第三章【秋季大会・地区大会編】
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空が白み始める頃合い。静まり返った城下町病院の廊下に、足音が静かに響く。
悟が眠る病室の扉を音もなく開けると、そこにあの金髪の「カス」の姿はすでになかった。
ベッドの傍らに立ち、無防備な妹の寝顔を見つめる。
いつの日からか自分を真っ直ぐに見据えるようになったあの生意気な瞳は、今は閉ざされている。
規則的だった彼女の寝息が、不意に、小さく乱れた。
「……っ、うっ」
喉の奥で押し殺された悲鳴が、くぐもった声となって吐き出される。何か恐ろしい悪夢に捕らわれているのだろう。歪む眉間、小刻みに震える肩。そして、ひと粒の涙が、彼女の白い頬を静かに滑り落ちた。
その一粒の涙が、彼女が内に秘めていた苦痛を、何よりも雄弁に物語っているようで――阿含の胸の奥を、正体不明の不快感が突き刺した。
指先を伸ばし、その涙をそっと拭う。たまらず、その細い手を握りしめていた。
「…………」
肌から伝わる体温のせいか、悟の苦しげな呼吸が、徐々に落ち着きを取り戻していく。徐々に穏やかな寝息へと戻っていくその様を見つめながら、己の内側に苛立ちを覚えていた。
取るに足らない妹の涙ひとつに、なぜここまで揺さぶられなければならないのか、と。
さっさとこの場を離れればいいだけだというのに、繋いだ手を離す気になれないのは何故なのか。
思い返せば、あの倉庫のゴミ共を惨殺している時もそうだった。
彼女は自身の状況など一切顧みず、泥門のカス共やチームを優先し、あまつさえ、焦燥に苛まれた元凶であるこの俺を気遣うような素振りさえ見せた。
甘っちょろいと笑い飛ばして踏みにじってやりたいのに、己の焦りや罪悪感のすべてを見透かすようなあの眼に見つめられた瞬間、何も言い返す事ができなくなってしまったのだ。
『悟は、お前が思うより弱くない』――いつだったか、双子の片割れ が吐いた言葉が脳裏をよぎる。当時は何を言っているのかと鼻で笑った。だが、今はその意味が、嫌というほど理解できてしまう。
(この俺が……、この『出涸らし』ごときに気圧されたってぇのか。……認めねぇ、認めねぇぞ)
彼女は自身と同じ才賦を持ちながら、自身と並び立つことができなかった。ならばと弱者として扱い、護るという名目で手元に縛り付けてきた。もし悟が弱者でなければ、彼女の強さを認めてしまえば、自分と彼女の歪な関係性は根底から崩れ去ってしまう。
(なら、もう一度完膚なきまでに叩きのめしてやるまで……。その機会はやってくる)
神龍寺が泥門をフィールドで蹂躙するその時、彼女のプライドごとへし折って、再び俺の支配下に引き戻してやる。そのためには、ここで泥門に脱落されては困る。西部戦だろうがなんだろうが、勝ち進んでもらわなければ、俺が直々に絶望をくれてやる機会が失われる。
今はそのために、あの「カス」と悟に手を貸してやるに過ぎない。
繋いだ悟の手がピクリと動き、薄っすらとその目が開かれた。
焦点の合わない目で天井を見つめていた悟は、隣にいる人影に気づくと、まだ寝ぼけた声で呟いた。
「……? ヒル魔さん、帰ってなかったんです……?」
「よぅ、お目覚めか? あのカスと見間違えてんじゃねぇ、殺されてぇのか」
冷たく突き放したその声に、悟の意識が急速に覚醒する。先ほどまでの寝ぼけ眼はどこへやら、驚きにその目を限界まで見開いた。
「阿、含……!? なんで……」
「……その汚ねーカッコのまま寝てたのかよ」
自宅から持ってきた着替えの詰まった紙袋を、乱雑に押し付けた。
それを受け取る悟の視線が、不自然に重なった二人の手に落ちる。チッと舌打ちをして、わざとらしく手を引いた。
「いつまで握ってんだ、離せ」
「……っえ!?」
結ばれていた手に今更気づいたのか、悟はひどく動揺するが、動きをピタリと止めた。彼女の視線が阿含の拳へと移る。
「阿含……手が、擦りむけてる」
有象無象の肉体を力任せに殴りつけ、へし折ったことで生じた、拳の小さな擦り傷。そんな些細な傷を、悟は本気で案じているようだった。
「……くだらねぇ、甘いんだよ。だからテメーは一方的にやられんだ」
鼻で笑いながら投げかけた「一方的」という言葉に、悟の動きが再びピタリと止まる。
彼女は少しだけ気まずそうに視線を泳がせると、小さな声で、とある告白を口にした。
「私がここまで殴られたのは……たぶん、あの人の顔面を思い切り蹴り飛ばしたから……」
「……あ゛?」
一瞬、耳を疑った。
「理不尽にあんな事されて、腹が立たないわけないでしょ。……あ、このことは両親と雲水兄さんには絶対に言わないでね」
悟の言葉から、阿含の脳裏に、自分が手を下す前から妙に鼻の骨が曲がっていた男の顔が薄っすらと浮かび上がった。
あの見知らぬ負傷は、妹が怒りに任せて男の顔面に叩き込んだ容赦のない一撃の痕跡だったわけだ。
「あ゛〜……アイツか。そんな奴がいたな。ククッ……」
喉の奥から、小気味良い笑みが溢れ出す。それは次第に大きな笑い声へと変わっていった。
これまで喧嘩など無縁な生き方をしてきた妹が、己に降りかかる理不尽に対して暴力で応えていたという、本質的な部分に自身と同じ「血」を感じる行動。自分と同じ血を持つ女が、ただ大人しく殴られているだけのタマであるはずがなかったのだ。
「クククッ、血は争えねぇ、か。いいぜ悟、気が向いたら、喧嘩の仕方の一つでも教えてやるよ」
「……遠慮しとく」
本気で嫌そうな顔をする悟の態度すら、今はひたすらに愉快だった。
着替えをするという妹に追い出されるように病室を後にし、朝焼けの静かな廊下を歩く。
ふと、自分の手に視線を落とす。
そこには、先ほどまでなかったはずの絆創膏が、いくつもあちこちに貼られていた。
「じっとしてて」と、あの細い手で無理やり拳を掴まれ貼られたものだ。
今はまだ、力でねじ伏せることも、言葉で黙らせることもできない。
神たる己の領域の共有者であり、自身の心を容赦なく侵食してくる、唯一の存在。いずれこの手で、根底から粉々に砕き、すべてを剥ぎ取って、何も持たない無力な人形として我が物にするその日まで。
受け入れてしまった手元の絆創膏を忌々しげに見つめながら、ひどく不快で、そしてひどく甘美な敗北感と共に、小さく鼻を鳴らして歩みを進めた。
悟が眠る病室の扉を音もなく開けると、そこにあの金髪の「カス」の姿はすでになかった。
ベッドの傍らに立ち、無防備な妹の寝顔を見つめる。
いつの日からか自分を真っ直ぐに見据えるようになったあの生意気な瞳は、今は閉ざされている。
規則的だった彼女の寝息が、不意に、小さく乱れた。
「……っ、うっ」
喉の奥で押し殺された悲鳴が、くぐもった声となって吐き出される。何か恐ろしい悪夢に捕らわれているのだろう。歪む眉間、小刻みに震える肩。そして、ひと粒の涙が、彼女の白い頬を静かに滑り落ちた。
その一粒の涙が、彼女が内に秘めていた苦痛を、何よりも雄弁に物語っているようで――阿含の胸の奥を、正体不明の不快感が突き刺した。
指先を伸ばし、その涙をそっと拭う。たまらず、その細い手を握りしめていた。
「…………」
肌から伝わる体温のせいか、悟の苦しげな呼吸が、徐々に落ち着きを取り戻していく。徐々に穏やかな寝息へと戻っていくその様を見つめながら、己の内側に苛立ちを覚えていた。
取るに足らない妹の涙ひとつに、なぜここまで揺さぶられなければならないのか、と。
さっさとこの場を離れればいいだけだというのに、繋いだ手を離す気になれないのは何故なのか。
思い返せば、あの倉庫のゴミ共を惨殺している時もそうだった。
彼女は自身の状況など一切顧みず、泥門のカス共やチームを優先し、あまつさえ、焦燥に苛まれた元凶であるこの俺を気遣うような素振りさえ見せた。
甘っちょろいと笑い飛ばして踏みにじってやりたいのに、己の焦りや罪悪感のすべてを見透かすようなあの眼に見つめられた瞬間、何も言い返す事ができなくなってしまったのだ。
『悟は、お前が思うより弱くない』――いつだったか、
(この俺が……、この『出涸らし』ごときに気圧されたってぇのか。……認めねぇ、認めねぇぞ)
彼女は自身と同じ才賦を持ちながら、自身と並び立つことができなかった。ならばと弱者として扱い、護るという名目で手元に縛り付けてきた。もし悟が弱者でなければ、彼女の強さを認めてしまえば、自分と彼女の歪な関係性は根底から崩れ去ってしまう。
(なら、もう一度完膚なきまでに叩きのめしてやるまで……。その機会はやってくる)
神龍寺が泥門をフィールドで蹂躙するその時、彼女のプライドごとへし折って、再び俺の支配下に引き戻してやる。そのためには、ここで泥門に脱落されては困る。西部戦だろうがなんだろうが、勝ち進んでもらわなければ、俺が直々に絶望をくれてやる機会が失われる。
今はそのために、あの「カス」と悟に手を貸してやるに過ぎない。
繋いだ悟の手がピクリと動き、薄っすらとその目が開かれた。
焦点の合わない目で天井を見つめていた悟は、隣にいる人影に気づくと、まだ寝ぼけた声で呟いた。
「……? ヒル魔さん、帰ってなかったんです……?」
「よぅ、お目覚めか? あのカスと見間違えてんじゃねぇ、殺されてぇのか」
冷たく突き放したその声に、悟の意識が急速に覚醒する。先ほどまでの寝ぼけ眼はどこへやら、驚きにその目を限界まで見開いた。
「阿、含……!? なんで……」
「……その汚ねーカッコのまま寝てたのかよ」
自宅から持ってきた着替えの詰まった紙袋を、乱雑に押し付けた。
それを受け取る悟の視線が、不自然に重なった二人の手に落ちる。チッと舌打ちをして、わざとらしく手を引いた。
「いつまで握ってんだ、離せ」
「……っえ!?」
結ばれていた手に今更気づいたのか、悟はひどく動揺するが、動きをピタリと止めた。彼女の視線が阿含の拳へと移る。
「阿含……手が、擦りむけてる」
有象無象の肉体を力任せに殴りつけ、へし折ったことで生じた、拳の小さな擦り傷。そんな些細な傷を、悟は本気で案じているようだった。
「……くだらねぇ、甘いんだよ。だからテメーは一方的にやられんだ」
鼻で笑いながら投げかけた「一方的」という言葉に、悟の動きが再びピタリと止まる。
彼女は少しだけ気まずそうに視線を泳がせると、小さな声で、とある告白を口にした。
「私がここまで殴られたのは……たぶん、あの人の顔面を思い切り蹴り飛ばしたから……」
「……あ゛?」
一瞬、耳を疑った。
「理不尽にあんな事されて、腹が立たないわけないでしょ。……あ、このことは両親と雲水兄さんには絶対に言わないでね」
悟の言葉から、阿含の脳裏に、自分が手を下す前から妙に鼻の骨が曲がっていた男の顔が薄っすらと浮かび上がった。
あの見知らぬ負傷は、妹が怒りに任せて男の顔面に叩き込んだ容赦のない一撃の痕跡だったわけだ。
「あ゛〜……アイツか。そんな奴がいたな。ククッ……」
喉の奥から、小気味良い笑みが溢れ出す。それは次第に大きな笑い声へと変わっていった。
これまで喧嘩など無縁な生き方をしてきた妹が、己に降りかかる理不尽に対して暴力で応えていたという、本質的な部分に自身と同じ「血」を感じる行動。自分と同じ血を持つ女が、ただ大人しく殴られているだけのタマであるはずがなかったのだ。
「クククッ、血は争えねぇ、か。いいぜ悟、気が向いたら、喧嘩の仕方の一つでも教えてやるよ」
「……遠慮しとく」
本気で嫌そうな顔をする悟の態度すら、今はひたすらに愉快だった。
着替えをするという妹に追い出されるように病室を後にし、朝焼けの静かな廊下を歩く。
ふと、自分の手に視線を落とす。
そこには、先ほどまでなかったはずの絆創膏が、いくつもあちこちに貼られていた。
「じっとしてて」と、あの細い手で無理やり拳を掴まれ貼られたものだ。
今はまだ、力でねじ伏せることも、言葉で黙らせることもできない。
神たる己の領域の共有者であり、自身の心を容赦なく侵食してくる、唯一の存在。いずれこの手で、根底から粉々に砕き、すべてを剥ぎ取って、何も持たない無力な人形として我が物にするその日まで。
受け入れてしまった手元の絆創膏を忌々しげに見つめながら、ひどく不快で、そしてひどく甘美な敗北感と共に、小さく鼻を鳴らして歩みを進めた。