番外編
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金比羅船々(前)
(恋煩いの日常)*〈自覚〉の合間のお話
「菊乃さん!」
初夏の風に混じって、朗らかな男の声が通りに響いた。二人の兵を伴い偕行社へと歩いていた菊乃は、その声に気づいて振り返ると、
「――あ。えっと、橘さん?」
軍帽の鍔に手をかける青年将校が、快活な笑みで手を振っていた。先日、将校集会所で顔を合わせた鯉登の同期、橘だった。
「そ。会えてよかった」
彼の口元は、笑みの弧を描いている。菊乃も微笑み返し、
「何か御用でしょうか?」
「急なんだけど今晩さ、一緒に飲みに行こうよ」
唐突にそう言われて、菊乃は目を瞬かせた。どうやら、同じ同期の本庄と荒木とで夕食に出る約束をしたらしい。そこへ菊乃もどうか――という誘いだった。
「これから鯉登も誘うんだけど、どう?」
その名を聞いた瞬間、菊乃は瞳を揺らした。思わず視線を逸らし、悟られぬようにと言葉を選ぶ。
「お誘いは、嬉しいんですが、その……たぶん、許可が必要で……」
本音は、彼とはあまり顔を合わせたくない――しかしそんなこと言うわけにもいかず、保護されている身としての建前を口実にしようとした。だが、
「あーはいはい、許可ね。俺から鯉登に取っておくよ」
橘は軽く笑いながら、面倒ごとなど気にも留めぬように言ってのけた。あまりにもあっさりした返しに、菊乃はそれ以上何も言えず、
「じゃ、一時間後に偕行社まで迎えに行くから。よろしく!」
「あっ」
言い終えると間もなく、軍帽を被り直した橘は軽やかな足取りで去っていった。その向こう、夕暮れが近づく旭川の空は茜色を帯び始めている。
菊乃は眉根を下げて立ち尽くすしかなく、遠ざかるその背を静かに見送った。
――宣言通り、指定された時間になると橘はやってきた。聯隊兵舎がある通りの角まで案内されると、そこには一台の馬車。そして、本庄と荒木が待機していた。
「……あれ、鯉登さんは?」
「立て込んでるんだと。先に行ってよう」
橘はそう言うと、わざとらしいほどに気取って手を差し出してきた。
「お手をどうぞ、お嬢さま」
そのおどけた仕草に吹き出しそうになりながら、菊乃はそっと手を重ねた。
旭川の師団通り――その裏手の小道に、居酒屋 千鳥庵はある。壁には酒樽の蓋を加工した看板が掲げられ、入口を潜ると棚一面にずらりと並ぶ酒瓶が出迎えた。
「地酒も洋酒も揃ってる。旭川で一番の店だよ」
菊乃は、思わずじっくりと店内を見回す。橘の誇らしげな言葉通り、その様は圧巻だった。
案内されたのは、座敷の個室。畳の感触と木の香りにほっとしつつ、菊乃は腰を下ろした。間もなく、三人は慣れた調子で次々と酒とつまみを注文していく。
気づけば机の上は、小鉢に焼き物、燗の銚子であっという間に賑やかになった。
「さぁさ、菊乃さんどうぞ」
ぽかんとしていた菊乃に、橘が銚子を手に笑いかけていた。
「あ!ごめんなさい私がお注ぎしなきゃいけないのに」
「何言ってんの。今日は“お客さん”でしょ。そんな気遣いは無用」
お客さん――。
そう言われて、なんだかソワソワしてしまう。おずおずと盃を差し出すと、色彩の冴えが満たされて、ほんの少し気持ちが和らいだ。
気づけば皆、既に盃を手にしていて、あとは合図を待つばかり。
「菊乃さん。“乾杯”は知ってる?」
向かいの荒木が、口元に笑みを浮かべて言った。
「あ、聞いたことあります」
鶴見が教えてくれた。イギリス海軍発祥の祝杯を挙げる言葉で、“一気に盃の中を空にする”のが作法なのだと。
近頃、陸軍の中でもそれが流行しているのだ。
「流石は魁燿亭の芸者さんだ。じゃあ、菊乃さんとのお近づきを祝して――」
乾杯ー!
旭川の夜が賑やかに幕を開けた。菊乃も、彼らの作法に則り盃を傾けていく。
「いい飲みっぷりだなー、菊乃さん」
橘のひと言に、照れながらも菊乃は微笑んだ。
それから、銚子を手に取り、隣の橘の盃に静かに注ぐ。
「出遅れましたが……」
「お、菊乃さんの御酌一番乗り〜!」
「俺も俺も!」
「次オレ!」
三人が口々に賑やかな声を上げた。
魁燿亭では、酌一つにも神経を使うものだが、ここは違う。肩の力が抜けて、菊乃は擽ったくなるような安堵感に包まれた。
部屋の外からも笑い声がよく聞こえ、名に恥じぬ繁盛ぶりだ。料理の一皿一皿も、上等な心配りが感じられる。
「……鯉登さん、お忙しそうですね」
酒も進んで暫く経ち、ふと菊乃が口をついた言葉に、荒木が盃を持ち上げて笑った。
「また身だしなみに手間取ってんじゃねぇの?あいつ、ちょっと出かけるのにもきちんとしてないと気が済まなかったから」
「ほんっと几帳面。おかげで班行動の遅れは大抵あいつのせいだった」
「うんうん」
荒木と本庄の掛け合いに、橘も同意し笑いを浮かべている。
確かに、鯉登は几帳面――というより、軍服の埃ひとつ見逃さない清潔感のある男だと思っていた。
鶴見も、普段の着こなしに隙の無い男だったが、それ以上に洗練された何かを鯉登からは感じる――。
そこで、はっとする。つい彼のことを考えてしまって、思わず頭を振った。盃を手にしていた指に、きゅっと力がこもる。
その後も、談笑を聞きながら菊乃が上燗をちびちび口にしていると、橘が、
「ねぇ菊乃さん。鯉登となんかあったの?」
「っえ?」
「いや、あいつこの間より機嫌が悪かったからさ。仕事だけじゃないのかなーって思って」
「な、なにも、ないです。けど……」
菊乃は言いながら、思わず酒を煽ってしまった。くい、と喉を鳴らす音が、やけに響く。
「ふーん」
橘が、何か含んだような目で笑った。視線を逸らすこともできず、菊乃が言葉を無くしているところに、
「まーまー、それはさて置き」
そう言って荒木が手をひとつ叩いた。その声に救われたようで、菊乃はほっと息を吐く。
「せっかく一流の芸者さんがいるんだぞ。やるっきゃないでしょ、“アレ”」
「よ!来たな、“アレ”ッ!」
身を乗り出して盛り上がる二人に、菊乃はぽかんとその様子を見つめる。
「……アレ?」
「こいつら、お座敷遊びしたくて仕方ないんだと」
橘が苦笑して言った。
「勝負して、負けた奴は酒一気な。あとー……“誰かの秘密”を一つ暴露してもらう。でどう?」
意気揚々という荒木に、菊乃は不安な表情を浮かべ、
「そ、そんなことして大丈夫です……?」
「大丈夫大丈夫。酒の席でうっかり喋っちゃうだけだから」
橘に言いくるめられるように、菊乃の盃に酒が注がれる。
「ちなみに、俺が持ってる取って置きは、“鯉登の士官学校時代の武勇伝”――聞きたくない?」
橘にそう言われ、菊乃は揺らぐ。興味が無い――わけでもない。
「……じゃあ、少しだけ」
おずおずと吐き出されたその言葉に、橘の目が細くなる。
「よぉし。じゃあ菊乃さんが負けたら――鯉登と何があったのか教えてもらおうかな」
橘に耳元で囁かれて、菊乃はバッと身を引いた。一気に熱が顔に集まり、言葉がつかえて出てこない。
「ははっ。じゃあ、どんな勝負するか決めていいよ。さぁ、どうする?」
と橘に言われ、三人の視線が期待に満ちる。
菊乃は、口を引き結んでお座敷遊びを頭の中で並べた。負けると厄介だ。やり慣れていて、こちらが優位になるものを。そう考えて――
「金比羅船々で」
と菊乃は言った。
「――金毘羅船々 追手に帆かけて シュラ シュ シュ シュー♪」
対戦相手の二人が向かい合い、唄に合わせて置かれた銚子袴を掌で交互に軽く叩いていく。触れた瞬間、相手が不意を突いて銚子袴を取り上げれば、こちらは空の台に握り拳を出さねばならない。
手を開くか、閉じるか。その駆け引きが競い合われていた。
「おーちょちょちょ早い早い早い!」
「一度回れば――♪」
「っだーっ!また間違えたー!」
「だっはっは!橘、おまえ弱すぎだって!」
かれこれ三巡ほど勝負をしているが、菊乃が全勝中だ。
罰盃のせいか、橘たちは赤ら顔をさらに赤くし、鯉登の“武勇伝”を上機嫌に語り出す。何が飛び出すかと思えば、学生生活の日常にあるほんの些細な出来事ばかりであった。――のだが、
「じゃあ、あれ知ってるか?女学校の別嬪さんに言い寄られた話ぃ」
と、ほろ酔いの橘が言い出した瞬間、菊乃がびくりと肩を揺らす。
「俺知らない」
「別嬪さん?どの子の話?」
本庄の“どの子”という言い回しが、菊乃の胸にざらりと波紋を広げた。まるで他にもいたような、そんな物言いだ。
「あいつ外出した時に、その女学生が落としたハンケチを拾ってあげたんだと」
「うんうん」
「そしたら後日、そのお嬢さんが士官学校まで押しかけてきて、門前に鯉登呼びつけて『お付き合いしてほしい』って言ったわけさ」
「随分と情熱的なお嬢さんだこと」
橘、そして本庄と荒木が楽しげに笑うのをよそに、菊乃は黙ったまま盃をちびちびと煽り、横目で橘を見やる。
「そんで、あいつの返答聞いたお嬢さんが大号泣しちゃってさ」
「っえ!?」
あまりに唐突な展開に、思わず菊乃の声が上ずった。直ぐ様、橘がニヤリと目を細めて菊乃を見て、ふいにその視線が離れた。
「――お前、あの時なんて言ったんだったか?」
橘が出入り口に向かってそう言うと、正面の襖がスラリと開いた。
(恋煩いの日常)*〈自覚〉の合間のお話
「菊乃さん!」
初夏の風に混じって、朗らかな男の声が通りに響いた。二人の兵を伴い偕行社へと歩いていた菊乃は、その声に気づいて振り返ると、
「――あ。えっと、橘さん?」
軍帽の鍔に手をかける青年将校が、快活な笑みで手を振っていた。先日、将校集会所で顔を合わせた鯉登の同期、橘だった。
「そ。会えてよかった」
彼の口元は、笑みの弧を描いている。菊乃も微笑み返し、
「何か御用でしょうか?」
「急なんだけど今晩さ、一緒に飲みに行こうよ」
唐突にそう言われて、菊乃は目を瞬かせた。どうやら、同じ同期の本庄と荒木とで夕食に出る約束をしたらしい。そこへ菊乃もどうか――という誘いだった。
「これから鯉登も誘うんだけど、どう?」
その名を聞いた瞬間、菊乃は瞳を揺らした。思わず視線を逸らし、悟られぬようにと言葉を選ぶ。
「お誘いは、嬉しいんですが、その……たぶん、許可が必要で……」
本音は、彼とはあまり顔を合わせたくない――しかしそんなこと言うわけにもいかず、保護されている身としての建前を口実にしようとした。だが、
「あーはいはい、許可ね。俺から鯉登に取っておくよ」
橘は軽く笑いながら、面倒ごとなど気にも留めぬように言ってのけた。あまりにもあっさりした返しに、菊乃はそれ以上何も言えず、
「じゃ、一時間後に偕行社まで迎えに行くから。よろしく!」
「あっ」
言い終えると間もなく、軍帽を被り直した橘は軽やかな足取りで去っていった。その向こう、夕暮れが近づく旭川の空は茜色を帯び始めている。
菊乃は眉根を下げて立ち尽くすしかなく、遠ざかるその背を静かに見送った。
――宣言通り、指定された時間になると橘はやってきた。聯隊兵舎がある通りの角まで案内されると、そこには一台の馬車。そして、本庄と荒木が待機していた。
「……あれ、鯉登さんは?」
「立て込んでるんだと。先に行ってよう」
橘はそう言うと、わざとらしいほどに気取って手を差し出してきた。
「お手をどうぞ、お嬢さま」
そのおどけた仕草に吹き出しそうになりながら、菊乃はそっと手を重ねた。
旭川の師団通り――その裏手の小道に、居酒屋 千鳥庵はある。壁には酒樽の蓋を加工した看板が掲げられ、入口を潜ると棚一面にずらりと並ぶ酒瓶が出迎えた。
「地酒も洋酒も揃ってる。旭川で一番の店だよ」
菊乃は、思わずじっくりと店内を見回す。橘の誇らしげな言葉通り、その様は圧巻だった。
案内されたのは、座敷の個室。畳の感触と木の香りにほっとしつつ、菊乃は腰を下ろした。間もなく、三人は慣れた調子で次々と酒とつまみを注文していく。
気づけば机の上は、小鉢に焼き物、燗の銚子であっという間に賑やかになった。
「さぁさ、菊乃さんどうぞ」
ぽかんとしていた菊乃に、橘が銚子を手に笑いかけていた。
「あ!ごめんなさい私がお注ぎしなきゃいけないのに」
「何言ってんの。今日は“お客さん”でしょ。そんな気遣いは無用」
お客さん――。
そう言われて、なんだかソワソワしてしまう。おずおずと盃を差し出すと、色彩の冴えが満たされて、ほんの少し気持ちが和らいだ。
気づけば皆、既に盃を手にしていて、あとは合図を待つばかり。
「菊乃さん。“乾杯”は知ってる?」
向かいの荒木が、口元に笑みを浮かべて言った。
「あ、聞いたことあります」
鶴見が教えてくれた。イギリス海軍発祥の祝杯を挙げる言葉で、“一気に盃の中を空にする”のが作法なのだと。
近頃、陸軍の中でもそれが流行しているのだ。
「流石は魁燿亭の芸者さんだ。じゃあ、菊乃さんとのお近づきを祝して――」
乾杯ー!
旭川の夜が賑やかに幕を開けた。菊乃も、彼らの作法に則り盃を傾けていく。
「いい飲みっぷりだなー、菊乃さん」
橘のひと言に、照れながらも菊乃は微笑んだ。
それから、銚子を手に取り、隣の橘の盃に静かに注ぐ。
「出遅れましたが……」
「お、菊乃さんの御酌一番乗り〜!」
「俺も俺も!」
「次オレ!」
三人が口々に賑やかな声を上げた。
魁燿亭では、酌一つにも神経を使うものだが、ここは違う。肩の力が抜けて、菊乃は擽ったくなるような安堵感に包まれた。
部屋の外からも笑い声がよく聞こえ、名に恥じぬ繁盛ぶりだ。料理の一皿一皿も、上等な心配りが感じられる。
「……鯉登さん、お忙しそうですね」
酒も進んで暫く経ち、ふと菊乃が口をついた言葉に、荒木が盃を持ち上げて笑った。
「また身だしなみに手間取ってんじゃねぇの?あいつ、ちょっと出かけるのにもきちんとしてないと気が済まなかったから」
「ほんっと几帳面。おかげで班行動の遅れは大抵あいつのせいだった」
「うんうん」
荒木と本庄の掛け合いに、橘も同意し笑いを浮かべている。
確かに、鯉登は几帳面――というより、軍服の埃ひとつ見逃さない清潔感のある男だと思っていた。
鶴見も、普段の着こなしに隙の無い男だったが、それ以上に洗練された何かを鯉登からは感じる――。
そこで、はっとする。つい彼のことを考えてしまって、思わず頭を振った。盃を手にしていた指に、きゅっと力がこもる。
その後も、談笑を聞きながら菊乃が上燗をちびちび口にしていると、橘が、
「ねぇ菊乃さん。鯉登となんかあったの?」
「っえ?」
「いや、あいつこの間より機嫌が悪かったからさ。仕事だけじゃないのかなーって思って」
「な、なにも、ないです。けど……」
菊乃は言いながら、思わず酒を煽ってしまった。くい、と喉を鳴らす音が、やけに響く。
「ふーん」
橘が、何か含んだような目で笑った。視線を逸らすこともできず、菊乃が言葉を無くしているところに、
「まーまー、それはさて置き」
そう言って荒木が手をひとつ叩いた。その声に救われたようで、菊乃はほっと息を吐く。
「せっかく一流の芸者さんがいるんだぞ。やるっきゃないでしょ、“アレ”」
「よ!来たな、“アレ”ッ!」
身を乗り出して盛り上がる二人に、菊乃はぽかんとその様子を見つめる。
「……アレ?」
「こいつら、お座敷遊びしたくて仕方ないんだと」
橘が苦笑して言った。
「勝負して、負けた奴は酒一気な。あとー……“誰かの秘密”を一つ暴露してもらう。でどう?」
意気揚々という荒木に、菊乃は不安な表情を浮かべ、
「そ、そんなことして大丈夫です……?」
「大丈夫大丈夫。酒の席でうっかり喋っちゃうだけだから」
橘に言いくるめられるように、菊乃の盃に酒が注がれる。
「ちなみに、俺が持ってる取って置きは、“鯉登の士官学校時代の武勇伝”――聞きたくない?」
橘にそう言われ、菊乃は揺らぐ。興味が無い――わけでもない。
「……じゃあ、少しだけ」
おずおずと吐き出されたその言葉に、橘の目が細くなる。
「よぉし。じゃあ菊乃さんが負けたら――鯉登と何があったのか教えてもらおうかな」
橘に耳元で囁かれて、菊乃はバッと身を引いた。一気に熱が顔に集まり、言葉がつかえて出てこない。
「ははっ。じゃあ、どんな勝負するか決めていいよ。さぁ、どうする?」
と橘に言われ、三人の視線が期待に満ちる。
菊乃は、口を引き結んでお座敷遊びを頭の中で並べた。負けると厄介だ。やり慣れていて、こちらが優位になるものを。そう考えて――
「金比羅船々で」
と菊乃は言った。
「――金毘羅船々 追手に帆かけて シュラ シュ シュ シュー♪」
対戦相手の二人が向かい合い、唄に合わせて置かれた銚子袴を掌で交互に軽く叩いていく。触れた瞬間、相手が不意を突いて銚子袴を取り上げれば、こちらは空の台に握り拳を出さねばならない。
手を開くか、閉じるか。その駆け引きが競い合われていた。
「おーちょちょちょ早い早い早い!」
「一度回れば――♪」
「っだーっ!また間違えたー!」
「だっはっは!橘、おまえ弱すぎだって!」
かれこれ三巡ほど勝負をしているが、菊乃が全勝中だ。
罰盃のせいか、橘たちは赤ら顔をさらに赤くし、鯉登の“武勇伝”を上機嫌に語り出す。何が飛び出すかと思えば、学生生活の日常にあるほんの些細な出来事ばかりであった。――のだが、
「じゃあ、あれ知ってるか?女学校の別嬪さんに言い寄られた話ぃ」
と、ほろ酔いの橘が言い出した瞬間、菊乃がびくりと肩を揺らす。
「俺知らない」
「別嬪さん?どの子の話?」
本庄の“どの子”という言い回しが、菊乃の胸にざらりと波紋を広げた。まるで他にもいたような、そんな物言いだ。
「あいつ外出した時に、その女学生が落としたハンケチを拾ってあげたんだと」
「うんうん」
「そしたら後日、そのお嬢さんが士官学校まで押しかけてきて、門前に鯉登呼びつけて『お付き合いしてほしい』って言ったわけさ」
「随分と情熱的なお嬢さんだこと」
橘、そして本庄と荒木が楽しげに笑うのをよそに、菊乃は黙ったまま盃をちびちびと煽り、横目で橘を見やる。
「そんで、あいつの返答聞いたお嬢さんが大号泣しちゃってさ」
「っえ!?」
あまりに唐突な展開に、思わず菊乃の声が上ずった。直ぐ様、橘がニヤリと目を細めて菊乃を見て、ふいにその視線が離れた。
「――お前、あの時なんて言ったんだったか?」
橘が出入り口に向かってそう言うと、正面の襖がスラリと開いた。
