失う物と得る物 第一部(連載完結)
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確かに手にしたはずの貴方という存在を
あっさり失うだなんて…
私は確かに貴方を手にする事が出来たし
貴方も、確かに私を手にする事が出来た…
けど、あの時すべてを忘れてしまった貴方は
私の目の前から、まるで他人でも見るかのように消えた。
「うっ…」
もう丸三日。
何をしていてこんな森の中を歩いているのか、
あいにく見当さえつかない。
ただ、気がついたときに自分が手にしていた双剣には
べっとりと生々しい血が付いていた。
「水も、食料も、そこを尽きた…ここは一体どこなんだ。」
崖下の場所で放り投げられたように目が覚めた場所の周りには、死体が転がっていた。
見るからに深い森の中、ここを抜けることは容易ではないことを直感的に思った。
だから、本当に極少量しかなかった水と食料を死体から拝借した。
だがその食料も、ここ3日ですべてそこを尽きた。
手にしているものは、後一回分の少しばかり腹の足しになるであろう物だけ。
一向に出口の見えないこの深い森。
私はどこへ歩いているのか、まったく分からない。
それから、更に2日。
食べ物も水も口に入れず、ただ歩き続ける自分。
喉はカラカラで最初の頃よりも一日で歩く距離も徐々に短くなってきている。
「私も、そろそろ潮時だろうか…」
疲れの溜まった体には、この険しい森は余りにきつい。
それに付け加えて、自分には記憶がない。
なおさら体や、精神に掛かる負担は大きい。
しばらく歩いて、大きな巨木に腰をかけた。
歩きすぎて、ボロボロになった服。
それを眺めるだけで、己の歩いてきたその道の険しさを物語っている。
「私は、このまま死んでしまうのか…」
自分のことでわかっていることといえば『陸遜』という名前だけ。
そう…あの時目が覚めた時かすかに、まだ息のあった男がそう呼んでいた。
尊敬の眼差し。心配そうな眼をして自分を見つめる男。
何がなんだかわからなかった。
「陸遜…それが私の名前…何故、それしかわからないのか…」
短く、ハーとため息をつくと私は頭をガジガジと掻いた。
同じ風景のこの森。
まずは、ここから出ないといけないのに…
それが出来なければ、自分の記憶すら取り戻すことが出来ない。
うずくまっていると、突然人の気配がした。
「…あのっ…大丈夫……ですか!?」
不意に掛けられた焦ったような声。
驚いて、そちらを向けた。反射的に自分の腰にある双剣を相手に向ける。
無意識に行われた自分の行動に、少しばかり驚きながら
剣が、勢い良く差し出された人物は、
少しばかりびっくりしたような顔をしながら自分の剣でそれを防いでいた。
「え…あ…女性?」
見れば、それは武芸服に見をまとった美しい女性だった。
彼女はユアという名前だそうだ。
国と国との小競り合いで自分も武に長けているとかで
争いをしている一方の国の軍師の誘いを断るために、
落ち合う場所へ向かった後…つまり帰る途中だったらしい。
そして私という思わぬ拾い物をした彼女は、
自分の住んでいたのであろう小屋へ私を案内すると中に入れてくれた。
「はい。そこの湯殿は自由に使ってください。」
柔らかい声で彼女は言うと、タオルを私に渡して湯殿まで案内してくれた。
「本当は一緒に入って体を洗って差し上げたいのですが、
貴方は男性ですから…申し訳ありません。」
申し訳なさそうに言うと、彼女は小屋の奥に行ってしまった。
「……っ!」
一通り体を流し終えた私は、お湯が張ってあるその場所に体を沈める。
長い間、ほぼ休みもなく歩き続けた私の体はボロボロで、
ところどころに赤くはれ上がったり、葉によってできた傷が痛い。
その傷を、じっと眺めながら再びここはどこなのだろうかとため息をついた。
「あ、お帰りなさい。湯加減はどうでした?」
湯殿を出たら、おいしそうな匂いがした。
二日ぶりの食料の匂い。思わず喉がゴクリとなった。
席に座ってくださいといわれて、言われるままに座れば
すぐに目の前のご馳走を食す事が出来た。
「あは、ずいぶん急いで食べるんですね。大丈夫ですか?」
苦笑いしながら、私の食べっぷりを眺める彼女。
それほどまで自分が飢えていたのかと、実感した。
「あっすっすみません!なっ何分5日も歩きっぱなしで、
ほとんど何も飲んでも食べてもいなかったものでっ」
焦ったように言うと、ユアはニッコリ笑って軽く首を横に振った。
「いえ、そんなにがっつかれて食べていただけると、作ったかいがありますから遠慮なくどうぞ。」
そう言うと、コップに水を注ぎ込む。
「…ありがとう。ユア…」
「呉国の軍師に、武将になれと言われてお断りの言葉を言いに言った帰りに、
まさか貴方みたいな方と会うとは思いませんでした。」
「呉…?」
一段落着いて、水を少量飲みながら私はユアに聞き返す。
「えぇ。蜀と呉と魏。天下が三分された三つの国のうちのひとつです。
私はその呉国の軍師に武将として働いてはもらえないかとお話を戴いたのです。」
「武将?それはすごいですね!ユアは武芸がとても優れているのですか?」
「…まぁ多少は優れていないとはいえなくもないですが…
でも一番の理由は私の父が昔、呉の武将だったらしくて…それでだと…」
少しばかりはにかんだ笑みを私に向けると、ユアは足の傍らにかけてあった
剣を手にすると、それを鞘から抜き取った。
「人を殺して、国を手に入れる。今でもこれからの時代でもそれは変わらないと思います。
けれど、勝ち取った天下は時間や時代には勝て、ずやがて朽ちていく。
いずれはそうなる世の中の時代に手を貸しても良いものか…悩む所があって…」
「………。」
「そういえば、陸遜殿…貴方の先ほど来ていた服…
汚れてはいましたが、かなり上等な色でしたね。
貴方はどこの国の名家の方なのですか?」
「え?」
言われて言葉に詰まった。記憶がないのだ。
そう…あの崖にいた理由も、この深い森を抜ける方法を思い立った理由も
すべて本当の自分を取り戻すため。
「…私は…」
「え?」
「私には、分からないのです。この森を抜けてきた理由も、自分が誰なのかさえ…」
寂しくそう呟いた自分を、ユアはなぜか優しく抱きしめてくれた…
あの日、自分の武将登用の話し合いに来るはずだった男は
途中、敵の思わぬ奇襲にあい
そのことが原因で行方不明になったと聞いた。
二日も掛けていったふもとの集落で
私は、来た意味がないと悪態をつきながら自宅へ戻る途中だった。
「陸遜。私にわかっているのはこの自分の名前だけです。」
少しばかり不安そうに呟くと、彼はそのまま俯いてしまった。
それ以上を思い出そうとすると、頭痛がするんですと
下を向いたままいう彼に無理をしないでくださいと言った。
「ありがとうございます。ユアは…優しいんですね…」
微笑む彼の表情に、一瞬見とれた。
最初に会ったときのボロボロの彼とは違い、
現在の綺麗にされた身なりで、ましてや少年のあどけなさが残る彼に
微笑まれた。あまりにも素敵で、びっくりするほどだ。
「ユア?」
赤くなった顔で、そのまま彼を見ていたのだろうか
少し心配げに自分を眺める陸遜。
熱でもあるのかと、私の額に手を置いた。
―その行為が恥かしくて、触れられる事が懐かしすぎて…
―温かさを感じた。
―記憶のないこの少年から…安らぎと温かさを…
「無理は、しないほうがいいですよ。
記憶もない…助けていただいた私が言うのもなんですが…」
「あはは…お気遣い感謝します。」
それからしばらく、彼の体の回復を図るため
陸遜は私の小屋にとどまる事になった。
若くて、素敵な容姿。
そして、見るからに位の高そうな人なのに
身の回りの事を積極的にこなしたいという彼に驚いた。
掃除、家事…まきなどを集めに行く仕事には必ずついてきてくれていたし、
いつも笑顔を絶やさない…
―そんな彼をいつのまにか好きになってしまった。
だが、時々そんな幸せな瞬間の中…思うことがある。
―記憶が戻ってしまえば、彼はここから…
―私の目の前からいなくなってしまうのだろうと…
「ユア…今日のは…少ししょっぱいですね。」
食事中ぼーっとしていると、陸遜の声が聞こえて我に帰る。
「え?そうですか?…うぇっ!本当…でもこれは少しってもんじゃないわ…」
そう言ってユアは、作り直そうかと私の皿と自分の皿を持って厨房へ向かった…
彼女と暮らし始めて一月がたった。
記憶のないわけのわからない人間を女性が招きいれるだなんて…
本当に無防備な人だと思ったあの日から、
はじめて会ったユアの印象と、今の印象は違う。
男勝りで頼りになる方だと思ったあの時…
けれどそれは間違いで、とても可愛らしい素敵な人だという印象に変わった。
良くドジをしてすっ転ぶ所を見ているし、
自分の剣の修行でさえ、間違って手や足に傷を作るほどだ。
武に長けている人に限って、ここまでの人は今まで見たことがない。
そんな彼女に、次第に惹かれている自分がいることは確かだった…
「?」
見たことがない?
それはどういうことなのか…
ここのところ、わけのわからないことを瞬間的に考え、
自答自問を繰り返す。記憶がない以前は、一体自分は何をやっていたのか…
正直それが原因なのか…深く考える…
「このままの生活も悪くない…そんな気がしますね…」
料理を作り直しているユアの後姿を眺めながら、
私はゆっくり笑った。
―けど、そんな願いはすぐに壊れる…
―記憶は、戻る…真っ白に―
「陸遜…薪を10本ほど…外から取ってきて欲しいのだけれど…」
「えぇ。分かりました。ちょっと待っててくださいね。」
微笑みながら、小屋を出て裏に回った。
10本ほどの薪を…といわれてそこに行けば
本数分のそれが見当たらない。
そういえば、ここ数日はいろいろあって薪を割っていなかったなと思い、
いくつかの丸太を置いて、それを割った。
「それにしても、ずいぶん割ってなかったな…ユアに10本前後渡しに行ったら
いくつかばらしておこう…」
独り言を呟くと、私はそのまま言われた本数より少し多めに斬り終った
それを抱えて歩き出そうとする。
―ズキン
「くっ!」
突然激しい衝撃が頭にきた。
あまりに突然の事で、私はもっていた薪を地面にガラガラとバラバラにしてしまう。
「あっ…うっ…あぁ!!!」
襲いくる激痛。
初めてではないけれど、この痛みは今までの頭痛よりも
尋常の域を越えている。
―…ユア…。
不意に彼女の顔が浮かんだ。
今、このままの自分をほうっておけば後戻りができない気がして…
彼女に伝えなくちゃいけない気がして…
―何を?
「わからない…けれど、私にとっても彼女にとっても大切なこと…」
―言って…?
「言葉にして、それが全てを決める結果になったとしてもかまわない。」
―では、貴方は彼女に何を望む?
「私は…ユアを…」
「陸遜!!!!!どうしたの!?」
突然聞こえた彼女の声に、重い体をそちらへ向かせる。
とても心配している表情。それが見て取れた。
―あぁ…彼女は私を心配している。
はじめてあったときから、そんな彼女の行動が嬉しくて…
行為に甘えてばかりいた。
「寝室に…横になりましょう。すごい汗だわ。」
少し顔をしかめて、私を運ぼうとする。
おぼつかない足取りで、家の中に入ると私は彼女に言った。
「ユア…私は…貴女にいわなきゃならないことがあるんです。」
―ズキ!!!
たびたび襲い繰る激痛。
それでも言わなければいけない。
なんだか悪い予感がする。
「何?」
「私は、貴女が…好きなんです。」
言った言葉に彼女は目を見開いた。
驚いた顔に、やさしくキスを落とすと短い声とともにかわいらしい喘ぎ声にも似た声は
私の唇の中に吸い込まれた。
けれど、その羅列をつむいだはずの自分の唇は彼女の唇から話した瞬間動かなくなって
私はドサリと家の中の床に倒れこんだ。
目が冷めると見知らぬ女性がスヤスヤと寝息を立てていた。
あの時、崖下で運よく助かったのであろう自分を救ってくれたのだろうか…
よほど心配をしていたのか、
近くのテーブルには空になった皿と水差しが置かれていた。
体を起こして、女の顔を見つめるとどこか見覚えがあった。
が、どこで彼女を見たのかは思い出せなかった。
「陸…そ…ん…」
寝言だろうか…見知らぬ女は私を呼びながら、寝台のシーツをぎゅっとつかんだ。
女性とはいえ、見知らぬ女が目の前で眠っていることに
不思議と警戒心を隠せなかった。
崖下に落ちたとはいえ、あの時兵の報告では周辺に人家があることは
伝えられていなかったからだ。
「…見知らぬ場所。早急に此処を離れたほうがいい気がする。」
目の前の女など眼中になかった。
国に帰れば、美しい侍女達が待っていたから…
―それでも、私の中で何かがセーブをかける
―行って、それで…終わりでいいのか?
それでも、私は国を預かる身であり大切な部下がいる。
だから、こんなくだらない…どこの馬の骨とも知らぬ目の前の女のことなど
気にかけている暇などなかった…
寝台の横に、重なって置かれた自分の双剣。
前よりも綺麗に手入れがされていたことにすらその時は気がつかなかった。
礼など必要がないと思った。
所詮山奥に住む"あばずれ娘"。
会うことなどないと思っていたから…
―パタン
閉まる扉の音が、その時なぜか後ろ髪惹かれるような―…
目が覚めた時、陸遜は私の目の前で規則正しく眠っていると思っていた。
けれど、実際はちがくてそこには冷たくなったシーツが無造作に敷かれているだけで
人の気配はもとより、部屋どころか家の中のどこにも彼はいなかった…
そして、私はその時直感的に思った。
己の恐れていることが現実になってしまったことを…
「……そっかぁ…記憶が戻ってしまったのか…」
今までの彼だったならば、寝台は綺麗に整頓をしてくれていたはずであった。
それに、何も告げずにどこかに行くことなんてなかった。
それなのに…今のこれはなんだ?
「赤い服…上物の…双剣…なんで気がつかなかったのか…」
―誠、まさしく…彼…恋焦がれた男は位の高い…国を左右すべき者に違いなかったのに…
「馬鹿すぎて、嫌になる…私は、いつも無くなってから気がつく…馬鹿みたいだ。」
気持ちが通じたと思った矢先…
男は記憶を取り戻し、自分の下から去って行った。
つかみかけていた安らぎが、目の前には無くあっという間に消えてなくなった。
「陸遜…陸…ふっ…ぅっ…」
今だけ泣いてやる。
今だけ、声を張り上げて泣いてやる。
―もう、恋などしてやるものか…
数日後、例の麓から呉国の兵がやってきた。
武将登録の話し合いにくるはずの男が見つかったため、
再び村に来てくれとの用件だった。
私は、苦い記憶のあるこの家から放れるチャンスだと思い
近いうち準備をして出向くと返事をした。
「よくぞいらっしゃいました。ユア殿。お初にお目にかかります。呉国軍師、陸伯言です。」
まるで他人行儀のように話しかける彼。
私には声の調子から彼だとすぐに分かった。
短い期間とはいえ、ずっと一緒に居たのだもの…分からないはずがなかった。
「陸…」
言いかけて、その先を口にするのをやめた。
もはや記憶がないであろう彼を、呼んだところで
不審者と見られるのに決まっているからだ。
「お初にお目にかかります。ユア…と申します。」
一番口にしたくない言葉だった。悔しくて仕方がない…
すっと顔をあげて彼を見つめた。
それは変わらないあの人で、変わらない目で、声で私を迎えていた。
―ただ違うのは、私を他人でも見るかのような…
「ユア…?」
「え?」
見開いた目で私を見つめる彼。
けれど、その目はすぐに先ほどのなにも知らない目に戻った。
何故?
一瞬記憶が戻ったのかとおもったのに…
登用されて数日。私は何故か、陸遜の副将に任命された。
貴女のその声が、仕草が、日を追うごとに懐かしく感じる。
貴女のその笑顔が、笑い声が、不思議と当たり前だったかのような…
なぜだろう。知らないはずの貴女のはずなのに―…
「前線守備?」
「ええ。そうです。」
陸遜は専用の野営の中で、ユアにそういった。
「智将が前線だなんて、よっぽどやばいのですか?我らの国は…」
あきれた顔で言うユアに、陸遜は首を横に振った。
「いいえ。単なる布石ですよ。けれどやりようによっては、可にも不可にもなる。」
「つまりは?」
「私たち次第とでも言っておきましょう。」
「責任重大ね。」
さらりと言うと、彼は苦笑いをしながら今回の布陣を見つめた。
敵の数はほぼ同等。不利があると言えば、敵将の数くらいである。
しかも一人、二人の問題ではない。将の数が、自軍の倍の数なのだ。つまりはこうなる。
同等の数の割に、敵側は自分らよりもより高い士気が得られるという事なのだ。
裏を返せば、中央、右、左翼のどこか一角を崩せば、
普通より早い確率で片が付くというわけである。
通常、士気が高い軍は二分する。下手に数が多い軍で己を過信しすぎる軍。
あるいは、窮地に立たされどうにもならない軍。
今回の場合はタイプ的には前者である。人数の集中しそうな中央前線、
本陣等格好の的なのだ。
「ようは片っ端っから敵将を討ち取ればいいわけね?」
けだるそうに言うユアの言葉に、陸遜は思いのほか明るい声で返答をした。
「まぁ率直に言えばそうですね。貴女と私ならば簡単でしょう?」
ニヤリと笑う陸遜の目はどこか期待に満ちた目であった。
ユアはその表情を見るなり、少しばかりつらそうな顔をすると席を立った。
「どこへ行かれるのですか?」
「自分の夜営に戻るわ。」
少し低い声のトーンで言うと、ユアはそのまま出ていってしまった。
「覚えているわけがない…か…」
あの山小屋で初めて話をした時。
いつか、朽ちていくであろうその国に力を貸してよいものか…
あの時の会話等覚えているわけがない。
そうだ。なぜなら彼は自分を知らない。
二人で過ごしたほんの一時の時間…
記憶さえ覚えてはいないのだ…
「相変わらず、しかめた面してるねぇ…その辺親父さんにそっくりだね。」
「私が父上に?冗談が過ぎるわ凌統。」
与えられた夜営に向かう途中、陵統に呼び止められたユアは手をヒラヒラさせて言う。
「冗談なんか言わないって。あんたの親父さんには世話になったし、あんたにも世話になった。」
武将だったユアの父親はいつも凌統を可愛がっていた。
それこそ、ユアを嫁にどうだ?と、冗談めかしながらいうほど。
ユアも彼を慕っていたし、凌統も彼女を可愛がっていた。
けれど武芸はいつもユアが勝り、凌統は悔しがりながらもユアと良く鍛練をしていた。
そんなわけで、二人は仲がよかった。
ユアにとって当たり前のコミュニケーションが、彼には世話になったという意識らしい。
「別に私は世話などしてないし。父もそうは思ってないと思うわよ。
あなたがここまで来れたのは、あなた自身の努力の結果でしょう?」
「そういうそっけないとこが、変わらないんだよな…」
男がはにかんだ笑みを作ると、女も作ったよう笑みを見せる。
そして言うのだ。なにかを悟ったような…
「私は変わらない。例えこれからなにがあろうと…変わることはない…私は私だから…」
「ユア?」
「ううん。なんでもない。明日は戦だし、もうもどるわね。」
「あ、ああ…」
拍子抜けした声を上げると、凌統はただ彼女の後ろ姿を見つめた。
その時、私は失った物が大きすぎて、無くなったものがありすぎて…
記憶が…邪魔過ぎてどうになかってしまいそうで…
私の心は、今もあの人に捕われていて今もあの人に縛られていて…
強すぎる執着が、自分を醜くさせているのに我慢ができなかったのか…
押し寄せる苦痛が…私を縛り付けて離さない。
そう欲しい物は、
貴方の心。
そして記憶…
気付いて欲しかった…私の呼び掛けに…けど…
「ユア様!後方に援軍の要請が出ております!!」
生々しい血の溢れかえるその場所で、兵の一人がそう叫んだ。
振り返って声の主の方に顔を向けると、彼は返り血で真っ赤だった。
ユアも人のことは言えず、真っ赤にしながら少しばかり曇った表情をすると男に口を開いた。
「ご苦労様。持ち場に戻っていいわ。直ぐに援軍に向かいます。後は作戦通り展開します。」
一礼をそそくさとすると、兵はそのまま走っていった。
ユアは声を張り上げて陸遜に叫ぶ。
「陸遜殿!!」
それが合図かのように、彼が頷くと手綱を持った右手を勢いよく前に下ろした。
「今が好況です!作戦通り展開せよ!!」
自軍の兵がワッと声に応えるように歓声を上げる。
その瞬間彼女は武器を鞘に収めて、馬に跨がり走り出す。
「ユア殿!!!」
すれ違う瞬間、彼は声を掛けた。
視線をそちらに向けるユアは、どこか…死を覚悟しているような…
「後は任せました。よろしくお願いします!!」
「ええ…」
そうね…覚えているはずがない。貴方は私を知らないし、覚えていないもの…
―――…ユア?
「さよなら。陸遜。」
「え…?」
―ズキン
「…っ!!」
『彼女に伝えなくちゃいけない気がして…』
―何を?
『わからない…けれど、私にとっても彼女にとっても大切なこと…』
―言って…?
『言葉にして、それが全てを決める結果になったとしてもかまわない。』
―では、貴方は彼女に何を望む?
「『私は……』」
『人を殺して、国を手に入れる。今でもこれからの時代でもそれは変わらないと思います。』
「『ユア殿?』」
一瞬、目まぐるしく蘇る記憶に気を失いそうだった。なぜ…
―貴女の全てを無くした私について来たのですか…
「駄目です!!!ユア殿!!!」
叫びながらあの言葉を思い出した。
『勝ち取った天下は時間や時代には勝てず、やがて朽ちていく。
いずれはそうなる世の中の時代に手を貸しても良いものか…悩む所があって…』
何より戦いを好まなかった貴女。
いずれの世と、己が天下のために尽くしたはずのその結果。
その度に人の血は流れ、また…朽ちて逝く世を…
―貴女に、こんなことをさせたくはなかったのに。
反射的に、身体は彼女の方へ…けれど、それに制止をかけたのは自軍の兵達だった。
そうだ。作戦を決行すると言ったのは自分なのだ。
「自業自得だ。私は…っ」
貴女に辛い思いをさせた。
あげくのはてに貴女を忘れ、今も…貴女を死にいたらしめる。
「それでも…私は、貴方を失いたくはない。あの時貴女を好きだと口にした言葉は…」
―紛れも無い真実なんです。
「もう、いいのかい?」
援軍先で凌統は私に気がつくと、一言声をかける。
「えぇ、もういいの。全部、置いてきたから…」
この広い大地に、私と陸遜があの時間を過ごしたことを語れるものはいない。
語れるわけがないのだ。
短い期間だったけれど、共に過ごしたあの時間を語れるものなど…
「死を怖れたら負けだわ。ここは、戦場なのよ。」
初めて出会ったあの時に口にした言葉を覚えているわけがない。
貴方はもう、私の知るアナタではないのだから…
「怖れず進め!!この局面に、我らの勝敗がかかっている!!!!」
剣を片手に、援軍の兵らと敵軍に突っ込む。
軍の一角を崩せば、後は軍師が指揮をとるだろう。
私はここにはいないと思うけれど…
「あんたは、俺が守る。だから、死ぬなっ」
横を走る凌統に背中を押される。
私は、少し笑みを作ると彼にこくりとうなづいて軍勢に雪崩れ込んだ。
「申し上げます!凌統殿、ユア殿両名、敵右翼にて交戦中!敵兵、将共に多数の為、中々目的地へとたどり着けず時間がかかるとのことです!」
後方で、戦局を見つめる陸遜は伝令を下がらせると、自軍の状況を焦った表情で見守っていた。初陣を経験したあのころ以上に、自らの焦りが出ているようで、手のひらが汗ばんでいて、気持ちが悪い。
「ユア…」
どうやれば、彼女を助けられるだろう。
どうすれば、彼女をこちらに連れてこれるだろう。
どうすれば…どうすれば…
いつも冷静でいなくてはいけないのに、常に正しい判断をしなければいけないのに。
味方を犠牲にしようと、この戦に勝たなければいけない事なのに、今はどうしても彼女のことが気になって頭が働かないのだ。
「陸遜…お前、どうしたというのだ…?」
見かねた呂蒙がそう言って、肩に手を置く。
「落ち着け。お前らしくない。どうしたんだ…?今は戦に集中しないかっ」
そうはいっても、自分ではどうすることも出来ないのだ。
いくら、記憶がなかったからといっても自分は自ら大切な人を戦地へ、死地に向かわせてしまった。その事実が、自らの心臓を押しつぶす。
「私は…私には…」
この局面をうまく取り仕切る自信がない。
この戦況をひっくり返す自信がないのだ。
彼女を殺してしまう。
犠牲にしてしまう。
策を提案した時、貴女は私の顔を見開いて見つめた。それは、貴女を犠牲にすることをいとわなかったから。
それなのに、今の私はどうなのか…
「私には、無理です。無理なのです。呂蒙殿…」
「…。もういい、天幕で待機だ。お前は今ここには必要ない。」
厳しい一言を浴びせられ、私は震える足でその場を後にしようとする。
「右翼にて、応戦中の凌統をゆっくり後退させろ。陸遜の副官のユアを壁に、少しずつ、我が軍の後方へ誘き寄せるのだっ!」
「っ!!!」
耳を疑った。
盾にすると?
彼女を?
壁にすると?
あの大群の中、あの距離を後退するまで?
「なぜっ!?何故ですか!?今ならば、両隊後退で十分大丈夫なはずです!!どうしてっ!」
「何を言っている。将である凌統とお前の副官であるユア。重要度は凌統のほうを優先して守るのが優先事項だろう。」
「ですが彼女はっ…」
「将を守るのは副官の役目だ。お前の副官であろうと、今は凌統の軍と同等とみなす。新参者のあの者にとっては十分大役のはずだろう。」
「呂蒙殿っ!!!!」
「後退だ!体勢を立て直す!!」
伝令を出す上司に、陸遜はなすすべもなくそのまま強引に天幕へと戻らざる終えず慌ただしく動き回る兵を横目に、唇をかむことしか出来なかった。
「えぇ、大丈夫よ。分かったわ。…後退!距離をとりつつ後退!」
伝令からその事実を聞かされ、私は剣を握り直しそう叫んだ。
「ユアっ!お前もっ」
交戦しながら、名前を呼ばれて私は凌統に笑顔を作る。
さ よ な ら
― ―
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
制止をかけるように叫ぶ凌統の声に耳を貸さず先頭に立って突っ込む。
今、ここで時間稼ぎをしなければ凌統を逃がすことは出来ない。暴れて暴れて、その後、後退すればいい。
「私はユアっ!死にたい者からくるがいいっ!」
副官如き、やったところで大したことはないことも分かってる。兵を死なせないようにしようとすることも当たり前だ。けれど、私は…
貴方をどう忘れればいいのか分からない。
きりがない敵の群。
きりがない、この感情。
陸遜…
陸遜…
陸遜っ…
―ギィィィィ…ン!!!!
「はぁっ!」
敵の腕を食い込ませて勢いよく斬る。
叫び声をあげながらうずくまる敵。
横から同時に2人が襲いかかってきて、私は跳ねて後ろへ。今度は後ろからの攻撃に、私は男の首を落とす。
「この程度で、やられる私ではないっ!…く…っ!!!!!」
力任せになぎ倒して、私はゆっくり後退する。
「皆、耐えよ!!持ちこたえ…………」
ガッ!
「…っあ…」
後頭部と上半身に激痛が走る。
「…っ…」
「ユア様っ!」
部下の声に首を振って笑みを作る。
「…怯むなっ!…ま、だ…後退することはでき…ないっ!…っ…耐えろ!」
攻撃をよろけながら受け止めて、私は叫んだ。今、ここで後退するわけにはいかない。将である彼を自陣に誘導するまでは倒れるわけにはいかない。
―ズバッ!!!
「っ!ふざっ…ふざけるなっ!!」
受け止めた攻撃が男の力によって押しつけられ、背後から大きく斬り込まれる。
痛みで顔を歪ませて、相手を蹴りつけた。
「全軍後退!後退っ!!!」
凌統…?
「な、んで…」
途切れそうな意識そのままに、私は彼に抱きしめられる。
「馬鹿っ…や…ろっ!」
泣かないでよ、これで楽になれるんだから…
楽…に………。
「後頭部の強打、数カ所の矢傷と背中の大きな傷。これだけの怪我を負いながら、生きているとは信じられませんな。」
医師は汗を拭きながら言った。
「助かるのか?」
「私には何とも、後は本人の気力次第です…。手は尽くしましたが…」
意識のない彼女の頬をそっと撫でると、凌統は悔しげに唇を噛んだ。
「とにかく、最善を尽くしてくれ。生きてるなら必ず、必ず助かる筈だ。」
それは、自分に言い聞かせる言葉かもしれない。自らを正当化させたいが為の発言なのかもしれない。
「生きてくれ。」
ポツリと呟いた言葉は、凌統の本心であり願いだった。
こうなることは、最初から分かってた。この戦いは不利なものであり、優勢や拮抗するものではなかったから…
本当の私を知るものは、彼だけだった。本当の私を理解しようとしてくれたのは彼だけだった。
だから、もういいよ…
忘
れ
さ
せ
て
「……何泣いてるの?」
凌
統
犠牲を払うことと、切り捨てることは違う。
記憶がなかった私は、彼女を切り捨てる選択を選んだ。
「ユア殿が目を覚ました?それは本当ですか!?」
執務室に、女官がそう報告してくるなり私は慌てて部屋を出て行く。ユアに会いに行くため、謝罪するためだ。
廊下で礼をする兵達にはめもくれず、私は目的地へ足を早める。
「陸遜殿。面会でいらっしゃいますか?」
専属の女官に聞かれ、頷いた。
どうやら先に、凌統殿が居るようで私はそれでもいいから会わせてくれと願い出た。
「ユア殿っ!!よく無事でっ!」
入るなり、寝台にいた彼女にそう声をかけた。変わらない長い髪に、黒い瞳。包帯が巻かれ痛々しい姿ではあったが、そこに居たのは紛れもなくユアだった。
怪我と意識がないことで、ひと月近く眠ったままだったことは知っていた。見舞いに行くに行けず、仕事を懸命に処理した。
彼女がいつ目覚めてもいいようにするために…。
寝台の横に腰掛けて、手を握る。
ようやく会えたのだ。彼女を忘れていた自分のことを謝罪して、ユアをこれから守ると伝えよう。
この気持ちに嘘がないと、付け加えて…
「あの、ユア殿っ」
「凌統、この人は…誰?」
「は?お前何言ってるんだ?陸遜殿はお前の上官だろう。おいおい、冗談言うなって」
「知らないわ。私の上官は貴方ではないの?」
指を指され不思議そうな表情をして凌統殿に質問する彼女に、私は目を見開いたまま暫く硬直したままだった。
すべては罪なのだろうか…
彼女を忘れ、切り捨てることをした自分の罪なのか…
以前の貴女は、この気持ちを味わったのですか…?
『私』を知っていた『貴女』はこんなにも辛い思いをしていたのですか…
「……えぇ、初めましてですね。ユアっ殿…私は…陸遜…
陸 伯言です。」
それでもいい。
貴女が生きてさえいれば
私はそれでもいいんです。
貴女を愛していたこの記憶だけは…
私の胸の中にあるのだから…
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