第二章【アメリカ合宿編】
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デス・マーチの開幕から数日。泥門デビルバッツの一行は、サンアントニオの街へと辿り着いた。街の灯りと、何よりコンクリートの壁に囲まれたホテルという存在が、極限状態の彼らにとっては何よりの贅沢に感じられた。
女子部屋に割り当てられた一室で、悟は深いバスタブに身を沈めていた。
立ち上る湯気と共に、全身にこびりついていた砂と、張り詰めていた緊張が溶け出していく。
(……やっと、一息つける)
目を閉じれば、荒野の猛烈な熱風、額の汗が流れ落ちる様、無音の中で自身の感覚を研ぎ澄ませ過ごす、怒涛の毎日が蘇る。
デス・マーチという地獄の中で、自分も、そして周りの仲間たちも、恐ろしい速度で変貌を遂げている。
(置いていかれないようにしなきゃ……。私の『神速のインパルス』と『悪魔の予言』が、みんなの力になるように)
ふやけた指先を眺める悟は、自分を鼓舞するように小さく息を吐いた。
シャワーを浴び、新しいTシャツに袖を通した悟は、髪をタオルで拭きながら、あることに気づいた。
ヒル魔から受け取るはずだった、他校の分析データの存在を忘れていた。
日はとうに落ちている。まもりはランドリー室へセナたちと洗濯に行っており、部屋には自分一人。
「廊下を数メートル歩くだけなら」、と悟は軽く考え、まだ湿った髪のまま部屋を出た。
だが、目的地であるヒル魔の部屋の前で、背後から氷のような声が突き刺さる。
「テメー……何してやがる」
振り返ると、自室に戻る途中だったのか、ヒル魔が眉間に深い皺を寄せて立っていた。風呂上がりの無防備な悟の姿を一瞥した瞬間、彼の瞳に不快感が混じる。
「あ、ヒル魔さん! データの受け取りを忘れていて……」
「日本じゃねぇんだぞ。夜中に女一人風呂上がりにほっつき歩くなんざ、浅はかにもほどがあんだろーが」
「…そうですね。 すぐそこだと安直に考えてしまいました……」
ヒル魔は問答無用で悟の手首を掴むと、自分の部屋のドアを蹴るようにして開け、彼女を中へと放り込んだ。
彼は舌打ちを一つ残すと、椅子にかけパソコンに向かい、無言でデータの転送作業を始める。
悟は部屋の隅で縮こまっていたが、冷房の風が濡れた髪に当たり、小さく肩を震わせた。
その様子を感じ取ったのか、ヒル魔は作業を止めることなく、顎で室内の洗面台を指し示した。
「データまとめてる間に、その頭なんとかしろ」
「……いえ、戻ってからやります」
「ナニか言ったか?」
逆らうことの許されない圧力。悟は促されるまま洗面台の椅子に座り、備え付けのドライヤーを手に取った。
ゴーという無機質な音が狭い室内を支配する。
……しばらくして。データの読み込みバーを眺めていたヒル魔が、不意に立ち上がった。
彼は音もなく悟の背後に立つと、彼女の手からドライヤーを奪い取った。
「え……?」
驚きで振り返ろうとする悟の肩を、彼は大きな左手で押さえつけ、前を向かせる。
ドライヤーの熱い風が、悟の髪をなびかせる。
ヒル魔の長く、節くれ立った指が、髪の隙間に滑り込む。クォーターバックとして何万回もボールを操ってきたその指先は、驚くほど繊細だった。
彼は一言も発しない。ただ、毛先を丁寧に解き、地肌に熱が届くように指を動かし続ける。
時折、彼の指の背が悟の耳元や首筋に微かに触れる。そのたびに、悟の心臓は跳ね、呼吸を忘れるほどの緊張が身体を駆け抜けた。
鏡の中に映るヒル魔の顔は、いつもの不遜な笑みを消し、冷徹なまでに集中していた。
慈しみなどではない。それはまるで、壊れやすい精密機械をメンテナンスするかのような、あるいは大切な装備を手入れするかのような、丹念で、優しい手つきだった。
悟の髪が完全に乾き、サラリとした指通りに変わるまで。
ドライヤーの音だけが響く空間に、今はまだ名前のつけられない情念が沈んでいた。
ドライヤーの音が消えると、ヒル魔が洗面台にUSBを置く。
「それ持って出ろ」
悟はUSBを手に取り、促されるまま部屋を出た。今しがたの出来事への理解が追いつかず、俯きがちに部屋を出た悟の後ろをヒル魔が面倒そうに歩く。
自室の前まで送られた悟が、震える手で鍵を差し込み、扉を開ける。
「あ、悟ちゃん! どこに行ってたの? 今探しに行こうと思っ……て……」
部屋の中から飛び出してきたまもりが、悟の背後に立つ人物を見て、息を呑んだ。
そこには、苛立ちを隠そうともしないヒル魔が立っていた。
ヒル魔は悟を強引に部屋の中へ押し込むと、まもりを射抜くような視線で見据えた。
「糞マネ、このバカが夜中にほっつき歩かねぇ様に見張っとけ」
「え……? ちょ、ちょっと、ヒル魔くん!?」
まもりの追求を待たず、ヒル魔は背を向けて去っていった。
バタン、と扉の閉まる音が響く。
「悟ちゃん……あなた、本当にどこに行ってたの? それに……」
まもりは、悟の顔を覗き込み、言葉を失った。
彼女の頬は朱をさしたように赤らんでいた。
悟は返事もできず、ただ熱を持った自分の髪を指先でなぞることしかできなかった。
女子部屋に割り当てられた一室で、悟は深いバスタブに身を沈めていた。
立ち上る湯気と共に、全身にこびりついていた砂と、張り詰めていた緊張が溶け出していく。
(……やっと、一息つける)
目を閉じれば、荒野の猛烈な熱風、額の汗が流れ落ちる様、無音の中で自身の感覚を研ぎ澄ませ過ごす、怒涛の毎日が蘇る。
デス・マーチという地獄の中で、自分も、そして周りの仲間たちも、恐ろしい速度で変貌を遂げている。
(置いていかれないようにしなきゃ……。私の『神速のインパルス』と『悪魔の予言』が、みんなの力になるように)
ふやけた指先を眺める悟は、自分を鼓舞するように小さく息を吐いた。
シャワーを浴び、新しいTシャツに袖を通した悟は、髪をタオルで拭きながら、あることに気づいた。
ヒル魔から受け取るはずだった、他校の分析データの存在を忘れていた。
日はとうに落ちている。まもりはランドリー室へセナたちと洗濯に行っており、部屋には自分一人。
「廊下を数メートル歩くだけなら」、と悟は軽く考え、まだ湿った髪のまま部屋を出た。
だが、目的地であるヒル魔の部屋の前で、背後から氷のような声が突き刺さる。
「テメー……何してやがる」
振り返ると、自室に戻る途中だったのか、ヒル魔が眉間に深い皺を寄せて立っていた。風呂上がりの無防備な悟の姿を一瞥した瞬間、彼の瞳に不快感が混じる。
「あ、ヒル魔さん! データの受け取りを忘れていて……」
「日本じゃねぇんだぞ。夜中に女一人風呂上がりにほっつき歩くなんざ、浅はかにもほどがあんだろーが」
「…そうですね。 すぐそこだと安直に考えてしまいました……」
ヒル魔は問答無用で悟の手首を掴むと、自分の部屋のドアを蹴るようにして開け、彼女を中へと放り込んだ。
彼は舌打ちを一つ残すと、椅子にかけパソコンに向かい、無言でデータの転送作業を始める。
悟は部屋の隅で縮こまっていたが、冷房の風が濡れた髪に当たり、小さく肩を震わせた。
その様子を感じ取ったのか、ヒル魔は作業を止めることなく、顎で室内の洗面台を指し示した。
「データまとめてる間に、その頭なんとかしろ」
「……いえ、戻ってからやります」
「ナニか言ったか?」
逆らうことの許されない圧力。悟は促されるまま洗面台の椅子に座り、備え付けのドライヤーを手に取った。
ゴーという無機質な音が狭い室内を支配する。
……しばらくして。データの読み込みバーを眺めていたヒル魔が、不意に立ち上がった。
彼は音もなく悟の背後に立つと、彼女の手からドライヤーを奪い取った。
「え……?」
驚きで振り返ろうとする悟の肩を、彼は大きな左手で押さえつけ、前を向かせる。
ドライヤーの熱い風が、悟の髪をなびかせる。
ヒル魔の長く、節くれ立った指が、髪の隙間に滑り込む。クォーターバックとして何万回もボールを操ってきたその指先は、驚くほど繊細だった。
彼は一言も発しない。ただ、毛先を丁寧に解き、地肌に熱が届くように指を動かし続ける。
時折、彼の指の背が悟の耳元や首筋に微かに触れる。そのたびに、悟の心臓は跳ね、呼吸を忘れるほどの緊張が身体を駆け抜けた。
鏡の中に映るヒル魔の顔は、いつもの不遜な笑みを消し、冷徹なまでに集中していた。
慈しみなどではない。それはまるで、壊れやすい精密機械をメンテナンスするかのような、あるいは大切な装備を手入れするかのような、丹念で、優しい手つきだった。
悟の髪が完全に乾き、サラリとした指通りに変わるまで。
ドライヤーの音だけが響く空間に、今はまだ名前のつけられない情念が沈んでいた。
ドライヤーの音が消えると、ヒル魔が洗面台にUSBを置く。
「それ持って出ろ」
悟はUSBを手に取り、促されるまま部屋を出た。今しがたの出来事への理解が追いつかず、俯きがちに部屋を出た悟の後ろをヒル魔が面倒そうに歩く。
自室の前まで送られた悟が、震える手で鍵を差し込み、扉を開ける。
「あ、悟ちゃん! どこに行ってたの? 今探しに行こうと思っ……て……」
部屋の中から飛び出してきたまもりが、悟の背後に立つ人物を見て、息を呑んだ。
そこには、苛立ちを隠そうともしないヒル魔が立っていた。
ヒル魔は悟を強引に部屋の中へ押し込むと、まもりを射抜くような視線で見据えた。
「糞マネ、このバカが夜中にほっつき歩かねぇ様に見張っとけ」
「え……? ちょ、ちょっと、ヒル魔くん!?」
まもりの追求を待たず、ヒル魔は背を向けて去っていった。
バタン、と扉の閉まる音が響く。
「悟ちゃん……あなた、本当にどこに行ってたの? それに……」
まもりは、悟の顔を覗き込み、言葉を失った。
彼女の頬は朱をさしたように赤らんでいた。
悟は返事もできず、ただ熱を持った自分の髪を指先でなぞることしかできなかった。