【中編/松野千冬】シークレット・ナイト
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視線を逸らす事が出来なかった私の視界の隅に映ったのは、彼の部屋のベランダに干されていた洗濯物だった。
そこで、彼が干しっぱなしにしていた洗濯物を取り込む為にベランダへと出て来たのだと理解する。
時間さえも止まってしまっていたような錯覚からようやく抜け出した私は、固くなった表情筋を少々強引に動かして、言葉を発した。
「ごめんなさい、煙草の匂いついちゃいましたか?」
「いや、多分大丈夫です。風向き逆だし」
そう言いつつ、彼は洗濯物を鼻に当てその匂いを確かめた。
その仕草がなんだか小動物のように見えて、私は思わず小さな笑いを溢す。
それを見逃さなかった彼が、不思議そうな表情を浮かべている。
気を悪くさせてしまっただろうかと、私は彼に再度ごめんなさいと謝った。
「何でもないので…気にしないで、下さい」
「はぁ…」
私は手に持っていた煙草を携帯灰皿に押し込むと、彼におやすみなさいと告げ、逃げるように部屋の中へと戻った。
手に持っていた携帯灰皿や煙草などをテーブルの上に少々乱暴に置き、私はそのままベッドへ倒れ込んだ。
けれど何故か先程の事が頭から離れず、私の瞼はずっと開いたままだった。
ぐるぐると思考回路が回っているうちに外が明るくなり、カーテンの隙間から朝日が注ぎ込む。
今日もまた眠れなかったと少しの絶望を抱えながら、私は足元で丸まっていたタオルケットを手繰り寄せて頭に被せ、その光を遮断した。
ただ眠るという行為が、私にはなぜこんなにも難しいのだろうか。
▼
それから、数日が経った日の夜。
今日はバイトが特に忙しく、ギリギリ終電に飛び込んでやっと帰宅する事が出来た。
バイトでの疲労とこれまでの寝不足のおかげで、今日は久しぶりに寝付けそうな気がしていた。
シャワーを浴びて髪を乾かし、早々にベッドへ横になって目を閉じる。
溜まった疲労がじわじわと意識を蝕んでいくようで、このまま目を閉じていればきっと眠れるだろう。
そう思っていた。
けれど落ちかけていた意識が再び浮上してしまったのは、猫が喧嘩をしている鳴き声が外から聞こえてきたせいだった。
激しい鳴き声に体がびくりと反応し、更に私の意識を支配して目が冴えてしまった。
今日こそは、寝られると思ったのに…。
私の口から、思わず深い溜め息が唇から溢れ落ちる。
私はキッチンに置いていた煙草とその他付随品を持って、またいつものようにベランダへと繰り出した。
空を見上げてみたが、今日は雲が多くて月がよく見えなくて、少し残念な気分になった。
私の眠りを妨げた猫の喧嘩は未だに続いているようで、何処から聞こえるのかは分からないが、静かな住宅街にその鳴き声だけが響いている。
月が見えない代わりと言ってはなんだが、その鳴き声をBGMにして紫煙を吐き出していると、またいつかの日のように隣の部屋の窓が開く音がした。
「あ」
「あ」
思わず漏れ出た二人の声が重なって小さく響く。
予期せず隣の部屋に住む彼と再び顔を合わせる事になってしまい、私の心は人知れず不安定に揺れていた。
けれど、彼は人懐っこそうな笑顔を私に向けて、挨拶の言葉を元気よく口にする。
「こんばんは!」
「こ、こんばんは…」
「また煙草ですか?」
「あ、はい…眠れなくて」
「眠れなくてって、この間も?」
「そう、ですね…私、寝付きが良くなくて、その上眠りが浅いので…」
彼はそうなんですか、と言った後、黙々と洗濯物を取り込んでいた。
少し気まずさを感じてしまった私は、慌てて話題を探し、口を開く。
「あの…この前も洗濯物、夜中まで干してました、よね?いつも帰りこんな遅いんですか?」
「いつもってわけじゃないですよ。バイトが遅番の日だけです」
「なるほど、バイトで…。バイトは何を…?」
「ペットショップとたまにカフェの店員です」
「へえ、掛け持ちしてるんですね」
「はい。お金稼ぎたくて」
私は彼の話に相槌を打ちながら、気付けば短くなっていた煙草を携帯灰皿に入れ、火を消した。
「夜遅くまでお疲れ様でした。それじゃ、おやすみなさい」
「あ、はい。おやすみなさい」
彼はまた人懐っこそうな笑顔を私に向けて、優しい声でそう言った。
いい人そうだな…。
一人になった真っ暗な部屋の中で、私はぼんやりとそんな事を考えていた。
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