特別編
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君が産まれるまで(前編)
※ルーセンが産まれるまでの話です
全てが終わったホグワーツの朝は、いつもと変わらず淡い霧に包まれていた。
尖塔をかすめる白い靄と、冷えた石造りの廊下。
何十年も続いてきた光景のはずなのに、その中でひとつだけ明確に変わったものがある。
教室の一角。
黒板に向かってノートを取る、イリスの姿だ。
ローブの前をやわらかく持ち上げるように、腹が丸く膨らみ始めている。
白い髪が肩から胸元へと滑り落ち、赤い瞳が真剣に板書を追っていた。
そのすぐ後ろの席には、本来そこに座るはずのない男が腰を下ろしていた。
セブルス・スネイプ。
普段なら教壇に立ち、生徒を一瞥しただけで教室を凍り付かせる男が、その日は授業を受ける生徒のように椅子に座り、腕を組んでイリスの後ろ姿を見ていた。
もちろん、授業を受けたいわけではない。
理由はただ一つ。
少しでも、彼女が危うい目に遭う可能性を減らすため。
転倒。
床の水滴。
不用意に伸ばされた他人の手。
そうした些細な危険が、今の彼には耐え難いものに思えた。
「……転んだらどうする」
休み時間、イリスが椅子から立ち上がろうとした瞬間、背後から低い声が落ちる。
「教室の床で転ぶほど不器用ではないわ、セブルス」
「油断という言葉を知らんのか。お前は本を見ている時、周囲が全く見えなくなるだろう」
そう言いながら、スネイプは杖先を僅かに動かし、彼女の席の周囲だけ、床を乾かす乾燥の呪文をそっと走らせる。
彼女の足元に危険がないことを確認してからでなければ、ひとつ息を吐くこともできない。
その様子を、前方の席から女子生徒たちがちらちらと振り返り、ひそひそと囁きを交わしていた。
「見て、まただよ……あの目」
「スネイプ先生が“優しい顔”してる……」
「こわ……いや、でも……ちょっと、良くない?」
「イリス先生のこと見てる時だけ、なんか違うんだよね……」
「しっ……聞こえたら減点されるってば!」
スネイプには、その囁きまでは届いていない。
しかし、イリスに向ける視線が普段より長くなっていることは、彼自身でも気づいていた。
彼女がペンを走らせる時、少しだけ眉を寄せる癖がある。
難しい理論に集中する時、唇がほんの僅かに尖る。
椅子から立つ前に、一度だけ腹に手を添える。
その一つ一つに、彼は目が離せなかった。
教壇に立っていたときには、決して意識しなかったような仕草ばかりだった。
──我輩は、いつからこんなにも、ひとりの存在に縛られるようになったのだ。
そう自問するたびに、胸の奥で熱がゆっくりと広がる。
それは、かつて知っていた“執着”とは違うものだった。
苦く渇いたものではなく、守りたいと思うほど怖くなる、柔らかく脆いもの。
チャイムが鳴り、授業が終わると、教室は一気に騒がしさを取り戻した。
その瞬間、女子数名が一斉にイリスのもとへ駆け寄る。
「イリス先生!今日の体調はどうですか!」
「せ、先生のお腹、触ってもいいですか!?」
イリスは自分の腹にそっと手を添え、柔らかく微笑んだ。
「ええ、構わな──」
「触るな。下がれ。全員黙れ」
低い声が空気を裂いた。
スネイプがいつの間にか立ち上がり、黒いローブを翻してイリスと生徒たちの間にすっと割り込んだ。
ローブの裾が床を撫で、半月状に広がる。
生徒たちは一斉に肩をすくめる。
「せ、先生、でも、ちょっとだけ……」
「その“ちょっと”が危険なのだ。妊婦の腹を不用意に押すな。お前たちの粗雑な力加減など信用ならん」
言葉は容赦がない。
だが、そこには普段のような“見せつける残酷さ”はなく、ただ過剰なまでの恐れと焦りが滲んでいた。
万が一のことがあってはならない。
たとえその可能性が限りなく低くとも、彼にとっては十分すぎる脅威だった。
イリスは、そんな彼の背中を見つめ、くすりと笑った。
「セブルス。大袈裟ね。でも……ありがとう」
スネイプは振り向かない。
ローブの裾を払いながら、冷ややかに言葉を投げた。
「事実を述べただけだ」
それでも、その耳朶がわずかに赤く染まっているのを、イリスは見逃さない。
近くにいた生徒たちもまた、その僅かな変化を見逃してはいなかった。
「ねぇやっぱり、スネイプ先生、イリス先生のことになると過保護じゃない?」
「でも優しいよね。言い方はすごいけどさ……」
「“愛する人には甘い”ってやつ?」
「なにそれ……いい……」
授業内容そっちのけで、
「スネイプ先生、実は愛妻家説」が、校内のある一角で密かに広まり始めていた。
当の本人は、そんな噂に気づくはずもない。
彼の意識はいつも、危うい話題を回避することで手一杯だった。
「イリス先生、赤ちゃんってどうやって──」
「黙れと言った」
「じゃあスネイプ先生とはどんな風に結ばれ──」
「黙れ。次はないぞ」
「……はい」
イリスはといえば、いつも通り穏やかに微笑みながら、何かを話そうとする気配を見せる。
「そういえばセブルスとの最初の──」
「授業は終了だ。解散しろ」
「えっ、まだ何も──」
「終わりだと言った」
生徒たちは口を尖らせながらも、どこか楽しげに教室を後にしていく。
その背を見送りながら、イリスは小さく笑った。
「人気ですね、セブルス」
「我輩は人気など望んでおらん」
「でも、あなたが優しいことは……もう皆、知ってしまいましたね」
スネイプは鼻を鳴らし、視線を逸らした。
しかし、その横顔には、かつてのような冷え切った孤独の影はもう薄かった。
彼の世界は、気づかぬうちに変わっていた。
自ら望んだわけではない。
ただ、彼女がそこにいて、命を宿しているという事実が、世界そのものの輪郭を塗り替えつつあった。
───
日々は静かに、しかし確実に進んでいく。
イリスの腹は少しずつ重くなり、歩幅も、階段の昇り降りも、以前と同じようにはいかなくなっていた。
それを、誰よりも敏感に見ていたのがスネイプだった。
廊下を歩けば、隣から低い声が飛んでくる。
「転ぶな」
「転びませんよー。」
「油断は事故の温床だ。段差に気をつけろ」
彼は先に歩いて、石段の状態を確かめてからでなければイリスを階段に近づけなかった。
階段に差し掛かれば、必ず先に彼の手が伸びる。
「階段は危険だ。ここで待て」
「セブルス、そこまでしなくても──」
「黙って腕を取れ」
その言い方は乱暴なのに、差し出される腕は驚くほど慎重だった。
指先はそっとイリスの肘の少し下に触れ、バランスを崩さないよう、負担だけを引き受ける。
本棚で分厚い書物に手を伸ばそうものなら、その前に彼の手が上から本を取ってしまう。
「それは我輩が持つ」
「大丈夫です。これくらい──」
「お前の“これくらい”は信用ならん」
自分の手の中に収まる本の重みよりも、
もし彼女の身体に負担がかかるかもしれないという想像の方が、よほど恐ろしかった。
イリスはその度に、ふわりと笑った。
「ありがとう、セブルス」
礼を言われると、スネイプは途端に居心地悪そうな顔をして、わざとらしくため息を吐く。
「礼など要らぬ。お前が無茶をしなければ済む話だ」
だが、その言葉に棘はなかった。
不器用な皮肉の下で、彼の胸の内はただひとつの願いに縛られていた。
お前と、この子を、無事にこの世界へ導きたい。
それだけが、今の彼の理屈をすべて支えていた。
───
スネイプの気遣いは、イリスの周囲へも広がっていく。
ハグリットの小屋を訪れたある日、
スネイプは大きな男の前で腕を組んで立っていた。
「イリスに与える食べ物についてだが」
「おう、先生!
この前のあの大きな肉、イリスにはどうだった? ドラゴンの──」
「脂と塩分と、正体不明の獣の内臓を固めたものを二度と渡すな」
「……え?」
「妊娠中の者に与える食事ではない。次に持たせたら、お前ごと煮込むだろうな?」
「ひ、ひどい言い草だな先生……。じゃあ今度は、甘く煮たカボチャでも持たせるさ」
「砂糖は控えろ」
「…………」
ハグリットは情けない顔でひげを撫でる。
だがその目は、どこか嬉しそうでもあった。
スネイプがここまで誰かのことを思って言葉をぶつける姿など、長い教師生活の中でも見たことがなかったからだ。
別の日には、スラグホーンの部屋から低い怒声が響いた。
「妊婦に酒を勧めるなと何度言えば分かるのだ、スラグホーン」
「おやおやセブルス、少し香りを楽しむくらい──」
「“少し”だろうと関係はない。胎児に影響が出る可能性を一切考えぬのか。その調子では頭の中は全てシロップ漬けのパイナップルのようで?」
「なんとも手厳しい……まったく、昔の可愛いセブ君はどこへ行ったやら……」
「死んだ」
スラグホーンはふてくされたように唇を尖らせたが、その目は愉快そうだった。
スネイプが誰かのために本気で怒る姿を、この男もまた、嬉しく思っていた。
そして医務室では、マダム・ポンフリーの前に立つ黒いローブが日常の景色になりつつあった。
「昨日は少し腰が痛いと……」
「この時期には珍しくない症状よ、スネイプ先生。重みのかかり方が変わるもの」
「体勢はどうするのが最善だ。枕を増やした方がいいのか。散歩時間は……」
一通りの相談を終えた後、必ず最後にこう問う。
「……我輩は、過保護になってはいないか」
ポンフリーは眼鏡の奥の瞳を細め、口元を緩める。
「ええ。とてもね」
スネイプの表情が僅かに固まる。
「そうか」
「でも、それでいいのよ。
あの子はきっと、あなたが過保護でいてくれることを、心の底から嬉しく思っているわ」
その言葉に、スネイプは返事をしなかった。
ただ、ローブの袖の中で指をゆっくりと握りしめる。
過保護。
かつて彼に向けられることなど決してなかった言葉だ。
その響きが、奇妙なほど胸に温かく沈んでいく。
───
やがて、スネイプの変化は、教職員だけでなく生徒たちの前でも明らかになっていった。
廊下を歩けば、必ずイリスの歩幅に合わせる。
階段では、彼女が一段上がるごとに手を添える。
イリスが担当する授業の前には、必ず彼女の授業準備を全て請け負い、始まる寸前までずっとそばにいるのだ。
そして生徒たちへくれぐれも無茶はさせるなと鋭い目つきで釘刺して去っていく。
「……スネイプ先生、普通に優しい……」
「イリス先生と夫婦になってから変わったよね」
「いや、もともとそうだったのかもよ?
今まで誰も、それを見ようとしなかっただけでさ」
気づけば、スネイプとイリスは、
「恐ろしくも尊い、推したくなる二人」として、
一部の生徒たちから眺められる存在になっていた。
当人たちだけが、それを知らない。
───
ホグワーツは、冷たい石造りの城でありながら、
いつの間にか、二人を囲む小さな家族のような空気を纏い始めていた。
マクゴナガルはある日、職員室でスネイプをまっすぐ指さした。
「スネイプ。冬の廊下は凍りやすい。なのでしっかりと確認しておくのですよ。」
「は?」
「妊婦が滑ったらどうするの。私の心臓がもたないわ」
フリットウィックは弾む声で報告してきた。
「一部の階段の段差を一段減らしておきました! イリス先生が移動しやすいようにね!」
「……勝手な改造は──」
「ちゃんと許可は取りましたとも! 校長にもね!」
スネイプは額に手を当て、小さく息をつく。
自分の意図とは別のところで、世界が勝手に優しくなっていくのを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
戦いの後、久しぶりにホグワーツを訪れたハリー達。
イリスとハーマイオニーが会話に花を咲かせている間にハリーは、ぎこちない面持ちでスネイプの前に立った。
「あの……スネイプ先生。僕に、何かできることはありますか?」
スネイプは本から目を離さず、短く答えた。
「ない」
それでもハリーは、不思議と腹が立たなかった。
その横顔には、かつての刺々しい憎悪ではなく、どこか満たされた影が宿っていたからだ。
「……相変わらずですね、スネイプ先生」
そう呟きながらもハリーは、語気が柔らかくなったスネイプの変化に嬉しさを隠しきれなかった。
ハーマイオニーは両手いっぱいに紙袋を抱え、興奮したように早口でまくしたてる。
「イリス、これ……赤ちゃん用のおくるみと、必要そうなものをいくつか持ってきたわ。
それから、魔法界とマグル界それぞれの育児本も……比べてみると、面白いのよ。」
その後ろで、ロンが気まずそうに立っていた。
「あー……おふくろがさ、“ぜひ渡してきなさい”って」
差し出された包みの中には、
手編みの腹巻きとセーター、小さな小さな赤ん坊用の靴下まで入っていた。
イリスはそれらを一つ一つ手に取り、そっと頬を緩める。
「……とても、温かいわ。ありがとう」
スネイプは部屋の隅で腕を組んだまま黙っていたが、
ロンとハリーが帰り際、振り返ったとき、ほんの一瞬だけ深く会釈をする姿を見た。
2人はは目を丸くし、何も言わずにハーマイオニーの後を追った。
双子の店からは、その日も妙な差し入れが届いていた。
「“妊娠中でも爆発しない”祝いの花火、だそうです」
イリスが苦笑混じりに箱を掲げると、スネイプは露骨に眉をひそめた。
「……燃やしておけ」
口ではそう言いながら、箱を自ら取り上げて積み上げる。
完全に嫌っているのなら、その場で処分させたはずだ。
そうしないあたりが、彼らしい曖昧な優しさだった。
ホグワーツの誰もが、喧しく騒ぎ立てるわけではない。
けれど、それぞれが出来る形で、イリスとその腹の子に心を寄せていた。
その中心にいるスネイプは、相変わらず不器用で、無愛想だった。
そして、誰よりも優しかった。
彼自身は、自分が変わったという自覚を持とうとしない。
ただひとつ、胸の奥に根を張った確信だけがあった。
お前と、この子だけは、何としても守る。
それが今の彼の、生きる理由だった。
※ルーセンが産まれるまでの話です
全てが終わったホグワーツの朝は、いつもと変わらず淡い霧に包まれていた。
尖塔をかすめる白い靄と、冷えた石造りの廊下。
何十年も続いてきた光景のはずなのに、その中でひとつだけ明確に変わったものがある。
教室の一角。
黒板に向かってノートを取る、イリスの姿だ。
ローブの前をやわらかく持ち上げるように、腹が丸く膨らみ始めている。
白い髪が肩から胸元へと滑り落ち、赤い瞳が真剣に板書を追っていた。
そのすぐ後ろの席には、本来そこに座るはずのない男が腰を下ろしていた。
セブルス・スネイプ。
普段なら教壇に立ち、生徒を一瞥しただけで教室を凍り付かせる男が、その日は授業を受ける生徒のように椅子に座り、腕を組んでイリスの後ろ姿を見ていた。
もちろん、授業を受けたいわけではない。
理由はただ一つ。
少しでも、彼女が危うい目に遭う可能性を減らすため。
転倒。
床の水滴。
不用意に伸ばされた他人の手。
そうした些細な危険が、今の彼には耐え難いものに思えた。
「……転んだらどうする」
休み時間、イリスが椅子から立ち上がろうとした瞬間、背後から低い声が落ちる。
「教室の床で転ぶほど不器用ではないわ、セブルス」
「油断という言葉を知らんのか。お前は本を見ている時、周囲が全く見えなくなるだろう」
そう言いながら、スネイプは杖先を僅かに動かし、彼女の席の周囲だけ、床を乾かす乾燥の呪文をそっと走らせる。
彼女の足元に危険がないことを確認してからでなければ、ひとつ息を吐くこともできない。
その様子を、前方の席から女子生徒たちがちらちらと振り返り、ひそひそと囁きを交わしていた。
「見て、まただよ……あの目」
「スネイプ先生が“優しい顔”してる……」
「こわ……いや、でも……ちょっと、良くない?」
「イリス先生のこと見てる時だけ、なんか違うんだよね……」
「しっ……聞こえたら減点されるってば!」
スネイプには、その囁きまでは届いていない。
しかし、イリスに向ける視線が普段より長くなっていることは、彼自身でも気づいていた。
彼女がペンを走らせる時、少しだけ眉を寄せる癖がある。
難しい理論に集中する時、唇がほんの僅かに尖る。
椅子から立つ前に、一度だけ腹に手を添える。
その一つ一つに、彼は目が離せなかった。
教壇に立っていたときには、決して意識しなかったような仕草ばかりだった。
──我輩は、いつからこんなにも、ひとりの存在に縛られるようになったのだ。
そう自問するたびに、胸の奥で熱がゆっくりと広がる。
それは、かつて知っていた“執着”とは違うものだった。
苦く渇いたものではなく、守りたいと思うほど怖くなる、柔らかく脆いもの。
チャイムが鳴り、授業が終わると、教室は一気に騒がしさを取り戻した。
その瞬間、女子数名が一斉にイリスのもとへ駆け寄る。
「イリス先生!今日の体調はどうですか!」
「せ、先生のお腹、触ってもいいですか!?」
イリスは自分の腹にそっと手を添え、柔らかく微笑んだ。
「ええ、構わな──」
「触るな。下がれ。全員黙れ」
低い声が空気を裂いた。
スネイプがいつの間にか立ち上がり、黒いローブを翻してイリスと生徒たちの間にすっと割り込んだ。
ローブの裾が床を撫で、半月状に広がる。
生徒たちは一斉に肩をすくめる。
「せ、先生、でも、ちょっとだけ……」
「その“ちょっと”が危険なのだ。妊婦の腹を不用意に押すな。お前たちの粗雑な力加減など信用ならん」
言葉は容赦がない。
だが、そこには普段のような“見せつける残酷さ”はなく、ただ過剰なまでの恐れと焦りが滲んでいた。
万が一のことがあってはならない。
たとえその可能性が限りなく低くとも、彼にとっては十分すぎる脅威だった。
イリスは、そんな彼の背中を見つめ、くすりと笑った。
「セブルス。大袈裟ね。でも……ありがとう」
スネイプは振り向かない。
ローブの裾を払いながら、冷ややかに言葉を投げた。
「事実を述べただけだ」
それでも、その耳朶がわずかに赤く染まっているのを、イリスは見逃さない。
近くにいた生徒たちもまた、その僅かな変化を見逃してはいなかった。
「ねぇやっぱり、スネイプ先生、イリス先生のことになると過保護じゃない?」
「でも優しいよね。言い方はすごいけどさ……」
「“愛する人には甘い”ってやつ?」
「なにそれ……いい……」
授業内容そっちのけで、
「スネイプ先生、実は愛妻家説」が、校内のある一角で密かに広まり始めていた。
当の本人は、そんな噂に気づくはずもない。
彼の意識はいつも、危うい話題を回避することで手一杯だった。
「イリス先生、赤ちゃんってどうやって──」
「黙れと言った」
「じゃあスネイプ先生とはどんな風に結ばれ──」
「黙れ。次はないぞ」
「……はい」
イリスはといえば、いつも通り穏やかに微笑みながら、何かを話そうとする気配を見せる。
「そういえばセブルスとの最初の──」
「授業は終了だ。解散しろ」
「えっ、まだ何も──」
「終わりだと言った」
生徒たちは口を尖らせながらも、どこか楽しげに教室を後にしていく。
その背を見送りながら、イリスは小さく笑った。
「人気ですね、セブルス」
「我輩は人気など望んでおらん」
「でも、あなたが優しいことは……もう皆、知ってしまいましたね」
スネイプは鼻を鳴らし、視線を逸らした。
しかし、その横顔には、かつてのような冷え切った孤独の影はもう薄かった。
彼の世界は、気づかぬうちに変わっていた。
自ら望んだわけではない。
ただ、彼女がそこにいて、命を宿しているという事実が、世界そのものの輪郭を塗り替えつつあった。
───
日々は静かに、しかし確実に進んでいく。
イリスの腹は少しずつ重くなり、歩幅も、階段の昇り降りも、以前と同じようにはいかなくなっていた。
それを、誰よりも敏感に見ていたのがスネイプだった。
廊下を歩けば、隣から低い声が飛んでくる。
「転ぶな」
「転びませんよー。」
「油断は事故の温床だ。段差に気をつけろ」
彼は先に歩いて、石段の状態を確かめてからでなければイリスを階段に近づけなかった。
階段に差し掛かれば、必ず先に彼の手が伸びる。
「階段は危険だ。ここで待て」
「セブルス、そこまでしなくても──」
「黙って腕を取れ」
その言い方は乱暴なのに、差し出される腕は驚くほど慎重だった。
指先はそっとイリスの肘の少し下に触れ、バランスを崩さないよう、負担だけを引き受ける。
本棚で分厚い書物に手を伸ばそうものなら、その前に彼の手が上から本を取ってしまう。
「それは我輩が持つ」
「大丈夫です。これくらい──」
「お前の“これくらい”は信用ならん」
自分の手の中に収まる本の重みよりも、
もし彼女の身体に負担がかかるかもしれないという想像の方が、よほど恐ろしかった。
イリスはその度に、ふわりと笑った。
「ありがとう、セブルス」
礼を言われると、スネイプは途端に居心地悪そうな顔をして、わざとらしくため息を吐く。
「礼など要らぬ。お前が無茶をしなければ済む話だ」
だが、その言葉に棘はなかった。
不器用な皮肉の下で、彼の胸の内はただひとつの願いに縛られていた。
お前と、この子を、無事にこの世界へ導きたい。
それだけが、今の彼の理屈をすべて支えていた。
───
スネイプの気遣いは、イリスの周囲へも広がっていく。
ハグリットの小屋を訪れたある日、
スネイプは大きな男の前で腕を組んで立っていた。
「イリスに与える食べ物についてだが」
「おう、先生!
この前のあの大きな肉、イリスにはどうだった? ドラゴンの──」
「脂と塩分と、正体不明の獣の内臓を固めたものを二度と渡すな」
「……え?」
「妊娠中の者に与える食事ではない。次に持たせたら、お前ごと煮込むだろうな?」
「ひ、ひどい言い草だな先生……。じゃあ今度は、甘く煮たカボチャでも持たせるさ」
「砂糖は控えろ」
「…………」
ハグリットは情けない顔でひげを撫でる。
だがその目は、どこか嬉しそうでもあった。
スネイプがここまで誰かのことを思って言葉をぶつける姿など、長い教師生活の中でも見たことがなかったからだ。
別の日には、スラグホーンの部屋から低い怒声が響いた。
「妊婦に酒を勧めるなと何度言えば分かるのだ、スラグホーン」
「おやおやセブルス、少し香りを楽しむくらい──」
「“少し”だろうと関係はない。胎児に影響が出る可能性を一切考えぬのか。その調子では頭の中は全てシロップ漬けのパイナップルのようで?」
「なんとも手厳しい……まったく、昔の可愛いセブ君はどこへ行ったやら……」
「死んだ」
スラグホーンはふてくされたように唇を尖らせたが、その目は愉快そうだった。
スネイプが誰かのために本気で怒る姿を、この男もまた、嬉しく思っていた。
そして医務室では、マダム・ポンフリーの前に立つ黒いローブが日常の景色になりつつあった。
「昨日は少し腰が痛いと……」
「この時期には珍しくない症状よ、スネイプ先生。重みのかかり方が変わるもの」
「体勢はどうするのが最善だ。枕を増やした方がいいのか。散歩時間は……」
一通りの相談を終えた後、必ず最後にこう問う。
「……我輩は、過保護になってはいないか」
ポンフリーは眼鏡の奥の瞳を細め、口元を緩める。
「ええ。とてもね」
スネイプの表情が僅かに固まる。
「そうか」
「でも、それでいいのよ。
あの子はきっと、あなたが過保護でいてくれることを、心の底から嬉しく思っているわ」
その言葉に、スネイプは返事をしなかった。
ただ、ローブの袖の中で指をゆっくりと握りしめる。
過保護。
かつて彼に向けられることなど決してなかった言葉だ。
その響きが、奇妙なほど胸に温かく沈んでいく。
───
やがて、スネイプの変化は、教職員だけでなく生徒たちの前でも明らかになっていった。
廊下を歩けば、必ずイリスの歩幅に合わせる。
階段では、彼女が一段上がるごとに手を添える。
イリスが担当する授業の前には、必ず彼女の授業準備を全て請け負い、始まる寸前までずっとそばにいるのだ。
そして生徒たちへくれぐれも無茶はさせるなと鋭い目つきで釘刺して去っていく。
「……スネイプ先生、普通に優しい……」
「イリス先生と夫婦になってから変わったよね」
「いや、もともとそうだったのかもよ?
今まで誰も、それを見ようとしなかっただけでさ」
気づけば、スネイプとイリスは、
「恐ろしくも尊い、推したくなる二人」として、
一部の生徒たちから眺められる存在になっていた。
当人たちだけが、それを知らない。
───
ホグワーツは、冷たい石造りの城でありながら、
いつの間にか、二人を囲む小さな家族のような空気を纏い始めていた。
マクゴナガルはある日、職員室でスネイプをまっすぐ指さした。
「スネイプ。冬の廊下は凍りやすい。なのでしっかりと確認しておくのですよ。」
「は?」
「妊婦が滑ったらどうするの。私の心臓がもたないわ」
フリットウィックは弾む声で報告してきた。
「一部の階段の段差を一段減らしておきました! イリス先生が移動しやすいようにね!」
「……勝手な改造は──」
「ちゃんと許可は取りましたとも! 校長にもね!」
スネイプは額に手を当て、小さく息をつく。
自分の意図とは別のところで、世界が勝手に優しくなっていくのを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
戦いの後、久しぶりにホグワーツを訪れたハリー達。
イリスとハーマイオニーが会話に花を咲かせている間にハリーは、ぎこちない面持ちでスネイプの前に立った。
「あの……スネイプ先生。僕に、何かできることはありますか?」
スネイプは本から目を離さず、短く答えた。
「ない」
それでもハリーは、不思議と腹が立たなかった。
その横顔には、かつての刺々しい憎悪ではなく、どこか満たされた影が宿っていたからだ。
「……相変わらずですね、スネイプ先生」
そう呟きながらもハリーは、語気が柔らかくなったスネイプの変化に嬉しさを隠しきれなかった。
ハーマイオニーは両手いっぱいに紙袋を抱え、興奮したように早口でまくしたてる。
「イリス、これ……赤ちゃん用のおくるみと、必要そうなものをいくつか持ってきたわ。
それから、魔法界とマグル界それぞれの育児本も……比べてみると、面白いのよ。」
その後ろで、ロンが気まずそうに立っていた。
「あー……おふくろがさ、“ぜひ渡してきなさい”って」
差し出された包みの中には、
手編みの腹巻きとセーター、小さな小さな赤ん坊用の靴下まで入っていた。
イリスはそれらを一つ一つ手に取り、そっと頬を緩める。
「……とても、温かいわ。ありがとう」
スネイプは部屋の隅で腕を組んだまま黙っていたが、
ロンとハリーが帰り際、振り返ったとき、ほんの一瞬だけ深く会釈をする姿を見た。
2人はは目を丸くし、何も言わずにハーマイオニーの後を追った。
双子の店からは、その日も妙な差し入れが届いていた。
「“妊娠中でも爆発しない”祝いの花火、だそうです」
イリスが苦笑混じりに箱を掲げると、スネイプは露骨に眉をひそめた。
「……燃やしておけ」
口ではそう言いながら、箱を自ら取り上げて積み上げる。
完全に嫌っているのなら、その場で処分させたはずだ。
そうしないあたりが、彼らしい曖昧な優しさだった。
ホグワーツの誰もが、喧しく騒ぎ立てるわけではない。
けれど、それぞれが出来る形で、イリスとその腹の子に心を寄せていた。
その中心にいるスネイプは、相変わらず不器用で、無愛想だった。
そして、誰よりも優しかった。
彼自身は、自分が変わったという自覚を持とうとしない。
ただひとつ、胸の奥に根を張った確信だけがあった。
お前と、この子だけは、何としても守る。
それが今の彼の、生きる理由だった。
