第3章 不死鳥の騎士団
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第12話 未来への灯り
魔法薬学室には、夜の冷えがそのまま溜まっているようだった。 イリスは俯いたまま、指先で椅子の縁を掴んでいる。どんな顔を向ければ良いのか、それが分からなかった。
スネイプは何も言わず、棚から必要なものを取り出した。瓶と布、包帯。椅子を乱暴に引き寄せる音だけが、石造りの室内に乾いて響く。隣に腰を下ろすと、ためらいなくイリスの右手を取った。
傷は赤く浮き、薄い皮膚の下にまだ熱が残っている。
彼の冷たい指先が、静かにそこへ触れた。ガラスの瓶の口が卓上でかすかに鳴り、薬が肌にのるたび、呼気の音がわずかに揺れる。
イリスはほんの少しだけ顔を上げた。
うねった黒髪。
高い鼻梁。
長い睫毛の影。
結ばれた口元。
真剣な姿を見ると胸が、不意に強く脈打つ。
意識的に目を逸らさなければ、いつまでも見つめてしまう気がした。
「……お前からすれば、この程度の罰は生ぬるいだろうな」
沈黙を破ったその声には、棘よりも戸惑いが滲んでいた。 スネイプは薬を塗る手を止めず、少しだけ言葉を探すように続ける。
「……我輩は、お前がどんな人生を歩んできたのか、知ろうともしなかった。奴隷だの見世物だの……よくある哀れな身の上話だと、どこかで決めつけていた」
そこで初めて、彼は顔を上げた。
イリスは咄嗟に視線を落とす。短い静けさ。
やがて低い声が、はっきりと告げた。
「だが違った。お前は――あの残酷さを生き延びた。逃げ場のない数々の時間を、静かに、そして心を保ちながら……」
その一言が、胸に落ちた。
知られたくなかった過去。それでも、今ここにいる自分を否定しない言葉。
イリスはそっと顔を上げ、視線を合わせた。紅い瞳の奥が、少しだけ滲む。
「……ありがとうございます」
震える声で、そう言えた。
そう答えるのがやっとだった。喉がきゅっと締まり、自然と涙がこぼれそうになるから――。
少しだけ、胸が軽くなった気がした。
過去は消えない。けれど、その過去があったから彼に出会い、今の自分がここにいて、この場所で魔法を学び、人と関わり、様々なものを吸収できている。
過去の経験の意味がはっきりと形を持った気がした。
スネイプはわずかに息を乱し、手を離した。瓶の栓を閉め、背を向ける。
「……我輩などに幸せを見出すな。お前には、もっと良い未来があるはずだ」
それは拒絶の言葉に聞こえた。
けれど、そこに混じる微かな揺らぎも、イリスには感じ取れた。
胸の内で言葉がせめぎ合う。これ以上踏み込めば、彼は拒むだろう。
それでも言わなければ、この人はずっと自分を閉じ込めたままだ。
そんなことは望んでいない。不器用で無愛想で、すぐに嫌味を言って誤解されてしまうけれど……本当の彼を、自分の幸せのために生きてほしい。
イリスは息を整え、静かに言った。
「……私は見てしまいました。あなたが背負ってきた後悔を。あなたが、自分を守るために殻に閉じこもって生きてきたことを」
背中は動かない。 それでも、続ける覚悟を選ぶ。
「その殻は、あなたの心を守るのと同じくらい、あなたの未来も閉ざしてしまう。……でも、今のあなたは変わっている。過ちを悔いて、同じことを繰り返さないように生きている。私はそれに、何度も助けられているんです」
置かれた薬瓶が、わずかに光を返す。
イリスは更に彼の心中へそっとそこへ触れた。拒絶されると分かっていても……彼の心を楽にしたいから。
「あなたが彼女に向けてしまった“あの言葉”。それが彼女とあなたをどれほど傷つけ続けたか、私は知りました。…だからこそ、願っています。どうか、ご自分を許して、未来を選んでください。あなたには、その可能性があるから」
スネイプは振り向かない。代わりに、低く押し殺した声が一つ、床に落ちた。
「……黙れ。お前になど、あの言葉の意味は分かるまい」
拒絶の形を取る。それでも、イリスは揺るがなかった。
「そうですね……分かりません。でも、その後のあなたの行動や痛みに触れれば、伝わってくるものがあります。それを察した上で、私は“あなたは変わった”と思ったんです」
スネイプは何も言わない。決して振り返らないことで、拒否の意思を示している。 イリスは静かに椅子から立ち上がり、扉の前で振り返った。
「今日も、助けてくれてありがとうございます。不器用な優しさに、私はいつも支えられています。……どうか、自分で自分の可能性を潰さないでください」
イリスはスネイプの心に届くことを願い、そう言葉を残した。 そして扉を静かに閉める。廊下の冷気がひと息に流れ込み、またすぐに去っていった。
──
スネイプは机の端に手をつき、しばらく動かなかった。指先が白くなるほど拳を握る。
イリスの言葉は、過去を消すものではなかった。
「未来を見ろ」と促すものだった。
それは過去を正当化するだけのものではなく、殻の外へ出よと示す灯りだった。
殻の中は安全だ。だが、そこには未来がない。彼女の言葉は、痛いほど正しい。
しかし、それを素直に受け入れるのは容易ではない。
スネイプはひとつ長く息を吐き、眉間を指で押さえた。夜の静けさが戻る。
机の上には、使いかけの包帯と、わずかに指の跡が残る薬瓶。
「……我輩に可能性など……」
誰にも聞こえない声で呟く。 言葉ではそう言い切りながらも、内心では僅かに、その可能性を信じてみたいという感情が芽生えていた。
それは、無意識下でずっと隠していた「救われたい」という願いを、初めて自分自身が感じ取った瞬間だった。
本来これはリリーへ乞うた「赦免」だったはずだ。何十年もその思いと後悔だけで生きてきたはずだ。自分が救われていいはずないと思って生きてきた。
ましてやイリスには慰めや許しなど求めていなかったはずだ。
それなのになぜ彼女の言葉で長年忘れてきた自身の本当の気持ちを思い出してしまったのか。
自身の気持ちについていけず、答えが見つからないまま思考の海へと沈んで行った。
その奥底で、まだ名もない感情が小さく灯っているとも知らずに。
魔法薬学室には、夜の冷えがそのまま溜まっているようだった。 イリスは俯いたまま、指先で椅子の縁を掴んでいる。どんな顔を向ければ良いのか、それが分からなかった。
スネイプは何も言わず、棚から必要なものを取り出した。瓶と布、包帯。椅子を乱暴に引き寄せる音だけが、石造りの室内に乾いて響く。隣に腰を下ろすと、ためらいなくイリスの右手を取った。
傷は赤く浮き、薄い皮膚の下にまだ熱が残っている。
彼の冷たい指先が、静かにそこへ触れた。ガラスの瓶の口が卓上でかすかに鳴り、薬が肌にのるたび、呼気の音がわずかに揺れる。
イリスはほんの少しだけ顔を上げた。
うねった黒髪。
高い鼻梁。
長い睫毛の影。
結ばれた口元。
真剣な姿を見ると胸が、不意に強く脈打つ。
意識的に目を逸らさなければ、いつまでも見つめてしまう気がした。
「……お前からすれば、この程度の罰は生ぬるいだろうな」
沈黙を破ったその声には、棘よりも戸惑いが滲んでいた。 スネイプは薬を塗る手を止めず、少しだけ言葉を探すように続ける。
「……我輩は、お前がどんな人生を歩んできたのか、知ろうともしなかった。奴隷だの見世物だの……よくある哀れな身の上話だと、どこかで決めつけていた」
そこで初めて、彼は顔を上げた。
イリスは咄嗟に視線を落とす。短い静けさ。
やがて低い声が、はっきりと告げた。
「だが違った。お前は――あの残酷さを生き延びた。逃げ場のない数々の時間を、静かに、そして心を保ちながら……」
その一言が、胸に落ちた。
知られたくなかった過去。それでも、今ここにいる自分を否定しない言葉。
イリスはそっと顔を上げ、視線を合わせた。紅い瞳の奥が、少しだけ滲む。
「……ありがとうございます」
震える声で、そう言えた。
そう答えるのがやっとだった。喉がきゅっと締まり、自然と涙がこぼれそうになるから――。
少しだけ、胸が軽くなった気がした。
過去は消えない。けれど、その過去があったから彼に出会い、今の自分がここにいて、この場所で魔法を学び、人と関わり、様々なものを吸収できている。
過去の経験の意味がはっきりと形を持った気がした。
スネイプはわずかに息を乱し、手を離した。瓶の栓を閉め、背を向ける。
「……我輩などに幸せを見出すな。お前には、もっと良い未来があるはずだ」
それは拒絶の言葉に聞こえた。
けれど、そこに混じる微かな揺らぎも、イリスには感じ取れた。
胸の内で言葉がせめぎ合う。これ以上踏み込めば、彼は拒むだろう。
それでも言わなければ、この人はずっと自分を閉じ込めたままだ。
そんなことは望んでいない。不器用で無愛想で、すぐに嫌味を言って誤解されてしまうけれど……本当の彼を、自分の幸せのために生きてほしい。
イリスは息を整え、静かに言った。
「……私は見てしまいました。あなたが背負ってきた後悔を。あなたが、自分を守るために殻に閉じこもって生きてきたことを」
背中は動かない。 それでも、続ける覚悟を選ぶ。
「その殻は、あなたの心を守るのと同じくらい、あなたの未来も閉ざしてしまう。……でも、今のあなたは変わっている。過ちを悔いて、同じことを繰り返さないように生きている。私はそれに、何度も助けられているんです」
置かれた薬瓶が、わずかに光を返す。
イリスは更に彼の心中へそっとそこへ触れた。拒絶されると分かっていても……彼の心を楽にしたいから。
「あなたが彼女に向けてしまった“あの言葉”。それが彼女とあなたをどれほど傷つけ続けたか、私は知りました。…だからこそ、願っています。どうか、ご自分を許して、未来を選んでください。あなたには、その可能性があるから」
スネイプは振り向かない。代わりに、低く押し殺した声が一つ、床に落ちた。
「……黙れ。お前になど、あの言葉の意味は分かるまい」
拒絶の形を取る。それでも、イリスは揺るがなかった。
「そうですね……分かりません。でも、その後のあなたの行動や痛みに触れれば、伝わってくるものがあります。それを察した上で、私は“あなたは変わった”と思ったんです」
スネイプは何も言わない。決して振り返らないことで、拒否の意思を示している。 イリスは静かに椅子から立ち上がり、扉の前で振り返った。
「今日も、助けてくれてありがとうございます。不器用な優しさに、私はいつも支えられています。……どうか、自分で自分の可能性を潰さないでください」
イリスはスネイプの心に届くことを願い、そう言葉を残した。 そして扉を静かに閉める。廊下の冷気がひと息に流れ込み、またすぐに去っていった。
──
スネイプは机の端に手をつき、しばらく動かなかった。指先が白くなるほど拳を握る。
イリスの言葉は、過去を消すものではなかった。
「未来を見ろ」と促すものだった。
それは過去を正当化するだけのものではなく、殻の外へ出よと示す灯りだった。
殻の中は安全だ。だが、そこには未来がない。彼女の言葉は、痛いほど正しい。
しかし、それを素直に受け入れるのは容易ではない。
スネイプはひとつ長く息を吐き、眉間を指で押さえた。夜の静けさが戻る。
机の上には、使いかけの包帯と、わずかに指の跡が残る薬瓶。
「……我輩に可能性など……」
誰にも聞こえない声で呟く。 言葉ではそう言い切りながらも、内心では僅かに、その可能性を信じてみたいという感情が芽生えていた。
それは、無意識下でずっと隠していた「救われたい」という願いを、初めて自分自身が感じ取った瞬間だった。
本来これはリリーへ乞うた「赦免」だったはずだ。何十年もその思いと後悔だけで生きてきたはずだ。自分が救われていいはずないと思って生きてきた。
ましてやイリスには慰めや許しなど求めていなかったはずだ。
それなのになぜ彼女の言葉で長年忘れてきた自身の本当の気持ちを思い出してしまったのか。
自身の気持ちについていけず、答えが見つからないまま思考の海へと沈んで行った。
その奥底で、まだ名もない感情が小さく灯っているとも知らずに。
