第三章【秋季大会・地区大会編】
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数分の間、暗い水底に沈むように意識を失っていた悟が重い瞼を開いた時、すべては終わっていた。
冷たいコンクリートの感触はない。背中と冷え切った身体を包んでいたのは、ヒル魔のものであろう、男物の上着だった。後ろ手に縛られていた結束バンドも、いつの間にか外されている。
体を起こしかけ、悟は思わず息を呑んだ。
視界に広がっていたのは、死屍累々の惨状だった。先ほどまで自分を取り囲み、嘲笑っていた男たちが、誰一人としてピクリとも動かずに地に伏せ、不気味な沈黙を保っている。
その中心で、浴びた返り血を忌々しげに拭う阿含が佇んでいた。
「チッ、ゴミの血まみれじゃねぇかよ汚ねぇな」
一方ヒル魔はというと、一切の感情の窺えない冷え切った表現で、淡々ととある作業に没頭していた。倒れた男たちの衣服や財布を片端から漁り、学生証や運転免許証、携帯電話といったものを次々と回収しているのだ。
「糞ドレッド、この糞ゴミ共社会的にも殺してやるから身分証集めに手ぇ貸しやがれ。なんせ数が多い。」
悟が上着を握りしめながら身を起こすと、それに気が付いたヒル魔が作業を止め、早足で近づいてきた。
「……痛むか」
座り込んだままの悟の前にしゃがみ込むと、その身を案じるように、その長い指先がそっと悟の切れた口元へ触れる。
その光景に、阿含の眼光が鋭く細められた。
「オイ、何触ってんだカス……!」
背後から突き刺さるような殺気を向けられようと、ヒル魔は知ったことではないかのように、悟の瞳から決して目を逸らそうとしなかった。
「ヒル魔さん……駆けつけてくれたんですよね。ごめんなさい、私が迂闊でした。大切な、試合前なのに。私……」
悟は目を伏せ、右手で自身の左手首を抑えた。そして、ひどく悲痛な表情を浮かべる。
「……手をついたときに、痛めたみたいです。どうしよう、泥門の皆になんて謝れば……」
目覚めて初めの言葉が自身への同情ではなく「謝罪」であったことに、ヒル魔と阿含は同時に不快そうに顔をしかめた。
「お前に隙があったのは事実だが、この状況に落ち度は1ミリもねぇ。全てこのゴミ共と……糞ドレッド、テメーの身の振りが原因だ。恨み買うなら金輪際関わろうとも思えねぇくらい、徹底的に潰しやがれ」
「……ああ、言われねぇでも今後はそうする」
ヒル魔の吐き捨てるような言葉に返した阿含の顔には、いつもの傲慢さはなかった。
そこにあったのは、激しい動揺、後悔、焦燥。かつて己の暴力によって、悟の左腕に消えない傷を負わせた「あの事件」の時と、よく似た表情だった。
極限まで抑え込まれた本物の怒気が、彼の纏う空気を歪ませるほどに濃密に渦巻いていた。
地を這うような、ひどく切迫した、冷酷な声が紡がれる。
「オイ、悟。生きてんなら教えろ。まだ終わってねぇ。直接テメーに手ェ出した奴だ……! 特に顔と左手首、やったのはどのゴミか教えろ、息の根止めてやる……!!」
答えれば、今の阿含なら本当に自らの手で相手の命を奪いかねない。その底知れない迫力に、悟は小さく首を横に振った。
「……言いたくない」
「あ゛〜? 何甘っちょろい事言ってんだ。テメーがこのゴミ共に何されたかわかってんのか」
苛立つ阿含に、悟は倒れる男たちを一瞥して言葉を紡ぐ。
「半殺しどころか…8割はいってるよ。これ以上殴ったら本当に死んじゃうよ……」
「…………」
「……家族に、そんな事させられない。私のために、阿含にこれ以上業を背負ってほしくない。この人たちも……ここまで徹底的にやられたら、もう復讐なんて馬鹿な事も考えない…と思う…」
この騒動の大元の原因であり、かねてから自身を理不尽に支配し傷つけてきた男に対し、なおも「家族」と言い放ち、庇おうとする悟に、阿含は言葉を失った。
多少の落ち着きを取り戻したのか、行き場をなくした怒りを押し込めたまま、阿含は一旦その拳を下ろしたようだった。
「……掴まれ、抱き上げる」
ヒル魔が悟の背中と膝下に腕を差し入れようとする。しかし悟は、ゆっくりと首を振った。
「大丈夫ですよ。自分で立てます」
冷静を装いながらも、今のヒル魔がどれほどの焦燥感と苛立ちを抱えているか、悟には痛いほど伝わっていた。
これ以上、目の前の彼に心配をかけたくない。自分はまだ歩けるのだと示すことで、彼の中にある重荷を少しでも取り除きたかったのだ。
「……そうか」
彼女の配慮を感じ取ったのか、ヒル魔は無理強いすることなく、悟の手を引いて支え、ゆっくりと立ち上がらせた。
全身の打ち身による痛みに顔をしかめるも、悟は心配させまいと、うめき声すら必死に押し殺した。
「……先のことは後でいい。とりあえず手当てだ」
ヒル魔はそう告げると、未だ黙り込む阿含に向かって、身分証を漁るついでに取り上げていた車の鍵を容赦なく投げつけた。
「糞ドレッド! 罪悪感で感傷に浸んのは後にしろ。奴らの車拝借すんぞ。テメーなら運転くらいできんだろ」
「誰が罪悪感なんざ……!! ………チッ」
鍵を片手で受け止めた阿含が、忌々しげに舌打ちを返す。
男たちの微かな呻き声だけが響く深夜の廃倉庫に、借り物の車の重いエンジン音が爆ぜた。
迫る西部戦まで、あと二日。
最悪の事態は免れたものの、悟の左手首には彼女のクリスマスボウルへの決意を嘲笑うかのように、看過できない痛みが刻み込まれていた――。
冷たいコンクリートの感触はない。背中と冷え切った身体を包んでいたのは、ヒル魔のものであろう、男物の上着だった。後ろ手に縛られていた結束バンドも、いつの間にか外されている。
体を起こしかけ、悟は思わず息を呑んだ。
視界に広がっていたのは、死屍累々の惨状だった。先ほどまで自分を取り囲み、嘲笑っていた男たちが、誰一人としてピクリとも動かずに地に伏せ、不気味な沈黙を保っている。
その中心で、浴びた返り血を忌々しげに拭う阿含が佇んでいた。
「チッ、ゴミの血まみれじゃねぇかよ汚ねぇな」
一方ヒル魔はというと、一切の感情の窺えない冷え切った表現で、淡々ととある作業に没頭していた。倒れた男たちの衣服や財布を片端から漁り、学生証や運転免許証、携帯電話といったものを次々と回収しているのだ。
「糞ドレッド、この糞ゴミ共社会的にも殺してやるから身分証集めに手ぇ貸しやがれ。なんせ数が多い。」
悟が上着を握りしめながら身を起こすと、それに気が付いたヒル魔が作業を止め、早足で近づいてきた。
「……痛むか」
座り込んだままの悟の前にしゃがみ込むと、その身を案じるように、その長い指先がそっと悟の切れた口元へ触れる。
その光景に、阿含の眼光が鋭く細められた。
「オイ、何触ってんだカス……!」
背後から突き刺さるような殺気を向けられようと、ヒル魔は知ったことではないかのように、悟の瞳から決して目を逸らそうとしなかった。
「ヒル魔さん……駆けつけてくれたんですよね。ごめんなさい、私が迂闊でした。大切な、試合前なのに。私……」
悟は目を伏せ、右手で自身の左手首を抑えた。そして、ひどく悲痛な表情を浮かべる。
「……手をついたときに、痛めたみたいです。どうしよう、泥門の皆になんて謝れば……」
目覚めて初めの言葉が自身への同情ではなく「謝罪」であったことに、ヒル魔と阿含は同時に不快そうに顔をしかめた。
「お前に隙があったのは事実だが、この状況に落ち度は1ミリもねぇ。全てこのゴミ共と……糞ドレッド、テメーの身の振りが原因だ。恨み買うなら金輪際関わろうとも思えねぇくらい、徹底的に潰しやがれ」
「……ああ、言われねぇでも今後はそうする」
ヒル魔の吐き捨てるような言葉に返した阿含の顔には、いつもの傲慢さはなかった。
そこにあったのは、激しい動揺、後悔、焦燥。かつて己の暴力によって、悟の左腕に消えない傷を負わせた「あの事件」の時と、よく似た表情だった。
極限まで抑え込まれた本物の怒気が、彼の纏う空気を歪ませるほどに濃密に渦巻いていた。
地を這うような、ひどく切迫した、冷酷な声が紡がれる。
「オイ、悟。生きてんなら教えろ。まだ終わってねぇ。直接テメーに手ェ出した奴だ……! 特に顔と左手首、やったのはどのゴミか教えろ、息の根止めてやる……!!」
答えれば、今の阿含なら本当に自らの手で相手の命を奪いかねない。その底知れない迫力に、悟は小さく首を横に振った。
「……言いたくない」
「あ゛〜? 何甘っちょろい事言ってんだ。テメーがこのゴミ共に何されたかわかってんのか」
苛立つ阿含に、悟は倒れる男たちを一瞥して言葉を紡ぐ。
「半殺しどころか…8割はいってるよ。これ以上殴ったら本当に死んじゃうよ……」
「…………」
「……家族に、そんな事させられない。私のために、阿含にこれ以上業を背負ってほしくない。この人たちも……ここまで徹底的にやられたら、もう復讐なんて馬鹿な事も考えない…と思う…」
この騒動の大元の原因であり、かねてから自身を理不尽に支配し傷つけてきた男に対し、なおも「家族」と言い放ち、庇おうとする悟に、阿含は言葉を失った。
多少の落ち着きを取り戻したのか、行き場をなくした怒りを押し込めたまま、阿含は一旦その拳を下ろしたようだった。
「……掴まれ、抱き上げる」
ヒル魔が悟の背中と膝下に腕を差し入れようとする。しかし悟は、ゆっくりと首を振った。
「大丈夫ですよ。自分で立てます」
冷静を装いながらも、今のヒル魔がどれほどの焦燥感と苛立ちを抱えているか、悟には痛いほど伝わっていた。
これ以上、目の前の彼に心配をかけたくない。自分はまだ歩けるのだと示すことで、彼の中にある重荷を少しでも取り除きたかったのだ。
「……そうか」
彼女の配慮を感じ取ったのか、ヒル魔は無理強いすることなく、悟の手を引いて支え、ゆっくりと立ち上がらせた。
全身の打ち身による痛みに顔をしかめるも、悟は心配させまいと、うめき声すら必死に押し殺した。
「……先のことは後でいい。とりあえず手当てだ」
ヒル魔はそう告げると、未だ黙り込む阿含に向かって、身分証を漁るついでに取り上げていた車の鍵を容赦なく投げつけた。
「糞ドレッド! 罪悪感で感傷に浸んのは後にしろ。奴らの車拝借すんぞ。テメーなら運転くらいできんだろ」
「誰が罪悪感なんざ……!! ………チッ」
鍵を片手で受け止めた阿含が、忌々しげに舌打ちを返す。
男たちの微かな呻き声だけが響く深夜の廃倉庫に、借り物の車の重いエンジン音が爆ぜた。
迫る西部戦まで、あと二日。
最悪の事態は免れたものの、悟の左手首には彼女のクリスマスボウルへの決意を嘲笑うかのように、看過できない痛みが刻み込まれていた――。