特別編
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君が産まれるまで(後編)
臨月が近づくにつれ、イリスの歩みはさらに慎重になっていった。
階段の段差ひとつ、椅子から立ち上がる動作ひとつ。
そのすべてを、スネイプは息を詰めるように見守っていた。
ある夕暮れ、ホグワーツの空は淡い橙から群青へと色を変えつつあった。
窓辺には薄い霧がかかり、外の世界を柔らかくぼかしている。
イリスは自室のソファに腰を下ろしていた。
大きく膨らんだ腹の上にそっと指を重ねていた。
スネイプはイリスの正面のソファに腰掛けて読んでいた本を閉じた。
紙が擦れる音が、静かな部屋に小さく響く。
イリスの呼吸がやや荒いように感じたからだ。
「……苦しくはないか」
彼は立ち上がり、彼女の前へ歩み寄った。
声はいつも通りの低さでありながら、どこか探るような揺れが混ざっている。
イリスは一瞬、答えをためらった。
唇を噛み、視線を落とす。
その沈黙を見ただけで、スネイプの胸に不穏な熱が灯る。
「……セブルス」
彼を見上げた瞳は、わずかに潤んでいた。
「赤ちゃんに会えるのは、とても嬉しいの。
でも……少し、怖い。」
その言葉は、思ったよりも脆く、細くこぼれた。
「出産のことも……初めてで、どれほど痛むのか想像がつかなくて。
無事に産めるのか、私にきちんと育てられるのか……。
こんなふうに体が思うように動かなくなって……セブルスに頼ってばかりで……。」
言葉を重ねるほど、声が震えていく。
腹の上に置かれた手が、ぎゅっと布を握りしめた。
「……あなたに負担ばかりかけている気がして。
迷惑なのではないかと、ふと考えてしまうの。」
最後の一言が落ちた瞬間、スネイプの胸の奥で何かがきつく鳴った。
迷惑。
その言葉に、自分がどれほど遠い場所まで来たのかを思い知らされる。
かつての自分なら、誰かに頼られることも、求められることも、負担ではなく恐怖だった。
今は逆だ。
頼られないことの方が、よほど怖い。
スネイプはイリスの前に膝をついた。
黒いローブが床に広がり、彼女の膝元まで静かに流れる。
伸ばした手が、慎重に腹に触れる。
そしてもう片方の手はイリスの手をそっと握る。
「怖がらずともよい」
低い声が、柔らかく空気を震わせた。
「お前も、この子も……我輩が守る」
言いながら、自分の言葉がどれほど大きな約束なのかを理解していた。
だが撤回する気はなかった。
それはもはや、彼の存在そのものと同じ重さを持つ誓いだった。
イリスの睫毛が震え、涙が一筋、頬を伝う。
「……私が、頼りすぎているとは思わないの?」
「思わん」
答えは短く、断言に近かった。
「体の変化は、お前の責ではない。
命を宿すというのは、そういうことだ。
不便になるのも、苦しくなるのも、当然だ。
それに寄り添うことが煩わしいなどと、誰が決めた」
彼は指先で腹のふくらみをそっと撫でる。
指は震えていたが、その震えには迷いよりも、深い畏れが宿っていた。
「我輩がお前に頼られていることを、負担だと思うな。
……むしろ、ありがたく思っているくらいだ。」
言葉にしてしまえば、あまりにも不器用な告白だった。
だが、そこに嘘は一つもなかった。
イリスは涙で滲んだ視界の中で、その顔を見つめた。
いつも冷静で、自分よりも先に他者を切り捨てるような表情をしていた男が、今は難しい顔をしながらも、確かに自分と腹の子を見ている。
「……セブルス」
彼女はゆっくりと手を伸ばし、スネイプの頬に触れた。
指の腹で、皮膚の温度を確かめるように撫でる。
「あなたがいてくれるから、私は……怖くても、前へ進めます」
スネイプは一瞬、目を伏せた。
胸の奥がいっぱいになる感覚に、言葉が出てこない。
それでも、黙っているには足りなかった。
「我輩は、お前に頼られることを厭わぬ。
怒鳴り、呆れ、文句を言うことはあるだろうが……迷惑だと思ったことは、一度もない」
彼は立ち上がり、そっとイリスを抱き寄せた。
強く抱きしめれば負担になる。
だから腕は、彼女の背と肩へゆるく回されるだけだった。
それでも、胸の奥では抱きしめたい衝動が暴れる。
二人とも無事にここまでたどり着いた安堵と、これから訪れる未知への恐怖が、彼の中で複雑に絡み合っていた。
「……大丈夫だ」
彼は彼女の髪に顔を埋めるようにして囁いた。
「お前は、良い母になる。
我輩が保証する」
イリスの肩の震えが、ゆっくりと鎮まっていく。
涙で濡れた頬を、スネイプの胸元の布が静かに受け止めた。
やがて、彼はわずかに身を離し、イリスの顔を覗き込んだ。
涙の跡が残るその頬に指を添え、親指でそっと拭う。
赤い瞳と黒い瞳が、近い距離で絡み合う。
スネイプは、言葉より先に唇を寄せた。
額に。
頬に。
そして、ためらいがちに唇へ。
それは激しいものではなく、確認するような、誓いを封じるようなキスだった。
長くも、深くもない。
ただ、確かな温度だけがそこにあった。
イリスは瞳を閉じ、そのキスを静かに受け入れた。
胸の奥に溜まっていた不安が、少しずつ溶け出していく。
父になる覚悟は、その瞬間、スネイプの中でひとつ形を持った。
守る、と言葉にしたものが、ようやく現実の重さを伴いはじめていた。
───
夜が深まり、ホグワーツは静寂の衣を纏っていた。
寝室の灯りは落とされ、窓の向こうには星々の瞬きが、薄いカーテン越しにぼんやりと滲んでいる。
ベッドの上、イリスは横向きに眠っていた。
背中を支えるように枕がいくつも重ねられ、足の間にも枕を置き、膨らんだ腹が負担にならない姿勢を探している。
スネイプはイリスと向き合うように横になり、彼女の少しの表情の変化も、息遣いさえも見逃すまいとしていた。
だが、彼はほとんど動かなかった。
固い板切れのように同じ姿勢を保ち、呼吸だけを静かに繰り返している。
「……セブルス」
イリスが、暗がりの中でそっと呼んだ。
「動いても大丈夫よ?」
彼は一瞬、返事をしなかった。
暗闇の中で目を開き、彼女の背中の線を見つめる。
「動かない」
「でも、窮屈じゃ──」
「お前の体に負担がかかる方が問題だ」
彼の声はいつもよりさらに低く、抑え込まれていた。
それは、彼自身の欲と恐怖を同時に縛りつけている音でもあった。
イリスは微かに笑う。
「以前の私たちなら……もう少し、自分のことを優先してたよね、きっと。」
「以前は、愚かだっただけだ」
スネイプは、暗闇の中でイリスの顔を、見つめた。
過去の自分がぼんやりと浮かぶような気がする。
衝動に任せて傷つけ、後悔し、それでもなお欲を憎みきれなかった、あの日々。
それを繰り返したくはなかった。
「今の我輩にとって第一なのは、お前とこの子だ」
彼は言葉を噛みしめるように続けた。
「欲望よりも、安眠の邪魔をせぬことの方が優先される。
……信じられぬ変化だがな」
イリスは振り返らないまま、柔らかく言った。
「私は、好きよ。
今のあなたも、前のあなたも、全部」
その言葉が、暗闇の中で静かに落ちていく。
スネイプは短く息を吸い、吐いた。
返事はしなかった。
代わりに、ほんの少しだけ身体を寄せる。
彼女の腹に触れないぎりぎりの距離で、体温だけを重ねた。
そしてイリスはスネイプの手にそっと触れる。
「ねぇ、セブルス……ひとつ、聞いてもいい?」
「なんだ」
普段よりも少し甘く落ちた声。
それがスネイプの胸の奥をかすかに揺らす。
イリスは枕に顔を半分埋め、赤い瞳だけで彼を見た。
その瞳には大人の理性と、彼の前でだけ見せる幼いほどの信頼が入り混じっていた。
「……この子が生まれて、落ち着いたら……」
一呼吸分の沈黙。
「また、あなたと……夜を過ごせますか?」
スネイプの喉が微かに震えた。
答えを失うほど、その問いは真っ直ぐだった。
イリスはすぐに続ける。
「無理をしたいわけじゃないの。ただ……あなたが恋しいの。
触れられるのも、抱きしめられるのも、全部……。
大切にしてくれてるのも分かってるでも……。
でもね、」
小さく息を吸い、囁くように言った。
「あなたがほしいの」
スネイプの胸に熱が走った。
懐かしく、苦しく、そしてどうしようもなく愛しい熱。
その熱を悟られまいと、彼は一度だけ深く息を押し殺した。
「……イリス」
声は驚くほど掠れていた。
それでも、言葉は確かだった。
「落ち着いたら……いずれ、必ず。
その時は……我輩の方が、お前を求めるだろう。」
イリスの頬がふわりと赤く染まったような気がした。
瞳がきらめき、胸がわずかに上下した。
「……約束よ、セブルス。」
「軽々しく約束を口にする男ではない。言った以上は、果たす。」
スネイプはそっと手を伸ばし、彼女の頬の輪郭をなぞった。
もっと触れたいのに、触れられない。
それがなおさら、二人の間の温度を深くした。
「今は……無理はするな。
だが、お前が望むなら……いつでも言え」
イリスは微笑んだ。
大人びた静けさと、恋人に甘える少女のような可憐さが同時に宿る笑み。
「ええ。あなたに言うわ、ちゃんと。
だって……セブルスのじゃないと、だめだから」
その言葉に、スネイプは瞼をわずかに伏せた。
感情が胸の奥で静かに、しかし大きく揺れる。
「……眠れ、イリス」
「はい。……おやすみ、セブルス」
暗闇の中、2人の体温は優しく重なり合っていた。
生まれてくる子の未来と、
その先に再び交わる夜の約束を抱きながら。
イリスはスネイプの温もりを感じながら目を閉じる。
彼の不器用な愛情が、肌を通じて伝わってくるようだった。
───
ある夜、いつもと違う音が静寂を破った。
イリスが、腹に添えていた手をわずかに揺らす。
「……あ」
小さな声が漏れた。
「どうした」
後ろからすぐに声が飛ぶ。
スネイプは半身を起こし、彼女の顔を覗き込もうとした。
イリスは薄闇の中で微笑んだ。
赤い瞳が、星明かりを映す。
「セブルス。……触ってみて?」
「何をだ」
「お腹に」
スネイプは一瞬、言葉を失う。
胸の鼓動が、どくりと大きく跳ねた。
「……そういうものは、安易に触れてよいものか?」
「父親だからこそ、感じてほしいの。」
イリスは彼の手首をそっと取り、自分の腹の上へ導いた。
大きく膨らんだその丸みは、服越しでも十分に温かい。
「ここで。少し待ってて。」
スネイプは、置き所を探すようにぎこちなく掌を広げた。
彼女の肌を傷つけないよう、慎重に力を抜く。
息をひそめるような静けさが訪れた。
そして──
ぽん、と、内側から小さな衝撃が走った。
「……っ」
スネイプの指先がわずかに跳ねた。
目を見開き、息が止まる。
もう一度。
今度は、先ほどより少し強く、掌のどこかを押される感覚。
イリスが嬉しそうに笑った。
「動いてる。分かる?」
スネイプは答えられなかった。
ただ、掌に集中するように目を伏せる。
彼の手の中で、確かに何かが生きている。
自分とイリスの間に生まれた、小さな命が、確かな意思を持つように、彼の手を押し返していた。
「……痛くはないのか」
しばらく経ってから、ようやく声を絞り出す。
「痛くないとは言えないけど……嫌な痛みではないわ。
これは、ここに生きているという証だから。」
イリスの声は柔らかく揺れる。
まるで、腹の中の子に語りかけているような口調だった。
スネイプは再び、腹の一点に意識を集中させる。
手を押し返してくる何かは、自分とイリスの境界を超えて生まれた存在だ。
「……我輩に似て、無遠慮だな」
口から零れた言葉は、いつもの皮肉の形をしていた。
だが声色だけは、信じられないほど優しかった。
イリスは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「そうね。
あなたに似て、遠慮なく、まっすぐに主張してくるのかもしれないわ。」
「それは困るな。」
言いながらも、スネイプの指先はそっと腹を撫でる。
そこに宿る小さな命に、どんな言葉をかければよいのか、彼にはまだ分からない。
ただ、その存在を認めるように、確かめるように、何度も静かに撫でた。
──我輩は父親になるのか。
その事実は、今でもどこか現実味を欠いていた。
父という言葉に、彼はろくな記憶を持たない。
だからこそ、自分がどう振る舞うべきなのか、手探りの連続だった。
だが、掌の下で脈打つこの小さな力が、
彼に選択を迫る。
過去のように、何も守れないまま立ち尽くすのか。
それとも、初めて、自分から誰かを守る側に立つのか。
スネイプは、イリスの腹に置いた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……心配は要らん」
静かな声が落ちる。
「お前も、この子も。
我輩が必ず守る」
それは、誰に聞かせるでもない誓いだった。
それでも、イリスはその言葉を逃さなかった。
「セブルス」
彼女はその名を、愛おしく転がすように呼ぶ。
「あなたが、父親になる姿を見ることができる。
……とても幸せよ。」
スネイプは返事をしなかった。
代わりに、彼女の額に唇を寄せる。
短く、静かな口づけ。
それは、まだ生まれぬ子供にも向けられた祝福のようだった。
ホグワーツの窓の外では、夜と朝の境目が静かに溶け合っていた。
冷たい石の城の中で、ひとつの命が育まれ、
ひとりの男が、ゆっくりと父へと変わっていく。
その変化に、彼自身がいちばん戸惑っていた。
しかしその戸惑いすらも、いまは悪くないと、胸のどこかで微かに思っていた。
お前と、この子がいる世界なら──
たとえどれほど不器用でも、何度でもやり直せる。
スネイプはそう信じたいと、初めて願った。
その願いを包み込むように、
イリスの腹の下で、小さな命がもう一度、彼の掌を内側から叩いた。
臨月が近づくにつれ、イリスの歩みはさらに慎重になっていった。
階段の段差ひとつ、椅子から立ち上がる動作ひとつ。
そのすべてを、スネイプは息を詰めるように見守っていた。
ある夕暮れ、ホグワーツの空は淡い橙から群青へと色を変えつつあった。
窓辺には薄い霧がかかり、外の世界を柔らかくぼかしている。
イリスは自室のソファに腰を下ろしていた。
大きく膨らんだ腹の上にそっと指を重ねていた。
スネイプはイリスの正面のソファに腰掛けて読んでいた本を閉じた。
紙が擦れる音が、静かな部屋に小さく響く。
イリスの呼吸がやや荒いように感じたからだ。
「……苦しくはないか」
彼は立ち上がり、彼女の前へ歩み寄った。
声はいつも通りの低さでありながら、どこか探るような揺れが混ざっている。
イリスは一瞬、答えをためらった。
唇を噛み、視線を落とす。
その沈黙を見ただけで、スネイプの胸に不穏な熱が灯る。
「……セブルス」
彼を見上げた瞳は、わずかに潤んでいた。
「赤ちゃんに会えるのは、とても嬉しいの。
でも……少し、怖い。」
その言葉は、思ったよりも脆く、細くこぼれた。
「出産のことも……初めてで、どれほど痛むのか想像がつかなくて。
無事に産めるのか、私にきちんと育てられるのか……。
こんなふうに体が思うように動かなくなって……セブルスに頼ってばかりで……。」
言葉を重ねるほど、声が震えていく。
腹の上に置かれた手が、ぎゅっと布を握りしめた。
「……あなたに負担ばかりかけている気がして。
迷惑なのではないかと、ふと考えてしまうの。」
最後の一言が落ちた瞬間、スネイプの胸の奥で何かがきつく鳴った。
迷惑。
その言葉に、自分がどれほど遠い場所まで来たのかを思い知らされる。
かつての自分なら、誰かに頼られることも、求められることも、負担ではなく恐怖だった。
今は逆だ。
頼られないことの方が、よほど怖い。
スネイプはイリスの前に膝をついた。
黒いローブが床に広がり、彼女の膝元まで静かに流れる。
伸ばした手が、慎重に腹に触れる。
そしてもう片方の手はイリスの手をそっと握る。
「怖がらずともよい」
低い声が、柔らかく空気を震わせた。
「お前も、この子も……我輩が守る」
言いながら、自分の言葉がどれほど大きな約束なのかを理解していた。
だが撤回する気はなかった。
それはもはや、彼の存在そのものと同じ重さを持つ誓いだった。
イリスの睫毛が震え、涙が一筋、頬を伝う。
「……私が、頼りすぎているとは思わないの?」
「思わん」
答えは短く、断言に近かった。
「体の変化は、お前の責ではない。
命を宿すというのは、そういうことだ。
不便になるのも、苦しくなるのも、当然だ。
それに寄り添うことが煩わしいなどと、誰が決めた」
彼は指先で腹のふくらみをそっと撫でる。
指は震えていたが、その震えには迷いよりも、深い畏れが宿っていた。
「我輩がお前に頼られていることを、負担だと思うな。
……むしろ、ありがたく思っているくらいだ。」
言葉にしてしまえば、あまりにも不器用な告白だった。
だが、そこに嘘は一つもなかった。
イリスは涙で滲んだ視界の中で、その顔を見つめた。
いつも冷静で、自分よりも先に他者を切り捨てるような表情をしていた男が、今は難しい顔をしながらも、確かに自分と腹の子を見ている。
「……セブルス」
彼女はゆっくりと手を伸ばし、スネイプの頬に触れた。
指の腹で、皮膚の温度を確かめるように撫でる。
「あなたがいてくれるから、私は……怖くても、前へ進めます」
スネイプは一瞬、目を伏せた。
胸の奥がいっぱいになる感覚に、言葉が出てこない。
それでも、黙っているには足りなかった。
「我輩は、お前に頼られることを厭わぬ。
怒鳴り、呆れ、文句を言うことはあるだろうが……迷惑だと思ったことは、一度もない」
彼は立ち上がり、そっとイリスを抱き寄せた。
強く抱きしめれば負担になる。
だから腕は、彼女の背と肩へゆるく回されるだけだった。
それでも、胸の奥では抱きしめたい衝動が暴れる。
二人とも無事にここまでたどり着いた安堵と、これから訪れる未知への恐怖が、彼の中で複雑に絡み合っていた。
「……大丈夫だ」
彼は彼女の髪に顔を埋めるようにして囁いた。
「お前は、良い母になる。
我輩が保証する」
イリスの肩の震えが、ゆっくりと鎮まっていく。
涙で濡れた頬を、スネイプの胸元の布が静かに受け止めた。
やがて、彼はわずかに身を離し、イリスの顔を覗き込んだ。
涙の跡が残るその頬に指を添え、親指でそっと拭う。
赤い瞳と黒い瞳が、近い距離で絡み合う。
スネイプは、言葉より先に唇を寄せた。
額に。
頬に。
そして、ためらいがちに唇へ。
それは激しいものではなく、確認するような、誓いを封じるようなキスだった。
長くも、深くもない。
ただ、確かな温度だけがそこにあった。
イリスは瞳を閉じ、そのキスを静かに受け入れた。
胸の奥に溜まっていた不安が、少しずつ溶け出していく。
父になる覚悟は、その瞬間、スネイプの中でひとつ形を持った。
守る、と言葉にしたものが、ようやく現実の重さを伴いはじめていた。
───
夜が深まり、ホグワーツは静寂の衣を纏っていた。
寝室の灯りは落とされ、窓の向こうには星々の瞬きが、薄いカーテン越しにぼんやりと滲んでいる。
ベッドの上、イリスは横向きに眠っていた。
背中を支えるように枕がいくつも重ねられ、足の間にも枕を置き、膨らんだ腹が負担にならない姿勢を探している。
スネイプはイリスと向き合うように横になり、彼女の少しの表情の変化も、息遣いさえも見逃すまいとしていた。
だが、彼はほとんど動かなかった。
固い板切れのように同じ姿勢を保ち、呼吸だけを静かに繰り返している。
「……セブルス」
イリスが、暗がりの中でそっと呼んだ。
「動いても大丈夫よ?」
彼は一瞬、返事をしなかった。
暗闇の中で目を開き、彼女の背中の線を見つめる。
「動かない」
「でも、窮屈じゃ──」
「お前の体に負担がかかる方が問題だ」
彼の声はいつもよりさらに低く、抑え込まれていた。
それは、彼自身の欲と恐怖を同時に縛りつけている音でもあった。
イリスは微かに笑う。
「以前の私たちなら……もう少し、自分のことを優先してたよね、きっと。」
「以前は、愚かだっただけだ」
スネイプは、暗闇の中でイリスの顔を、見つめた。
過去の自分がぼんやりと浮かぶような気がする。
衝動に任せて傷つけ、後悔し、それでもなお欲を憎みきれなかった、あの日々。
それを繰り返したくはなかった。
「今の我輩にとって第一なのは、お前とこの子だ」
彼は言葉を噛みしめるように続けた。
「欲望よりも、安眠の邪魔をせぬことの方が優先される。
……信じられぬ変化だがな」
イリスは振り返らないまま、柔らかく言った。
「私は、好きよ。
今のあなたも、前のあなたも、全部」
その言葉が、暗闇の中で静かに落ちていく。
スネイプは短く息を吸い、吐いた。
返事はしなかった。
代わりに、ほんの少しだけ身体を寄せる。
彼女の腹に触れないぎりぎりの距離で、体温だけを重ねた。
そしてイリスはスネイプの手にそっと触れる。
「ねぇ、セブルス……ひとつ、聞いてもいい?」
「なんだ」
普段よりも少し甘く落ちた声。
それがスネイプの胸の奥をかすかに揺らす。
イリスは枕に顔を半分埋め、赤い瞳だけで彼を見た。
その瞳には大人の理性と、彼の前でだけ見せる幼いほどの信頼が入り混じっていた。
「……この子が生まれて、落ち着いたら……」
一呼吸分の沈黙。
「また、あなたと……夜を過ごせますか?」
スネイプの喉が微かに震えた。
答えを失うほど、その問いは真っ直ぐだった。
イリスはすぐに続ける。
「無理をしたいわけじゃないの。ただ……あなたが恋しいの。
触れられるのも、抱きしめられるのも、全部……。
大切にしてくれてるのも分かってるでも……。
でもね、」
小さく息を吸い、囁くように言った。
「あなたがほしいの」
スネイプの胸に熱が走った。
懐かしく、苦しく、そしてどうしようもなく愛しい熱。
その熱を悟られまいと、彼は一度だけ深く息を押し殺した。
「……イリス」
声は驚くほど掠れていた。
それでも、言葉は確かだった。
「落ち着いたら……いずれ、必ず。
その時は……我輩の方が、お前を求めるだろう。」
イリスの頬がふわりと赤く染まったような気がした。
瞳がきらめき、胸がわずかに上下した。
「……約束よ、セブルス。」
「軽々しく約束を口にする男ではない。言った以上は、果たす。」
スネイプはそっと手を伸ばし、彼女の頬の輪郭をなぞった。
もっと触れたいのに、触れられない。
それがなおさら、二人の間の温度を深くした。
「今は……無理はするな。
だが、お前が望むなら……いつでも言え」
イリスは微笑んだ。
大人びた静けさと、恋人に甘える少女のような可憐さが同時に宿る笑み。
「ええ。あなたに言うわ、ちゃんと。
だって……セブルスのじゃないと、だめだから」
その言葉に、スネイプは瞼をわずかに伏せた。
感情が胸の奥で静かに、しかし大きく揺れる。
「……眠れ、イリス」
「はい。……おやすみ、セブルス」
暗闇の中、2人の体温は優しく重なり合っていた。
生まれてくる子の未来と、
その先に再び交わる夜の約束を抱きながら。
イリスはスネイプの温もりを感じながら目を閉じる。
彼の不器用な愛情が、肌を通じて伝わってくるようだった。
───
ある夜、いつもと違う音が静寂を破った。
イリスが、腹に添えていた手をわずかに揺らす。
「……あ」
小さな声が漏れた。
「どうした」
後ろからすぐに声が飛ぶ。
スネイプは半身を起こし、彼女の顔を覗き込もうとした。
イリスは薄闇の中で微笑んだ。
赤い瞳が、星明かりを映す。
「セブルス。……触ってみて?」
「何をだ」
「お腹に」
スネイプは一瞬、言葉を失う。
胸の鼓動が、どくりと大きく跳ねた。
「……そういうものは、安易に触れてよいものか?」
「父親だからこそ、感じてほしいの。」
イリスは彼の手首をそっと取り、自分の腹の上へ導いた。
大きく膨らんだその丸みは、服越しでも十分に温かい。
「ここで。少し待ってて。」
スネイプは、置き所を探すようにぎこちなく掌を広げた。
彼女の肌を傷つけないよう、慎重に力を抜く。
息をひそめるような静けさが訪れた。
そして──
ぽん、と、内側から小さな衝撃が走った。
「……っ」
スネイプの指先がわずかに跳ねた。
目を見開き、息が止まる。
もう一度。
今度は、先ほどより少し強く、掌のどこかを押される感覚。
イリスが嬉しそうに笑った。
「動いてる。分かる?」
スネイプは答えられなかった。
ただ、掌に集中するように目を伏せる。
彼の手の中で、確かに何かが生きている。
自分とイリスの間に生まれた、小さな命が、確かな意思を持つように、彼の手を押し返していた。
「……痛くはないのか」
しばらく経ってから、ようやく声を絞り出す。
「痛くないとは言えないけど……嫌な痛みではないわ。
これは、ここに生きているという証だから。」
イリスの声は柔らかく揺れる。
まるで、腹の中の子に語りかけているような口調だった。
スネイプは再び、腹の一点に意識を集中させる。
手を押し返してくる何かは、自分とイリスの境界を超えて生まれた存在だ。
「……我輩に似て、無遠慮だな」
口から零れた言葉は、いつもの皮肉の形をしていた。
だが声色だけは、信じられないほど優しかった。
イリスは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「そうね。
あなたに似て、遠慮なく、まっすぐに主張してくるのかもしれないわ。」
「それは困るな。」
言いながらも、スネイプの指先はそっと腹を撫でる。
そこに宿る小さな命に、どんな言葉をかければよいのか、彼にはまだ分からない。
ただ、その存在を認めるように、確かめるように、何度も静かに撫でた。
──我輩は父親になるのか。
その事実は、今でもどこか現実味を欠いていた。
父という言葉に、彼はろくな記憶を持たない。
だからこそ、自分がどう振る舞うべきなのか、手探りの連続だった。
だが、掌の下で脈打つこの小さな力が、
彼に選択を迫る。
過去のように、何も守れないまま立ち尽くすのか。
それとも、初めて、自分から誰かを守る側に立つのか。
スネイプは、イリスの腹に置いた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……心配は要らん」
静かな声が落ちる。
「お前も、この子も。
我輩が必ず守る」
それは、誰に聞かせるでもない誓いだった。
それでも、イリスはその言葉を逃さなかった。
「セブルス」
彼女はその名を、愛おしく転がすように呼ぶ。
「あなたが、父親になる姿を見ることができる。
……とても幸せよ。」
スネイプは返事をしなかった。
代わりに、彼女の額に唇を寄せる。
短く、静かな口づけ。
それは、まだ生まれぬ子供にも向けられた祝福のようだった。
ホグワーツの窓の外では、夜と朝の境目が静かに溶け合っていた。
冷たい石の城の中で、ひとつの命が育まれ、
ひとりの男が、ゆっくりと父へと変わっていく。
その変化に、彼自身がいちばん戸惑っていた。
しかしその戸惑いすらも、いまは悪くないと、胸のどこかで微かに思っていた。
お前と、この子がいる世界なら──
たとえどれほど不器用でも、何度でもやり直せる。
スネイプはそう信じたいと、初めて願った。
その願いを包み込むように、
イリスの腹の下で、小さな命がもう一度、彼の掌を内側から叩いた。
