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次の日から俺は、それとなくダチのバーテンダーからアイツのことを聞き出した。
20歳で顔パス、フリードリンクの客——そこまでは分かっていた。好きなカクテルはロングアイランド・アイスティー。
名前、いつも一緒に来る女友達の存在、強がりで威勢がいいこと、そして——男の影はないということ。
それからは必死だった。
酔い潰れないように注意を払い、二階に来た時は居心地の良い空間を作ってやる。徐々にアイツの警戒心が解けていく感触があった。
他の奴らに気づかれないよう渡した、俺の固定電話番号を書いたコースター。
言葉にできない感情を詰め込んだカセットテープ。
アイツは素直に受け取るくせに、核心に触れようとすると、するりと指の間からすり抜けていく。
男として惨めだった。家庭を持つ身の癖に20歳のガキに入れ揚げて、どうしたら男として見てもらえるか、次はどう仕掛けるかばかり考えている俺。
カズサ。
アイツの名前を知ってから、ふとした時に心の中でその音を反芻してみる。飴を口に含んだ時のような甘く痺れる感触。いつ、この唇から直接名前を呼べばいい?
焦りと同時に、強烈な手詰まりも感じていた。
━━━━━━
バタバタと忙しい夜。
手を動かし、手際よく注文をこなしていく。
止まることのないオーダーの中、人混みに紛れているはずのカズサが、いやでも目に飛び込んでくる。
疲れたのか、どこか無防備な隙を見せたアイツを見た瞬間、俺の中でプツリと何かが切れる音がした。
このまま手をこまねいていたら、すぐにアイツは誰かのものになる。
休憩のフリをしてカズサを俺のもとへ手招きする。
「なに?」と言いたげな、まるで警戒心のない顔に湧き上がる苛立ち。
目の前に来たカズサを、俺は逃げ出さないよう、けれど嫌われない程度の力加減で強く抱き込んだ。
柔らかい身体。胸いっぱいに広がる カズサの香り。
無理だ、もう我慢できない。
「……男、いるのか?」
「いるよ!」
その後の会話はうろ覚えだ。分かったのはカズサには男がいるということ。
抱き込んでも大した抵抗はしないくせに、俺を押し返そうとする腕の冷たさ。
一度触れてしまったら、もう離したくなくなった。
「もう少しだけ」と、情けない声でカズサに懇願する。
カズサは激しく暴れはしない。
けれど、俺を心からは受け入れてくれもしない。
許せない。諦められるか。
この無防備で男の下心に疎いカズサを、絶対に俺へ振り向かせてやる。
……だけど、俺は本質的に臆病だった。
あの夜の密着から醒めると、途端に恐怖が押し寄せてきた。
本気で拒絶されたら? そこらの客と同じようにあしらわれたら? 俺の底にあるドロドロとした欲望に気づかれたら?
カズサに会いたい。でも、会うのが怖い。
だから——俺は次の夜、何事もなかったかのように振る舞った。
探るような目をしてきたカズサは、拍子抜けしたようにいつもの表情に戻る。ホッとした。
まだ、俺のそばにいてくれる。
一人の何も知らない女の言動に一喜一憂する、浅ましい男。それが今の俺だ。
それでも足掻いてみせる。アイツが出した条件なんてどうでもいい。
カズサの空間に入れるなら、何だってしてやる。
侵食するようにカズサの心につけ込んでいく。
卑怯なのも、みっともないのも百も承知だ。
━━━━━━
何度もカズサを外へ誘い出した。
渋るカズサを真綿でくるむように、気づかれないよう少しずつ外堀を埋めていく。
警戒心を解かせ、けれど「男」を出しすぎて逃げられないように。
何度も繰り返されるカズサとの無言の攻防。
持てるカードを切り続け、ようやく二人きりになれる時間を取り付けた時は、まるで浮かれたガキだった。
「男」を殺して大人ぶるどころか朝まで夢中でカズサと話した。
カズサが話し、俺が受け止める。俺が話しカズサが笑う。
ただそれだけの時間が、どれほど俺を狂わせ、救ってくれたのか。
カズサは何も知らない。
「帰ろう」
その言葉が向けられた時、俺たちを隔てる壁を全てぶち壊したくなった。
誰もいない道、カズサの肩を叩く。
妙な角度で振り返るカズサのその顔に、俺は永遠を見た。
吸い寄せられるように身体が動く。
カズサの唇を、優しく奪った。
やっとだ。やっと、本当の意味で触れることができた。
世界中の幸せが、今、俺の手の中にある。
……なのに、現実は冷たい鎖となって俺の足枷を締め付ける。
夢はいつか醒めるものだと言わんばかりに。
カズサと車内にいるというのに、バスの窓越しに見えた妻に、今も夫として笑顔を見せる妻に、俺は手を振っていた。
カズサに気づかれた。下手くそな言い訳で必死に取り繕う。
カズサは何も言わなかった。
けれど確実に、俺の現実がアイツの中に侵入した。
やめてくれ。俺から カズサを奪わないでくれ。
━━━━━━
それ以来カズサが俺に向ける視線の温度が変わっていくのが分かった。
歓喜と絶望で胸が引き裂かれそうだ。
本当の俺を知ったら、カズサは絶対に俺を許さない。
傷つくのはカズサだ。
分かっているのに、終わりへ向かって加速していくこの甘やかな時間が、愛おしくてたまらなかった。
━━━━━━
「すみません! 大丈夫ですか!」
カズサが、どこの馬の骨とも知れない男に侮辱されている。ふざけんな。
俺のカズサに汚い言葉を吐くな。
俺のカズサを汚すんじゃねぇ。
俺の女に気安く触るな。
殺気立った俺を、カズサが「気にしてないから、大丈夫だから」と気丈に引き止める。
ハッと正気に戻った。
今、俺はカズサの前で何をしようとした?
カズサの前で醜い本性を曝け出しちまった。
嫌われる。嫌だ。愛しい。離れないでくれ。
……なのに、カズサは俺を怖がらなかった。それどころか、俺を気遣って愛おしそうに笑うんだ。
いっそこのまま攫ってしまいたい。
俺の家庭もカズサの置かれた現実も、全部ぶち壊してしまいたい。
こんなにも情けなくてガキみたいな俺に、あいつはまだ笑顔を見せてくれる。
言わなきゃならない。
他人の口から耳に入るより早く、自分の口から。
「俺には家庭がある」と。
だけど、この幸福な手触りを手放すのが怖くて、俺はまた固く口を閉ざした。
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