第1章 アズカバンの囚人
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大広間。
イリスは分厚い本を広げ、頁に沈み込むように読みふけっていた。
紅い瞳は夢中に輝き、指先は紙の粒子をなぞる。世界は今、この本の中にだけあった。
その静けさを破ったのは、甲高い声だった。
「この前の返事は?」
顔を上げると、白金の髪を整えたドラコ・マルフォイが立っていた。両脇にはいつもの取り巻き。
イリスは沈黙したまま視線を落とす。
マルフォイは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふん……やはりお高くとまるだけか。人と違う目をして、気取って……孤立するのも当然だな」
皮肉と嫌味の混じった声。周囲の耳にも届くように、わざと強めに言った。
そこへ、はっきりした声が割り込む。
「やめなさい、マルフォイ!」
ハーマイオニーだった。勢いよく近づき、彼を引き剥がすように立ち塞がる。
「あなたって本当に、誰かに突っかからないと気が済まないのね」
マルフォイは鼻で笑い、「くだらない」と言い残して去っていった。
「気にしないで」ハーマイオニーが振り返り、小さく笑った。
「彼はいつもあんな調子だから」
その後、二人は本について語った。
ハーマイオニーは楽しそうに多くを語り、イリスは最小限の言葉を返す。
だが、その目の輝きとわずかな口元の動きは、隠しきれぬ喜びを滲ませていた。
そこへハリーとロンが入ってきた。
ロンが眉をひそめる。
「いつの間に……ハーマイオニー、あんなやつと?やめとけよ」
ハリーは興味を失ったように相槌だけを打ち、視線はどこか宙を彷徨っていた。
「授業に遅れるわよ」
ハーマイオニーが言い、イリスを伴って立ち上がる。二人は並んで大広間を後にした。
──
防衛術の授業。
ルーピンが温かな声で説明する。
「恐怖は形を変えて現れる……それがボガートだ」
次々と生徒たちが挑む。蜘蛛、ミイラ、教師の姿。笑いを交えて恐怖を払う練習が続く。
順番が近づき、ルーピンはイリスに目を向けた。
「君もやってみないか?」
「……理屈を理解してからでないと、できない。最後に」
そう答えた彼女の声は小さかったが、確固としていた。
やがて、ハリーの番。
ディメンターの姿に息を奪われるハリーを、ルーピンがすぐに庇い立った。
「リディクラス!」
月が風船に変わる。
だが風船は軌道を逸れ、閉じ込められるはずだったクローゼットには戻らず、イリスの前に転がった。
──次の瞬間、姿は変わる。
現れたのは、血に汚れたアルビノのエルフ。
骨と皮ばかりの身体、赤黒く爛れた手足首に食い込む鉄の枷。
胸に走る深い裂傷には蛆が湧きボトボトと床へこぼれ、布切れのような服はほとんど裸同然。
白髪は泥と血に絡み、頬はこけ落ち、瞳は濁りきった紅。
それはまるで死んだ直後のゾンビのような“かつてのイリス”だった。
その影が、生きているイリスに手を伸ばす。
「戻れ」
声なき声が耳を抉る。
──あの牢獄へ。孤独の底へ。
イリスの体は動かず、心臓を掴まれたように息ができなかった。
その時、白蛇がローブから飛び出した。
鋭い牙を剥き、ボガートに噛みつかんばかりに襲いかかる。
不意の威嚇に、ゾンビのような影は怯んで後ずさった。
「……っ!」
イリスは我に返り、手を前に突き出した。
その瞬間、粒子がざわめき、背後のクローゼットの木材が軋みを上げて飛び出した。
木材にみえるそれは生き物のようにボガートへと絡みつき、黒い影を押し戻しながら無理やり中へ引きずり込む。
バタン、と扉が閉まる音が響いた。
──授業は静まり返っていた。
生徒たちは顔を引きつらせ、声も出せずにイリスを見ていた。
ロンは青ざめて「うへ……気持ち悪ぃ……」と呟き
マルフォイは取り巻きの陰に半歩隠れている。
ハリーは放心状態のまま、なお荒い息をついていた。
ただハーマイオニーだけが、強く目を伏せて胸を押さえていた。あれは彼女の“過去”なのだと、痛烈に理解してしまったから。
ルーピンは静かに息を吐いた。
彼の心に浮かんだのはただ一つ──この子は「ただのエルフ」ではない。
生き延びるために、想像を絶する苦痛を耐えてきた存在だ。
その残酷さを目の当たりにして、彼は眼鏡の奥で痛みに似た哀惜を隠した。
授業を終える間際、ルーピンはイリスにだけそっと声をかけた。
「君は立ち向かった。……それは素晴らしいことだ」
──
夕食もろくに喉を通らず、数口で箸を置いたイリスは俯いて廊下を歩いていた。
その前に影が立つ。黒衣のスネイプだった。
「……何を見た」
低い声。
「……過去を」
掠れた声で返す。
短い沈黙。スネイプはほんのわずか眉を寄せ、それをすぐに隠すように冷たく吐き捨てた。
「……そうか。ならば、二度と縛られるな」
それ以上は何も言わず、踵を返す。
イリスは息を呑み、胸の奥に微かな救いを感じていた。
否定も、哀れみもなく──不器用な一言だけで、確かに届いたものがあった。
──
スネイプは自室の机に座り、静かに考えを巡らせる。
「……あの子の恐怖は、過去の自分自身だったんだ。」
昼間、ルーピンが告げた言葉が耳に残っていた。
「あの子は……虐げられてきた。想像を絶するほどにね」
スネイプは表情を動かさず、一言だけ返した。
「我輩の知ったことではない」
だが、心は波立っていた。
初めて見た紅い瞳の残像。
大広間で俯いた姿。
杖を手にした時に宿った小さな光
──そして今日、ルーピンが語った己の過去を直視した少女の影。
冷徹を装う瞳に、その光景は焼き付いて離れなかった。
