Aphoniaの霧
女は何も感じない。
過去の残酷な出来事を覚えているから。
---緑に囲まれた、美しい故郷が燃える時を。
---両親だったもの達が地に転がる様を。
女は本能で学んだのだ。
何も感じなければ、身を焦がすほどの悲しみはないと……。
だから、彼女は蓋をした。
大きい港町から外れた森の中。
そこにレジスタンスの基地があった。
緑に囲まれたその場所は季節ごとに様々な形に変化し、美しい景色をみせる。だが、それに目を奪われる人間はここにはそう多くいない。
今から数年前に即位した『世界帝』によってこの国は支配された。彼の政策に期待していた者達も今では国家の圧政に苦しみ、生きている。武器の放棄を義務づけられ、もはや国に抵抗できるものはいない状況だった。
その中で立ち上がったのがこの基地に住まう、レジスタンスだった。
だが、現在でも戦況は思わしくない。
武器の入手が追いつかないこの状況ではいつかは弾圧される。
打開策を探しているときだった。
世界帝軍の侵攻に侵された街の民家に彼女はいた。
ドーンピンクの柔らかい髪が飾られたリボンに絡みついている。何日も手入れされていない、エクルベージュ色の汚れたワンピースを身にまとい、覇気のない目で椅子に座っている。手元を見れば左の手の甲には薔薇が咲き、それを目にした恭遠は女に希望を見出した。
女は古い銃の意識を呼び覚まし、肉体を与える力を持っていた。
最初に目覚めたのはブラウン・ベスという青年だった。マンダリンオレンジの髪にグラスグリーンの瞳、カーマインの軍服を身にまとった彼は背筋を整え女に跪く。
その後、シャルルヴィルにスプリングフィールド、ケンタッキーと数多くの古銃達がマスターである女の声に応え、貴銃士になった。
それでも、女はあの時のまま。
医務室から出ることもなく、恭遠に言われた仕事を淡々と行っていた。
彼が目覚めたのは、そんな日々をおくっていた時だった。
新しい古銃を発見したとの報告を受け、作戦室に向かえば大きな銃がひとつ。
それほど豪華な装飾もない銃だった。
女が薔薇の痣が入る左手を銃にかざす。
意識を集中させ、自分の力を与えるように、削るようにして銃の体を作り上げる。
眩い光を放ち、形作られた古銃はゆっくりと瞳を開ける。
美しいスカーレットの髪、長い襟足をひとつにまとめている。自身に満ち溢れたグラスグリーンの瞳を女に向けると「お前が私を呼んだのだな!」とその見目に似つかわしくない大声で話し始める。
彼はナポレオン・ボナパルトが所持していたフリントロック式ショットガン。
彼の主だったナポレオンを支え続けた銃であった。
だが、彼の語る言葉は己をナポレオンと自称するものばかりであった。
彼と面識があったラップは彼をナポレオン・ボナパルト本人として扱う事を頼み、一同が了承した。
数日の間に彼はその才覚を目覚めさせていた。戦争への作戦の立案、指揮は素早く、明るい人柄からか周りには彼を慕う人間が集まった。
そんな外の様子とは裏腹に医務室は相変わらず暗かった。
わずかな光が窓から入り、ベッドを照らすが、奥にいる女の机には届かない。
1人の患者が、外を眺めていた。
彼はダレル、イギリスから来たレジスタンスの人間だった。
先日の作戦で右太ももを撃たれ怪我を負った。傷は浅かったが、出血を多くしていたため、このまま医務室預かりになっている。
女は彼に近づき、<どうしました?>と書かれたメモを見せる。
窓へ向けていた顔をこちらに見せると、「早く戦いたい」と顔を歪ませる。
こうしてい休んでいる間にも世界帝軍の侵攻は進み、民は苦しんでいる。
もしかしたらわ自分の身内が……街が……次の戦地かもしれない。そんな不安を抱えながらここで寝ているよりかは作戦に加わって、戦いたい。
彼は涙ながらに窓の外を眺め、語った。
<私には分かりません>
メモに書いた返事は考えを放棄した答えだった。いや、彼は答えなど期待していない。
だから、書いたメモを彼の前に出すことはしなかった。
女にはダレルの思考はわからない。
---理解しない。
共感してしまったなら悲しみが胸を貫くから。わからないふりをするのだ。
ただ一つ、仕事として彼に声をかけるのだとしたらそれは……
<体を大切にして>
「わからない」の下に記された気遣いの言葉。
それすらも女は医療用エプロンのポケットにしまい、蓋をするのだ。
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