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その夜も、いつもと変わらない、なんてことのない夜のはずだった。
友人が大好きな男がいてで、毎回塩対応されれのに突撃してはひっついてる。もう嫌がらせなんじゃないかと思うほどの熱量で迫ってる彼女が、真っ青な顔をして、ゆったりとグラスを傾けていた私の元へ駆け込んできた。
「 カズサ、ちょっと!!」
「どうしたの?」
「彼が……!」
「何? 落ち着いて……」
「だって! 彼が『あの子、アイツと付き合ってるの? アイツ既婚者だろ』って……! あんた、大丈夫なの!?」
ズンズンと響くフロアの爆音の中で、言葉の半分は
うまく聞き取れなかった。
なのに——パチリ、パチリ。頭の中で何かが繋がり、高速で回転し始めた思考が、あっけなく残酷な答えを導き出す。
ああ。なるほど。だから……。
「聞いてんの!?」
コトン。テーブルの上に、とうに空になったグラスを置く。
頭の中で二人に分裂したもう一人の私が、甲高い悲鳴を上げ続けている。
( カズサ……っ)
私はいま、どんな顔をしているんだろう。
こんな土壇場で、どこか他人事のような、的はずれな思考ばかりが浮かぶ。
カツン、カツン、カツン。
行かなきゃ。
行かなきゃ。
あの場所に。彼に、会わなきゃ。
━━━━━━
彼が、目の前にいる。
いつもの無愛想な顔の奥で揺れる、あのブルーグレイの瞳。
私の顔を見た瞬間、途端に俯き、その美しいブルーグレイは二度と見えなくなる。
「……彼女が、奥さんだよね?」
彼は答えない。重苦しい静寂だけが二人を包み込む。
「女口説くなら、ちゃんと順序守りなよ……!」
どうしよう。言葉が、声が止まらない。頼むから何か言って。言い訳でも、嘘でもいいから。
黙り続ける彼に向かって、私は必死で言葉の刃を振り下ろし、彼を、そして自分自身を切り刻み続ける。
「家族に悪いと思わないの!? 奥さんへの愛情はどこ行ったのよ!?」
「……今日は、もう帰ってくれ」
掠れた、絞り出すような低い声。
全身の血が引いて氷のように冷えていくのに、声だけはいくらでも張り上げることができた。
「大っ嫌い!!」
フロアの重低音を切り裂いて、自分の絶叫が響き渡る。周囲の目なんて、もうどうでもよかった。
とにかく彼から離れなきゃ——嫌だ、離れたくない!
分裂した頭は、こんな時に限って私の足を信じられないほど速く、機敏に動かせる。
誰かが見ていたかもしれない。驚いていたかもしれない。視界に誰かが入ったけれど、それが誰かなんて分からない。私の意識と感覚が、どんどん途切れていく。
……途切れていた記憶が戻ったのは、自室の床にぽつんと座り込んでいた時だった。
もう何も感じたくない。何も考えたくない。
石のように硬くなって、二度と傷付きたくない。
もうこれ以上、耐えられない……。
——同じ頃、一階のフロアでは。
「 カズサ、血相変えてたけど、どうしたの?」
「あ、えっーと……」
『大っ嫌い!!』
二階の吹き抜けから、微かに切り裂くような叫び声が届いた。
……破裂した。いつかは来るはずだった日が、今やってきたのだ。
白けた顔で客をあしらう黒服。気にしないで、と客が二階へ上がらないようスムーズに動線を逸らすボーイ。
やたらと早口でぎこちない笑顔を浮かべ、不自然なほどテキパキと手を動かすバーテンダー。
スタッフの全員が、この修羅場をいかに回収し、他の客に悟らせないようにするかだけを考えて自分の仕事を続けた。
誰一人として、二階に残された男のことなんて、構っちゃいなかった。