第三章【秋季大会・地区大会編】
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片付けを終えたあと、帰路につく悟の横にはヒル魔の姿があった。
空にはまだ太陽が残り、夕暮れと呼ぶにはまだ早い時間。
並んで歩く中、ふとヒル魔が悟の頭へゆっくりとした動作で手を伸ばした。
部室でムサシの大きな手にワシワシと撫でられたせいで、悟の黒髪が少しだけ乱れていたのだ。
ヒル魔の長くて細い指が、その乱れを整えるようにサラリと髪を通っていく。少しぞんざいでありながらも、確かな優しさを含んだ手つき。突然のことに抵抗する様子もなく、悟は目を細めてその心地よい感触を自然に受け入れた。
二人の間には、言葉以上の親密で穏やかな空気が流れていた。
「……ムサシさんが戻ってきてくれて、本当に良かったですね」
悟が微笑みかけると、ヒル魔は膨らませた無糖ガムをパチンと鳴らし、ケケ、と笑った。
「これまで待たされた分も、死ぬほどこき使ってやる」
相変わらずの憎まれ口だったが、その声音には喜びが隠しきれていない。悟は横を歩くヒル魔の顔を愛おしそうに見つめた。
やがて、駅前に到着する。
いつもならここでそれぞれの帰路へ分かれるタイミングだ。
「それじゃあ、また明日」
悟が小さく手を振り、駅構内へ向かおうと背中を向けた、その瞬間だった。
グイッ、と。
強い力で、右腕を掴まれた。
「え……?」
驚いて振り返ると、ヒル魔自身も自分の衝動的な行動に驚いたのか、微かに目を見開いたまま動きを止め、何も言い出せずに固まっていた。
少しの沈黙。
繋ぎ止められた右腕から伝わる彼の熱に、悟の心臓がトクン、と大きく跳ねる。
「……もしかして、もう少し一緒にいたいって、思ってくれてます?」
ヒル魔は、掴んだ手を離さなかった。
普段の飄々とした態度はそこにはなく、その視線を逸らさずに悟を真っ直ぐに射抜く。
「……だとしたら、どうする」
静かで、微かな熱を帯びた声だった。
その真剣な眼差しに射竦められながら、悟は震えそうになる声を必死に抑えながら答えた。
「……そんなの、私もですよ」
その言葉を聞いたヒル魔は、短く息を吐いた。
そして、掴んでいた右腕からスッと手を滑らせて、悟の手をしっかりと握った。
ヒル魔は何も答えなかった。ただ無言のまま、駅とは違う方向――彼自身の家への道のりへと、悟の手を引いて歩き出した。
しばらくして到着したのは悟にとって2度目のヒル魔の自宅。
玄関の扉がガチャリと音を立てて閉まった。
外の世界から遮断された静寂の中、不意に、ヒル魔が悟の体を抱き寄せる。
いつもなら強引で息が詰まるほどだが、今日の彼はひどく力がない。まるで壊れ物を扱うかのように慎重なその腕からは、悟の全身の打ち身や、痛めた左腕を気遣っているのが伝わってきた。
腕の中で、悟が様子を伺おうと顔を上げる。
「……ヒル魔さん?」
しかし、視線が交わるよりも早く、ヒル魔の大きな手が悟の後頭部に添えられ、そのまま自身の胸に深く押し付けるようにして顔を隠されてしまった。
少しの間のあと、ヒル魔は無言で体を離し、靴を脱いで部屋の奥へと入っていく。
部屋の中央で足を止めたヒル魔は、悟に背を向けたまま、ぽつりと口を開いた。
「……手首、痛ェだろ。だいぶ無茶させたからな」
いつもより低く、微かな掠れを帯びた声。
その背中を見つめながら、悟はハッとして息を呑んだ。
(ヒル魔さん……顔を見られないようにしてる?)
フィールド上ではいつでも「勝利のための最善手」を選ばなければならない。チームの司令塔としての役割を冷徹に全うした彼。しかし今この場にいるのは、恋人に痛みを強いてしまった自責に揺れる一人の男だった。
後悔はない。だが勝利を優先し、彼女を二の次にしたという「私的な罪悪感」とやるせなさが、彼の内側を静かに、しかし確かに焦がしている。周りに悟られまいと気を張っていたはずが、試合の敗北と、こうして悟と二人きりになったことで限界を迎え、抑えきれなくなってしまったのだ。
その動揺を必死に隠そうと、表情を窺えぬよう顔を背けている。
それに気づいた悟は、無理に顔を覗き込むような真似はしなかった。静かにヒル魔に歩み寄ると、後ろからそっと、彼の腰に腕を回して背中に頬を預けた。
「私は大丈夫です」
「……そうかよ」
「……やっぱりヒル魔さんは、優しいですよ」
背後から回された腕の温もりと、彼にとって最も縁遠い「優しい」という評価。
それを聞いた瞬間、ヒル魔の身体が一瞬強張った。
数秒の沈黙の後、耐えきれなくなったようにヒル魔が声を荒らげる。
「……優しいだァ? テメーの頭ン中どうなってやがんだ」
心底理解できないと言いたげなその様子に、悟は微かに吹き出しそうになるのを堪えながら、彼に回した腕の力を少しだけ強めた。
悪態をつきながらも、彼が悟を振り払うことはない。
それどころか、自分の腹部に回されている彼女の手の上に、自身の手をそっと重ねる。
ギュッと、体温を確かめるように強く握り込まれたその手に、彼がどれほど彼女の存在に安堵し、救われているかが表れていた。
口ではなかなか本音を語らない、不器用で愛おしい悪魔。
悟は重なった手から伝わる彼の体温を感じながら、静かな部屋の中でただ寄り添っていた。
「……腹、減ったな」
誤魔化すようにヒル魔はそう言ってキッチンへ向かい、戸棚から取り出したのは二つのカップ麺。激闘を終えたばかりの二人にはひどくジャンクなメニューだが、その飾らない選択は妙にしっくりきた。
湯を沸かしたヒル魔は悟の分まで蓋を開けてから無言でドンとテーブルに置いた。
並んで麺をすする間、時折ヒル魔の箸がピタリと止まる。
その脳内では今日の試合の敗因や、次への戦略が凄まじい速度で演算されているのだろう。張り詰めた横顔を見て、悟は彼が今日の敗北をどれほど重く受け止めているかを感じ取っていた。
食後、ヒル魔はすぐにデスクに向かい、ノートパソコンを開いた。西部戦の反省点と盤戸戦への準備に向けたデータ整理。カタカタと無機質なタイピング音が静かな部屋に響き始める。
悟はその広く頼もしい背中を見つめる。
(邪魔にならないように、そろそろ帰らなきゃ)
そう考えた悟だったが、満たされたお腹と激戦を終えた全身の疲労、何より信頼する彼の部屋という安心感が、彼女の意識を急速に微睡みへと引きずり込んでいく。
――次に意識が浮上したのは、それから約1時間後のことだった。
背中に感じる、大きくて温かい質量。
悟は自分がベッドに寝かされていることに気がついた。部屋にタイピング音は響いていない。いつの間にかパソコンを閉じたヒル魔が、背後から悟の体をすっぽりと抱き込むようにして横になっていたのだ。
腕の中で身じろぎした悟に気づいたのか、ヒル魔はさらにギュッと腕の力を強め、悟の肩に自身の顔を深く押し付けた。甘えているような、あるいは慰めを求めているような仕草。
「ヒル魔さん……大丈夫ですか……?」
悟が小さく問いかけると、回されていた腕の力が、微かに弱まった。
「……負けて何も思わねぇわけねーだろうが」
耳元に落ちたその拗ねたような声には、彼が必死に押し殺していた悔しさが滲んでいた。
「……そうですよね」
地獄の司令塔と呼ばしめる彼が自分にだけ見せてくれる、弱気な姿。悟は、ぐっと胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。
悟はゆっくりと半身を起こして身体をひねり、ヒル魔と向き合う。そして、そっと手を伸ばし、ツンツンとした金色の髪を優しく撫でた。勝利を追い求める余り、頑なに閉ざされていた彼の心が、手のひらの温もりを通して静かに解けていく。
「……ガキじゃねぇんだぞ」
口では文句を言いながらも、ヒル魔がその手を止めたり、逃げたりする素振りはない。少しバツが悪そうに目を伏せながら、心地よさそうに悟の手へとすり寄るように額を押し付ける。
ぎこちないヒル魔の様子に、悟は優しく微笑んだ。
(もっと甘えてもらえるように……頼ってもらえるような自分になりたい)
勝敗という非情な世界から切り離された、僅かばかりの穏やかな時間が、二人の間を優しく流れていった。
空にはまだ太陽が残り、夕暮れと呼ぶにはまだ早い時間。
並んで歩く中、ふとヒル魔が悟の頭へゆっくりとした動作で手を伸ばした。
部室でムサシの大きな手にワシワシと撫でられたせいで、悟の黒髪が少しだけ乱れていたのだ。
ヒル魔の長くて細い指が、その乱れを整えるようにサラリと髪を通っていく。少しぞんざいでありながらも、確かな優しさを含んだ手つき。突然のことに抵抗する様子もなく、悟は目を細めてその心地よい感触を自然に受け入れた。
二人の間には、言葉以上の親密で穏やかな空気が流れていた。
「……ムサシさんが戻ってきてくれて、本当に良かったですね」
悟が微笑みかけると、ヒル魔は膨らませた無糖ガムをパチンと鳴らし、ケケ、と笑った。
「これまで待たされた分も、死ぬほどこき使ってやる」
相変わらずの憎まれ口だったが、その声音には喜びが隠しきれていない。悟は横を歩くヒル魔の顔を愛おしそうに見つめた。
やがて、駅前に到着する。
いつもならここでそれぞれの帰路へ分かれるタイミングだ。
「それじゃあ、また明日」
悟が小さく手を振り、駅構内へ向かおうと背中を向けた、その瞬間だった。
グイッ、と。
強い力で、右腕を掴まれた。
「え……?」
驚いて振り返ると、ヒル魔自身も自分の衝動的な行動に驚いたのか、微かに目を見開いたまま動きを止め、何も言い出せずに固まっていた。
少しの沈黙。
繋ぎ止められた右腕から伝わる彼の熱に、悟の心臓がトクン、と大きく跳ねる。
「……もしかして、もう少し一緒にいたいって、思ってくれてます?」
ヒル魔は、掴んだ手を離さなかった。
普段の飄々とした態度はそこにはなく、その視線を逸らさずに悟を真っ直ぐに射抜く。
「……だとしたら、どうする」
静かで、微かな熱を帯びた声だった。
その真剣な眼差しに射竦められながら、悟は震えそうになる声を必死に抑えながら答えた。
「……そんなの、私もですよ」
その言葉を聞いたヒル魔は、短く息を吐いた。
そして、掴んでいた右腕からスッと手を滑らせて、悟の手をしっかりと握った。
ヒル魔は何も答えなかった。ただ無言のまま、駅とは違う方向――彼自身の家への道のりへと、悟の手を引いて歩き出した。
しばらくして到着したのは悟にとって2度目のヒル魔の自宅。
玄関の扉がガチャリと音を立てて閉まった。
外の世界から遮断された静寂の中、不意に、ヒル魔が悟の体を抱き寄せる。
いつもなら強引で息が詰まるほどだが、今日の彼はひどく力がない。まるで壊れ物を扱うかのように慎重なその腕からは、悟の全身の打ち身や、痛めた左腕を気遣っているのが伝わってきた。
腕の中で、悟が様子を伺おうと顔を上げる。
「……ヒル魔さん?」
しかし、視線が交わるよりも早く、ヒル魔の大きな手が悟の後頭部に添えられ、そのまま自身の胸に深く押し付けるようにして顔を隠されてしまった。
少しの間のあと、ヒル魔は無言で体を離し、靴を脱いで部屋の奥へと入っていく。
部屋の中央で足を止めたヒル魔は、悟に背を向けたまま、ぽつりと口を開いた。
「……手首、痛ェだろ。だいぶ無茶させたからな」
いつもより低く、微かな掠れを帯びた声。
その背中を見つめながら、悟はハッとして息を呑んだ。
(ヒル魔さん……顔を見られないようにしてる?)
フィールド上ではいつでも「勝利のための最善手」を選ばなければならない。チームの司令塔としての役割を冷徹に全うした彼。しかし今この場にいるのは、恋人に痛みを強いてしまった自責に揺れる一人の男だった。
後悔はない。だが勝利を優先し、彼女を二の次にしたという「私的な罪悪感」とやるせなさが、彼の内側を静かに、しかし確かに焦がしている。周りに悟られまいと気を張っていたはずが、試合の敗北と、こうして悟と二人きりになったことで限界を迎え、抑えきれなくなってしまったのだ。
その動揺を必死に隠そうと、表情を窺えぬよう顔を背けている。
それに気づいた悟は、無理に顔を覗き込むような真似はしなかった。静かにヒル魔に歩み寄ると、後ろからそっと、彼の腰に腕を回して背中に頬を預けた。
「私は大丈夫です」
「……そうかよ」
「……やっぱりヒル魔さんは、優しいですよ」
背後から回された腕の温もりと、彼にとって最も縁遠い「優しい」という評価。
それを聞いた瞬間、ヒル魔の身体が一瞬強張った。
数秒の沈黙の後、耐えきれなくなったようにヒル魔が声を荒らげる。
「……優しいだァ? テメーの頭ン中どうなってやがんだ」
心底理解できないと言いたげなその様子に、悟は微かに吹き出しそうになるのを堪えながら、彼に回した腕の力を少しだけ強めた。
悪態をつきながらも、彼が悟を振り払うことはない。
それどころか、自分の腹部に回されている彼女の手の上に、自身の手をそっと重ねる。
ギュッと、体温を確かめるように強く握り込まれたその手に、彼がどれほど彼女の存在に安堵し、救われているかが表れていた。
口ではなかなか本音を語らない、不器用で愛おしい悪魔。
悟は重なった手から伝わる彼の体温を感じながら、静かな部屋の中でただ寄り添っていた。
「……腹、減ったな」
誤魔化すようにヒル魔はそう言ってキッチンへ向かい、戸棚から取り出したのは二つのカップ麺。激闘を終えたばかりの二人にはひどくジャンクなメニューだが、その飾らない選択は妙にしっくりきた。
湯を沸かしたヒル魔は悟の分まで蓋を開けてから無言でドンとテーブルに置いた。
並んで麺をすする間、時折ヒル魔の箸がピタリと止まる。
その脳内では今日の試合の敗因や、次への戦略が凄まじい速度で演算されているのだろう。張り詰めた横顔を見て、悟は彼が今日の敗北をどれほど重く受け止めているかを感じ取っていた。
食後、ヒル魔はすぐにデスクに向かい、ノートパソコンを開いた。西部戦の反省点と盤戸戦への準備に向けたデータ整理。カタカタと無機質なタイピング音が静かな部屋に響き始める。
悟はその広く頼もしい背中を見つめる。
(邪魔にならないように、そろそろ帰らなきゃ)
そう考えた悟だったが、満たされたお腹と激戦を終えた全身の疲労、何より信頼する彼の部屋という安心感が、彼女の意識を急速に微睡みへと引きずり込んでいく。
――次に意識が浮上したのは、それから約1時間後のことだった。
背中に感じる、大きくて温かい質量。
悟は自分がベッドに寝かされていることに気がついた。部屋にタイピング音は響いていない。いつの間にかパソコンを閉じたヒル魔が、背後から悟の体をすっぽりと抱き込むようにして横になっていたのだ。
腕の中で身じろぎした悟に気づいたのか、ヒル魔はさらにギュッと腕の力を強め、悟の肩に自身の顔を深く押し付けた。甘えているような、あるいは慰めを求めているような仕草。
「ヒル魔さん……大丈夫ですか……?」
悟が小さく問いかけると、回されていた腕の力が、微かに弱まった。
「……負けて何も思わねぇわけねーだろうが」
耳元に落ちたその拗ねたような声には、彼が必死に押し殺していた悔しさが滲んでいた。
「……そうですよね」
地獄の司令塔と呼ばしめる彼が自分にだけ見せてくれる、弱気な姿。悟は、ぐっと胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。
悟はゆっくりと半身を起こして身体をひねり、ヒル魔と向き合う。そして、そっと手を伸ばし、ツンツンとした金色の髪を優しく撫でた。勝利を追い求める余り、頑なに閉ざされていた彼の心が、手のひらの温もりを通して静かに解けていく。
「……ガキじゃねぇんだぞ」
口では文句を言いながらも、ヒル魔がその手を止めたり、逃げたりする素振りはない。少しバツが悪そうに目を伏せながら、心地よさそうに悟の手へとすり寄るように額を押し付ける。
ぎこちないヒル魔の様子に、悟は優しく微笑んだ。
(もっと甘えてもらえるように……頼ってもらえるような自分になりたい)
勝敗という非情な世界から切り離された、僅かばかりの穏やかな時間が、二人の間を優しく流れていった。