を決めたような凛とした佇まいであった。
彼女なら大丈夫――。そんな確信が鯉登の中にはあった。
捜索虚しく、死体はおろか痕跡すら見つからなかったこと。兵舎に残されていた封書の中に菊乃の名があったこと――掻い摘んで伝えた。
「……そう、でしたか。……鶴見さん……」
菊乃は、静かにその名を呼んだ。
外の海風が障子をかすかに揺らし、三人の間に暫しの静寂が落ちた。
🌙side story🌙
やることは山ほどある。件の事後処理の一環で訪れた小樽には、限られた期間しか滞在ができない。本来であれば、こうしてのんびりと歩いている暇などあるはずがなかった。
小雪がちらつく夕刻、風に外套の裾をはためかせながら、月島は隣を歩く鯉登を横目で見た。視線の先、彼の横顔は沈思黙考のそれで、いつになく静かだった。そんな静寂につられるように、月島の思考も無意識に先ほどの出来事へと戻っていく。
魁燿亭――あの華やかな料亭に足を運ぶのは、これが初めてではなかった。
あの時は、任務の打ち合せも兼ねていたから遊興の類は一切なかった。それにも関わらず、店に入るや否や鶴見と親し気に言葉を交わしていた娘がいた。あの頃から幼ない面立ちではあったが、まっすぐな瞳と立ち居振る舞いに不思議な芯の強さを感じた――菊乃がいた。
「泣かなかったなぁ……」
静寂を破るようにぽつり、と鯉登がつぶやいた。吐く息が白く空に溶けてゆく。
「……はい」
とだけ、月島は静かに答えた。
何の前置きもなく、表沙汰にされていない情報と共に殉死と言い切ったときは驚いたものだが、まっすぐ前を見据え、既に全てを受け入れる覚悟を固めた者の目――だからこそ、鯉登も彼女に対して言葉を選ばなかったのかもしれない。
二人の足音が、小樽の石畳に規則正しく響く。月島は、そっと空を仰いだ。
最初は、封書など見なかったことにするつもりだったのに、いざ会ってあんな姿を見せられては多少なりとも情が湧く。
今はただ、彼女が悲しみに囚われず強く生きていってくれれば――そして自分もまた、歩みを止めるわけにはいかない。
月島は、再び隣を歩く鯉登を一瞥した。
魁燿亭の朝は早い。客の来ない時間帯でも、店の者たちは慌ただしく開店準備を進める。薄く曇った障子越しに差し込む朝の光が、菊乃の影を長く伸ばしていた。
菊乃が、手にした箒を動かしながらいつもと変わらぬ空を見上げていると、
「そろそろ来るかしらね、あの“将校”さん」
同僚の一言に、菊乃の手が一瞬止まる。彼女は微かに笑みを浮かべながら、箒を握り直した。
「どうでしょうね」
と返事を返す。
暫くこちらに来られそうにない。
全てに片が付いたら、必ず迎えに行こう。
その時は――
待てど暮らせど「迎えに行く」と言い残した“あの将校”こと鶴見は、一向に姿を見せない。
身寄りのない自身を気にかけてくれる彼とは、お互い親愛が生まれていた――少なくとも菊乃はそう思っていた。
あれから一年以上が経ち、季節は巡り、魁燿亭の庭先には雪が積もり、溶け、また積もった。きっと忙しくしているのだろうと自分に言い聞かせ、鶴見の残した言葉を心の奥にしまい込み、微かな期待と共に季節を重ねていた。
そんな折、開店時間も迫った夕刻、当てがわれた支度部屋で菊乃が身支度をしていると、店の者が慌ただしく階段を駆け上がって襖を開けた。
「今、下の階に北鎮部隊の人が訪ねてきたらしいよ」
その一言に、菊乃の瞳が大きく揺れた。着付けも半ばのまま、表に出るには不体裁な装いで玄関口へと急ぐ――僅かな期待を胸に。
だが、そこに立っていたのは待ち焦がれた男ではなく、年若い青年将校と些か小柄な兵隊だった。鶴見は、こんなに若くはないしタッパもある。
がっかりする心の中で、彼らが纏う無骨な装いは、やはり魁燿亭の華やかな空間にどこか不釣り合いだ――と菊乃は思った。
「菊乃ちゃん!なんてはしたない格好で!」
女将の叱責が飛ぶも、菊乃は息を切らしながら呆然と立ち尽くしていた。
“青年将校” 鯉登と“小柄な兵隊” 月島も目を見開き、まるで息を呑んだように立ち尽くしている。
「キェェェェェエッ!?」
鯉登に至っては急激に顔を赤らめると、次の瞬間には猿叫を轟かせていた。
そんな中、女将が容赦なく「さあ、早く!」と菊乃の背を押し、強引に奥へと引っ込めていく。菊乃は振り返る間もなく、階上の向こうへとその姿を消した。
***
玄関先に取り残された二人は互いの視線が合うこともなく、ただ妙な緊張感だけをその場に漂わせていた。鯉登は落ち着かない様子で、御國の薩摩方言でなにやら捲したてるばかり。月島は呆気にとられながら「あの子がそうか」と一人呟いた。女将が戻り、二人を奥へ案内するまで、その奇妙ともいえる空気は続いた。
そして今、二人は通された客間で出された茶を手にしている。共に落ち着かない様子で辺りを見回していた。先ほど目にした芸者――菊乃の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
「……随分と若くなかったか?」
鯉登が小声で囁く。月島は頷く代わりに頬を掻いた。
「“菊乃”と呼ばれていたので、おそらく間違いない、と思いますが……」
言葉を選びかねたのか、月島の口調はどこかぎこちない。芸者と聞いて想像していた女性像とは、まるでかけ離れていた。
てっきり、もっと大人びた妖艶な女を思い描いていたのだ。だが、目の前に現れたのは、乱れた格好の若い娘。それも、少女の面影を残した幼さを感じさせる姿。
「鶴見中尉殿が、あんな若い娘を……?」
「きぇぇぇ」と控えめに戦慄く鯉登が、信じられないというように首を傾げる。月島もまた、鶴見の嗜好に少なからず疑念を抱いたが、今更それを詮索するなど意味もない。
ただ、彼女の目に浮かんでいた期待と失望の色が、妙に印象に残った。
「……しかし、余程待ちわびていたのだろうな。あの様子は」
ぼそりと呟いた鯉登の声に、月島は一瞬だけ目を細めた。客間には、静寂だけが流れている。遠くで風の音が僅かに障子を揺らした。
二人の心にまだざわめきが残る中、「失礼いたします」という声と共に目の前の襖がすらっと開いた。
その向こうから、完璧に化粧を施し楚々とした着物を纏った芸者が現れた。先ほどの無防備な姿とは打って変わって、一流としての風格を携えた菊乃がいた。
「魁燿亭の菊乃でございます」
その姿に、二人は思わず目を瞠る。先ほどの、まるで湯上がりのような緩い格好の面影はなく、そこには艶やかで凛とした気配が漂っている。所作は淀みなく、手元一つ乱れない。その姿に自然と二人の背筋も伸びた。
「陸軍第七師団の鯉登だ」
「同じく、月島と申します」
「鯉登様。月島様。先ほどのご無礼、どうかご容赦くださいませ」
鶴見が通い詰めるほどの魅力を持つ女とは如何なる者か――そう想像していた鯉登と月島の心中には、大層な驚きがあった。若々しい顔立ちに何かの間違いだと思ったものの、その立ち振る舞いには確かな品格が感じられる。まるで時が止まったかのような静けさの中、香の香りがふわりと漂った。
「本日はお詫びに、女将から特別な御会席を用意させていただきます」
「いや。我々は客人ではない」
鯉登の言葉に、菊乃の表情がわずかに曇る。彼女の胸中に小さく冷たい波が立ったことが、外からでも察せられた。
「……鶴見さんの使いで、来られたのですね」
二人は目を見合わせ、言葉を失った。想像していた以上に深い関係が、目の前の菊乃の様子から感じ取れるようで。
「……鶴見中尉は、十か月ほど前に函館で起こったロシア人集団との戦闘で殉死した。今日はそれを伝えにきた」
「少尉殿」
月島が慌てて小声で制したが、鯉登は意に介さず、菊乃をまっすぐ見据えている。
菊乃は、彼から視線を落としたあとゆっくり瞬きをし、静かな表情で再び鯉登を見返した。狼狽える様子はない。寧ろ、どこか覚悟を決めたような凛とした佇まいであった。
彼女なら大丈夫――。そんな確信が鯉登の中にはあった。
捜索虚しく、死体はおろか痕跡すら見つからなかったこと。兵舎に残されていた封書の中に菊乃の名があったこと――掻い摘んで伝えた。
「……そう、でしたか。……鶴見さん……」
菊乃は、静かにその名を呼んだ。
外の海風が障子をかすかに揺らし、三人の間に暫しの静寂が落ちた。
🌙side story🌙
やることは山ほどある。件の事後処理の一環で訪れた小樽には、限られた期間しか滞在ができない。本来であれば、こうしてのんびりと歩いている暇などあるはずがなかった。
小雪がちらつく夕刻、風に外套の裾をはためかせながら、月島は隣を歩く鯉登を横目で見た。視線の先、彼の横顔は沈思黙考のそれで、いつになく静かだった。そんな静寂につられるように、月島の思考も無意識に先ほどの出来事へと戻っていく。
魁燿亭――あの華やかな料亭に足を運ぶのは、これが初めてではなかった。
あの時は、任務の打ち合せも兼ねていたから遊興の類は一切なかった。それにも関わらず、店に入るや否や鶴見と親し気に言葉を交わしていた娘がいた。あの頃から幼ない面立ちではあったが、まっすぐな瞳と立ち居振る舞いに不思議な芯の強さを感じた――菊乃がいた。
「泣かなかったなぁ……」
静寂を破るようにぽつり、と鯉登がつぶやいた。吐く息が白く空に溶けてゆく。
「……はい」
とだけ、月島は静かに答えた。
何の前置きもなく、表沙汰にされていない情報と共に殉死と言い切ったときは驚いたものだが、まっすぐ前を見据え、既に全てを受け入れる覚悟を固めた者の目――だからこそ、鯉登も彼女に対して言葉を選ばなかったのかもしれない。
二人の足音が、小樽の石畳に規則正しく響く。月島は、そっと空を仰いだ。
最初は、封書など見なかったことにするつもりだったのに、いざ会ってあんな姿を見せられては多少なりとも情が湧く。
今はただ、彼女が悲しみに囚われず強く生きていってくれれば――そして自分もまた、歩みを止めるわけにはいかない。
月島は、再び隣を歩く鯉登を一瞥した。
