一章
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例えば壁をすり抜けることができるのはタイミングだという。
ふとした拍子に、偶然に偶然が重なって意図せずできてしまうのだそうだ。
もしかしたら次元を越える原理というのもそういうことなのかもしれない。
「……ここ、どこ…?」
広い森の中で、私は呆然と立ち尽くしていた。
話は少しさかのぼる。
私は都会から程遠い田舎の小さな集落に生まれた。
自営業を営むおおらかで陽気な父としっかりもので少し過保護な優しい母に育てられ、ちょっと口うるさいが優しく仲の良い兄が今は一人暮らしをしながら大学に通っていた。そして自身はというと、成績は平凡。そこそこの容姿。活発とは言えないが友人とお喋りしたり、たまにお出掛けしたりすることを楽しみにしたり、ひとりでいる時間も好きで天気の良い日にはのんびり散歩をするのが好きな、そんなありふれた高校生だった。
夏休みを間近に控え、登校した学校は浮き足立つようなそわそわと落ち着かない雰囲気だった。
いつもより遅くまで学校に残り、くだらないことではしゃぎあえる仲間たちとこれまたくだらない会話で盛り上がり、夏休みをどう過ごそうかと相談し合った。そんな他愛のない一日。
そう、他愛のない一日だったはずなのだ。しかしそれは呆気なく訪れ、日常を奪っていった。
人ひとり通れるか通れないかという広さの家と家の塀の隙間。その先から助けを求めるような子猫の鳴き声が聞こえていた。あまりに心細そうなその鳴き声が心配になって、隙間へと足を踏み入れた。
たったそれだけ。
塀の先に子猫の姿が見えたと思った瞬間、薄い膜を通るような感覚を全身に感じたかと思うと、塀だったはずの左右の圧迫感はいつのまにか細い木々となり、そこを抜け出た時にはこの森の中にたたずんでいたのである。
そして話は冒頭にたどり着く。
「え?え?なにこれどういうこと?」
私、柊かんなは混乱していた。
塀の間に入ったはずなのに出た先は森。
おかしいと思い慌てて戻ろうと振り返ってみても通ってきたはずの塀はなく、人ひとり通れるかどうかという隙間を開けた木が数本並んではえているだけで、その両隣にあったはずの民家も消えてしまっていた。
右を見ても左を見ても草木。見上げた木々の枝の間からのぞく空ばかりが見知ったもののようだ。
ピーピピピとおだやかな鳥のさえずりが小さく聞こえている。
優しげに吹く風の心地良さと鳥のさえずりを穏やかに堪能し、片手でこめかみを抑えそっと目を閉じた。
は?
「いやいやいや。もしかしたら変な風に飛び出したせいで見失っちゃっただけで、塀の先は森につながっていたのかもしれないし。近くにこんな広い森、いや林かもしれない...!そんなのがあったなんて全然知らなかったしあったら分かりそうなものだけどどこかの家の所有地で目立たないように民家の裏に広がっていたのかもしれないもんね!とりあえず、きた道を探さないと」
ズキズキと予想外の遭難に痛む頭をそのまま添えた手で揉み、深呼吸深呼吸。と自分に言い聞かせる。
そうだ、子猫は?
心を落ち着けているとふと当初の目的を思い出した。辺りを見回すとちょうど通り抜けた木の股の下に小さな黒い毛玉が震えていた。みぃみぃとこちらを見つめて一生懸命鳴いている。
よかった…私はこの子の声を聞いてここへたどり着いたのだ。
屈んでそっと手を伸ばすと、子猫はおそるおそる近付いてきた。手のひらへふわりとやわらかな毛並みが触れたと思った瞬間、何かに驚いたように飛び上がって子猫は森の奥へと逃げていってしまった。
「あっ!まって!!」
「ちょっと君、いいかな?」
追いかけて走り出そうとした時に、うしろから声がかかった。
振り返った自分の目の前に影がさしたかと思うと、そこには金髪のイケメン。
突然現れた人にびっくりして固まっていると彼は困ったように首を傾げて今度は屈んで私の顔の前で手を振った。
「あれ?反応なし…?おーい。聞こえているかい」
不躾に顔を凝視していたが手を振られたことで我にかえった。
「…はい。えと、はい。」
予想外に人と出会ったことでまともな返事が出てこない。何度か口の中でもごもご言葉を転がしながらようやくこの場所について知っているのではないかと思い立った。
「そうだ!あの、ここ」
「くぉらあーー!!!鳴海!勝手にムチ豆を持ち出していくな馬鹿者ぉぉぉ!!」
ここはどこなのかと聞こうとしたところで怒鳴り声とともに金髪の人の後ろから一人の男の人が全力疾走で緑色のムチを片手に走ってくる。鬼のような形相でそのままムチを振りかぶったかと思うと目の前の金髪の彼をバチンと思い切りひっぱたいた。
「ひっ」
驚いた拍子に腰を抜かして尻もちをついてしまうが、ムチで叩かれた当の本人は痛そうにはしつつもへらへらと笑っている。
いたたと何度か叩かれた左肩をさすった後、うしろからもう一撃喰らわそうとムチを振り上げた彼の方へぱっと体を向け抗議の声を上げた。
「痛い!痛いって岬先生っ!後でちゃんと謝るってば!それよりもその子おびえちゃってるからっ」
「…ん?」
私の存在に気付いたその人は振り上げたムチを下ろし、なるみと呼ばれた人の後ろから顔を出す。その様子を見届けて金髪の人、「なるみ」が立ち上がり、そちらを恨めしそうに一度睨みつけた後こちらへと視線を向け直し、みさきせんせいと呼ばれていた黒髪の男の人がゆっくり私に近付いて手を差し伸べた。
「驚かせてすまなかった。立てるか?」
「あっは、はい!」
腰の立たない私を引き上げて立たせた後、意外にも紳士的に 『みさきせんせい』はふわりとほほ笑んだ。
うわ、かっこいい。
先程は般若のような形相で恐ろしかったが、笑うととても優しい顔になるんだなと呑気に思った。
「驚かせてすまなかったね、君に話があるんだ。」
ぼんやりと、なぜだろう、金髪さんも、目の前のこの人も知っているような気がして『みさきせんせい』を見つめていると『なるみ』が真剣な顔をして私の手を取る。
「手荒で申し訳ないんだけど、色々聞かせてもらうよ。」
ふわりと体が軽くなったような感覚に陥る。
あれ、なんかこの展開────どこかで───
ピアスを外しながら話す『なるみ』の声を聞いて、私の意識はそこで途切れた。
────────────
ふわりと風がほほをなでる感覚にゆっくりと目を開けると、本日2度目の金髪イケメンのドアップがそこにあった。
「あ。起きたかい?」
「…あれ…ここは…‥‥‥?」
「急に連れてきてしまって悪かったね。不審な少女が学園の中に突然あらわれたと報告があったから。」
目の前でにっこりとやさしい笑みをうかべているのはさっき門の前にいた、たしか『なるみ』という人。
不審とは失敬な。
少しムッとしながら慎重に周りを見回すとどうやらここはどこかの建物の中のようだ。
「寝ている間に色々話を聞こうと思ったんだけど、君、わからないとばかり繰り返すから起きるまで待っていたんだよ。」
困ったようにそういわれたが、どういうことなのかこちらだってさっぱりわからない。寝ている間に聞こうとしたって何?寝言ってこと?
完全に意識が覚醒したことを確認したのか覗き込んでいた姿勢をもとに戻し、背もたれに体を預け、すっと表情を固くした。
「さっそくで悪いんだけど君はどうしてあそこにいたのか教えてくれないかな?」
「え……どうして?どうしてだろう…。わかりません、猫の鳴き声がして、家と家の塀の間を通ったらあそこにいました」
「うーん………そっか、でもね。僕の聞いた話では君は急に森のなかに現れたそうなんだ。それについては、なにか心当たりはない?」
「そんなこと言われても…わたしだって、あんな森知りませんでした」
やはりあそこは森の中だったのか。
「それにここの敷地の中に民家はないんだよ」
そんな馬鹿なと彼を見る。
怖がらせないように笑顔で話しかけてくれてはいるが、目が笑っていない。
怖い。
もしかしたら、神隠し…とか、これは誘拐なのかとか、今のところ会話は成り立っているが、自分の置かれている状況がまったくわからず恐怖で黙り込んでしまう。
目の前の彼はそんな私をしばらくの間静かに見つめていたが、いつまでたっても返ってこない返事にしびれを切らしたようにため息をひとつついて、後ろをふりかえった。
「はぁ…岬先生はどう思う?僕にはどうもこの子が嘘をいっているようには見えないんだけど」
そこには同じく森の中で会った黒髪の男の人。
「どう、といわれてもな。もしかすると野田先生のように時空に関わるものか、空間移動系のアリスを持っているのかもしれないぞ」
「だ、そうなんだけど」
だ、そうだって言われても…
「その、アリスってなんなんですか?」
アリス。不思議の国のアリス?
「………そうだね、アリス。特別な人間だけが持つ特別な力、天賦の才能のことだよ。例えば僕は『フェロモンのアリス』」
まただ。この人の声を聞くとクラクラする。頬が熱い。
「今は押さえているからちょっとメロメロになっちゃうくらいで済むけどね♪」
さっとピアスをいじりながらいい笑顔を向ける彼はフラフラする私を愉快そうに見ている。
「馬鹿!起きたばかりのいたいけな少女に何をやっとるかお前は!」
慌てて近くへと駆け寄ってきた『みさきせんせい』が『なるみ』をたたいた。
「イタタタ、そうそう、それでこの人のアリスはーー」
「植物のアリスだ。」
「その植物のアリスってなにができるんですか?」
「…………。」
二人は顔を見合わせると、『なるみ』は可笑しそうに笑い『みさきせんせい』はそれをとがめてため息をついた。
「俺は植物を自在に育て、操ることができる」
「そうそう!歌ったり踊ったり、逃げ出す子もいるんだよ。それにこの豆なんかはーー」
『なるみ』がポケットから豆を取り出すとそれはぐんぐん成長してムチになった。
先程から次々と出てくる言葉や行動の数々に頭がぐわんと揺らぐ。
まさか、だって。開いた口が塞がらない。
私はこの不思議な力を知っている。
アリス。特別な人間だけが持つ特別な力。フェロモンのアリスを持った『なるみ』。植物のアリスを持った『みさきせんせい』。
道理で見覚えがあるはずだ。だって彼らは私の愛読していた物語の先生達にそっくりだった。いや、そのものなのだから。
鳴海先生に岬先生。
そんな馬鹿な、だってこれじゃまるで……………
(が、学園アリスーーーーー!!?)
私はまた意識が遠くなっていくのを感じた。
「あれ!?この子また気絶しちゃってる!」
「なっ、急に色々教えすぎたんだ馬鹿!」
遠ざかる意識の向こう側でぎゃあぎゃあと賑やかな声が聞こえてくる。その声が記憶の中の彼らそのもので、ああ。この二人は本当にあの鳴海先生と岬先生なんだなと思った。
額に冷たい感覚があって私は2度目の覚醒を迎える。
夢を見た。迷い込んだ先があの学園アリスの世界だったなんて、そんな突拍子もないファンタジーな夢を。
ゆっくりと瞬きを繰り返し、あたりを見回す。真白な天井、心地の良い風が流れ、あたたかな陽がたっぷりと差し込む大きな窓。その窓の下にキラキラと光を反射させる美しい金髪の────
衝動的に引っ叩いた頬に激痛が走った。
「……夢じゃないのッッ!!!??」
ガバリと思い切り体を起こしたせいで目眩がする。
「......お、おはよう♡」
ベッドのすぐ側に腰をかけていたその人は目を丸くしてこちらを見つめていたが、気を取り直したようにニッコリ笑う。
「思いっきり打ったね、頬っぺ大丈夫?」
「すみません...大丈夫です」
そうして飛び起きた時に落ちてしまったらしいタオルを拾って水を張った桶へとつけた。どうやら濡れタオルをかけてくれたのは鳴海先生だったようだ。
「あ、タオル…。」
「ごめんね、状況もよくわかってないのに急に詰め込み過ぎたね。」
心底申し訳なさそうな顔をして鳴海先生は私の頭を撫でる。
「勝手だと思われるかもしれないけど君のことをどうしようかこちらで色々考えさせてもらったんだ。それで、あまりに突然現れたからもしかしたら君は、アリスの持ち主かもしれないという話になった。」
「…え?」
「さっき少し説明させてもらった、アリスという力はこの世界で大変希少なものでね、ここはその力を守り、育てるための学園にあたる場所なんだ。」
やっぱり……ここはアリス学園だったのか。
「そしてこの学園は内部からはもちろん、外部からの進入はほとんど不可能になっている。そんな中突然、なんの前触れもなく学園内に現れたきみは何者なのか、それを確かめる必要があるということ、またはなんらかの能力によってここへ辿り着いたのではないかと、まぁ様々な議論がなされてね。しばらくの間、君が何者なのか、アリス能力者なのかを見極めさせてもらいたいんだ。」
「私そんな不思議な力持ってません!」
そんな力うまれてこの方持っていたことなんてない。というかあり得ない。
「うん、でもね。もう決まったことなんだ。もし君がアリスを持っていたとしたら、僕たちは君を保護しなければならない。持っていない、そしてここにやってきたことがなんらかの事故だと分かればおうちに返すこともできるんだけど…」
「家…」
そうだ家。もしここが学園アリスの世界なら、私の家は存在しない。
そう考えてゾッとした。アリスなんて持っているはずがない。けれど行くあてのない今の私がここを放り出されたらどうなるんだろうか。
「君には申し訳ないけれど、君の存在は学園にとって不確定要素ばかりで正直危険視されていると思ってもらったほうがいい」
「あ……そう…ですよねわたし」
私、自分を証明できるものなんてひとつももっていない。
そもそも世界が違うのだから。
「まずは自己紹介をしようか。本当だったら最初にすべきだったんだろうけど。僕の名前は鳴海.L.杏樹。後ろの彼は──」
「岬だ」
それまでずっと黙っていた岬先生が背を預けていた壁から離れて私のそばにやって来る。
「君の名前は?」
「柊…、かんなです…。」
「家はどこにあるんだ?」
「家…ここに、わたしの家は....どこからきたのかも、わからない、です。帰り方も」
じわりと涙がにじんだ。何て言えばいいというのだろう。この世界とは違う場所から来たなんてどうして分かってもらえるだろうか。頼る人も、帰る場所も、なにひとつないのだとどう説明ができるというのだろう。そもそもこんな状況で、怪しいと疑われている人物の言葉を信じてもらえるというのか。
歪んだ視界に戸惑う二人の男の人が見えた。
_________
結局私はその日から、記憶喪失だということになった。自分がいた世界のことを説明するのは容易ではないし、第一信じてもらえないだろう。だんまりだった私を記憶喪失として扱ってもらえたのはとても都合がよかった。それにここが物語の世界なら私という異分子の存在は脅威になるかもしれない。不安ばかりが募るが、ひとつだけはっきりしていることがある。ここは、学園アリスはわたしの大好きなお話だということ。ここがアリス学園だというのなら、私は大好きなお話を守りたい。
いつ帰れるのかもわからない、だからこそいつか帰れるの日まで、この物語の世界で自分を隠して生きていくことに決めた。
そして先生方と相談した結果、私はしばらくの間この学園で生活し、アリスを見つける努力をすることが課題として与えられた。
そんなもの見つかるわけないのに。不安が胸にひろがっていく。
「今日は色々あって疲れたでしょう、もう日も暮れてきちゃったし休ませてあげたいところなんだけど…学園にある寮へはまだ入れてあげられないんだ」
ではこのまま医務室で寝起きすることになるのかと顔を上げるとそれはそれは煌めく笑顔で鳴海先生が指を左右に揺らす。
「と、い・う・わ・け・で⭐︎今日のところは僕の部屋で一緒に寝ようか、明日からは生徒として学校に通ってもらうよ。」
「……は?」
思った以上に低く響いた私の声に鳴海先生が慌てる。
「あ、あれ?僕が嫌なら岬先生にお願いしてもいいんだけど。」
「……何をいっているんですか?」
女子高生を前に一緒に寝よう?変態かこの人は。いや、この先生のことだしあり得なくはないのだろうか。
「俺は構わないが。」
岬先生まで!?
あまりのことに熱くなる顔をそのままに口をはくはくと開閉する。
その様子を見て鳴海先生は会得したように微笑ましげな顔を向けた。
「そうか、まだ小さいとはいっても女の子だもんね。でも君を一人にするわけにはいかないから学園側からの判断が下るまで、我慢してもらえないかな?」
子供に言い聞かせるように優しく言葉をくれる。
「小さい…?」
そういえば身動きをするたびに違和感があった。それどころではなかったから意識がそちらへは向いていなかったが、そっと持ち上げた手は小さく、ぺとりと触ると頬はふくふくとやわらかい。
よくよく考えれば地面が近いだけでなく、鳴海先生や岬先生を見上げるのも一苦労だ。こんなに身長差があるはずがない。
まさか。
ひとつの可能性に行きつきわなわなと震える。
ふと壁際に置いてあった鏡に映るようほんの少し体をずらしてみると、そこには
数年前の小さな自分の姿があった。
(トリップの上に幼児化ーーーーーーーーーー!!!!??)
ぺたりと顔を触りながら真顔になる。まさか年齢まで偽ることになろうとは。あんまりの出来事の連続に数周回っていっそ冷静に頭は現実を受け入れた。
何故か生あたたかい目を向けてくる先生方の視線に、違うそうじゃないとちょっと泣けた。
結局その日は岬先生の部屋で寝ることになった。いくら見た目は小学生とはいえ中身は17歳なのだ、顔から火が出るほど恥ずかしい。
しばらく落ち着かない体をもぞもぞとさせていると岬先生は何を思ったのかこちらを向いてポンポンと布団の上から私の胸をあやすようにたたく。
「…あの」
「不安なのは分かる」
「う...」
恥ずかしいのだと言いたかったが、岬先生の慰めるような穏やかな目を見つめているとなぜだか突然、寂しくなってしまった。さっきより距離の近くなった先生からは草花のいい香りがして。
不思議と落ち着くなと、ぽんぽんと胸のあたりをたたく心地のよいリズムを聞いているうちに、いつのまにか顔の熱も引いていた。もちろん恥ずかしいことに変わりはなかったが、頼る人のいない今の自分にその優しい空気はじんと胸に広がってあたたかかった。
ずっと不安だったことを言い当てられてしまった。
岬先生のことが大好きなアンナちゃんや野々子ちゃんにはこんなことしてもらったなんて知られたら大変だな、なんてこっそり笑う。
今の私は、小学生だから。
もう遠慮なく甘えてしまおうと、先生の着ている柔らかな生地に額をすり寄せる。
「先生、いいにおいがする」
「そうか?」
「草と、土と、花のにおい…」
「いいにおいと、言ってくれるか…。」
ひどく優しい顔をして岬先生は私の髪に手を伸ばした。
「もう寝なさい。明日から頑張るんだぞ、俺にできることはしてやる。」
「ありがとう…ござい…ます……」
頭を撫でてくれる手つきの柔らかさに、いつのまにか私は眠りに落ちていた。
頑張ろう。
微睡んで揺れる世界を見つめながらそう思った。
ふとした拍子に、偶然に偶然が重なって意図せずできてしまうのだそうだ。
もしかしたら次元を越える原理というのもそういうことなのかもしれない。
「……ここ、どこ…?」
広い森の中で、私は呆然と立ち尽くしていた。
話は少しさかのぼる。
私は都会から程遠い田舎の小さな集落に生まれた。
自営業を営むおおらかで陽気な父としっかりもので少し過保護な優しい母に育てられ、ちょっと口うるさいが優しく仲の良い兄が今は一人暮らしをしながら大学に通っていた。そして自身はというと、成績は平凡。そこそこの容姿。活発とは言えないが友人とお喋りしたり、たまにお出掛けしたりすることを楽しみにしたり、ひとりでいる時間も好きで天気の良い日にはのんびり散歩をするのが好きな、そんなありふれた高校生だった。
夏休みを間近に控え、登校した学校は浮き足立つようなそわそわと落ち着かない雰囲気だった。
いつもより遅くまで学校に残り、くだらないことではしゃぎあえる仲間たちとこれまたくだらない会話で盛り上がり、夏休みをどう過ごそうかと相談し合った。そんな他愛のない一日。
そう、他愛のない一日だったはずなのだ。しかしそれは呆気なく訪れ、日常を奪っていった。
人ひとり通れるか通れないかという広さの家と家の塀の隙間。その先から助けを求めるような子猫の鳴き声が聞こえていた。あまりに心細そうなその鳴き声が心配になって、隙間へと足を踏み入れた。
たったそれだけ。
塀の先に子猫の姿が見えたと思った瞬間、薄い膜を通るような感覚を全身に感じたかと思うと、塀だったはずの左右の圧迫感はいつのまにか細い木々となり、そこを抜け出た時にはこの森の中にたたずんでいたのである。
そして話は冒頭にたどり着く。
「え?え?なにこれどういうこと?」
私、柊かんなは混乱していた。
塀の間に入ったはずなのに出た先は森。
おかしいと思い慌てて戻ろうと振り返ってみても通ってきたはずの塀はなく、人ひとり通れるかどうかという隙間を開けた木が数本並んではえているだけで、その両隣にあったはずの民家も消えてしまっていた。
右を見ても左を見ても草木。見上げた木々の枝の間からのぞく空ばかりが見知ったもののようだ。
ピーピピピとおだやかな鳥のさえずりが小さく聞こえている。
優しげに吹く風の心地良さと鳥のさえずりを穏やかに堪能し、片手でこめかみを抑えそっと目を閉じた。
は?
「いやいやいや。もしかしたら変な風に飛び出したせいで見失っちゃっただけで、塀の先は森につながっていたのかもしれないし。近くにこんな広い森、いや林かもしれない...!そんなのがあったなんて全然知らなかったしあったら分かりそうなものだけどどこかの家の所有地で目立たないように民家の裏に広がっていたのかもしれないもんね!とりあえず、きた道を探さないと」
ズキズキと予想外の遭難に痛む頭をそのまま添えた手で揉み、深呼吸深呼吸。と自分に言い聞かせる。
そうだ、子猫は?
心を落ち着けているとふと当初の目的を思い出した。辺りを見回すとちょうど通り抜けた木の股の下に小さな黒い毛玉が震えていた。みぃみぃとこちらを見つめて一生懸命鳴いている。
よかった…私はこの子の声を聞いてここへたどり着いたのだ。
屈んでそっと手を伸ばすと、子猫はおそるおそる近付いてきた。手のひらへふわりとやわらかな毛並みが触れたと思った瞬間、何かに驚いたように飛び上がって子猫は森の奥へと逃げていってしまった。
「あっ!まって!!」
「ちょっと君、いいかな?」
追いかけて走り出そうとした時に、うしろから声がかかった。
振り返った自分の目の前に影がさしたかと思うと、そこには金髪のイケメン。
突然現れた人にびっくりして固まっていると彼は困ったように首を傾げて今度は屈んで私の顔の前で手を振った。
「あれ?反応なし…?おーい。聞こえているかい」
不躾に顔を凝視していたが手を振られたことで我にかえった。
「…はい。えと、はい。」
予想外に人と出会ったことでまともな返事が出てこない。何度か口の中でもごもご言葉を転がしながらようやくこの場所について知っているのではないかと思い立った。
「そうだ!あの、ここ」
「くぉらあーー!!!鳴海!勝手にムチ豆を持ち出していくな馬鹿者ぉぉぉ!!」
ここはどこなのかと聞こうとしたところで怒鳴り声とともに金髪の人の後ろから一人の男の人が全力疾走で緑色のムチを片手に走ってくる。鬼のような形相でそのままムチを振りかぶったかと思うと目の前の金髪の彼をバチンと思い切りひっぱたいた。
「ひっ」
驚いた拍子に腰を抜かして尻もちをついてしまうが、ムチで叩かれた当の本人は痛そうにはしつつもへらへらと笑っている。
いたたと何度か叩かれた左肩をさすった後、うしろからもう一撃喰らわそうとムチを振り上げた彼の方へぱっと体を向け抗議の声を上げた。
「痛い!痛いって岬先生っ!後でちゃんと謝るってば!それよりもその子おびえちゃってるからっ」
「…ん?」
私の存在に気付いたその人は振り上げたムチを下ろし、なるみと呼ばれた人の後ろから顔を出す。その様子を見届けて金髪の人、「なるみ」が立ち上がり、そちらを恨めしそうに一度睨みつけた後こちらへと視線を向け直し、みさきせんせいと呼ばれていた黒髪の男の人がゆっくり私に近付いて手を差し伸べた。
「驚かせてすまなかった。立てるか?」
「あっは、はい!」
腰の立たない私を引き上げて立たせた後、意外にも紳士的に 『みさきせんせい』はふわりとほほ笑んだ。
うわ、かっこいい。
先程は般若のような形相で恐ろしかったが、笑うととても優しい顔になるんだなと呑気に思った。
「驚かせてすまなかったね、君に話があるんだ。」
ぼんやりと、なぜだろう、金髪さんも、目の前のこの人も知っているような気がして『みさきせんせい』を見つめていると『なるみ』が真剣な顔をして私の手を取る。
「手荒で申し訳ないんだけど、色々聞かせてもらうよ。」
ふわりと体が軽くなったような感覚に陥る。
あれ、なんかこの展開────どこかで───
ピアスを外しながら話す『なるみ』の声を聞いて、私の意識はそこで途切れた。
────────────
ふわりと風がほほをなでる感覚にゆっくりと目を開けると、本日2度目の金髪イケメンのドアップがそこにあった。
「あ。起きたかい?」
「…あれ…ここは…‥‥‥?」
「急に連れてきてしまって悪かったね。不審な少女が学園の中に突然あらわれたと報告があったから。」
目の前でにっこりとやさしい笑みをうかべているのはさっき門の前にいた、たしか『なるみ』という人。
不審とは失敬な。
少しムッとしながら慎重に周りを見回すとどうやらここはどこかの建物の中のようだ。
「寝ている間に色々話を聞こうと思ったんだけど、君、わからないとばかり繰り返すから起きるまで待っていたんだよ。」
困ったようにそういわれたが、どういうことなのかこちらだってさっぱりわからない。寝ている間に聞こうとしたって何?寝言ってこと?
完全に意識が覚醒したことを確認したのか覗き込んでいた姿勢をもとに戻し、背もたれに体を預け、すっと表情を固くした。
「さっそくで悪いんだけど君はどうしてあそこにいたのか教えてくれないかな?」
「え……どうして?どうしてだろう…。わかりません、猫の鳴き声がして、家と家の塀の間を通ったらあそこにいました」
「うーん………そっか、でもね。僕の聞いた話では君は急に森のなかに現れたそうなんだ。それについては、なにか心当たりはない?」
「そんなこと言われても…わたしだって、あんな森知りませんでした」
やはりあそこは森の中だったのか。
「それにここの敷地の中に民家はないんだよ」
そんな馬鹿なと彼を見る。
怖がらせないように笑顔で話しかけてくれてはいるが、目が笑っていない。
怖い。
もしかしたら、神隠し…とか、これは誘拐なのかとか、今のところ会話は成り立っているが、自分の置かれている状況がまったくわからず恐怖で黙り込んでしまう。
目の前の彼はそんな私をしばらくの間静かに見つめていたが、いつまでたっても返ってこない返事にしびれを切らしたようにため息をひとつついて、後ろをふりかえった。
「はぁ…岬先生はどう思う?僕にはどうもこの子が嘘をいっているようには見えないんだけど」
そこには同じく森の中で会った黒髪の男の人。
「どう、といわれてもな。もしかすると野田先生のように時空に関わるものか、空間移動系のアリスを持っているのかもしれないぞ」
「だ、そうなんだけど」
だ、そうだって言われても…
「その、アリスってなんなんですか?」
アリス。不思議の国のアリス?
「………そうだね、アリス。特別な人間だけが持つ特別な力、天賦の才能のことだよ。例えば僕は『フェロモンのアリス』」
まただ。この人の声を聞くとクラクラする。頬が熱い。
「今は押さえているからちょっとメロメロになっちゃうくらいで済むけどね♪」
さっとピアスをいじりながらいい笑顔を向ける彼はフラフラする私を愉快そうに見ている。
「馬鹿!起きたばかりのいたいけな少女に何をやっとるかお前は!」
慌てて近くへと駆け寄ってきた『みさきせんせい』が『なるみ』をたたいた。
「イタタタ、そうそう、それでこの人のアリスはーー」
「植物のアリスだ。」
「その植物のアリスってなにができるんですか?」
「…………。」
二人は顔を見合わせると、『なるみ』は可笑しそうに笑い『みさきせんせい』はそれをとがめてため息をついた。
「俺は植物を自在に育て、操ることができる」
「そうそう!歌ったり踊ったり、逃げ出す子もいるんだよ。それにこの豆なんかはーー」
『なるみ』がポケットから豆を取り出すとそれはぐんぐん成長してムチになった。
先程から次々と出てくる言葉や行動の数々に頭がぐわんと揺らぐ。
まさか、だって。開いた口が塞がらない。
私はこの不思議な力を知っている。
アリス。特別な人間だけが持つ特別な力。フェロモンのアリスを持った『なるみ』。植物のアリスを持った『みさきせんせい』。
道理で見覚えがあるはずだ。だって彼らは私の愛読していた物語の先生達にそっくりだった。いや、そのものなのだから。
鳴海先生に岬先生。
そんな馬鹿な、だってこれじゃまるで……………
(が、学園アリスーーーーー!!?)
私はまた意識が遠くなっていくのを感じた。
「あれ!?この子また気絶しちゃってる!」
「なっ、急に色々教えすぎたんだ馬鹿!」
遠ざかる意識の向こう側でぎゃあぎゃあと賑やかな声が聞こえてくる。その声が記憶の中の彼らそのもので、ああ。この二人は本当にあの鳴海先生と岬先生なんだなと思った。
額に冷たい感覚があって私は2度目の覚醒を迎える。
夢を見た。迷い込んだ先があの学園アリスの世界だったなんて、そんな突拍子もないファンタジーな夢を。
ゆっくりと瞬きを繰り返し、あたりを見回す。真白な天井、心地の良い風が流れ、あたたかな陽がたっぷりと差し込む大きな窓。その窓の下にキラキラと光を反射させる美しい金髪の────
衝動的に引っ叩いた頬に激痛が走った。
「……夢じゃないのッッ!!!??」
ガバリと思い切り体を起こしたせいで目眩がする。
「......お、おはよう♡」
ベッドのすぐ側に腰をかけていたその人は目を丸くしてこちらを見つめていたが、気を取り直したようにニッコリ笑う。
「思いっきり打ったね、頬っぺ大丈夫?」
「すみません...大丈夫です」
そうして飛び起きた時に落ちてしまったらしいタオルを拾って水を張った桶へとつけた。どうやら濡れタオルをかけてくれたのは鳴海先生だったようだ。
「あ、タオル…。」
「ごめんね、状況もよくわかってないのに急に詰め込み過ぎたね。」
心底申し訳なさそうな顔をして鳴海先生は私の頭を撫でる。
「勝手だと思われるかもしれないけど君のことをどうしようかこちらで色々考えさせてもらったんだ。それで、あまりに突然現れたからもしかしたら君は、アリスの持ち主かもしれないという話になった。」
「…え?」
「さっき少し説明させてもらった、アリスという力はこの世界で大変希少なものでね、ここはその力を守り、育てるための学園にあたる場所なんだ。」
やっぱり……ここはアリス学園だったのか。
「そしてこの学園は内部からはもちろん、外部からの進入はほとんど不可能になっている。そんな中突然、なんの前触れもなく学園内に現れたきみは何者なのか、それを確かめる必要があるということ、またはなんらかの能力によってここへ辿り着いたのではないかと、まぁ様々な議論がなされてね。しばらくの間、君が何者なのか、アリス能力者なのかを見極めさせてもらいたいんだ。」
「私そんな不思議な力持ってません!」
そんな力うまれてこの方持っていたことなんてない。というかあり得ない。
「うん、でもね。もう決まったことなんだ。もし君がアリスを持っていたとしたら、僕たちは君を保護しなければならない。持っていない、そしてここにやってきたことがなんらかの事故だと分かればおうちに返すこともできるんだけど…」
「家…」
そうだ家。もしここが学園アリスの世界なら、私の家は存在しない。
そう考えてゾッとした。アリスなんて持っているはずがない。けれど行くあてのない今の私がここを放り出されたらどうなるんだろうか。
「君には申し訳ないけれど、君の存在は学園にとって不確定要素ばかりで正直危険視されていると思ってもらったほうがいい」
「あ……そう…ですよねわたし」
私、自分を証明できるものなんてひとつももっていない。
そもそも世界が違うのだから。
「まずは自己紹介をしようか。本当だったら最初にすべきだったんだろうけど。僕の名前は鳴海.L.杏樹。後ろの彼は──」
「岬だ」
それまでずっと黙っていた岬先生が背を預けていた壁から離れて私のそばにやって来る。
「君の名前は?」
「柊…、かんなです…。」
「家はどこにあるんだ?」
「家…ここに、わたしの家は....どこからきたのかも、わからない、です。帰り方も」
じわりと涙がにじんだ。何て言えばいいというのだろう。この世界とは違う場所から来たなんてどうして分かってもらえるだろうか。頼る人も、帰る場所も、なにひとつないのだとどう説明ができるというのだろう。そもそもこんな状況で、怪しいと疑われている人物の言葉を信じてもらえるというのか。
歪んだ視界に戸惑う二人の男の人が見えた。
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結局私はその日から、記憶喪失だということになった。自分がいた世界のことを説明するのは容易ではないし、第一信じてもらえないだろう。だんまりだった私を記憶喪失として扱ってもらえたのはとても都合がよかった。それにここが物語の世界なら私という異分子の存在は脅威になるかもしれない。不安ばかりが募るが、ひとつだけはっきりしていることがある。ここは、学園アリスはわたしの大好きなお話だということ。ここがアリス学園だというのなら、私は大好きなお話を守りたい。
いつ帰れるのかもわからない、だからこそいつか帰れるの日まで、この物語の世界で自分を隠して生きていくことに決めた。
そして先生方と相談した結果、私はしばらくの間この学園で生活し、アリスを見つける努力をすることが課題として与えられた。
そんなもの見つかるわけないのに。不安が胸にひろがっていく。
「今日は色々あって疲れたでしょう、もう日も暮れてきちゃったし休ませてあげたいところなんだけど…学園にある寮へはまだ入れてあげられないんだ」
ではこのまま医務室で寝起きすることになるのかと顔を上げるとそれはそれは煌めく笑顔で鳴海先生が指を左右に揺らす。
「と、い・う・わ・け・で⭐︎今日のところは僕の部屋で一緒に寝ようか、明日からは生徒として学校に通ってもらうよ。」
「……は?」
思った以上に低く響いた私の声に鳴海先生が慌てる。
「あ、あれ?僕が嫌なら岬先生にお願いしてもいいんだけど。」
「……何をいっているんですか?」
女子高生を前に一緒に寝よう?変態かこの人は。いや、この先生のことだしあり得なくはないのだろうか。
「俺は構わないが。」
岬先生まで!?
あまりのことに熱くなる顔をそのままに口をはくはくと開閉する。
その様子を見て鳴海先生は会得したように微笑ましげな顔を向けた。
「そうか、まだ小さいとはいっても女の子だもんね。でも君を一人にするわけにはいかないから学園側からの判断が下るまで、我慢してもらえないかな?」
子供に言い聞かせるように優しく言葉をくれる。
「小さい…?」
そういえば身動きをするたびに違和感があった。それどころではなかったから意識がそちらへは向いていなかったが、そっと持ち上げた手は小さく、ぺとりと触ると頬はふくふくとやわらかい。
よくよく考えれば地面が近いだけでなく、鳴海先生や岬先生を見上げるのも一苦労だ。こんなに身長差があるはずがない。
まさか。
ひとつの可能性に行きつきわなわなと震える。
ふと壁際に置いてあった鏡に映るようほんの少し体をずらしてみると、そこには
数年前の小さな自分の姿があった。
(トリップの上に幼児化ーーーーーーーーーー!!!!??)
ぺたりと顔を触りながら真顔になる。まさか年齢まで偽ることになろうとは。あんまりの出来事の連続に数周回っていっそ冷静に頭は現実を受け入れた。
何故か生あたたかい目を向けてくる先生方の視線に、違うそうじゃないとちょっと泣けた。
結局その日は岬先生の部屋で寝ることになった。いくら見た目は小学生とはいえ中身は17歳なのだ、顔から火が出るほど恥ずかしい。
しばらく落ち着かない体をもぞもぞとさせていると岬先生は何を思ったのかこちらを向いてポンポンと布団の上から私の胸をあやすようにたたく。
「…あの」
「不安なのは分かる」
「う...」
恥ずかしいのだと言いたかったが、岬先生の慰めるような穏やかな目を見つめているとなぜだか突然、寂しくなってしまった。さっきより距離の近くなった先生からは草花のいい香りがして。
不思議と落ち着くなと、ぽんぽんと胸のあたりをたたく心地のよいリズムを聞いているうちに、いつのまにか顔の熱も引いていた。もちろん恥ずかしいことに変わりはなかったが、頼る人のいない今の自分にその優しい空気はじんと胸に広がってあたたかかった。
ずっと不安だったことを言い当てられてしまった。
岬先生のことが大好きなアンナちゃんや野々子ちゃんにはこんなことしてもらったなんて知られたら大変だな、なんてこっそり笑う。
今の私は、小学生だから。
もう遠慮なく甘えてしまおうと、先生の着ている柔らかな生地に額をすり寄せる。
「先生、いいにおいがする」
「そうか?」
「草と、土と、花のにおい…」
「いいにおいと、言ってくれるか…。」
ひどく優しい顔をして岬先生は私の髪に手を伸ばした。
「もう寝なさい。明日から頑張るんだぞ、俺にできることはしてやる。」
「ありがとう…ござい…ます……」
頭を撫でてくれる手つきの柔らかさに、いつのまにか私は眠りに落ちていた。
頑張ろう。
微睡んで揺れる世界を見つめながらそう思った。
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