【中編/松野千冬】シークレット・ナイト
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隣に住む彼と少し言葉を交わした翌日、私はいつものように煙草を手にベランダに出ていた。
夜も深くなったこの時間帯は昼間の喧騒もすっかり去り、人工的な音もほとんどなく心地良い。
生暖かい風が耳にかけていた髪を拐って行くと、その髪が頬に当たって肌を擽った。
私は頬を擽る髪をもう一度耳にかけると、もう片方の手に持っていた煙草をくわえ、主流煙を吸い込んだ。
それをゆっくりと吐き出しながら、短くなった煙草を携帯灰皿の中で揉み消し、ふと彼の部屋の方へと視線を移した。
今日はあの人、出てこなかったな。
あまり人の家のベランダを覗き見るのはよくないだろうが、チラッと確認してみたら今日は洗濯物も出ていないようだった。
今日はきっと、早く帰って来れたのだろう。
またそのうち、顔を合わせる日もあるかもしれない。
私はそんな事を考えながら窓を開けて、部屋の中へと戻って行った。
けれど次の日も、そのまた次の日も、隣に住む彼に会う事はなかった。
会いたいという気持ちがあった訳ではないのに、会えない事を残念に思う気持ちが、心の奥底で微かに芽生え始めているのを感じていた。
たった数回顔を合わせただけの相手に、少しとは言えこんな感情を抱いているのが妙に恥ずかしくて、私はそれを必死で見て見ぬ振りをした。
けれどベランダに出る度、無意識に彼の部屋の方を見てしまうのは、もうどうしようもなかった。
そんな宙ぶらりんの気持ちを抱えて、気付けば一週間が経っていた。
その日も私は眠れずに、煙草を吸いにベランダへ出るという、代わり映えのない日々を過ごしていた。
過ごすはず、だった。
「あ、こんばんは!」
そう声をかけられた瞬間、私は弾かれたようにそちらを見た。
そんな私の目に映ったのは、隣に住んでいるあの彼で。
大きく脈打つ心臓を抑えながら、私は震える唇を必死に動かした。
「こ、こんばんは……」
声は、震えていないだろうか。
心臓がうるさい程に音を立てている事は、バレていないだろうか。
そんな心配事を心の中で並べ立てる私に、彼は優しい笑顔を向けてくれた。
人懐っこそうな、あの笑顔を。
「久しぶりっすね!」
「そ、そうですね」
「また眠れないんすか?」
「は、はい…」
私は彼の問いに頷くと、ゆっくり紫煙を吐き出し、携帯灰皿の中に吸い殻を捩じ込んだ。
「そうなんすか…。あ!」
「ん?」
「そういえば俺、まだお姉さんの名前知らないっす!」
「名前?」
「はい!俺は松野千冬って言います!」
「篠崎志織、です」
「志織さんすね!よろしくお願いします!」
「あ…こちらこそ、よろしくお願いします」
彼──、松野くんは、律儀に頭を下げて言った。
それに倣って、私もペコリと頭を下げる。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「あの、志織さん!」
「はい?」
「眠れないなら、もう少しだけ話しませんか?」
突然の誘いに、私は少しばかり混乱した。
けれど久しぶりに話せた事が嬉しいのも、松野くんと話したいと思っているのも事実で。
「……少しだけなら」
「ありがとうございます!」
松野くんが、またあの人懐っこそうな笑顔を浮かべて笑った。
あまりにも嬉しそうに笑うから、私までつられて口元が綻んでしまった。
会えない事を残念に思う気持ちを恥ずかしがっていたはずなのに、そんな気持ちはいつの間にか、どこかへ消えてしまっていた。
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