特別編
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不均衡な時間
ルーセンが生まれてからいくつもの年が過ぎていった。
そして今日もホグワーツの空は、ゆっくりと夕暮れに沈みつつあった。
茜でもなく、紫でもなく、その間を迷うような色が、塔の尖端をなぞっている。
校長室の高窓から、その景色を見下ろす影が一つあった。
七十を超えたセブルス・スネイプは、重たくなった身体を椅子から起こし、窓辺へと歩み寄る。
歩幅は、かつてよりわずかに狭くなっていた。
長いローブの裾は、昔のように鋭くはためくのではなく、静かに床を撫でるだけだ。
膝と腰に、微かな軋みが走る。人間として積み重ねてきた年月が、その一歩一歩に宿っていた。
黒髪には細い銀が混じり、こめかみから耳へ流れる線には白が増えた。
だが、その黒い瞳の深さだけは変わらない。
かつて憎悪と諦念を宿していたそれには、今は静かな光と、拭いきれない疲労と、それでも消えない意志が同時に住んでいる。
窓の下、広い中庭に視線を落とす。
草の上を、小さな影がふたつ走っていた。
ひとりは、膝までの白い髪を揺らす細身の姿。
もうひとりは、まだ半端な背丈の少年だった。
ルーセン・シルヴァン・スネイプ。
年齢は三十を越えている。
だが見た目は、ようやく十四歳の少年ほど。
エルフの血は、時間の歩みを穏やかに遅くする。
「……全く、成長が遅い」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。
苦情でも、叱責でもない。
ただ、自分の胸に重く落ちる事実の確認に過ぎなかった。
白い髪の方が立ち止まり、少年の肩に手を置く。
イリスの横顔が、夕焼けの光で柔らかく縁取られる。
その姿は、あの日からほとんど変わっていない。
肌も、髪も、瞳も。
時間が彼女に触れることをためらっているかのように、変わらぬ白さと静けさを保っていた。
少年がこちらを指さす。
イリスが窓を見上げる。
遠く離れていても、彼女がふわりと微笑んだのが分かった。
スネイプはわずかに視線を伏せた。
胸の奥で何かが、温かく、そして痛む。
「……愚かな女だ」
口元だけが僅かに緩む。
この言葉はもう、彼女への呪いではない。
長い年月を共に過ごしてなお、抑えきれない愛情を隠すための、拙い仮面だった。
───
翌日の大広間は、いつも以上に賑やかだった。
長テーブルの一角に、見慣れない姿がいくつも並んでいる。
透き通るような肌、尖った耳。
淡い緑や銀の中に、髪や衣に森の色を宿す者たち。
エルフの森からの使者たちだった。
年に二度。
エルフの森とホグワーツは、互いに少数の使いを送り合う。
魔法と森、二つの世界を繋ぐ、静かな橋渡しとして。
イリスがその中心に立ち、静かに言葉を交わしていた。
彼女の横には、背筋を伸ばした小さな影が並ぶ。
ルーセンだ。
黒髪は父譲り。
赤い瞳は母譲り。
耳は僅かに尖り、肌はイリスほどではないが淡く明るい。
人間とエルフ、その両方の色を静かに身に纏っていた。
彼は、誇らしげに胸を張っていた。
「ルーセン、こっちの子が気になるの?」
隣のグリフィンドールの女子生徒が、ひそひそと声を掛ける。
ルーセンは少し照れくさそうに笑い、エルフの少年たちを見た。
「うん。同じ森の血を持っているんだと思うと……嬉しいんだ」
「ルーセンってさ、半分エルフで半分人間でしょ? その……大変じゃないの?」
「大変なこともあるけど……」
ルーセンは、一度だけ視線を上げる。
教壇の近く、黒いローブが人混みを縫うように歩いていた。
スネイプが、教師たちと短い挨拶を交わしている。
「僕は……誇らしいよ」
「誇らしい?」
「うん。父さん闇の時代を誰よりも勇敢に生きて、ホグワーツの校長で、母さんは誰よりも父さんを愛し、信じることで父さんを救った。それだけでなくエルフと人間の橋渡しをしている。
どちらの世界にも、ちゃんと居場所を作ってくれたのは、二人だから。」
言いながら、ルーセンの表情は穏やかだった。
「僕がどちらの血も持っていることを、父さんも母さんも、一度も否定しなかった。
どちらも、僕の一部だって言ってくれたから。」
「……いいなあ」
女子生徒は少しだけ目を潤ませて、こぼすように言った。
「スネイプ校長がさ……あんなふうに誰かを見守る顔をするなんて、昔の人が聞いたら腰抜かすよね」
ルーセンはくすりと笑った。
「そうらしいね。」
壇上から大広間を見下ろしながら、スネイプは生徒たちとエルフたちを交互に眺めていた。
その視線は厳しく、緩みを許さない。
だが、ルーセンの方へ目を向けたときだけ、ほんの僅かに、その黒い瞳の縁が柔らいだ。
それを見た者は少なかった。
だが、その“少しの変化”に気づいている者たちは、確かにいた。
───
午後の授業の合間。
城の裏手、森の縁に近い場所に、小さな畑のような一角がある。
薬草と、魔法生物の好む植物が混ざり合い、風に揺れていた。
その間を、イリスの白い髪が静かに歩む。
彼女は膝をつき、柔らかい葉を指先で撫でた。
「……今年は、よく育ってくれたわね」
背後から、杖の先が土を軽くつつく音が聞こえた。
「我輩の調合用だ、勝手に抜くなよ」
低い声。
振り返ると、スネイプがゆっくりと足を運んでくるところだった。
以前よりも足取りは慎重で、階段や段差に差し掛かる前には、わずかな間が空く。
その一歩一歩を、彼自身が意識しているのが分かる。
長く働かせてきた膝と腰が、静かに抗議を始めていた。
それでも、その目は依然として鋭く、森の様子を細かく捉えていた。
「セブルス。もう少しこちらへ」
イリスが手招きする。
スネイプは眉をひそめた。
「泥で汚れる」
「大丈夫。洗えばいいもの」
イリスは微笑み、手を差し出した。
スネイプは小さくため息をつき、その手を取る。
土の上に膝をつくと、ふくらはぎの筋肉が鈍く痛んだ。
その痛みは、すでに日常に溶け込んでいる。
老いを呪うほどではないが、確かにそこにある現実だった。
イリスは、彼の指を導くように土に触れさせた。
「この根は……ルーセンにも触らせたわ。
森の魔法と、あなたの薬学。
どちらも、この子にとって大切なものだから。」
スネイプは土を軽く掬い、細かな根を見つめる。
「……あの子に、どこまで背負わせるつもりだ」
「背負わせるんじゃないわ」
イリスの声は静かで、揺るぎなかった。
「この世界に、生まれてきた意味を伝えているだけよ。
森も、魔法も、人も。
全部の間に立てる子だから」
スネイプは顔を上げ、イリスの横顔を見る。
年月は彼女の外見をほとんど変えなかったが、そのまなざしには、確かに積み重ねた時間の深さが宿っていた。
「……お前は、変わらんな」
「そうかしら」
「外見だけではない」
スネイプは小さく息を吐き、少しだけ視線を逸らした。
「お前は昔から、誰かのために生きることを、恐れぬ」
イリスは目を細め、そっと彼の手の上に自分の手を重ねた。
「あなたが隣にいてくれるからよ。
この森も、この城も、そして……ルーセンも。
全部、“一人ではない”と教えてくれたのは、あなたでしょう」
風がふたりの間を通り抜け、白と黒の髪を揺らした。
スネイプはその手を握り返し、短く呟く。
「……本当に、厄介な女だ」
しかし、その声は優しかった。
───
夜。
校長室の暖炉は、静かに火を落としていた。
机の上には未処理の書類がいくつも積まれている。
スネイプは椅子にもたれ、こめかみを押さえた。
視界の端が僅かに滲む。
昔のように無理をすれば、一晩で片付けられる分量だ。
だが今は、身体の方が先に限界を訴える。
肩を回せば鈍い音が鳴り、首筋には重さがまとわりつき、指先には細かな震えが残っている。
その時、扉がノックされた。
「入れ」
扉が静かに開き、黒い髪の少年が顔を覗かせる。
「父さん、まだ起きてたんだね」
「お前こそ、消灯時間はどうした」
「図書室で少し調べ物をしていただけだよ。フリットウィック先生には許可をもらっている」
ルーセンは少しばつの悪そうな顔をしながら部屋に入ってくる。
その手には、本が数冊抱えられていた。
「森の魔法と、魔法薬の相互作用について……。
母さんと一緒に、少しまとめてみたいんだ」
スネイプの眉が僅かに上がる。
「……あの女は、お前を完全に働き手として育てるつもりらしいな」
「ふふ。そうかもしれない」
ルーセンが笑うと、スネイプはわずかに視線を落とした。
少年は机の上に本を置き、ふとスネイプの顔を見つめる。
「父さん、今日は少し……疲れてる?」
「いつも通りだ」
「いつも通り、ね……」
ルーセンは近づき、スネイプの隣に立った。
その黒い瞳が、よく似た黒を映している。
「無理はしないでね。
父さんが倒れたら、母さんが森ごと怒るから」
「……我輩を心配しているのか、森を心配しているのか、どちらだ」
「どっちもだよ」
迷いなく返された言葉に、スネイプの喉がひそかに鳴る。
ルーセンは、机の上に重ねられた書類へ視線を落とした。
その上から、スネイプの手をそっと握る。
「あのね、父さん」
「なんだ」
「僕、父さんがこの学校の校長であること。
ううん、父さんの事……ずっと誇りに思ってる。
父さんが、母さんと僕のためにここにいてくれることも。
父さんがいるホグワーツを選べたことも」
一つ一つの言葉を、丁寧に置くように言う。
「だから、長く生きてなんて、無責任には言わない。
ただ……父さんの人生が、父さん自身にも“良かった”って思えていたら、それでいい」
スネイプは眼差しを上げた。
真正面から見つめてくるその子の瞳に、彼女と同じ赤が揺れている。
「……軽々しく、そんなことを言うな」
声は低く、掠れていた。
だが、そこには怒りはなかった。
ルーセンは、静かに微笑む。
「ごめん。でも、本当なんだ」
少年は一歩下がり、軽く会釈をした。
「おやすみなさい、父さん」
「……あぁ。早く寝ろ、ルーセン」
扉が閉まり、静寂が戻る。
スネイプは椅子にもたれ、天井を見上げた。
視界が、にじむ。
長い人生の中で、自らの存在を肯定する言葉など、彼女以外の人物からはほとんどもらったことがなかった。
それを今、我が子の口から聞いた。
「……愚かな息子だ」
呟きは、震えを帯びていた。
その夜、彼は久しぶりに書類を途中で放り出し、灯りを落とした。
───
ある日の黄昏。
森と城の境界に、焚き火の光が揺れていた。
エルフとホグワーツの生徒たちが、輪になって座っている。
中央では、古い歌が静かに奏でられていた。
ルーセンはその輪の一角に座り、エルフの語り部の言葉を真剣に聞いていた。
両方の世界の言葉を理解する彼は、時折周囲の生徒たちに、小さな声で意味を訳している。
その少し離れた木陰から、二つの影が彼を見守っていた。
イリスとスネイプだった。
イリスは、焚き火の光を映す息子の横顔を見つめ、小さく息を吐いた。
「大きくなったわね」
「見た目は、まだ子どもだがな」
「そうね。でも……」
イリスは、そっとスネイプの手を取った。
「心は、ちゃんと育っている」
スネイプは、ふと横顔を彼女に向ける。
夜の光に照らされたイリスは、出会った頃とほとんど変わらない。
ただ、その眼差しの奥には、これまで共に歩んできた年月が穏やかに蓄えられていた。
「セブルス」
「なんだ」
「あなたの時間は、確かに私たちより短いのかもしれない。
でも、あなたの中を流れていった時間は、ルーセンにも、森にも、ホグワーツにも……ちゃんと残っているわ」
スネイプは何も言わなかった。
ただ、手を握り返す。
焚き火の輪の中で、ルーセンがふいに立ち上がった。
エルフと生徒たちの視線が集まる。
彼は片手を胸に置き、森の方へ一礼し、次に城の方向へも同じように頭を下げた。
「……この場所を、ありがとう」
何気ない一言だった。
だが、その言葉が示す意味を、スネイプは痛いほど理解した。
この子にとって、森と城は、どちらも故郷なのだ。
「……我輩は」
スネイプは、小さく呟いた。
「我輩は、あの子に何かを与えることができたのだろうか」
イリスは微笑み、迷いなく答える。
「世界を二つ、よ」
スネイプはその言葉に目を伏せた。
胸の奥に、ゆっくりと熱が満ちていく。
冷たい風が、頬を撫でた。
老いていく身体は、その冷たさを以前よりも強く感じる。
だが、左手に絡むイリスの手の温もりと、遠くで笑うルーセンの声が、その冷えを押し返していく。
「……我輩の残りの時間など、たかが知れている」
スネイプは静かに言った。
「だが」
彼は焚き火の向こうの小さな背を見つめる。
「あの子の時間には、もう我輩が刻まれている。
それで十分だ」
イリスはその言葉を聞き、そっと彼の肩に頭を預けた。
「ええ。十分よ。
あなたがそう思えるようになるまで、よく生きてくれたわね、セブルス」
スネイプは、自嘲にも似た息を吐いた。
「また勝手に総括するな」
「だって……」
イリスは少しだけ体を寄せ、彼の頬に軽くキスを落とす。
「あなたは、もう独りじゃないでしょう?」
その一言に、長く続いた孤独の記憶が、静かに遠のいていく。
焚き火の火が揺れる。
森の影が踊る。
生徒たちとエルフたちの笑い声が重なり合う。
その少し離れた木陰で、三つの影が静かに繋がっていた。
大人になりきれない少年と、老い始めた男と、変わらぬ姿の女。
時間は不均等に流れる。
誰にとっても公平ではない。
それでも、その中で交わされた愛と記憶だけは、確かに残る。
スネイプはそっと目を閉じた。
もし、この先どれほどの時間が残されていようと。
すでに、自分の人生は
「独りでいればよかったもの」ではなくなっている。
彼は目を開け、隣のイリスと、焚き火の向こうのルーセンを見つめた。
「……我輩の人生も、悪くなかった」
その呟きは、風に溶けて消えた。
だが、隣にいた女と、少し離れた場所の少年には、確かに届いていた。
夜が、静かに降りてくる。
夕暮れの後に灯る、ささやかな火のように。
彼らの家族の時間は、まだゆっくりと、続いていた。
ルーセンが生まれてからいくつもの年が過ぎていった。
そして今日もホグワーツの空は、ゆっくりと夕暮れに沈みつつあった。
茜でもなく、紫でもなく、その間を迷うような色が、塔の尖端をなぞっている。
校長室の高窓から、その景色を見下ろす影が一つあった。
七十を超えたセブルス・スネイプは、重たくなった身体を椅子から起こし、窓辺へと歩み寄る。
歩幅は、かつてよりわずかに狭くなっていた。
長いローブの裾は、昔のように鋭くはためくのではなく、静かに床を撫でるだけだ。
膝と腰に、微かな軋みが走る。人間として積み重ねてきた年月が、その一歩一歩に宿っていた。
黒髪には細い銀が混じり、こめかみから耳へ流れる線には白が増えた。
だが、その黒い瞳の深さだけは変わらない。
かつて憎悪と諦念を宿していたそれには、今は静かな光と、拭いきれない疲労と、それでも消えない意志が同時に住んでいる。
窓の下、広い中庭に視線を落とす。
草の上を、小さな影がふたつ走っていた。
ひとりは、膝までの白い髪を揺らす細身の姿。
もうひとりは、まだ半端な背丈の少年だった。
ルーセン・シルヴァン・スネイプ。
年齢は三十を越えている。
だが見た目は、ようやく十四歳の少年ほど。
エルフの血は、時間の歩みを穏やかに遅くする。
「……全く、成長が遅い」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。
苦情でも、叱責でもない。
ただ、自分の胸に重く落ちる事実の確認に過ぎなかった。
白い髪の方が立ち止まり、少年の肩に手を置く。
イリスの横顔が、夕焼けの光で柔らかく縁取られる。
その姿は、あの日からほとんど変わっていない。
肌も、髪も、瞳も。
時間が彼女に触れることをためらっているかのように、変わらぬ白さと静けさを保っていた。
少年がこちらを指さす。
イリスが窓を見上げる。
遠く離れていても、彼女がふわりと微笑んだのが分かった。
スネイプはわずかに視線を伏せた。
胸の奥で何かが、温かく、そして痛む。
「……愚かな女だ」
口元だけが僅かに緩む。
この言葉はもう、彼女への呪いではない。
長い年月を共に過ごしてなお、抑えきれない愛情を隠すための、拙い仮面だった。
───
翌日の大広間は、いつも以上に賑やかだった。
長テーブルの一角に、見慣れない姿がいくつも並んでいる。
透き通るような肌、尖った耳。
淡い緑や銀の中に、髪や衣に森の色を宿す者たち。
エルフの森からの使者たちだった。
年に二度。
エルフの森とホグワーツは、互いに少数の使いを送り合う。
魔法と森、二つの世界を繋ぐ、静かな橋渡しとして。
イリスがその中心に立ち、静かに言葉を交わしていた。
彼女の横には、背筋を伸ばした小さな影が並ぶ。
ルーセンだ。
黒髪は父譲り。
赤い瞳は母譲り。
耳は僅かに尖り、肌はイリスほどではないが淡く明るい。
人間とエルフ、その両方の色を静かに身に纏っていた。
彼は、誇らしげに胸を張っていた。
「ルーセン、こっちの子が気になるの?」
隣のグリフィンドールの女子生徒が、ひそひそと声を掛ける。
ルーセンは少し照れくさそうに笑い、エルフの少年たちを見た。
「うん。同じ森の血を持っているんだと思うと……嬉しいんだ」
「ルーセンってさ、半分エルフで半分人間でしょ? その……大変じゃないの?」
「大変なこともあるけど……」
ルーセンは、一度だけ視線を上げる。
教壇の近く、黒いローブが人混みを縫うように歩いていた。
スネイプが、教師たちと短い挨拶を交わしている。
「僕は……誇らしいよ」
「誇らしい?」
「うん。父さん闇の時代を誰よりも勇敢に生きて、ホグワーツの校長で、母さんは誰よりも父さんを愛し、信じることで父さんを救った。それだけでなくエルフと人間の橋渡しをしている。
どちらの世界にも、ちゃんと居場所を作ってくれたのは、二人だから。」
言いながら、ルーセンの表情は穏やかだった。
「僕がどちらの血も持っていることを、父さんも母さんも、一度も否定しなかった。
どちらも、僕の一部だって言ってくれたから。」
「……いいなあ」
女子生徒は少しだけ目を潤ませて、こぼすように言った。
「スネイプ校長がさ……あんなふうに誰かを見守る顔をするなんて、昔の人が聞いたら腰抜かすよね」
ルーセンはくすりと笑った。
「そうらしいね。」
壇上から大広間を見下ろしながら、スネイプは生徒たちとエルフたちを交互に眺めていた。
その視線は厳しく、緩みを許さない。
だが、ルーセンの方へ目を向けたときだけ、ほんの僅かに、その黒い瞳の縁が柔らいだ。
それを見た者は少なかった。
だが、その“少しの変化”に気づいている者たちは、確かにいた。
───
午後の授業の合間。
城の裏手、森の縁に近い場所に、小さな畑のような一角がある。
薬草と、魔法生物の好む植物が混ざり合い、風に揺れていた。
その間を、イリスの白い髪が静かに歩む。
彼女は膝をつき、柔らかい葉を指先で撫でた。
「……今年は、よく育ってくれたわね」
背後から、杖の先が土を軽くつつく音が聞こえた。
「我輩の調合用だ、勝手に抜くなよ」
低い声。
振り返ると、スネイプがゆっくりと足を運んでくるところだった。
以前よりも足取りは慎重で、階段や段差に差し掛かる前には、わずかな間が空く。
その一歩一歩を、彼自身が意識しているのが分かる。
長く働かせてきた膝と腰が、静かに抗議を始めていた。
それでも、その目は依然として鋭く、森の様子を細かく捉えていた。
「セブルス。もう少しこちらへ」
イリスが手招きする。
スネイプは眉をひそめた。
「泥で汚れる」
「大丈夫。洗えばいいもの」
イリスは微笑み、手を差し出した。
スネイプは小さくため息をつき、その手を取る。
土の上に膝をつくと、ふくらはぎの筋肉が鈍く痛んだ。
その痛みは、すでに日常に溶け込んでいる。
老いを呪うほどではないが、確かにそこにある現実だった。
イリスは、彼の指を導くように土に触れさせた。
「この根は……ルーセンにも触らせたわ。
森の魔法と、あなたの薬学。
どちらも、この子にとって大切なものだから。」
スネイプは土を軽く掬い、細かな根を見つめる。
「……あの子に、どこまで背負わせるつもりだ」
「背負わせるんじゃないわ」
イリスの声は静かで、揺るぎなかった。
「この世界に、生まれてきた意味を伝えているだけよ。
森も、魔法も、人も。
全部の間に立てる子だから」
スネイプは顔を上げ、イリスの横顔を見る。
年月は彼女の外見をほとんど変えなかったが、そのまなざしには、確かに積み重ねた時間の深さが宿っていた。
「……お前は、変わらんな」
「そうかしら」
「外見だけではない」
スネイプは小さく息を吐き、少しだけ視線を逸らした。
「お前は昔から、誰かのために生きることを、恐れぬ」
イリスは目を細め、そっと彼の手の上に自分の手を重ねた。
「あなたが隣にいてくれるからよ。
この森も、この城も、そして……ルーセンも。
全部、“一人ではない”と教えてくれたのは、あなたでしょう」
風がふたりの間を通り抜け、白と黒の髪を揺らした。
スネイプはその手を握り返し、短く呟く。
「……本当に、厄介な女だ」
しかし、その声は優しかった。
───
夜。
校長室の暖炉は、静かに火を落としていた。
机の上には未処理の書類がいくつも積まれている。
スネイプは椅子にもたれ、こめかみを押さえた。
視界の端が僅かに滲む。
昔のように無理をすれば、一晩で片付けられる分量だ。
だが今は、身体の方が先に限界を訴える。
肩を回せば鈍い音が鳴り、首筋には重さがまとわりつき、指先には細かな震えが残っている。
その時、扉がノックされた。
「入れ」
扉が静かに開き、黒い髪の少年が顔を覗かせる。
「父さん、まだ起きてたんだね」
「お前こそ、消灯時間はどうした」
「図書室で少し調べ物をしていただけだよ。フリットウィック先生には許可をもらっている」
ルーセンは少しばつの悪そうな顔をしながら部屋に入ってくる。
その手には、本が数冊抱えられていた。
「森の魔法と、魔法薬の相互作用について……。
母さんと一緒に、少しまとめてみたいんだ」
スネイプの眉が僅かに上がる。
「……あの女は、お前を完全に働き手として育てるつもりらしいな」
「ふふ。そうかもしれない」
ルーセンが笑うと、スネイプはわずかに視線を落とした。
少年は机の上に本を置き、ふとスネイプの顔を見つめる。
「父さん、今日は少し……疲れてる?」
「いつも通りだ」
「いつも通り、ね……」
ルーセンは近づき、スネイプの隣に立った。
その黒い瞳が、よく似た黒を映している。
「無理はしないでね。
父さんが倒れたら、母さんが森ごと怒るから」
「……我輩を心配しているのか、森を心配しているのか、どちらだ」
「どっちもだよ」
迷いなく返された言葉に、スネイプの喉がひそかに鳴る。
ルーセンは、机の上に重ねられた書類へ視線を落とした。
その上から、スネイプの手をそっと握る。
「あのね、父さん」
「なんだ」
「僕、父さんがこの学校の校長であること。
ううん、父さんの事……ずっと誇りに思ってる。
父さんが、母さんと僕のためにここにいてくれることも。
父さんがいるホグワーツを選べたことも」
一つ一つの言葉を、丁寧に置くように言う。
「だから、長く生きてなんて、無責任には言わない。
ただ……父さんの人生が、父さん自身にも“良かった”って思えていたら、それでいい」
スネイプは眼差しを上げた。
真正面から見つめてくるその子の瞳に、彼女と同じ赤が揺れている。
「……軽々しく、そんなことを言うな」
声は低く、掠れていた。
だが、そこには怒りはなかった。
ルーセンは、静かに微笑む。
「ごめん。でも、本当なんだ」
少年は一歩下がり、軽く会釈をした。
「おやすみなさい、父さん」
「……あぁ。早く寝ろ、ルーセン」
扉が閉まり、静寂が戻る。
スネイプは椅子にもたれ、天井を見上げた。
視界が、にじむ。
長い人生の中で、自らの存在を肯定する言葉など、彼女以外の人物からはほとんどもらったことがなかった。
それを今、我が子の口から聞いた。
「……愚かな息子だ」
呟きは、震えを帯びていた。
その夜、彼は久しぶりに書類を途中で放り出し、灯りを落とした。
───
ある日の黄昏。
森と城の境界に、焚き火の光が揺れていた。
エルフとホグワーツの生徒たちが、輪になって座っている。
中央では、古い歌が静かに奏でられていた。
ルーセンはその輪の一角に座り、エルフの語り部の言葉を真剣に聞いていた。
両方の世界の言葉を理解する彼は、時折周囲の生徒たちに、小さな声で意味を訳している。
その少し離れた木陰から、二つの影が彼を見守っていた。
イリスとスネイプだった。
イリスは、焚き火の光を映す息子の横顔を見つめ、小さく息を吐いた。
「大きくなったわね」
「見た目は、まだ子どもだがな」
「そうね。でも……」
イリスは、そっとスネイプの手を取った。
「心は、ちゃんと育っている」
スネイプは、ふと横顔を彼女に向ける。
夜の光に照らされたイリスは、出会った頃とほとんど変わらない。
ただ、その眼差しの奥には、これまで共に歩んできた年月が穏やかに蓄えられていた。
「セブルス」
「なんだ」
「あなたの時間は、確かに私たちより短いのかもしれない。
でも、あなたの中を流れていった時間は、ルーセンにも、森にも、ホグワーツにも……ちゃんと残っているわ」
スネイプは何も言わなかった。
ただ、手を握り返す。
焚き火の輪の中で、ルーセンがふいに立ち上がった。
エルフと生徒たちの視線が集まる。
彼は片手を胸に置き、森の方へ一礼し、次に城の方向へも同じように頭を下げた。
「……この場所を、ありがとう」
何気ない一言だった。
だが、その言葉が示す意味を、スネイプは痛いほど理解した。
この子にとって、森と城は、どちらも故郷なのだ。
「……我輩は」
スネイプは、小さく呟いた。
「我輩は、あの子に何かを与えることができたのだろうか」
イリスは微笑み、迷いなく答える。
「世界を二つ、よ」
スネイプはその言葉に目を伏せた。
胸の奥に、ゆっくりと熱が満ちていく。
冷たい風が、頬を撫でた。
老いていく身体は、その冷たさを以前よりも強く感じる。
だが、左手に絡むイリスの手の温もりと、遠くで笑うルーセンの声が、その冷えを押し返していく。
「……我輩の残りの時間など、たかが知れている」
スネイプは静かに言った。
「だが」
彼は焚き火の向こうの小さな背を見つめる。
「あの子の時間には、もう我輩が刻まれている。
それで十分だ」
イリスはその言葉を聞き、そっと彼の肩に頭を預けた。
「ええ。十分よ。
あなたがそう思えるようになるまで、よく生きてくれたわね、セブルス」
スネイプは、自嘲にも似た息を吐いた。
「また勝手に総括するな」
「だって……」
イリスは少しだけ体を寄せ、彼の頬に軽くキスを落とす。
「あなたは、もう独りじゃないでしょう?」
その一言に、長く続いた孤独の記憶が、静かに遠のいていく。
焚き火の火が揺れる。
森の影が踊る。
生徒たちとエルフたちの笑い声が重なり合う。
その少し離れた木陰で、三つの影が静かに繋がっていた。
大人になりきれない少年と、老い始めた男と、変わらぬ姿の女。
時間は不均等に流れる。
誰にとっても公平ではない。
それでも、その中で交わされた愛と記憶だけは、確かに残る。
スネイプはそっと目を閉じた。
もし、この先どれほどの時間が残されていようと。
すでに、自分の人生は
「独りでいればよかったもの」ではなくなっている。
彼は目を開け、隣のイリスと、焚き火の向こうのルーセンを見つめた。
「……我輩の人生も、悪くなかった」
その呟きは、風に溶けて消えた。
だが、隣にいた女と、少し離れた場所の少年には、確かに届いていた。
夜が、静かに降りてくる。
夕暮れの後に灯る、ささやかな火のように。
彼らの家族の時間は、まだゆっくりと、続いていた。
