第1章 アズカバンの囚人
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昨夜のことが、胸の奥に重く沈んでいた。
白い髭の老人は「守るため」と言った。
黒衣の男は「牢獄と変わらぬ」と嘲った。
けれど、わたしの耳に残っているのはただ一つ
利用される価値があるから、生かされているという響きだった。
そして今、朝を迎えてもその思いは薄れることなく、むしろ重さを増している。
生気に満ちた空気は確かに体を癒してくれる。
だが、心は癒えない。
やはりここは牢獄だ、と結論づけるしかなかった。
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翌日の医務室は、まだ薬草の匂いに包まれていた。
清浄な空気の中で一夜を過ごしたせいか、体の奥に溜まっていた疲労は幾分和らいでいる。
裂けた皮膚の痛みも、昨日より鈍い。
けれど、深い傷はまだ閉じきってはいなかった。
「やはり、この薬を使うしかありませんね」
マダム・ポンフリーが小さくため息をつき、棚から濃緑色の小瓶を取り出した。
「これを塗れば三日ほどで傷は完全に閉じるでしょう。ただし……少々、しみますよ」
少女が身じろぎした瞬間、ポンフリーはためらわず軟膏を裂傷へ塗り込んだ。
──焼けつくような痛み。
肉を無理やり縫い合わせられるような激痛に、少女は思わず手を振り払っていた。
「っ……!」
ポンフリーの手から膿盆と薬瓶が落ち、金属が床を打つ鋭い音が響いた。
少女はその音に、そして自分の行為に凍りつく。
──いま、わたしは人間を……傷つけようとした。
恐怖に突き動かされるように、ベッドから飛び出した。
足はまだおぼつかないが、動ける。逃げられる。
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「な、なんということ……!」
医務室の扉が勢いよく開き、シビル・トレローニーが飛び込んできた。
大きな眼鏡の奥の瞳をぎらぎらさせ、震える声を張り上げる。
「逃げ出そうとしておる!これは破滅の前兆じゃ!死の影が迫っておるわ!」
騒々しい声が、少女の鼓膜を打ち、胸を締め付ける。
──やっぱり、捕まる。ここは牢獄だ。
そこへ小柄な影が小走りで現れる。フィリウス・フリットウィックだ。
両手を広げ、必死に声をかける。
「待ちなさい!落ち着くんだ!誰も君を傷つけはしない!」
だがその真剣さすら、少女には「捕まえようとしている」姿に見えた。
息が詰まり、背筋に冷たい汗が走る。
胸の奥で確信する。
──やっぱりここも牢獄だ。
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その時。
「……実に見苦しい騒ぎだ」
冷え切った声が空気を裂いた。
黒衣を翻し、セブルス・スネイプが医務室へ足を踏み入れた。
周囲を冷ややかに見回す視線は、騒ぐ教師も怯える少女も一様に射抜いた。
「この小娘ひとりを前に、教授陣が右往左往とは……ホグワーツの威信も地に落ちたものだ」
その毒のある皮肉に、場は一瞬沈黙した。
スネイプはゆっくりと歩み寄り、少女を見下ろした。
「……この小娘が逃げ出そうとしたと?笑わせるな。どこへ行けると言うのだ。まともに立つことすら危ういのに」
静かな嘲りに少女は息を呑む。
逃げたい気持ちを見透かされたようで、膝がすくんだ。
スネイプは肩を乱暴に掴み、教師たちへ一瞥を投げた。
「──我輩が話をつける。これ以上騒ぐな」
その一言に抗う者はいなかった。
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石造りの階段を下り、たどり着いたのは地下の薬学室。
無数の瓶や壺が棚に並び、薬草と薬液の匂いが満ちている。
湿った空気の中で、蝋燭の炎がゆらめいた。
スネイプは扉を閉めると、少女を椅子へ押し込むように座らせた。
「聞け」
低い声が落ちる。
「ここは檻ではない。だが、お前が檻だと決めつけるなら、どこにいても牢獄となろう」
少女は唇を噛み、視線を逸らす。
「……わたしは利用されるだけだ」
思わず漏れた声に、スネイプの瞳が鋭く細まった。
「利用価値があるから、生かされている……そう思ったのだろう」
彼はゆっくりと歩き、棚に並んだ瓶を指先でなぞる。
そして、静かに吐き捨てた。
「ならば問おう。価値があることの何が悪いというのかね」
短い沈黙の後、さらに追い打ちをかけるように言葉を重ねた。
「無価値であれば、踏み潰されるだけだ。
貴様の存在など、世にとって塵ほどの意味もない。
……そうなりたいか?」
少女は答えられなかった。
彼の言葉は鋭利な刃のように胸を抉る。
脅しにも、真実にも聞こえた。
スネイプは少女の瞳を射抜いたまま、低く告げる。
「選べ。
牢獄に縛られるか、価値を武器に生きるか。
鍵を握るのは──他ならぬお前自身だ」
少女は震えながらも、その言葉を胸に刻んでいた。
やはり恐ろしく、やはり信じられない。
けれど、心のどこかがかすかに揺らぎ始めていた。
