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甘い甘い…
どうして〝こんな事〟をしているんだろう?いつも浮かぶ疑問は直ぐにどうでも良くなってしまう。
唇が触れて、少しずつ深く重なり合えば、当たり前の様に入ってくるコイツの舌を受け入れ、俺も差し出し絡ませる。そう、ただキスをしているだけだ。
角度を変える度に触れる柔らかな癖毛。舌で戯れあいながら目蓋を薄く開けば、この距離になるまで気付かなかった髪と同じ色の長い睫毛。いつのまにか外されたコイツの眼鏡はローテーブルの上に放り出され、仕事をなくして暇そうにしている。近すぎてぼやける瞳は普段の気怠さが消えた無機質な紅いビー玉。キスをする時のルールは知らないが目を閉じないヤツなんだな、と思うのと同時に観察する余裕があるのか?と癪に触る。
コイツに与えられた広くはない仕事部屋と服に染み付いた俺とは違う煙草の匂い。微かに甘く香るのは胸ポケットに忍ばせているチョコレートとキャンディーだろう。
後頭部を抱え込む様に回された左手も頬に添えられた右手も柔らかくはないのに、大きく骨張った硬い掌なのに、優しく温かいモノに包まれ大切に扱われていると感じてしまうのは自惚れだろうか。
身体は熱く、息は苦しくなるばかり。持久走の後とは違う動悸。キスをしているだけ、なのに息が上がるくらい心臓は猛スピードで突っ走る。
苦しいだけならコイツの肩を押し戻して離れればいいのに、そんな簡単な事もできないくらい力まで入らない。止めたいのか、止めたくないのか、酸欠の頭では自分で決める事も面倒臭くなる。
肩を押し戻す力は無くても俺の両手はコイツの白衣を握りしめて離そうとしないのだから、止めたくないより止めて欲しくないと願っている。
頭の中を煩くするのは、耳から入る音とは違う直に触れる響き。何か特別なスピーカーでも着いているのかと思うほど。それは常識で考えればあり得ない事だけれど、そもそもコイツと〝こんな事〟をしている方が余程あり得ない。
普段は使うことのない専用スピーカーにスイッチが入ると、互いの唾液が混ざり合う下品な音が響きだす。
『今、流行ってるっス。咀嚼音って心地良いんスよね』
また子がスマホで聴かせてくれた他人が食物を噛み砕く音。俺には心地良さが理解できなかったし、むしろ少し不快に感じたくらいだが楽しげな様子に否定はできない。聴かせてくれた事に礼だけは伝えた。
『食べる事は生きる事にござる』
万斉には魂のビートが感じられるらしく、昼休みの残り時間をまた子と二人で盛り上がっていた。
カリカリ、サクサク、ポリポリ………
頭の中で響くのはそんな乾いた音じゃない。心地良さは感じられない。水溜りを勢いよく踏んだ時に上がる水飛沫、海もプールも浴槽もシャワーに雨音、身の回りで水が作り出すそれとは違う聴いたことのない音。こんな音を人間が作り出せるなんて知らなかった。
それは水に似ている様で別物、下品で不快な甘く蕩けた液体。
喉が乾くのなら口付けで潤せばいい
いつか聴いたフレーズは嘘かもしれない。コイツと〝こんな事〟をする度に、舌の戯れが激しくなればなるほど俺の喉はカラカラで潤してくれと求めてばかりだ。
あぁ、だから止めて欲しくないのか…
煩い頭に忘れていた記憶と音が過ぎる。
熟れすぎた果実の匂いだった。
息子を喜ばせようとメロンを下げて帰宅した父親は、まだ俺には重たいそれを手渡し
『甘い香りがしてきたら美味しいのサインだよ』
と笑顔で教えてくれた。微かに甘い香りはするが青臭さの方が強くて、本当に甘い香りになるのかと子供なりに考えている様子が可笑しかったのか、父親の笑い声が上から降ってきた。
次の日からメロンを眺めて一人で食事をした。仕事が忙しい両親と三人で食事をした記憶は殆ど無い。メロンから美味しいのサインが出ても食卓に父親の姿はなかった。
それから五日後にはリビングまでその香りが溢れた。ソファーに腰掛けテレビを眺めているだけの俺に家政婦が近付いて来て膝をつくと、母親よりふくよかで皺の多い手が俺の両手を包み込みながら
『お父様に内緒で私と一緒にメロン食べちゃいましょうよ』
と悪戯っ子の様な笑顔でさらりと言った。もし彼女の言葉に少しでも哀れみを感じ取ったなら意地を張っていたかもしれない。けれど普段から生意気ばかり言う俺を笑いながら受け止めてくれていた彼女は、やはり大人で俺の性格を熟知していた。仕事が忙しい父親を庇うことも、俺を窘めることもしなかった。
メロンから美味しいのサインが出ても帰ってこない父親に、勝手に約束を破られた気がして悔しくて仕方ない俺の気持ちを見透かした提案だったと今なら分かる。俺に同情はしないが、約束を破った父親にはメロンを食べさせないという罰を与えてやろう、そう言ってくれている気がした。
黙って食べれば叱られるかもしれない、けれど内緒で食べる後ろめたさは初めての高揚感だった。それすら彼女の思惑通りとも知らず、頭は勝手に頷いていた。
一口大にカットされたメロンは熟れすぎて舌先がピリリと痛いくらい甘く、噛まなくても舌先で潰せるほど噛みごたえがなくピチャリと初めて聴く厭な音がした。
それ以来、ヒトに期待をしたり何かを欲しがる事を諦めてしまった気がする。
『なぁ、恋人とチューしながら上の空ですか、考え事ですか、コノヤロー』
唇を離しながら右手が髪を梳く。
『そんなんじゃねェーよ』
と返しながら流れを変えてしまった気不味さで、いつもの様に睨み返せない。下から覗き込む瞳は窓からの西日まで呑み込んだ色。何もかも見透かされている気がするのに、見つめ返しても読み取ることのできない深い紅。
コイツに話す程でもない思い出をどうしたものか考えていると、部活動終了のチャイムが空気を動かした。
『あーもう、お前先に帰ってろ。俺もうちょい片付けなきゃなんねぇ事あるし』
そう言いながら覆い被さる様に抱き締められる。
その時あの懐かしい匂いがした、甘く熟れすぎた果実の。
『なぁ、お前ェ香水なんて着けてたか』
質問の意味が分からないという顔をしたまま
『着けてねぇーよ。そんな金あったらホールでケーキ買えるじゃ……』
そこまで言うと瞬きを二回ゆっくりした、次の瞬間には意地の悪い顔をしながら
『なんか甘い匂いでもしたの?もしかして晋ちゃんてば俺のこと大好きなんじゃねーの?嗅ぎ取ってんの香水じゃなくて俺のフェロモンな?』
脛に蹴りを一発。
『っつ、お前っ…足癖悪いのどうにかしろ!もう帰れ、寄り道すんなよ』
脛を摩りつつ懲りもせず鼻先にキスを落としてきた。
『俺は悪くねェ、邪魔したな』
国語準備室を後にした。
帰り道、ずっと忘れていた甘い香りを〝こんな事〟で思い出すなんてと可笑しくなってきた。いつものスーパーでメロンを買って帰ろう。寄り道するなと言われたが寄り道じゃなくて買い物だ。
銀八はどんな顔をするだろうか?〝これだからボンボンは〟と甘いメロンを嬉しそうに頬張るに違いない。いや、熟れる少し前のモノを選んだ方がいい。そして今度は俺が教えてやる。
〝甘い香りがしてきたら美味しいのサインだ〟と。俺は一人で待たせたりしない。待つのも食べるのも一緒だ。
〝なんだよ、美味しいのサインって。ボンボン家のルールなんて知らねぇよ。とっとと食っちまおうぜ〟読み取れない瞳とは真逆のよく回る口。想像しただけで口元が緩んだ。
熟れすぎた果実と苦い思い出が甘いモノを苦手にさせたかもしれない。けれど甘ったるい匂いのヤツからは離れられそうにない。いつの間にか甘いモノは克服していたようだ、美味しいのサインを出しているヤツに限って。
どうして〝こんな事〟をしているんだろう?いつも浮かぶ疑問は直ぐにどうでも良くなってしまう。
唇が触れて、少しずつ深く重なり合えば、当たり前の様に入ってくるコイツの舌を受け入れ、俺も差し出し絡ませる。そう、ただキスをしているだけだ。
角度を変える度に触れる柔らかな癖毛。舌で戯れあいながら目蓋を薄く開けば、この距離になるまで気付かなかった髪と同じ色の長い睫毛。いつのまにか外されたコイツの眼鏡はローテーブルの上に放り出され、仕事をなくして暇そうにしている。近すぎてぼやける瞳は普段の気怠さが消えた無機質な紅いビー玉。キスをする時のルールは知らないが目を閉じないヤツなんだな、と思うのと同時に観察する余裕があるのか?と癪に触る。
コイツに与えられた広くはない仕事部屋と服に染み付いた俺とは違う煙草の匂い。微かに甘く香るのは胸ポケットに忍ばせているチョコレートとキャンディーだろう。
後頭部を抱え込む様に回された左手も頬に添えられた右手も柔らかくはないのに、大きく骨張った硬い掌なのに、優しく温かいモノに包まれ大切に扱われていると感じてしまうのは自惚れだろうか。
身体は熱く、息は苦しくなるばかり。持久走の後とは違う動悸。キスをしているだけ、なのに息が上がるくらい心臓は猛スピードで突っ走る。
苦しいだけならコイツの肩を押し戻して離れればいいのに、そんな簡単な事もできないくらい力まで入らない。止めたいのか、止めたくないのか、酸欠の頭では自分で決める事も面倒臭くなる。
肩を押し戻す力は無くても俺の両手はコイツの白衣を握りしめて離そうとしないのだから、止めたくないより止めて欲しくないと願っている。
頭の中を煩くするのは、耳から入る音とは違う直に触れる響き。何か特別なスピーカーでも着いているのかと思うほど。それは常識で考えればあり得ない事だけれど、そもそもコイツと〝こんな事〟をしている方が余程あり得ない。
普段は使うことのない専用スピーカーにスイッチが入ると、互いの唾液が混ざり合う下品な音が響きだす。
『今、流行ってるっス。咀嚼音って心地良いんスよね』
また子がスマホで聴かせてくれた他人が食物を噛み砕く音。俺には心地良さが理解できなかったし、むしろ少し不快に感じたくらいだが楽しげな様子に否定はできない。聴かせてくれた事に礼だけは伝えた。
『食べる事は生きる事にござる』
万斉には魂のビートが感じられるらしく、昼休みの残り時間をまた子と二人で盛り上がっていた。
カリカリ、サクサク、ポリポリ………
頭の中で響くのはそんな乾いた音じゃない。心地良さは感じられない。水溜りを勢いよく踏んだ時に上がる水飛沫、海もプールも浴槽もシャワーに雨音、身の回りで水が作り出すそれとは違う聴いたことのない音。こんな音を人間が作り出せるなんて知らなかった。
それは水に似ている様で別物、下品で不快な甘く蕩けた液体。
喉が乾くのなら口付けで潤せばいい
いつか聴いたフレーズは嘘かもしれない。コイツと〝こんな事〟をする度に、舌の戯れが激しくなればなるほど俺の喉はカラカラで潤してくれと求めてばかりだ。
あぁ、だから止めて欲しくないのか…
煩い頭に忘れていた記憶と音が過ぎる。
熟れすぎた果実の匂いだった。
息子を喜ばせようとメロンを下げて帰宅した父親は、まだ俺には重たいそれを手渡し
『甘い香りがしてきたら美味しいのサインだよ』
と笑顔で教えてくれた。微かに甘い香りはするが青臭さの方が強くて、本当に甘い香りになるのかと子供なりに考えている様子が可笑しかったのか、父親の笑い声が上から降ってきた。
次の日からメロンを眺めて一人で食事をした。仕事が忙しい両親と三人で食事をした記憶は殆ど無い。メロンから美味しいのサインが出ても食卓に父親の姿はなかった。
それから五日後にはリビングまでその香りが溢れた。ソファーに腰掛けテレビを眺めているだけの俺に家政婦が近付いて来て膝をつくと、母親よりふくよかで皺の多い手が俺の両手を包み込みながら
『お父様に内緒で私と一緒にメロン食べちゃいましょうよ』
と悪戯っ子の様な笑顔でさらりと言った。もし彼女の言葉に少しでも哀れみを感じ取ったなら意地を張っていたかもしれない。けれど普段から生意気ばかり言う俺を笑いながら受け止めてくれていた彼女は、やはり大人で俺の性格を熟知していた。仕事が忙しい父親を庇うことも、俺を窘めることもしなかった。
メロンから美味しいのサインが出ても帰ってこない父親に、勝手に約束を破られた気がして悔しくて仕方ない俺の気持ちを見透かした提案だったと今なら分かる。俺に同情はしないが、約束を破った父親にはメロンを食べさせないという罰を与えてやろう、そう言ってくれている気がした。
黙って食べれば叱られるかもしれない、けれど内緒で食べる後ろめたさは初めての高揚感だった。それすら彼女の思惑通りとも知らず、頭は勝手に頷いていた。
一口大にカットされたメロンは熟れすぎて舌先がピリリと痛いくらい甘く、噛まなくても舌先で潰せるほど噛みごたえがなくピチャリと初めて聴く厭な音がした。
それ以来、ヒトに期待をしたり何かを欲しがる事を諦めてしまった気がする。
『なぁ、恋人とチューしながら上の空ですか、考え事ですか、コノヤロー』
唇を離しながら右手が髪を梳く。
『そんなんじゃねェーよ』
と返しながら流れを変えてしまった気不味さで、いつもの様に睨み返せない。下から覗き込む瞳は窓からの西日まで呑み込んだ色。何もかも見透かされている気がするのに、見つめ返しても読み取ることのできない深い紅。
コイツに話す程でもない思い出をどうしたものか考えていると、部活動終了のチャイムが空気を動かした。
『あーもう、お前先に帰ってろ。俺もうちょい片付けなきゃなんねぇ事あるし』
そう言いながら覆い被さる様に抱き締められる。
その時あの懐かしい匂いがした、甘く熟れすぎた果実の。
『なぁ、お前ェ香水なんて着けてたか』
質問の意味が分からないという顔をしたまま
『着けてねぇーよ。そんな金あったらホールでケーキ買えるじゃ……』
そこまで言うと瞬きを二回ゆっくりした、次の瞬間には意地の悪い顔をしながら
『なんか甘い匂いでもしたの?もしかして晋ちゃんてば俺のこと大好きなんじゃねーの?嗅ぎ取ってんの香水じゃなくて俺のフェロモンな?』
脛に蹴りを一発。
『っつ、お前っ…足癖悪いのどうにかしろ!もう帰れ、寄り道すんなよ』
脛を摩りつつ懲りもせず鼻先にキスを落としてきた。
『俺は悪くねェ、邪魔したな』
国語準備室を後にした。
帰り道、ずっと忘れていた甘い香りを〝こんな事〟で思い出すなんてと可笑しくなってきた。いつものスーパーでメロンを買って帰ろう。寄り道するなと言われたが寄り道じゃなくて買い物だ。
銀八はどんな顔をするだろうか?〝これだからボンボンは〟と甘いメロンを嬉しそうに頬張るに違いない。いや、熟れる少し前のモノを選んだ方がいい。そして今度は俺が教えてやる。
〝甘い香りがしてきたら美味しいのサインだ〟と。俺は一人で待たせたりしない。待つのも食べるのも一緒だ。
〝なんだよ、美味しいのサインって。ボンボン家のルールなんて知らねぇよ。とっとと食っちまおうぜ〟読み取れない瞳とは真逆のよく回る口。想像しただけで口元が緩んだ。
熟れすぎた果実と苦い思い出が甘いモノを苦手にさせたかもしれない。けれど甘ったるい匂いのヤツからは離れられそうにない。いつの間にか甘いモノは克服していたようだ、美味しいのサインを出しているヤツに限って。
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