第三章【秋季大会・地区大会編】
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神龍寺ナーガの合宿所。
静まり返った夜のトレーニングルームには、黙々と腕立て伏せをこなす衣擦れの音と、規則正しい呼吸音だけが響いていた。
「……98、99、100……ッ」
額から滴る汗を拭おうとしたその時、ふと、頭上に一つの影が落ちた。
顔を上げると、そこには気怠げに大きな欠伸をする双子の弟、阿含の姿があった。手には一枚の破り取られたメモ用紙が握られている。
阿含は何も言わず、その紙切れを目の前に無造作に投げ捨てた。
「数字……電話番号か? 一体誰の?」
「めんどくせぇ。本人に聞けよ。俺は寝る」
「宿舎に泊まってくのか? オイ、阿含……!」
呼び止める声も虚しく、阿含は背を向けて立ち去ってしまった。
タオルで汗を拭いながら、床に落ちた紙を拾い上げる。全く心当たりのない11桁の番号だが、あの阿含がわざわざ意味のないことをするとも思えない。
携帯を取り出し、訝しげにその番号へ発信した。
数回のコールの後、通話が繋がる。
『もしもし……この番号は、雲水兄さん?』
間違えようもない。耳に届いたのは、実の妹である悟の声だった。
(……なるほどな)
視界に、不自然に少しだけ開いているトレーニングルームの扉を捉えた。
十中八九、あの半開きの扉のすぐ傍で、こちらの会話に聞き耳を立てているのだろう。
あえて気付かないふりをして通話を続ける。
通話相手の正体を確認してホッと息をついたのも束の間、記憶にある彼女の番号と違うことがひどく気にかかった。
「悟だな? 何故番号が違う? 他人の携帯なのか? ……何かあったんじゃないだろうな」
心配のあまり矢継ぎ早に質問攻めにすると、電話の向こうから苦笑混じりの声が届く。今、彼女がどんな表情をしているかまで手に取るようにわかった。
『私に問題はないよ。その……携帯は問題大アリというか、壊しちゃって。……雲水兄さんには話しても良いかな』
彼女の口から語られたのは、巨深高校への偵察中にプールに落ちて水没させたこと、そしてヒル魔から最新型の携帯を与えられた、という呆れた顛末だった。
(……阿含の奴、この情報を俺に引き出させるために番号を寄こしたな)
幼い頃から、突拍子もない行動を取ったり、どこか抜けていて目が離せない子供だった。年は一つしか変わらないはずの妹だが、「自分が彼女を護らなければ」と常々思ってきた。おそらく阿含も内心共感するのではなかろうか。
「昔からお前は危なっかしい奴だったが……年々悪化してる気すらするぞ。それに、ヒル魔という男を信頼しすぎなんじゃないか」
『……うん、雲水兄さんと同じくらい信頼してる』
迷いのない悟の言葉に、思わずフッと笑みが溢れる。そしてほんの少しだけ、胸の奥に寂しさを覚えた。
蛭魔妖一。泥門デビルバッツの主将であり、悟のアメフト部の先輩、そして――彼女の意中の人物。
(……この話をするのは、阿含がいる前ではマズイな)
視界に半開きの扉を捉えつつ、心の中で静かにため息をついた。
生まれてからずっと共に生きてきた大切な妹が、知り合ってわずか半年の得体の知れない人間に奪われてしまったかのようで、ひどく複雑な気分だった。雲水は胸の内の寂しさを隠すように、あえて軽く笑い飛ばす。
「調子の良いことを言って誤魔化そうとしてるな?」
『真面目に言ってるよ! ……兄さんとヒル魔さんが、傍にいて一番安心する人だから…』
少し照れながら、ムキになって言い返す妹。その声に、幼少期の頬を膨らませて怒っていた愛らしい姿が重なる。
『それにしても私の番号、もしかして阿含からもらったの……? わざわざ伝えてくれるなんて…。……あ、目の届かないところで私が余計なことしないように、雲水兄さんに見張らせようとしてるのかな?』
存外、気持ちというのは同じ血を分けた兄妹であろうと伝わらないものらしい。
阿含のあのひどく歪んでるとはいえ深い愛情を、悟は憤りや憎しみに近しいものとして捉えているようだった。
「……あいつはあれで、お前を案じてるんだよ。やり方はともかくな」
阿含は悟を、双子である自分と同様に、いやそれ以上に「自身の一部」かのように思っているはずだ。
「神速のインパルス」という、自分には持ち得なかった絶対的な繋がり。阿含が悟を己の「出涸らし」と称して執着するのも、自身の分身とも言える存在への歪な独占欲を含んでいるのだろう。
(……神速のインパルス、か)
三人兄妹のうち、自身だけが得られなかった才能。
血を分けた弟と妹への妬み、嫉み。そんな仄暗い気持ちを、ずっと心の奥底に宿し続けてきた。才能に見合う身体という器を持ち得ず、阿含に打ちのめされた彼女に自身を重ね、同情することで兄としての優位性を保とうとしていた時期もあった。
しかし、それがいかに傲慢でおこがましい事だったか。
一度は完全に膝を折ったはずの彼女は、自らの足で再び立ち上がり、前を向き、阿含という絶対的な恐怖に真っ向から挑もうとしている。その姿が、凡夫である自分にはひどく眩しかった。
才能を持たざる者としての絶望感や疎外感に苛まれるたび、悟が向けてくれる絶対的な信頼や愛情に救われてきた。自分を兄として慕う愛しい妹に、そんな仄暗い感情を抱いていることに自嘲の笑みが浮かぶ。
『……雲水兄さん? 急に黙ってどうしたの? 大丈夫?』
「……ああ。阿含のお前に対する仕打ちを……止めてやれなかったと、思ってな。すまない」
不意に口をついて出た懺悔。電話越しに、少しの無音が訪れる。
『私と阿含の問題だから。雲水兄さんが責任を感じる必要なんてないよ。兄さんがいてくれたから、私は阿含の支配に耐えられた。傍にいてくれたことで十分。……もう、私は大丈夫』
妹の力強く、優しい声に、言葉を詰まらせた。
「……そうか」
何を伝えるべきか。言いたいことは山ほどあるはずなのに、上手く声にならない。
「身体に……気を付けるんだぞ。たまにはこうして、声を聞かせてくれ」
絞り出した精一杯の言葉に、電話越しの彼女が努めて明るく振る舞うのがわかった。
『うん。雲水兄さんも。……そうだ、この前の体育祭の写真、今度友達からもらうから、送るよ。自分で言うのもなんだけど、私結構活躍したんだ』
「体育祭か。事前に言ってくれれば見に行ったんだがな」
『もう、小さな子供じゃないんだから……。それに今は大会のための練習でそれどころじゃないでしょ』
「お前のためなら、時間くらい作ろう」
『……そう?じゃあ来年は見に来てね』
電話を切り、手元に残った番号の書かれた紙切れを見つめた。
そして、小さく息を吐き出して苦笑する。
(我ながらなかなかどうして……阿含に負けず、過干渉なものだ)
部屋の入り口へと歩み寄り、半開きになっていた扉を静かに開けた。
薄暗い廊下には、すでに誰の姿もなかった。だが、そこにはつい先ほどまで、間違いなく阿含が立っていたのだろう。
「……素直じゃない奴だ」
妹との通話履歴が残った画面を静かに閉じ、再び秋の大会に向けた孤独なトレーニングへと戻っていった。
静まり返った夜のトレーニングルームには、黙々と腕立て伏せをこなす衣擦れの音と、規則正しい呼吸音だけが響いていた。
「……98、99、100……ッ」
額から滴る汗を拭おうとしたその時、ふと、頭上に一つの影が落ちた。
顔を上げると、そこには気怠げに大きな欠伸をする双子の弟、阿含の姿があった。手には一枚の破り取られたメモ用紙が握られている。
阿含は何も言わず、その紙切れを目の前に無造作に投げ捨てた。
「数字……電話番号か? 一体誰の?」
「めんどくせぇ。本人に聞けよ。俺は寝る」
「宿舎に泊まってくのか? オイ、阿含……!」
呼び止める声も虚しく、阿含は背を向けて立ち去ってしまった。
タオルで汗を拭いながら、床に落ちた紙を拾い上げる。全く心当たりのない11桁の番号だが、あの阿含がわざわざ意味のないことをするとも思えない。
携帯を取り出し、訝しげにその番号へ発信した。
数回のコールの後、通話が繋がる。
『もしもし……この番号は、雲水兄さん?』
間違えようもない。耳に届いたのは、実の妹である悟の声だった。
(……なるほどな)
視界に、不自然に少しだけ開いているトレーニングルームの扉を捉えた。
十中八九、あの半開きの扉のすぐ傍で、こちらの会話に聞き耳を立てているのだろう。
あえて気付かないふりをして通話を続ける。
通話相手の正体を確認してホッと息をついたのも束の間、記憶にある彼女の番号と違うことがひどく気にかかった。
「悟だな? 何故番号が違う? 他人の携帯なのか? ……何かあったんじゃないだろうな」
心配のあまり矢継ぎ早に質問攻めにすると、電話の向こうから苦笑混じりの声が届く。今、彼女がどんな表情をしているかまで手に取るようにわかった。
『私に問題はないよ。その……携帯は問題大アリというか、壊しちゃって。……雲水兄さんには話しても良いかな』
彼女の口から語られたのは、巨深高校への偵察中にプールに落ちて水没させたこと、そしてヒル魔から最新型の携帯を与えられた、という呆れた顛末だった。
(……阿含の奴、この情報を俺に引き出させるために番号を寄こしたな)
幼い頃から、突拍子もない行動を取ったり、どこか抜けていて目が離せない子供だった。年は一つしか変わらないはずの妹だが、「自分が彼女を護らなければ」と常々思ってきた。おそらく阿含も内心共感するのではなかろうか。
「昔からお前は危なっかしい奴だったが……年々悪化してる気すらするぞ。それに、ヒル魔という男を信頼しすぎなんじゃないか」
『……うん、雲水兄さんと同じくらい信頼してる』
迷いのない悟の言葉に、思わずフッと笑みが溢れる。そしてほんの少しだけ、胸の奥に寂しさを覚えた。
蛭魔妖一。泥門デビルバッツの主将であり、悟のアメフト部の先輩、そして――彼女の意中の人物。
(……この話をするのは、阿含がいる前ではマズイな)
視界に半開きの扉を捉えつつ、心の中で静かにため息をついた。
生まれてからずっと共に生きてきた大切な妹が、知り合ってわずか半年の得体の知れない人間に奪われてしまったかのようで、ひどく複雑な気分だった。雲水は胸の内の寂しさを隠すように、あえて軽く笑い飛ばす。
「調子の良いことを言って誤魔化そうとしてるな?」
『真面目に言ってるよ! ……兄さんとヒル魔さんが、傍にいて一番安心する人だから…』
少し照れながら、ムキになって言い返す妹。その声に、幼少期の頬を膨らませて怒っていた愛らしい姿が重なる。
『それにしても私の番号、もしかして阿含からもらったの……? わざわざ伝えてくれるなんて…。……あ、目の届かないところで私が余計なことしないように、雲水兄さんに見張らせようとしてるのかな?』
存外、気持ちというのは同じ血を分けた兄妹であろうと伝わらないものらしい。
阿含のあのひどく歪んでるとはいえ深い愛情を、悟は憤りや憎しみに近しいものとして捉えているようだった。
「……あいつはあれで、お前を案じてるんだよ。やり方はともかくな」
阿含は悟を、双子である自分と同様に、いやそれ以上に「自身の一部」かのように思っているはずだ。
「神速のインパルス」という、自分には持ち得なかった絶対的な繋がり。阿含が悟を己の「出涸らし」と称して執着するのも、自身の分身とも言える存在への歪な独占欲を含んでいるのだろう。
(……神速のインパルス、か)
三人兄妹のうち、自身だけが得られなかった才能。
血を分けた弟と妹への妬み、嫉み。そんな仄暗い気持ちを、ずっと心の奥底に宿し続けてきた。才能に見合う身体という器を持ち得ず、阿含に打ちのめされた彼女に自身を重ね、同情することで兄としての優位性を保とうとしていた時期もあった。
しかし、それがいかに傲慢でおこがましい事だったか。
一度は完全に膝を折ったはずの彼女は、自らの足で再び立ち上がり、前を向き、阿含という絶対的な恐怖に真っ向から挑もうとしている。その姿が、凡夫である自分にはひどく眩しかった。
才能を持たざる者としての絶望感や疎外感に苛まれるたび、悟が向けてくれる絶対的な信頼や愛情に救われてきた。自分を兄として慕う愛しい妹に、そんな仄暗い感情を抱いていることに自嘲の笑みが浮かぶ。
『……雲水兄さん? 急に黙ってどうしたの? 大丈夫?』
「……ああ。阿含のお前に対する仕打ちを……止めてやれなかったと、思ってな。すまない」
不意に口をついて出た懺悔。電話越しに、少しの無音が訪れる。
『私と阿含の問題だから。雲水兄さんが責任を感じる必要なんてないよ。兄さんがいてくれたから、私は阿含の支配に耐えられた。傍にいてくれたことで十分。……もう、私は大丈夫』
妹の力強く、優しい声に、言葉を詰まらせた。
「……そうか」
何を伝えるべきか。言いたいことは山ほどあるはずなのに、上手く声にならない。
「身体に……気を付けるんだぞ。たまにはこうして、声を聞かせてくれ」
絞り出した精一杯の言葉に、電話越しの彼女が努めて明るく振る舞うのがわかった。
『うん。雲水兄さんも。……そうだ、この前の体育祭の写真、今度友達からもらうから、送るよ。自分で言うのもなんだけど、私結構活躍したんだ』
「体育祭か。事前に言ってくれれば見に行ったんだがな」
『もう、小さな子供じゃないんだから……。それに今は大会のための練習でそれどころじゃないでしょ』
「お前のためなら、時間くらい作ろう」
『……そう?じゃあ来年は見に来てね』
電話を切り、手元に残った番号の書かれた紙切れを見つめた。
そして、小さく息を吐き出して苦笑する。
(我ながらなかなかどうして……阿含に負けず、過干渉なものだ)
部屋の入り口へと歩み寄り、半開きになっていた扉を静かに開けた。
薄暗い廊下には、すでに誰の姿もなかった。だが、そこにはつい先ほどまで、間違いなく阿含が立っていたのだろう。
「……素直じゃない奴だ」
妹との通話履歴が残った画面を静かに閉じ、再び秋の大会に向けた孤独なトレーニングへと戻っていった。