第1章 アズカバンの囚人
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翌朝。
石造りの小さな部屋に差し込む光は冷たく澄み、昨日買った本や道具の影を机の上に落としていた。
その脇で、白い蛇が静かにとぐろを巻いている。紅い瞳が瞬き、イリスを映し返した。
「……私を、選んだの?」
掠れた囁き。蛇は応えず、ただまぶたをゆっくり閉じる。だが、その仕草は確かに肯定に見えた。
胸の奥に、昨日の出来事が堰を切ったように押し寄せる。
――“呼ばれた”。蛇に、杖に。
――群衆の視線。
――「怯えてばかりでは、ますます孤立するぞ」黒衣の男の冷たい声。
多すぎる出来事に、思考はまだ整列してくれない。
孤独。牢獄ではない、けれど孤独。
言葉の欠片がぐるぐると回り、心臓だけが規則正しく、しかし落ち着かずに打ち続ける。
こん、こん、と扉が鳴った。
立ち上がり、閂を引く。黒衣の男――セブルス・スネイプが立っていた。
「……着いてこい」
それだけを告げ、背を向けて歩き出す。
問い返す間もなく、イリスは杖を胸に抱え、黒い背中のあとを追った。
石段を上り詰めると、重厚な扉が行く手を塞いだ。獅子、鷲、獾、蛇の意匠が金具に彫り込まれている。
「入りなさい」
柔らかな声。アルバス・ダンブルドアだった。
扉の向こうは校長室。高い天井の燭台が淡い光を放ち、壁には古い肖像画が眠たげに瞬いている。
机の背後にダンブルドア。左右には四人の寮監――マクゴナガル、スネイプ、スプラウト、フリットウィック。
四つの視線が一斉にイリスへと注がれた。
「こちらへ」
促された椅子の上には、くたびれた組み分け帽が置かれている。
イリスは体を強ばらせながら腰を下ろした。
「これからそなたの寮を決める。1人で学ぶもよいが、そなたは仲間と学ぶ楽しさを知る権利がある。」
ダンブルドアは優しい口調で話し、イリスの頭へ帽子を乗せた
次の瞬間、ざらりとした声が、耳の奥、頭の内側へ直接滲み込んできた。
「……これは珍しい。エルフか。
だが人によって、孤独の中を生き延びてきたか。
これは難しいぞ」
帽子は、イリスの記憶を、呼吸するように撫でていく。
長命の感覚。死を循環と捉える静かな視座。自然の美に涙ぐむ心。
そして、見世物小屋の冷たい鎖と、観る者の視線の重み。
昨日、蛇と杖に“呼ばれた”ときの微かな温もり――。
「さて、寮の話だ」
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グリフィンドール
「勇気はある。
虐げられても生き続けた、その執念は勇気と呼んで差し支えない。
だが、それは仲間を鼓舞し、前へ導くための勇気ではない。
剣を掲げる勇気ではなく、牙を剥く生存の反射だ。
グリフィンドールが育むのは、己のためだけでなく誰かのために立ち上がることの快さだが、いまの君は、誰かの声に肩を並べる準備ができていない。」
レイブンクロー
「知性はある。
本に触れた指先は、紙に染みた世界の粒子を正確に読んでいた。
学びたいという欲も、確かにある。
だが、知を分かち合う喜びを知らない。
孤独の知はやがて腐る。
レイブンクローは、問いと答えを交わす愉悦を愛する。
孤独の蓋を開けぬまま、ここに座すのは難しい。」
ハッフルパフ
「誠実さ、勤勉の芽はある。
自然に対する忠実と、美に対する敬虔は、確かに美しい。
だが、君には“群れ”の輪郭がない。
エルフのやり方は正しく、効率的で、罰よりも是正を選ぶ。
ゆえに『庇う』『役に立ちたい』という人の情の複雑さを、まだ身につけていない。
ハッフルパフの食卓は、遅れてきた者の席を空けて待つ温かさでできている。
その温度を、君はまだ体に覚えさせていない。」
スリザリン
「……ふむ、ここは面白い。
野心はある。
だがそれは人を踏み台にするための野心ではない。
これ以上奪われないために生きるという、静かで鋭い自己保存の野心だ。
狡猾さも備わっているが、他者を操る術ではなく生き抜く舵として研がれてきた。
この寮は冷えた現実の中で、己の輪郭を失わぬ者をよく受け入れる。
君の刃は、いまはまだ自分を守るためにだけ向いている。」
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「結論を言えば、君はどの寮にも一足届かぬ。
人間の子らが自然に持つ忠義、庇いたい心、役に立ちたいと願う衝動――
その複雑な結び目が、君の中ではまだ結ばれていない。
君はいま、『牢獄』からは出た。だが孤独の只中に立っている。
だが、同時に言おう。君はどこにでも行ける。
君は“呼ばれる”側であり、そして自分で“選ぶ”ことを学びうる。
仲間を信じ、誰かを庇ったとき――
その刃は初めて他者のためにも研がれ、君は本当の居場所を得るだろう。」
言葉の意味は、すべてはわからない。
庇うことで、居場所?
エルフの世界では、過ちに罰はなく、正しいやり方が差し出される。庇うという発想が要らない世界。
だから、それがどう作用するか、イリスにはまだ掴めない。
けれど、「可能性がある」という響きだけは胸に残った。
胸の底で、さきほどの一節が静かに落ち着く。
人を踏み台にする野心ではなく、奪われぬために生きる野心。
それは、今の自分を言い当てていた。
無意識に視線が横へ滑る。
黒衣の男――セブルス・スネイプ。
冷たいはずの瞳の奥に、数日前の夜、廊下の月光の下で見たかすかな揺らぎが一瞬よぎる。
唇が自然にほどけた。
「……スリザリン」
帽子の内側で、くぐもった笑い声がした。
「ほう。選んだか。――よかろう。スリザリンだ。」
帽子が外されると、校長室は一瞬だけ静かになった。
マクゴナガルは厳しい目を緩めずに、ほんのわずか心配の色を宿す。
スプラウトは小さく息を呑み、フリットウィックは興味と敬意を混ぜた眼差しで見上げた。
スネイプは表情を動かさなかった。
だがその瞳の奥に、わずかな揺らぎが生まれたのをイリスは気づかなかった。
紅い瞳にわずかな血色が戻っているのを見て、彼はほんの一瞬だけ視線を伏せる。
それは誇りか、あるいは警戒か──誰にも悟らせぬまま、黒衣の影に隠された。
「……決まったようじゃ」
ダンブルドアが小さく頷く。
「ホグワーツへようこそじゃ」
イリスは椅子から立ち上がり、杖を胸に抱えた。
孤独はまだそばにいる。
けれど、その輪郭は昨日より少しだけ柔らかい。
自分を選んだものを手にし、今度は自分で選んだ一歩が、石床に静かに刻まれた。
