番外編
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盃洗(魁燿亭(一)でのやりとり)
鯉登は、己の感情を持て余していた。月島の口から、菊乃と面識がある、と聞かされた瞬間、胸の奥に不快な熱が帯びるのを感じた。しかし、沸々と湧き上がるこの感情が何なのかは分からない。ただ、今まで感じたことのない騒つきが、内側から自分を揺らした。
鶴見の寵愛を受けていた女――そんな存在が、何の躊躇いもなく自分の横についている。それがどこか不思議で、妙に気持ちが高揚した。
会いに行こうと思ったのは、待ち人に囚われ続けているのは気の毒だと思ったから。あとは単純な興味本位。
だが、実際に対面してみれば、その姿は想像していたよりもずっと若々しく、目を奪われた。年齢も自分と大して違わぬのではないかと思う。
今、何度目かの酒が菊乃の手から注がれている。
似たような料亭を訪れた経験なら鯉登にもあった。何度か上官たちに連れられ、凡その作法も知ってはいるが、こうした雅びた空間にはやはり馴染めず落ち着かなかった。それでも今後、苦手だからと避けるわけにもいかない。
「……お前も飲むか?」
鯉登の一言に、菊乃が伏せていた目を上げた。客につく芸者は、基本その場での飲み食いは厳禁だ。客からいただくまでひたすらに待つ。
「はい。是非頂戴いたします」
向けられた微笑みに、鯉登の心臓が音を立てた。まるで不意に鷲掴みされたみたいに、胸の内が圧される。
顔に出さぬよう努めて平然を装いながら、飲み干した盃を膳の上にある漆器の中へ静かに沈めた。
「手慣れていますね、少尉殿」
程よく酔いの回った月島が言った。意外だとでも言いたげにこぼしたその一言に、鯉登は唇を歪める。
「貴様、私を何だと思っとる」
漆器には、水が入っている。盃洗という、親しみの証として芸者と盃を交わす際、己の盃を清めるための器だ。
所作を済ませ、菊乃に手渡した盃に酒を注いでやる。鯉登は胡坐から正座に組み替えていた。菊乃はどこか、自然と身を正したくなる相手だった。
「ありがとうございます。いただきます」
そう言って、菊乃が盃を手に取る。八分目に注がれた酒を、彼女はためらうことなく一気に飲み干した。
「「おぉ」」
小さく漏れた二人の驚嘆に、彼女はくすっと笑った。
「いい飲みっぷりですね」
「ふふ、ありがとうございます」
月島の言葉に、菊乃が嬉しそうに微笑む。そして鯉登へ盃を返しながら、柔らかに言った。
「ご返盃いたします」
そうして鯉登は、受け取ったそれをじっと見つめた。ごく普通の盃が、特別なものに思えてならない。
その視線に気づいた菊乃が、悪戯っぽく目を細めると、
「洗わらなくていいですよ」
「きぇっ!?」
頬を赤らめて言い訳を探す鯉登を見て、菊乃からはますます笑いが漏れる。暫くして、僅かに真剣な顔をした鯉登が、
「その……こういうの、お前たちはどう思ってるんだ?気持ち悪いと思わんのか?」
不器用ながらも真摯な問いに、菊乃はわずかに首を傾げる。
「んー。私はそこまで気にしません。楽しんでくださっているなら」
さらりとした答えに、鯉登の顔が僅かに陰る。他の客にも、同じようにしているのだろうか――その思いが胸を刺す。
「それに」
「……それに?」
「鯉登様のような素敵な方と盃を交わせるなんて、とても鼻が高いと存じます」
菊乃が事も無げに告げたその瞬間、鯉登の上半身が後ろにひっくり返った。正座の体制のまま、器用に膝から折れ曲がる。
「あらまぁ、柔らかい」
ふふふ、と菊乃が肩を震わせて笑いながら「起きてください、鯉登様」と楽しげに呼びかけている。
その様子を、月島は酒を口に運びながら、何とも言えぬ表情で見つめていた。
今宵の宴は、まだ始まったばかり。
鯉登は、己の感情を持て余していた。月島の口から、菊乃と面識がある、と聞かされた瞬間、胸の奥に不快な熱が帯びるのを感じた。しかし、沸々と湧き上がるこの感情が何なのかは分からない。ただ、今まで感じたことのない騒つきが、内側から自分を揺らした。
鶴見の寵愛を受けていた女――そんな存在が、何の躊躇いもなく自分の横についている。それがどこか不思議で、妙に気持ちが高揚した。
会いに行こうと思ったのは、待ち人に囚われ続けているのは気の毒だと思ったから。あとは単純な興味本位。
だが、実際に対面してみれば、その姿は想像していたよりもずっと若々しく、目を奪われた。年齢も自分と大して違わぬのではないかと思う。
今、何度目かの酒が菊乃の手から注がれている。
似たような料亭を訪れた経験なら鯉登にもあった。何度か上官たちに連れられ、凡その作法も知ってはいるが、こうした雅びた空間にはやはり馴染めず落ち着かなかった。それでも今後、苦手だからと避けるわけにもいかない。
「……お前も飲むか?」
鯉登の一言に、菊乃が伏せていた目を上げた。客につく芸者は、基本その場での飲み食いは厳禁だ。客からいただくまでひたすらに待つ。
「はい。是非頂戴いたします」
向けられた微笑みに、鯉登の心臓が音を立てた。まるで不意に鷲掴みされたみたいに、胸の内が圧される。
顔に出さぬよう努めて平然を装いながら、飲み干した盃を膳の上にある漆器の中へ静かに沈めた。
「手慣れていますね、少尉殿」
程よく酔いの回った月島が言った。意外だとでも言いたげにこぼしたその一言に、鯉登は唇を歪める。
「貴様、私を何だと思っとる」
漆器には、水が入っている。盃洗という、親しみの証として芸者と盃を交わす際、己の盃を清めるための器だ。
所作を済ませ、菊乃に手渡した盃に酒を注いでやる。鯉登は胡坐から正座に組み替えていた。菊乃はどこか、自然と身を正したくなる相手だった。
「ありがとうございます。いただきます」
そう言って、菊乃が盃を手に取る。八分目に注がれた酒を、彼女はためらうことなく一気に飲み干した。
「「おぉ」」
小さく漏れた二人の驚嘆に、彼女はくすっと笑った。
「いい飲みっぷりですね」
「ふふ、ありがとうございます」
月島の言葉に、菊乃が嬉しそうに微笑む。そして鯉登へ盃を返しながら、柔らかに言った。
「ご返盃いたします」
そうして鯉登は、受け取ったそれをじっと見つめた。ごく普通の盃が、特別なものに思えてならない。
その視線に気づいた菊乃が、悪戯っぽく目を細めると、
「洗わらなくていいですよ」
「きぇっ!?」
頬を赤らめて言い訳を探す鯉登を見て、菊乃からはますます笑いが漏れる。暫くして、僅かに真剣な顔をした鯉登が、
「その……こういうの、お前たちはどう思ってるんだ?気持ち悪いと思わんのか?」
不器用ながらも真摯な問いに、菊乃はわずかに首を傾げる。
「んー。私はそこまで気にしません。楽しんでくださっているなら」
さらりとした答えに、鯉登の顔が僅かに陰る。他の客にも、同じようにしているのだろうか――その思いが胸を刺す。
「それに」
「……それに?」
「鯉登様のような素敵な方と盃を交わせるなんて、とても鼻が高いと存じます」
菊乃が事も無げに告げたその瞬間、鯉登の上半身が後ろにひっくり返った。正座の体制のまま、器用に膝から折れ曲がる。
「あらまぁ、柔らかい」
ふふふ、と菊乃が肩を震わせて笑いながら「起きてください、鯉登様」と楽しげに呼びかけている。
その様子を、月島は酒を口に運びながら、何とも言えぬ表情で見つめていた。
今宵の宴は、まだ始まったばかり。
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