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喧嘩の理由なんて、今更言葉にするのも憚られるくらいに些細な事だった。
それなのに思ってもいない言葉をただひたすら万次郎に浴びせて、万次郎もそれに言い返して来て。
そうしているうちに引き返せなくなって、その時の自分では元に戻す事が出来ないくらいに関係を歪めてしまっていた。
つまらないプライドだと、自分でも分かっている。
傷付けて、傷付けられて、そんな事の為に一緒にいる訳ではない事も。
分かっていたのに頭に血が上ってこんな事態を招いてしまった自分を、私はもう呪うしかなかった。
一度冷静になればその時の自分がどれほど幼くて未熟で愚かだったのか一瞬で理解出来るというのに、既に口に出してしまった言葉たちは今更取り消す事は出来ない。
後悔だけが残り、私の心を蝕んでいく。
万次郎を傷付けてしまった事を考えると心が痛くて仕方なくて、私の目からはポロポロと涙が止めどなく溢れ続けた。
薄暗い部屋の中で次々と流れ出る涙が枕を濡らしていく度、心の中を支配した負の感情に押し潰されそうになる。
今にも叫び出してしまいそうな衝動を必死に抑えながら、私は殻に閉じこもるように体を丸めて布団を被った。
けれどそんな事をしても涙が止まる事も心を支配する負の感情がなくなる事もなくて、私は重たい体を無理やり起き上がらせた。
すると、いつしか二人で撮った写真が私の目に飛び込んで来る。
写真の中の私たちは、ぴったりと頬を寄せ合って仲良さげに笑い合っていた。
そんな写真を見たら今の状況がひどくやるせなくなって、更に涙が頬を濡らした。
この時みたいにまた一緒に笑いたい。
たくさん触れて好きだと伝えたい。
そう思ったら勝手に体が動いていた。
万次郎に謝らなければ—————その一心で私の足は万次郎の家に向かう。
泣きながら全力疾走する私を道行く人たちは不思議そうに見ていたけれど、そんなものは全く気にならなかった。
それよりも早く、万次郎に会って謝りたい。
私の頭はそれだけだった。
万次郎の家に着くと、私は乱れた息を必死に整えながらインターホンを押した。
けれど、応答はない。
万次郎の部屋である離れもノックしてみたけれど、そちらも特に応答はなかった。
よく見ると、万次郎の愛機であるバブもない。
留守なのであれば出直そうかとも思ったが、ここで帰ってしまったらきちんと自分の気持ちを伝えられない気がして、私は万次郎の帰りを待つ事にした。
けれど、万次郎は一向に帰って来ない。
空が薄暗くなり冷たい風が吹き始め、更には雨まで降ってきた。
雨はあっという間に強くなり、私の髪や肌を濡らしていく。
水分を含んだ服が、ぴったりと肌に張り付いて気持ち悪い。
それでも私は、万次郎を待ち続けた。
それからしばらくして、私の鼓膜を刺激したのは耳によく馴染んだバブの排気音だった。
光を感じて顔を上げると、そこには驚いた表情を浮かべた万次郎がバブに跨がってそこにいた。
「志織…」
「万次郎…」
「何やってんだよ、こんなところで」
「万次郎の事待ってた…あのね…」
「風邪引くだろバカ!」
万次郎のその声に、思わず肩がビクッと揺れる。
バブを降りた万次郎に腕を掴まれすごい力で引っ張られ、私はその後を必死に着いていく事しか出来なかった。
母屋の玄関に入ると、万次郎はくるりとこちらを向いて、雨で濡れて冷えきった私の体に触れた。
「ほんとバカ。なんでこんなになるまで外にいたんだよ」
「だって……」
「とりあえずちゃんと風呂であったまって来い。このままじゃ風邪引く」
「でも私万次郎に…!」
「いいから早く行けって !」
私はまた万次郎のその声に肩をびくりと震わせた。
けれどここで逃げたら何も変わらないから、私は震える手で万次郎の腕をぎゅっと掴んだ。
「万次郎、私…」
「………話なら後で聞くから。だから風邪引かないうちに早く…」
「……分かった」
私は掴んでいた万次郎の腕を離すと、言われた通り風呂場へ向かった。
濡れた服を脱ぎ熱いシャワーを頭から浴びると、冷えた体が少しずつ温まっていく。
しっかり体を温めて風呂場から出ると、そこには着替えとして万次郎の部屋着が置かれていた。
私はそれを着ると、恐る恐る居間へと戻った。
「ま、万次郎…ごめん、お風呂ありがとう…」
「で、話って何?」
「万次郎もお風呂行って来た方が」
「俺は着替えたしいい」
「でも…」
「いいから話せよ。話したい事あったんだろ?」
「…うん。私万次郎に謝りたくて」
「は?」
「つまらない意地張ってごめんなさい。私思ってもない事いっぱい言って万次郎の事傷付けた」
「……」
万次郎は私を見ようとせず、ずっと視線を逸らしたままだった。
今だけじゃなく、今日会ってから一度も目が合っていない。
そんな事実に泣きそうになりながらも必死に堪え、私はそのまま話を続けた。
「少し素直になれば良かっただけなのにムキになって、それで引き下がれなくなって頭に血が上って。思い付く限りの酷い言葉を全部万次郎にぶつけた。本当はそんな事少しも思ってないのに。後で冷静になったら後悔しかなくて、でも言っちゃった事は取り消す事も出来ないしどうしたらいいんだろうって」
「……」
「色々考えてやっぱりちゃんと謝るしかないって思って来たの。万次郎はもう私の顔なんか見たくないかもしれないし許したくもないかもしれないけど、これだけは言わせて?万次郎、本当にごめんなさい…!」
やっぱり視線は合わないし、私の話を聞いてくれているのかも分からない。
万次郎はただ黙って、そこにいるだけだった。
それでも私は、万次郎に頭を下げた。
重たい沈黙が流れる中、それを破ったのは万次郎だった。
「……あのさ」
「…うん」
「俺も同じだと思う」
「え?」
万次郎のその言葉の真意が分からなくて、思わず下げていた頭を上げる。
その時今日初めて、万次郎と視線が交わった。
「思ってもない事言ってお前を傷付けたのも、少し冷静になればよかったのも、俺だって同じ」
「万次郎……」
「俺もあれからずっと後悔してた。けどどうやって謝ったらいいか分かんなくて、毎日考えたけどやっぱダメで。だからさっきお前が家の前いるの見て動揺して、どう接したらいいか分かんなくて冷たくした。腕もあんな乱暴に掴んだりしてまたお前傷付けたよな、ほんとごめん」
「ううん…!私もごめんね万次郎…!いっぱい嫌な事言ってごめんなさい…っ」
「もういいよ。俺の事も許してくれる?」
「うん、許す…!」
「良かった…。ねえ志織、こっち来て」
軽く腕を広げながらそう言う万次郎の腕に、私は飛び込んだ。
隙間なんてなくなるくらいきつく抱き締め合って、息が出来なくなるくらい何度も唇を重ねた。
「もう雨の中何時間も待つとかするなよ、心配だから」
「うん、ごめんね」
「ごめんねはもうなし。好きって言って」
「万次郎好き」
「もっと」
「好き」
「もう一回」
「好きだよ万次郎」
「ん、俺も志織の事すげえ好き」
引き寄せられるように、自然と唇が触れ合う。
触れ合った唇が心地良くて、もっと近づきたくて、私たちは久しぶりのキスに夢中になった。
全身が心臓になったみたいにドキドキして、幸せで死んでしまいそうだった。
これからだって一緒にいる限り、喧嘩する事も胸が張り裂けそうな想いをする事もあるかもしれない。
けれど、その度にこうして二人だけの関係を紡いで行こう。
私のいる場所はずっと変わらず、万次郎の隣だから。
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